85 ……悔いのない、人生……。
リズの額から目元にかけて陰が差して、彼女は顔をうつむけてしまう。
「…………」
……悔いのない、人生……。
……この異世界に転生した、二度目の人生……前世で悔いがあったからこそ、うれしくもあった現世の生活……。
「リーゼロッテ様……?」
「……ヴォクス家まで、あとどれくらいですか?」
「……もう間もなくです。いまお屋敷が見えてきました」
「……そうですか……降りる準備をしておきますね……」
「……はい、かしこまりました……」
落ちた声で告げるリズに、フォースはそう答えることしかできなかった。
○
「それでは私は馬車を馬車置き場まで置いていきますので、少しお待ちください」
「はい。分かりました」
リズが馬車を降りたあと、フォースが再び馬車を運転して馬車置き場まで向かっていく。
リズは現時点ではまだヴォクス家の外部の者という扱いなので、屋敷の敷地内を移動する際にはフォースあるいは他の使用人達が付き添っていた。無論、先日の夜中の散歩のように一人で出歩くこともできることはできるのだが……。
(まだこの屋敷の間取りを把握しきってないし、一人で歩いたら迷うかもしれないよね……)
広く大きな屋敷のほうを見渡しながらリズは内心で嘆息をつく。家のなかで迷子になってしまったら、みんなに笑われてしまうかもしれない。
いや、正確には夫人やヴォクス氏は馬鹿にするような笑いはしないだろうし、フォースに至っては笑うどころか大真面目な顔で心配するだろう。他の使用人達も似たり寄ったりの反応を示すはずで、リズを本気で嘲笑するようなことはしないはずだ。
リズが嫌なのは、スクエアに知られてしまうことだった。
(……スクエアさんにだけは迷ったことを知られたくない、弱みを見せたくない……絶対に馬鹿にして嘲笑してくるから)
リズにはそんな確信があった。リズが庶民的な所作をしたことに対して他の女性に文句を言って、そのまま浮気するような者なのだ。屋敷に迷ったリズを心配することなどまずないだろう。
同じ『笑うこと』ではあっても、スクエアとそれ以外では大きな差があるように感じるのだ。
と、リズがそんなことを考えていると、屋敷の玄関扉が開いた。そこから姿を見せたのは、いままさに考えていたスクエアだった。
「……スクエアさん……」
「……?」
リズが名前をつぶやいたが、スクエアは一瞬頭に疑問符を浮かべていた。そして遅れて声を出す。
「あ、ああ、ローズヒップさんですか」
「……リーゼロッテです」
「あ、リーゼロッテさんですか」
名前を完全に忘れていた。のみならず名前を間違えたことへの謝罪もない。




