時雨明け
眠れない私を夜空に佇む月が傍観している。
私はずっと前から解決策を知っていたけれど、朽ち果てた思いがいつの間にかその思考を心の奥底に葬ってしまっていた。
天気予報によると、明日は一日中雨。
振り向かせたい。だからその名を呟く。
「————、好きだよ」
「時雨ちゃんって名前ほんっとにかわいい! 雨みたいにしっとりしてるし、ピッタリだよね。性格もかわいいし、最高の友達だよ!」
小豆が時雨の手をぎゅっと掴み、縦にぶんぶん振っている。
小豆の満面の笑みで時雨の目を見るぱっちりとした目、笑うと少し下がる眉、めいっぱい上がっている口角。首を傾げるとふわりと揺れるポニーテール。その全てが時雨の思いを大きくさせる。
『友達』。
「小豆ちゃん褒めすぎだよー。もう何度も聞いているよー。そんなに褒めても何も出ないからね?」
時雨が他人と話すとき、語尾が間伸びした話し方をする。地声の低さも今は無理矢理ワントーン高くしているが、元が低いためか他の女の子と同じような声の高さに落ち着いていた。
佐田時雨と佐藤小豆。出席番号が隣だった二人の席は前後で、仲良くなるのに時間はかからなかった。
毎日他愛のない話をして、小テストに出そうな問題を出し合って、一緒にお弁当を食べて、また明日と手を振る。
時雨と小豆の二人が一日中一緒にいるのかと聞かれるとそれは違う。
時雨と小豆が放課後一緒に出かけたり休日遊びに行ったりしたことはない。なぜなら、小豆の放課後や休日は高確率で「先輩」の予定で埋まっているから。
「ところで、今日の放課後に私、先輩と映画を見に行くことになったの! 別にデートとかじゃないんだけどね!? でも帰ったら、すぐ着て行く洋服決めて出かけなきゃっていうか……」
小豆はとっさにその場にあった数学の教科書で口元を隠しているが、隠しきれていない喜びが目に現れている。声にも漏れてしまっているから本当にわかりやすい人なんだな、と時雨は微笑ましくなってしまう。
「なんの映画見るのー? そういえば、今戦隊ヒーローがやっているからもしかして?」
時雨は一昨日観に行った映画の予告編で流れていた戦隊ヒーローを思い出し、ふと口に出す。
「わっ、そんなのじゃないよ! 確かにそれも気になってはいるけど。あのね、今巷で話題沸騰中の感動する! っていう映画を見るの。とっても楽しみだなぁ」
時雨の目には幸せオーラを纏う小豆が目に入る。数学の教科書を両手でぎゅっと抱きしめてポニーテールを左右に揺らしている。
「楽しんできてねー。あと映画の感想聞きたいな! おもしろかったら私も行こっかなー」
「了解であります!」
その後、終礼のチャイムと共に二人は別々の方向へ歩き出した。
小豆はすぐさま自宅へ。時雨は幼馴染であり、親友でもある早苗の元へ。
時雨は、早苗のクラスの前でピタッと止まって中の様子を伺う。まだ先生の話が終わっていない様で、教室の中は静まり返っていた。
時雨はさっきの会話を思い出し、自分の置かれた状況の悪さに苦笑する。時雨の知らぬ間に、先に出会っていた小豆の言う「先輩」。
叶うわけがない。
小豆と先輩は中学校の時から知り合いで、時雨と小豆が知り合ったのは二ヶ月前。時雨の知らないところで小豆は「先輩」と恋に落ち、今日も放課後のお出かけに胸を高鳴らせていた。
入学式で出会った小豆の第一印象から全く印象が変わらない裏表のない性格。時雨やあまり話したことのないクラスメイトにも見せてしまう、もはやギルティーな笑顔。
まだ六月だというのに、時雨の日常は煌めきを纏った乙女によって塗り替えられてしまっていた。
心から小豆の恋が成就することを願っている。
願っている。
時雨の親友の早苗のいる教室内が急に騒がしくなったのを察知すると、扉についている窓からゆっくりと中を覗いた。すると早苗が通学鞄に教科書を詰めているところが見えた。
ここが女子校であることを忘れさせてしまう様な背の高さやショートカットの似合うルックスを持ち合わせている早苗は、今日も机の周りに女子が集まっていた。キラキラした女子の熱い眼差しに早苗は顔に仮面を貼り付けたような笑顔で答える。
ずっと一緒にいると忘れてしまうけれど、早苗はとてもかっこいい。
生徒で賑わう教室に時雨は素早く入っていき一言、一緒に帰ろう? と早苗に微笑む。早苗は表情を変えず、周りにいる女の子に別れの挨拶を告げると二人は教室を後にした。
「相変わらず早苗は毎日モテモテね。私にもそのパワーを分けて欲しいくらい」
二人は帰り道、横並びで歩きながら帰る。
梅雨真っ只中、傘をさして水たまりを避けながら二人は雨雲に覆われて夜のように暗くなった道をゆっくりと歩いてゆく。
いつもは猫を被っている時雨の話し方も、早苗の前では崩れてしまい跡形もなくなってしまう。
「やだなぁ、時雨。好きな人が振り向いてくれれば私は十分だよ。時雨だってそうでしょう?」
早苗は口元に手を当ててくすくすと笑う。幼馴染の時雨の前でさえ常に丁寧な喋り方をしている。
前に時雨は早苗にどうしてそんな喋り方をしているのか聞いたことがある。小学生の頃に出会った時は可愛かったけれど、いつからか変わっていた。「大した理由ではないよ。ただ時雨よりもかっこよくなりたいだけだから、そう気にしないで?」
そんな内容を言っていたけれど、つまりは秘密ということだ。時雨は考えても全く見当が付かなかった。
「そうね、それには同意するわ。もう私はどうしたらいいのかしら……」
時雨はあさっての方向をぼんやりと眺めながら、言葉をそっと添える。
「珍しいね、時雨が弱音を吐くなんて。もしかして友達の佐藤小豆さんのことかな? 最近仲良くなれたと喜んでいたよね、喧嘩でもしたの?」
時雨は静かに首を横に振る。今にも泣きそうな目で黙ったまま早苗の瞳を見つめていた。
「大丈夫? ではなさそうだね。そうだ、お茶でもしよう。今日は私が払うから、だから時雨には話を聞かせてほしいな」
早苗は小さな子供をなだめるように時雨の頭を撫でる。いつもであれば、はたき落としていた早苗の手を今は払えずに黙って受け入れていた。
* * *
落ち込んでいる空模様や女子高生二人組の空気を完全に無視した眩しい笑顔によって、アイスコーヒーとミルクティーが二つ並んで置かれた。そして、これまた空気を読まないドリンク二人組が持ち前の氷とグラスを使って、カランという爽やかな音を立てる。
二人が喫茶店に入った途端、降っていた雨はより一層強く地面に叩きつけられていた。
「そっか、始まったばかりの時雨の初恋がもうすでに失恋に終わりそうになっているんだね」
時雨がこくりと頷く。目元にあった涙の素は少し引いていつもの時雨に戻りつつあった。
表情が暗いことに変わりはないが時雨は元気を取り戻したようだった。
「けれど時雨に好きな人がいるなんて知らなかったな。教えてくれてもよかったのに。時雨の初恋の人はどんなイケメンかな?」
早苗の声のトーンが僅かに弾んでいる。普段よりテンションが高い。幼馴染の恋バナを聞くのは楽しいのだろうか。
それともわざと明るく振る舞っているのだろうか。
「イケメンではないわ。だって同じクラスの子だもの。言っている意味分かるよね?」
早苗の顔から笑顔が煙のようにスッと消えた。無表情とは少し違う、戸惑っている表情。混乱しているようにも見えた。
「うん、分かるよ。そっか……だから時雨は言いづらかったんだね。それで、その女の子はどんな子なの? 時雨の好きなタイプって見当もつかないな」
時雨は口を少し開けてポカンとしている。
「驚かないの?」
時雨がやっと声に出せた言葉はそれだけだった。
「驚かないよ、だって……」
早苗は声に出す言葉を慎重に反芻させる。
私も同じだから。私は時雨の親友として側にいると決めたから。決してこの関係を壊してはいけない。という早苗の言葉はミルクティーと共に喉の奥に飲み込まれた。
「だって?」
時雨は神妙にかしこまっている早苗を見つめ、続きを言うように促す。
「だって、嬉しいから。時雨に好きな人ができて嬉しいから」
嘘ではない。けれどそんなに不安そうな顔をされてしまうとうっかり「時雨が好きだよ」と言ってしまいそうになる。
届かなくても構わない、ただ私は時雨のことを思っているだけで十分だから。『早苗』という人間は隣に親友としているだけで満足だから。
「そっか、嬉しい……か。もし私が失恋しちゃったら全力で慰めてよね」
「もちろん」
その時、時雨のスマホの通知音がなった。時雨は一瞬ためらったが画面を光らせる。スマホのロックを解除する。アプリを開く。通知の来ていたところをタップする。
時雨は笑った。
『時雨ちゃん! 聞いて聞いて! あのね、私先輩から告白されちゃったの。
もちろんオッケーしたんだけどね、とにかく時雨ちゃんに伝えたかったの!』
それは小豆からの一通のメールだった。
——時雨ちゃんって名前ほんっとにかわいい!——
とある褒め言葉が時雨の脳内に響いた。
しぐれ【時雨】 ①秋の末から冬の初めにかけて、通り雨のように降る雨。
②涙を落として泣くさま。また、その涙。
『小豆ちゃんおめでとう!! 明日詳しく聞かせてほしいな。楽しみにしてるねー』
時雨がスマホに何かを入力している間、早苗は何も聞かずにただじっと時雨が話しだすのを待っていた。どのくらい時間が経っただろう。ようやく時雨はさっぱりした様子で顔を上げた。
「私失恋しちゃったみたい。初恋は叶わないってほんとなんだね」
時雨は赤みを孕んでいる目を細めて笑う。雫がこぼれ落ちているのを上を向いて、誤魔化しながら。
「無理して笑わなくてもいいんだよ。相手は私だから気にしないで」
早苗は喜びと悲しみが渦巻く心の内を曖昧にぼかして滲ませる。何色とも言えない、美しいとは言い難い色。
『初恋は叶わない』。
私の時雨への初恋は叶う? もう今からじゃ遅いかな。今、私が時雨のことを好きだと言ったらどんな反応をするかな。冗談でしょ? って笑われるかもしれない。もしかすると関係も崩れてしまうかもしれない。いや、確実に崩れ落ちて壊れてしまう。
「早苗、私を慰めなさいよ! いい? 私の魅力を熱く語ってよね……」
時雨の強かった口調も、ややくぐもった涙声に変わり急激に失速した。
早苗は息を小さく吸った。
「そうだなぁ。時雨の長い黒髪は艶があってとても美しいし、ツリ目だからキツく見られがちだけれど根は優しいところとか。
みんなの前ではいつもニコニコしてるけれど私の前では感情を表に出してくれるところとか、作り笑いじゃない時雨の心からの笑顔のかわいさは誰にも負けてないよ。
私が小学四年生の時だったよね、男子から私の容姿を馬鹿にされたときに時雨が、泣いてた私を庇ってくれた事覚えてる? いつも笑顔で男女問わず好かれてるような時雨が、その男子たちに本気で怒ってくれて。
その時まで私は時雨と全く話したことなかったのに、そんな私を守ってくれるなんてどうしてそんなに優しいんだろうって思ったよ。私だったら絶対できないことだから。心から尊敬してるしかっこいい。
あと……そうだな。鈍感なところとか? 時雨はとってもかわいいからいろんな人から好意を向けられていたけれど、全く気づいていなかったよね。時雨って本当に鈍感」
早苗は言い終えた後、時雨の顔を直視できなかった。自分の顔がどうなっているか、なんとなく想像できたからだ。
言い過ぎてしまった。時雨にあんな顔をされてしまったら、私の心は途端に揺れ動いてしまう。毎日時雨と話している時も、物理の宿題をしている時も、眠れずぼんやりしている時もずっと。ずっとあなたのことを考えているだけだったのに。
自分でも胃もたれがしそうで重くて人には到底見せられない。
「そんなに真面目に答えると思わなかったわ……。面と向かって褒められると案外恥ずかしいものね! なんて返したらいいか分からないじゃない」
「時雨、元気出た? まあ、さっき褒めたのは全部冗談だけどね」
早苗は照れ隠しにフッと笑うと、ようやく再び時雨の瞳を見ることができた。
「もうひどいわ! 早苗のバカバカバカ!」
時雨は困ったように笑いながら目元の泪を擦ると、心の中の細い糸のような何かが切れた。時雨本人には分からずとも確かに、短かった初恋に一区切りがついたようだ。
「でも元気出たわ、ありがとう。やっぱり持つべきものは親友ね!」
時雨は安心したようにウフフと微笑む。
『親友』。
「私は時雨のことが好きだよ」
気づいた時には既に早苗の口は動いていた。時雨はフリーズして脳内処理が追いついていない状況に陥っている。だが一番驚いていたのは早苗自身だった。
「えっ? 今のも冗談よね……?」
今、冗談だと笑ったら誤魔化せるかな。「親友」という意味で好きだということにしたら、今の関係でいられるかな。
* * *
————「お前チビだし、髪の毛も自分で結んでんのか知らないけど下手だよな。笑ってるとこも見たことないし、きもいんだけど」
褐色肌で半袖短パン。いわゆる少年のような容姿から繰り出される早苗への軽蔑の声。
「そんなこと言わないで……」
早苗の震えて消えかかった声は誰にも届かない。
昼休みだった。
その日。早苗は窓際の席で一人、昨日図書室で借りた本を熱心に読んでいた。昼休みの中頃、突然雨が降ってきたので外で遊んでいた男子たちが走って教室に戻ってくると、その一人の男子は初めて早苗の笑顔を見た。
雨が降ってきたことにも男子が戻ってきたことにも気づかず、静かに微笑みながらページを捲る早苗の姿があった。
「なんて言ってんのか聞こえないよ?」
一人が笑うと周りの男子も笑う。クラスの女の子も数人教室内にいたが、早苗がそちらを見るとさっと目を逸らされた。
そこへ髪からポタポタと雨を降らせている時雨がやって来た。
「何してるのー?」
首を傾げながら背負ったランドセルを自分の机に乗せる。
「佐田、今来たのかよ! 遅刻じゃん。ああ、あいついっつも何考えてるか分かんないし、キモいしマジでウケるよなって話。佐田もそう思うだろ?」
早苗はただ椅子に座ったまま上を見上げることもできず読みかけの本を見ていた。視界がぼやけて滲み、なんと書いてあるかなんて分からなかったけれど。
「そっか。今日雨降ってて外で遊べなかったんでしょ。だからイライラしてるんだもんね。そうだよね?」
時雨は一音ごとに段々と声が低くなっていく。その男の顔がだんだんと歪み始める。焦りのためだろうか。
そして時雨は、男子の口が開く間もなく静かに続けた。
「ふざけないで」
それだけ言うと早苗に近寄り、柔らかな笑みを浮かべる。
「ごめんね。読書の邪魔をしちゃって。あの子も早苗ちゃんに振り向いて欲しくてあんなこと言っちゃったと思うの」
早苗の腰まで届く後ろで結ばれた髪は重力に従って丸まった背中に寄り添う。
俯いたまま顔を上げない早苗の手をぎゅっと握ると、時雨はスカートからひらりと正方形のハンカチを持たせた。
「あ……ありがと」
とても僅かで、雨の音に消し去られてしまうような声だったけれど。
早苗が顔をあげると、自らの長い前髪の隙間から時雨と目が合った。反射的に逸らすも、その時何故か早苗はもう一度その女の子を見てしまったんだ。
「これからも何かあったら言ってね。私が守っちゃうから!」
カラッと爽やかで今が梅雨であることも一瞬、忘れてしまいそうな。早苗の目には天使に見えるような。時雨はそんな笑顔を向けたのだ————。
* * *
目の前に浮かぶ氷はミルクティーに溺れないようにプカプカともがいている。
出会ってから今までの六年間のこの関係を終わらせる解決策。それは私が何度も考えては、捨てようと心の中に仕舞っていた物。
「冗談じゃないよ」
この言葉は私自身の選択だ。私はもう曖昧に時雨と接することができない。時雨との関係はこうでもしないと変わらない。後悔はしない。
「早苗、私はもう元気になったよ? 無理して慰めなくてもいいのに」
時雨は平静を装っているが全く隠せていない。目を泳がせ、しどろもどろになりながらコースターの上にいる陽気なアイスコーヒーのHPを吸い取る。
(早苗、さっきなんて言った? 私のことを好……って言ってなかった?)
「時雨はやっぱり優しいね。私は自分のために告白したんだよ。もうこれ以上嘘はつけない。時雨と親友のままじゃ嫌だって思ってる」
早苗のいつにも増して真剣な表情に時雨は狼狽えつつ、必死に嘘だと言い聞かせる。
「早苗が私に? 嘘、からかわないでよ」
今まで早苗にそんなそぶりは一度もなかった。
(私が男子に告白されたとウキウキで告げた時も「良かったね」と普段通りに笑うだけだった。私がついさっき、小豆ちゃんのことを話した時でさえ私のことを好……だなんて分からなかった)
「信じてくれないの? それならもう一度言うけど……」
「わ、分かったわ! 分かった。だから何度も言わないで! 恥ずかしいもの」
時雨は喉の渇きを忘れ、机に乗せた指をいじっている。何を話題に出せば分からず必死に考えていた。どんなに考えようとしても早苗の言葉が妨害して全く頭が使い物にならない。
「私はもう帰るね、払っておくから先に帰っても構わないよ」
時雨をこれ以上困らせたくない。幸運にも別のクラスだから、きっとこのまま疎遠になってしまうのだろう。
早苗は最後に笑う気力を振り絞って席を立つと、いつもの笑顔を浮かべて手を振りレジへ向かった。時雨の方角を見ていたけれど、目は合わせず。
会計を終えてカフェの扉を通り過ぎた早苗の姿がガラス越しに見えても、時雨は座り込んだまま動けずにいた。
時雨は気が付かなかった。いつの間にか雨が止んでいることも、早苗が好いてくれていたことも。
「私……どうしちゃったんだろう。早苗のことなんて意識したことなかったのに」
先程まで結露を滴らせていた陶器のような白い肌は、ひっそりと朱に染まり熱を帯びていた。
早苗はその朱をまだ知らない。
「早苗ってば言ったまま逃げるなんてずるい。格好つけなくてもいいのに」
時雨は机に引っ掛けてあった二人分の傘を見るとクスッと笑った。その時、早苗の言葉の意味を理解した。
早苗はいつも優しく笑ってくれて、時雨の話を最後まで聞いてくれて、テスト前に一から公式を教えてくれて。
失恋で落ち込んでいたら、あんなに全力で慰めてくれて。
時雨は気付いてしまった。自分が好きな人のことも、呆れてしまうほどの私の鈍感さも。
僅かに残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干した時雨は二本の傘を左手に持って早苗を追った。
振り向かせたい。だからその名を叫ぶ。
「早苗————」