第ニ夜(1)
「一見例の子を庇っているようで保身ばかりのお方だったな。」
ラビントス国の黒魔女と呼ばれる国を取り纏める女王のような存在と謁見を終えた、吸血鬼で門番の司令官、ユリウス・イオネスクはククッと笑いながら迎えの馬車に乗り込んだ。
「まだ屋敷の敷地内ですよ。お言葉にお気をつけください。」
ユリウスと共に訪れていたメイド長のジーナは声を抑えつつピシャリと叱った。ジーナもユリウスに続いて馬車に乗り、合図を送ると共に馬車は走り出した。
「けれども良いのですか。」
ジーナは声を潜めてユリウスに問う。
「例のお方、結局テロ行為の疑惑は否定されましたけれど、人間界に無断で入り込んだことは事実。そんな彼を我が国に住まわせてしまって影響はないのでしょうか。」
ジーナの不安を含んだ問いにユリウスは笑って答える。
「君は例の薬の調査結果を見ただろう。あれはただの傷薬ではない。我が国では決して作り出せない代物だ。同じようなものがうちでも製造できれば未来は安泰だ。多少のリスクがあっても構わない程だ。そんなものを作れる人材を黒魔女様は今厄介払いしたくて仕方がない。こんな逸材をタダで吸血鬼に渡してしまうなんて黒魔女様も惜しい事をしたよ。それに今回ラビントス国に恩を売った事で喧嘩をふっかけられても抑止力となる。戦争にならず悪魔も喜ぶさ。」
ユリウスはこれからが楽しみだと頬杖をついて外を眺める。外では買い物を楽しむ魔族で賑わっている。
「あとは彼がどれだけ巧くやれるか。だな。」
ユリウスはジーナにも聞こえない声で呟いた。
魔女の国、ラビントス国はいつもと変わらない時が進んでいる。
今日の空は紫がかった暗闇で、遠くの方で稲妻が光っている。きっと遠くの山でドラゴンがくしゃみしたに違いない。外では箒に乗った郵便屋の魔女が郵便物を届けに忙しなく低空を飛び回り、市場では怪しげで仄暗い店内で煙管を吹かした店主が、これまた怪しげな品物を売っているだろう。路地裏では使い魔の猫たちが、飼い主が不在な間に喧嘩を繰り広げギャーギャー鳴いているはずだ。
そんな中リュカだけは狭い自室の中で時が止まったままだった。ベッドに寝転び大好きだった薬草の図鑑をぼーっと眺めるも、内容は全く頭に入っていない。本を読むフリをして虚無の窮地へ陥っているだけである。するとドンドンと自室の扉が音を立てて鳴り、中年の女性が入ってきた。
「リュカ、ご飯出来たんだけど食べられそうかい。」
入ってきたのはリュカの母親だった。リュカと同じ栗色の髪を後ろに束ね、恰幅の良い体に花柄のエプロンを巻きつけている。リュカは母親に呼ばれよろよろと立ち上がり、母親と共に階下へ降りて行った。
リュカの家は代々宿屋を経営している。昔ながらの宿屋で趣があり安価であるため、ふらっと立ち寄った旅人でいつも部屋は埋まっている。リュカたちが暮らしている場所は宿屋に隣接した小さな家屋で、家の裏の勝手口に続く小さなキッチンを兼ねたダイニングで普段は食事を摂っている。
ダイニングに着くと体に良さそうな香りのするお粥がよそられていた。リュカは力なくスプーンを手に取り一口啜った。弱った体に温かい昔から食べ慣れた母の優しい味が沁み渡り、リュカはついに今まで耐えていた涙がぼたぼたと溢れ出た。
「母さん…。ごべん…。」
涙と鼻水まみれになった我が子を見てリュカの母はギュッと背中を抱き締めた。
リュカは先日のグール脱走事件において、双子のルイになりすまし人間界へ行ったため、不法入国の罪とテロ行為疑惑、そして使役魔法を使い使い魔の契約を行ったことで、一ヶ月ほど軍及び警察《悪魔》からの取り調べを受けていた。成績優秀で周囲からの信頼も厚い双子の兄弟のルイの証言のお陰で、前者二つの罪や容疑は晴れたものの、人間界で契約魔法を使った罪は重く学校を退学処分となった。人に危害を加える魔法ではなかったためまだまだマシな処分だが、あと少しで卒業という時にこの処分はきつい。
さらに、ようやく解放され家に帰るも、テロの容疑者という噂は町中に広まっており、外も歩けず一人自室に籠る状態になってしまった。女で一人で宿屋を切り盛りする母の手伝いをしたい気持ちもあるが、ただでさえ今回の件で経営が落ち、宿に対して嫌がらせもされているのに、自分が表に出たらもう宿屋などやっていけなくなるだろう。だからリュカは自室でただ本を眺め長い一日が過ぎるのを待つことしかできないのである。噂の件もあるし、魔力が少ないため雇ってくれる場所も無い。実家の手伝いもできない。八方塞がりな現状に今絶望を感じている。
「母さんはお前が生きて人間界から帰ってきてくれただけで、これほど幸福なことはないって思っているよ。」
リュカの母は自分のエプロンの裾でリュカの顔を拭った。
「親なら誰だってそう言うさ。でも生きているだけじゃ駄目なんだ。何か生み出さなきゃ意味がない。現実問題僕には何も残っていない。これからどうしたらいいんだ。」
慰めてくれている親に向かって酷いことを言っている自覚はある。けれどもどうやっても変えられない現実にリュカは母に当たるしかできない。己の無力さにまた涙が流れ、リュカはわんわんと泣いた。
「リュカさんにお手紙ですよ〜!」
しんみりとした空気の中軽快な声と共に、勝手口の隙間から手紙が入ってきた。その手紙はフヨフヨとリュカの目の前まで飛んでくると、急に力を失くしパサっと落ちた。今のは郵便屋の声のようだ。
「あら珍しい。あなたに手紙よ。」
リュカはどうせ嫌がらせの手紙が来たのだろうと目の前に落ちている手紙を拾い上げる。白い封筒が赤い封蝋により閉じられている。どうやら嫌がらせのものではないようだ。差出人の名前は書かれておらず、封蝋には蝙蝠の片翼の模様が刻まれているが、リュカにはどこから来た手紙か分からなかった。
「あらやだ。これ、バルデン国の門番の紋章じゃない?」
母は横から手紙を覗き見し興奮気味に言った。
バルデン国とはリュカが住む魔女の国、ラビントス国の西側に接する吸血鬼の国だ。先日の事件の際もその国の吸血鬼に助けられた。確かアイザックという名前であった。もしかしたら怪我をさせてしまったため苦情の手紙なのかもしれない。一気に気を重たくしたリュカだが、手紙を読まない訳にもいかないのでペーパーナイフで丁寧に封を開けた。そして取り出した手紙を恐る恐る読み上げていく。
「え…。何これ。」
「よかったじゃないリュカ!」
一緒に手紙を読んでいた母はリュカの頭を抱き抱える。一方リュカは手紙に書かれた衝撃的な文を目にし、一度では理解が追いつかずその後も何度も手紙を読み返した。




