大人のための異文童話集18 北風と太陽
夏が終わり、これから秋も深まろうかという季節。
とはいっても、お天気の日にはまだまだ暑く、風が吹けば少し肌寒く、比較的心地よいとも思える、そんな日々が続いていました。
そんなある日のこと。
「今日も仕事、疲れたなぁ…。」
いつも太陽と北風が見つめていた女の子が、ポツンとそう呟きました。
「もう毎日毎日が忙しくて、仕事のこと以外は考えられなくなってしまってる。」
「仕事は楽しいけど、お家に帰るともう頭の中は真っ白で、眠りたいだけ。」
「何をするのも疲れてしまって、全てに想いも考えも消えてしまうんだよね。」
「あんなにも、夏の陽射しが恋しくて、春風が愛おしく思えていたのに…。」
「今では、この心地よい陽射しでも、少し肌寒い秋風でも構わないって思ってしまっている。」
「どうしても振り替えって貰おうと、いろいろやっていた私はもういないんだ…。」
少女は歩く度に、そんなひとりごとを言っていました。
でもこの季節の風は肌寒いのでしょう。
少女は羽織っていたジャケットの襟を立てて、少し背を丸めて歩いています。
「冬、ヤダなぁ。もう今でもこんなに寒いと言うのに…。」
「なんだか私の気持ちまでが、もっと寒くなってしまいそう。」
そういって少女は、これ以上風が入り込まないようにと、ジャケットの前をしっかりと握りしめていました。
それを聞いていた太陽が北風に言いました。
「ねぇねぇ、北風さん。」
「あなたはいつも仕方ないとか、そういうものなのだと悟ったように言ってるね。」
「それならあの女の子の寒さはどうなのでしょう?」
「まだそれほどには、寒くはなっていないと私は思うのだけど…。」
「それでもこの気候を、あの子は寒いと感じる。」
「これも仕方がなくて、そういうものなのでしょうか?」
太陽は少し意地悪く、北風にそう話しました。
「そうですね。仕方がないのではないですか?」
ただ一言、北風はそう言いました。
それを聞いた太陽は「また北風は悟ったように言っているな」と少し腹立たしく思えました。
そこで太陽は北風に、こんな提案をしたのです。
「ねぇ北風さん。それなら私があの子を暖かくして、仕方のないことではないと証明したいのですけど、あなたも一緒にやってみませんか?」
「もし私に出来て、あなたに出来ないのであれば、それは仕方がなかったのではなく、単にあなたがいつも横着で、怠け者だったと言うこと。」
「そうであれば、あなたがしなければいけなかった仕事を、これからはちゃんとしてもらう、ということでどうでしょう?」
太陽からそんな言い方をされた北風は、少しムッとして言いました。
「私にはわかっているのですよ。」
「私はこうして、ただ待つことしか出来ないということを…。」
「私にできることといえば、ただひたすらに待つことだけです。」
「それなのに太陽さんは、私に何をさせたいのでしょう?」
「これは仕方のないことで、そういうものなのですよ。」
北風はそういうと黙って、歩いている女の子を見つめました。
今度は太陽が、そんな北風の態度にムッとして言いました。
「まあ、とにかく…やってみようじゃありませんか。」
「もしあなたが勝てば、私はもうあなたのすることに口は挟みませんよ。」
太陽はそういって、無理矢理に北風が競うようにさせました。
北風はしぶしぶ承知して、北風と太陽は、女の子が暖かくなるように労することになりました。
そして彼女が暖かくなったかどうか、ふたりが見て取れる決めごととして、太陽は言いました。
「それでは北風さん、あの女の子が着ているジャケットを脱いだら、ということで…。」
そう言い終わると太陽は、これでもかと言うほど、サンサンと輝きはじめたのです。
北風はというと、相変わらず何もしないで、ただじっと女の子を見つめているだけでした。
「何だか急に暑くなって来たよ。」
「これってなぁに? なんだか夏の陽射しとは違うみたい。」
あれほど寒がっていた女の子は、今度は暑くなったのでしょう。
そう言って、ジャケットの襟を戻して前のボタンを外し、今にもそのジャケットを脱ごうとしています。
その時でした。
北風は軽く、そして優しく「フッー」と風を吹いたのです。
「ああ、気持ちがいい…、冷たくもなく、寒くもない風。」
女の子は落ち着いたように、手を掛けていたジャケットから手を外したのです。
それを見ていた太陽は、北風には負けじと、もっとサンサンと照らすのでした。
すると見る見る間に、池の水が水蒸気となって立ち上り、道脇に咲いていた花たちも、グッタりとしおれたのです。
女の子の顔はもう真っ赤になって、額からは玉のような汗が、次から次へと吹き出して来ます。
「いったいどうしたの?」
「もう暑くてたまらない、立っていられないよ。」
そう言うと、道端に立っていた少し背の高い木の下までヨロヨロと歩いていき、木を背にして倒れ込んだのです。
「暑くて死にそうだよぉ、私はただ、夏の陽射しが恋しかっただけなのに…。」
「こんなのイヤだよ、どうして私がこんな目に…。」
そこまで呟くと、女の子は木陰で倒れてしまいました。
「あれ? おかしいなぁ。」
「あの子どうしたのでしょう? 私はこんなにも、暖かくしてあげているのに…。」
それまで、これでもかというほど勢い良く、サンサンと照らしていた太陽が言いました。
そしてこう呟いたのです。
「それほど暑ければ、さっさとジャケットを脱いでしまえば、それでラクになるだろうに…。」
それを聞いていた北風が言いました。
「太陽さん。人というのはね、彼等が言っているほどには、何でも思ったようにはできないものなのですよ。」
「それでは今度は、私が女の子の着ているあのジャケットを、脱がせてみましょう。」
それまでただ一度、軽く風を吹いただけの北風は言いました。
「私がこれほどまでやってダメなものを…。今まで何もしないで、何をいまさら。」
太陽は、心の中でそう思いながら「ふっ」と笑って、これまで強めていた力を抜いたのでした。
そんな太陽の心の中を知ってか知らないでか…。
北風はゆっくりと、そして小さく小さく、更に柔らかく、そっと風を吹くのでした。
何度も何度もそうやって、北風は風を送り続けました。
するとどうでしょう。
それまで倒れて唸っていた女の子の額からは、見る見る汗が引いていきます。
そして眉を潜め、口で息をしていた表情も緩やかになっていました。
道端の草花も元気を回復したように、徐々に起き上がっています。
そして女の子は時折笑顔を見せるのでした。
どうやら女の子は夢を見ているようでした。
そうやって北風は、何度かそれを繰り返して、しばらくじっと…また女の子を眺めているのでした。
「やっぱりダメじゃないか…。」
太陽はひとりごとのように、そうイヤ味な言葉をいって、また自分が照らしてやろうと思った時です。
女の子の瞳がパチッと開いて、上半身をムクッと起こしたのです。
そのとき見た女の子の顔はというと、とても心地よい表情をしていました。
それを見て北風が言いました。
「太陽さん。どうやら私の勝ちのようですね。」
「おやおや北風さん。何を言ってるんだい?」
「あの子はまだ、あのようにジャケットを羽織ったままではないですか。」
「どうやら北風さんまでが、あの子と一緒に眠ってしまったのではないのですか? ははは。」
太陽はそう言って、またサンサンと照らそうとしています。
「太陽さん。もう終わったのですよ。」
「ほらごらんなさい、あの子の表情を…。」
「先ほどまであの子が、心に羽織っていた悩みと疲れで編まれたジャケットは、もう脱ぎ捨てているではないですか。」
北風は軽く微笑みながら、嬉しそうにそう言ったのです。
「何でも自分の尺度で考え、行動するだけがいいとは限りません。」
「太陽さん。あなたにはあなたの、あの子にはあの子の、道端の花には花の、それぞれの尺度があるものです。」
「そしてあの子には、あの子にしかわからないことだって…。」
北風はそう言って、また黙って女の子を見つめていました。
太陽はそれを聞いてとても恥ずかしくなり、雲の影へと身を隠してしまいました。
するとそれまで、太陽にサンサンと照らされて、その暑さを溜め込まされていた地面も、解放されたように熱を出し始めました。
どうやらそれでまた、少し暑さも増したように思えます。
北風はその様子を見て取ると、再び、小さくて柔らかな風を、ゆっくりと少女のもとへと送りました。
すると、長い髪の毛をゆっくりと掻き揚げながら、少女が言いました。
「そうだったの、あなただったのね。」
「そうやっていつも、黙って遠くで見つめては、私が辛くなった時にだけこうして、私を心地よい気分にさせてくれていたのは…。」
「恋しく感じた夏の陽射しも、愛おしく思えていた春風も、みんなあなたの心地よさが作ってくれていたものだったのね。」
「ありがとう、北風さん。」
「私はいつでも、どこにあっても、あなたのことは忘れないわ。」
「だから北風さん、いつまでも私を見つめていてね。」
女の子は安らかな顔をして、空を見上げてそう呟いたのでした。
その時少し、風が強く吹いたように思えました。
それはきっと、そんな女の子の声を聞いた北風が、はにかみながら微笑んだからでしょう。