86 たったいまはっきりと嫌いになりました
(……もう、この人はわたしに興味がないんだ……名前を一字も覚えていないくらいに……)
厳密には、長音や濁音および促音の位置は合っている。おそらく名前の語感だけ頭の片隅に残っていて、自分の覚えている単語のなかでその語感に当てはまるものを口にしたのだろう。
(それか、ローズヒップっていう名前の他の女性が実際にいて、間違えたか……)
いずれの場合においても、リズの名前をもはや覚えていないことは確かであるが。
それでもこうして鉢合わせした以上、最低限の挨拶と婚約者としての振る舞いはしなければならなかった。
リズはカーテシーをしながら。
「こんにちは、スクエアさん。どこかにお出かけですか?」
「あ、ああ、ちょっと友人に会って、食事でもしようかと」
……また他の女性のところに行くんだ……。
「そうですか。会食もよろしいですけど、あまり遅くならないでくださいね。明日は大事な日なんですから」
「明日? 明日何かあるのか? 誰かの誕生日でもないはずだが?」
……え……?
スクエアは本気で分からないらしく、首を傾げてさっきよりも大きな疑問符を浮かべていた。そんなスクエアを見て、さしものリズの表情も一瞬硬直してしまっていた。
(……まさか……)
信じられない、まさかそんなことがあるのかという思いを抱きながら、リズがスクエアに声をかける。
「お忘れですか? 明日は結婚式が控えています。あなたの婚約者である、わたしとの……」
「結婚式? 婚約者?」
スクエアはそれすらも忘れているのだった。リズにとっては人生の一大イベントのはずだったのに、スクエアにとっては記憶に残す価値もないような些事だということなのかもしれない。
もはや忘却の魔法で忘れていると言われたほうが、まだ納得できるくらいだった。
それでも一縷の可能性を考慮して、震えそうになる声音でリズは尋ねる。
「……もしかして、あなたのお父さまやお母さまからお聞きになっていないのですか? ヴォクスさんやエリザベスさんは、スクエアさんにも伝えておくと仰っていましたけど……」
「あ、ああ、いま思い出したぞ。そういや確かに昼頃にそんな話を聞いたな。そうか、君が婚約者だったのか。初めまして、ローゼリッテさん」
「……っ」
そのとき、リズの心は危うく爆発しそうになった。堪忍袋の緒が切れそうになった。いままで我慢してきた気持ちが破裂しそうになった。
それでも、リズはぎゅっ!と両拳を固く強く握りしめて、暴発しそうになる心を必死に抑え込んだ。いまここで怒りを表しちゃだめだ……残る理性をフル動員させて、なんとか暴れようとする感情を押さえつけた。
両手のひらに爪が食い込んで痛かった。
「……はい。わたしが婚約者なんです。でも、これだけは言わせてくれませんか?」
「ん? 何だ?」
にっこりと晴れやかな笑顔でリズは言った。
「わたしはあなたのことが好きではありません。むしろたったいまはっきりと嫌いになりました」
「……⁉」




