第五夜(3)
屋敷に戻るともうかなり遅い時間だった。屋敷に入るとすぐに心配したようにユリウスが迎えに来た。
「リュカ。大丈夫かい。詳しい話はアイザックに聞いたよ。無事で良かった。」
ユリウスは本気で心配してくれていたようで、その優しささが疲れた体に沁み渡る。
「ごめんなさいユリウスさん。あの、まだアイザックさんってお仕事してますかね。」
「あぁ、今日も家に帰らず仕事をしているよ。」
リュカはユリウスに会釈してアイザックの執務室に向かった。
アイザックの執務室の前に来たが、今思えばこの部屋に来たのは初めてだ。アイザックの元に来たのは今回の謝罪と感謝を伝えたいからだ。しかし今までのアイザックの嫌味などを思い出すと気が重い。扉の前でどうするか悩んでいると、目の前の扉がガチャリと開いた。
「さっきからそこで何をやっているんだ。気配で気が散る。」
部屋から出てきたアイザックは相変わらず冷たい目でリュカを見る。
「あ、あの、遅くにすみません。今日は助けてくれてありがとうございます。あの、アイザックさんには迷惑をかけてばかりなので何かお礼を…。」
「いらないよ。今回はお前のおかげで犯人を捕まえられた。まだ仕事があるんだ出て行ってくれ。」
そうして部屋から追い出された。珍しく嫌味を言われなかったが、態度でリュカのことを未だに良く思っていないことがわかる。仲が良くなりたい訳ではないが、少しは信頼してほしいとは思うものの、自分は迷惑ばかりかけてしまうから仕方ないと、リュカは一旦諦め自室へ戻った。
アデラに襲われた日から一週間が経った。アデラに首を絞められたおかげで首に跡が付いたが、だんだんと薄らいできたのをリュカは鏡で確認した。これから店の家賃をユリウスに渡しに行くため鏡の前で念入りに身だしなみを整えていたところだった。
「よし、渡しに行こう。」
身だしなみが終わり、リュカは麻袋に入ったお金を持ってユリウスの執務室へ向かった。
部屋に着きノックをするといつもより元気のないユリウスの声が聞こえてきた。扉を開けるといつも以上に多い書類に囲まれ目元にもうっすら隈ができているユリウスがいた。
「大丈夫ですか?いつもよりお疲れなんじゃ。」
リュカは麻袋をユリウスに渡しながら言った。
「ちょっと今仕事が立て込んでいてね、私もアイザックも眠れていないんだ。でもこれが終わったら休むつもりだよ。あぁそうだ。アイザックなんだが、私以上に働いてくれているから少し心配なんだけど、今手が離せないから代わりに君が様子を見てきてくれないかな。」
ユリウスの頼みでもアイザックの元に行くことに抵抗があったリュカだがそれを了承した。
「わかりました。早く休んでくださいね。」
できることなら代わってあげたい。あとでユリウスに温かいホットミルクでも持っていこうと思いながら、リュカは執務室を出てアイザックの元へ向かった。しかしどうせ邪魔だとか言われて追い出されるんだろうなと思うと気が重くなる。しかし、薬屋の傍ら診療医もやっている身として、身の回りの人の健康観察をすることも大事な仕事だと思い直し、アイザックの部屋の扉をノックした。
「アイザックさん。リュカです。」
声をかけてみたものの応答が無い。先週は自分の気配だけで気づいて出てきたのに妙だと感じた。ユリウスがアイザックは執務室にいると言っていたから別の場所にはいないだろうし…。リュカは再度ノックをしたが反応が無い。リュカはなんとなく嫌な予感がして怒られるだろうが扉をゆっくりと開けた。
「アイザックさん、入りますよー。」
扉から顔を覗かせるが誰かいる様子はなかった。ユリウス同様机の上は書類だらけで床にも散らばっていた。リュカは完全に部屋の中へ入り、部屋中を見渡す。そして机の方へ視線を移した時だった。机の下の床に書類にまみれた中で手のようなものが落ちているのを見つけた。リュカはさぁっと血の気が引いたが急いで手の方へ急ぐ。
「アイザックさん!!」
向かった先、机の後ろでアイザックが倒れていた。リュカは急いで脈を測る。幸い脈も息もあるが体が冷たく肌も白い。
「アイザックさんっ!アイザックさんわかりますか!?」
リュカが何度か肩を叩き起こそうとする。
「っん…。」
リュカが何度か肩を叩くとアイザックは目を覚ました。
「アイザックさん大丈夫ですか?」
アイザックは目の前の人物がリュカだとわかると、リュカを押し除け起きあがろうとした。
「ダメです動いちゃ!」
「大丈夫。血液パックを取りに行こうとして少しふらついただけだ。」
「僕が取ってきますから休んでいてください!」
「大丈夫だと言っているだ…うっ」
アイザックは立ちあがろうとするもまたもやふらついてその場に座り込んでしまう。リュカが代わりに食事を運ぼうとしても止められてしまう。少しでも血を飲ませなければ。でもどうやって…。リュカは考えた末ある考えを思いつく。リュカは腰ベルトに付いていたホルダーから小さいナイフを取り出した。アデラに襲われた時使えなかった物だ。それを使い自らの指先を少し切り、アイザックの口元に血が溢れるよう搾り出した。ようやく絞りでた一滴の血はアイザックの血色を失った唇に当たり、それをアイザックは反射的にぺろりと舐めた。それを見てリュカは少し安心して、さらに指を切ろうとした時、アイザックは目を見開いてリュカのナイフを持つ手を握りしめた。その力は先ほどまで倒れていた者とは思えないほど強く、リュカはうめき声を上げた。
「何をしている。」
アイザックは起き上がるとリュカに対して大声を出した。リュカはいきなりのことで声が出ないでいる。
「今お前が何をしたかというか聞いている!」
「あ、アイザックさんに少しでも僕の血を…。」
「それがどういうことかわかっているのか!もういい、部屋に帰れ!」
アイザックの怒号に驚いたリュカは言う通りにするしかなく、パタパタと自室へ逃げ帰った。
「っはー…。」
リュカが帰ったのを確認し、アイザックは再度舌なめずりをし自分の口元に手をやりうずくまった。一筋の汗が首筋を伝い、息が上がり耳や頬は紅く紅潮していた。
アイザックは悩んでいた。先日リュカが自分の執務室にやってきた夜のことを思い出すと溜め息が止まらない。原因はわかっている。リュカの血だ。倒れて血液パックも取りに行けない自分に代わり、自らの指を切ってまで与えてくれた血の味が忘れられないのだ。まろやかでほんのり甘い味をもう一度味わいたいのだ。悩んでいる理由はリュカの血をもう一度味わいたいだけでない。なぜかあれからリュカを見ると動悸が止まらないのだ。今まであまりじっくりとリュカの姿を見たこともないし、すれ違っても気にもしなかったが、今は見かけるとつい目で追ってしまう。栗色でふわふわした髪の毛が、黄緑色の大きな瞳が、白く細長い手足が…。どれも輝いて美しく見える。これが恋というやつか。しかし信じられない。相手は魔女とはいえ男だ。恋愛対象として見るなんて信じられない。しかし己の身を傷つけてまで自分を助けてくれた勇敢な行動にすっかり惚れてしまったのだ。アイザックは仕事をしようとペンを持つ手を動かしては溜め息を吐き、動かしては溜め息を吐きと一向に仕事が進まない。頭の中はどんどんリュカの顔で侵食され、ついには頭を抱え込んでしまった。
「どうかしたのかい。」
声がしてハッと頭を上げると、開いた扉にもたれかかってこちらを眺めているユリウスが目に入った。
「なんだ。入るならノックぐらいしろ。」
「何度もしたさ。それに君なら気配でわかるはずなのに気がつかないなんて、どうかしたのかい。」
ユリウスは追加の仕事の書類をドンと机の端に置いた。
「なんでもない。」
アイザックは追加された仕事を見て嫌な顔をして、別の意味での溜め息を吐いた。
「さっきから溜め息ばかりじゃないか。どうしたんだい。」
「仕事がいつまでも終わらないからだよ。」
ユリウスはたまにしつこい時がある。そのためアイザックは語彙を強めて言い放った。しかしユリウスはさらに近づいてアイザックのおでこに手を当てた。
「なんだよ。」
「顔が赤いようだから具合でも悪いのかと思って。」
「僕は健康体だ。もういいだろ。仕事をさせてくれ。」
アイザックはユリウスの手を払いのけた。
「それなら良いんだけど。そうだ。何かあったらリュカに診てもらうと良い。最近街では有名な薬屋兼診療医として人気だよ。」
ユリウスは何かを見通したようにウインクをしてアイザックの頭をひと撫でして部屋を出ていった。ユリウスは昔からなぜか自分の考えていることを察することができる。今自分が考えていることもわかってしまったのだろうか。「あー…。」とアイザックは唸り、椅子の背もたれにもたれかかった。
最近アイザックさんが優しい。リュカは店の開店前、薬研をゴロゴロと転がしながらふとアイザックのことを考えた。先日リュカが倒れているアイザックに血を与えた日の翌日からなんだか彼の雰囲気が柔らかくなった気がする。あの日の夜は怒鳴られて部屋を追い返されたので、てっきりまた無視されたり嫌味を言われたりするものだと思っていたが、すれ違えば挨拶を交わしてくれるし、屋敷の中でも出会うことが多く、嫌味の一つも言わずむしろ優しげな眼差しを向けてくる…気がする。あの一晩で彼の何を変えてしまったのだろう。なんだか怖いな。とリュカが考えていると時計がなり、開店時間になったことに気がつき急いで開店準備を進めた。
「ふぅ。」
午前の仕事が終わり、看板をクローズにし休憩をしようとした時だった。カランカランと扉が開く音がした。リュカはそれに気がつき店の奥から様子を見にいった。
「すみません。今お昼休みで…。」
言いかけたリュカは入ってきた者を見て固まった。
「今大丈夫か。」
入ってきたのは相変わらず色味のないスーツ姿のアイザックだった。片手には紙袋を抱えて、居心地の悪そうに佇んでいた。
「アイザックさん。珍しいですね。どこか悪いところが?もしかしてこの間の不調がまだ…。」
リュカがアイザックの顔を心配そうに覗き込むとアイザックはふいと顔を横に逸らした。
「一緒に昼食でもどうだい。近所の美味いサンドイッチを買ってきたんだ。」
リュカはアイザックからサンドイッチの入った紙袋を手渡されても、どうして自分を誘うのだろうと疑問符が頭の中に浮かんだ。
「君には色々と悪いことをした。許してくれないだろうか。こんな物で釣るような真似をして悪いが、君ともっとちゃんと話がしたいんだ。」
アイザックは頬を赤くしてすまなそうに頭を掻いた。いつものような威張った感じが無く、逆に弱々しく見える姿がなんだか面白くて愛おしくて、リュカは吹き出してしまった。
「狭いですが奥へどうぞ。紅茶がないのでハーブティーでもいいですか。」
そうリュカが答えるとアイザックは笑顔を見せ、リュカに手招かれた店の奥へと入っていく。それからは今までできなかった他愛のない話をしたりして、この日を境にアイザックは昼休みになると昼食を持ってリュカの店に通う日々が始まった。




