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千四百年の夜を越えて、君と~古都に咲く鎮魂の恋~  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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Chapter 7 神力の呼び覚まし

 十一月中旬。冷え込みが次第に厳しくなり、病院の窓から見える外の風景も、枯れ木や落葉の色彩がやや寂しげに感じられる頃——卜部琴音の入院生活は、いまだ暗いトンネルを抜け出せないままだった。医師から「危険な状態が続く」と言われ、いくつか検査を受けているものの結果は芳しくない。

 容態が急変するかもしれない、という不安を抱えながら、穂積健吾は日々を過ごしている。そんなある朝、健吾は病室で眠る琴音の姿を見つめ、ひそかに決断を固めていた。


1. 祖母への連絡、そして倉に眠るもの

「本当に大丈夫か、健吾……」

 大学友人の佐久間和彦が廊下の自販機前でコーヒーを買いながら、心配そうに声をかける。佐久間は医学関係のツテを使って琴音の治療法を探り、希少疾患の情報収集に奔走していた。

 健吾は小さく息をつきつつ、その背を叩くように礼を言う。

「ありがとな、佐久間。お前のおかげで少しは可能性が広がりそうだ。でも……正直、それだけじゃ足りない気がしてるんだ」

「……やっぱり、原因不明ってのがネックだよな。医療的に打つ手が見当たらないと、時間ばかりが過ぎていくし……」

 健吾はちらりとナースステーションのほうに目をやり、声を落とす。

「実はさ、ばあちゃんから昔聞かされてた話…… ‘穂積家にも先祖にまつわる古文書がある’ ってやつ。気になるんだ。琴音の卜部の家と同じく、物部氏の末裔だとか、饒速日命にぎはやひのみことに繋がる血筋だとか……正直、最初は胡散臭いと思ってた。でも今は、それが何かヒントになる気がするんだよ」

 佐久間は眉を上げ、「へえ……奇妙な縁だな。物部の血の呪いとか言ってたけど、まさか健吾の先祖まで絡んでるとは思わなかったよ。で、どうするんだ?」

「ばあちゃんの家は東京なんだけど……今から行って蔵を調べてくる。琴音が急変したら困るから、できればすぐ戻りたいけど……行くしかない。それに、こっちにいても俺は何もしてやれない」

 健吾は唇を噛み、「琴音がこのまま死んでいくのを見てるわけにはいかない」と決意を込める。佐久間はひとまず頷き、「わかった。琴音ちゃんの容態は、俺も看護師に確認しておくし、何かあったら連絡する。お前はできる範囲で動いてこいよ」と背中を押した。


 そうして翌朝、健吾は早めに病院に立ち寄り、まだ浅い眠りに沈む琴音の顔を確認してから、新幹線に乗り込んだ。ひとえに「ばあちゃんの蔵にある古文書を探す」という目的だが、その心は混乱に満ちている。

 古文書に何が書いてあろうが、医学的には無意味かもしれない——しかし、卜部家の女たちの早世を真面目に「呪い」と呼ぶ静香を見ていると、何か得体の知れない力が働いているのではないかとすら思えてくる。それに、自分の先祖が本当に饒速日命の末裔なら……物部氏と穂積氏が繋がるのなら……。

(琴音を救う手がかりが、そこにあるかもしれない)

 健吾は車窓を流れる景色を眺めながら、何度も自分に言い聞かせた。


 半日ほどの移動を経て、健吾は祖母・和江かずえの家に到着した。住宅街の中に古めかしい平屋が一棟。玄関先には、和江が小柄な体を丸めるように立っている。

「よく戻ったねえ、健吾。あんたの彼女が倒れたって……大丈夫なのかい?」

「正直、危ないみたい。だからばあちゃん、昔言ってた ‘穂積家に伝わる系譜や古文書’ を見せてほしいんだ。何かヒントになるかもしれない」

 祖母は少し困惑した表情を浮かべる。

「そんなもの見たって、現代の医学には役に立たないんじゃないの?」

「そうかもしれない。だけど、俺は何でもいいから琴音を助ける手段を探したい。……頼むよ、ばあちゃん」

 和江はしばし沈黙し、「そうね」とうなずくと奥へ案内した。家の裏手には古い蔵があり、鍵を外して扉を開けると、黴くさい空気がむわりと流れ出す。積み上げられた木箱や古道具の山をかき分けた先、頑丈な箱が一つ鎮座していた。

「これよ。ずっと先代から受け継いできた ‘穂積家の古文書’。開けるなら覚悟しなさい。下手をすると、変な因縁に囚われることになるかもね」

 ばあちゃんの半ば冗談めいた口ぶりにも、健吾は真剣な眼差しで蓋を外した。黄ばんだ和紙の巻物や書物が詰まっており、虫喰い痕もちらほら見受けられる。

 手探りで一つひとつを取り出すと、「穂積」「饒速日命」「物部」といった字が目に飛び込んできた。後世に書き足されたらしい注釈も混じり、難解な漢字や仮名が入り乱れている。

「やっぱり……ばあちゃんの言ってたとおり、 ‘穂積氏は饒速日命を祖神とする’ って書いてある。あれって本当だったんだな」

 健吾はわくわくよりも恐れに似た感情を覚える。琴音の祖先が物部氏であり、自分も同じ源流に連なるかもしれないという事実が浮かび上がってくる。その背後には千四百年を超える因縁が眠っているのだろうか。

「ふん、昔から家系図めいた巻物はあったけれど……まさか本気にする日が来るなんて思わなかった。何が書いてあるの?」

「よくわからないけど、 ‘物部’ と ‘穂積’ が同祖ってことや、饒速日命が最初に大和へ降臨した話が詳しく載ってる。……古代史の資料みたいな感じ」

 焦げ茶色に変色した紙を指でなぞりながら、健吾は妙な胸騒ぎを覚えた。琴音が入院している原因不明の病、その背後にある『卜部家の女は早世する』という呪い——もし本当に歴史的ルーツが絡んでいるなら、何か手立てがあるかもしれない。

 そして、物部氏の存在が強く示されると同時に、ふと脳裏に黒いコートの男の姿がよぎる。あの冷たい視線。もし彼がこの“因縁”に深く関係しているのなら……。


2. 石上神宮へ向かう決意

 蔵の発掘を一通り終え、居間で書類の写真をスマホに撮った健吾は、祖母・和江が淹れてくれた緑茶をすすりながら考え込む。

「奈良に ‘石上神宮いそのかみじんぐう’ って神社があるでしょ? 物部氏の氏神を祀ってるとかいう……。俺、そこへ行ってみようと思う。何か解呪とか病気平癒の祈りとか、そういうものがあれば、琴音を救えるかもしれない」

 和江は茶碗を置き、「気休めになるかどうか……。でも、あんたがそう思うなら行ってきなさい。たしかに石上神宮は物部の古い神社だし、呪術や鎮魂祭も伝統があるようだけど……」とため息をつく。

「うん、やってみるしかない。ばあちゃん、ありがとな。写真撮らせてもらったし、あとでゆっくり解読してみる。とりあえず今日はもう奈良に戻るよ。琴音の容態が心配だから」

 夕刻の光が横から射し込み、家の障子を赤く染める。健吾はあわただしく荷物をまとめ、祖母と短い別れの挨拶を交わす。その瞳には固い決意が浮かんでいた。


 夜遅くに奈良駅へ戻り、健吾はまず病院に駆けつける。看護師によれば、琴音の容態は相変わらず不安定。だが、幸いにも今日のところは急変はなかったらしい。

 病室をそっと覗くと、静香が付き添っており、佐久間はどこかへ連絡するため席を外している。琴音は浅い呼吸で眠っているが、顔色は青白く、さっきより衰弱しているように見える。

「ごめん、何も変わってない?」

 健吾が囁くと、静香は疲れた目で首を振る。「時々目覚めても、ほとんど会話できないわ。医師も手探りで……本当にどうしたらいいのか……」

「大丈夫。俺、少しヒントを得てきたから。明日、石上神宮ってところに行ってみる。物部氏の神社らしいから……もしかしたら呪いを祓う力があるかもしれない」

 静香は信じられないという顔をしつつ、琴音の手を握りしめ、「……頼むわ、健吾さん。私にはもう祈ることしかできないから……」と声を震わせる。

 闇が深まる病室の窓の外で、街灯がぼんやりと光る。健吾はそっと琴音の手の甲に触れ、その冷たさを感じて胸を痛めた。


3. 石上神宮との邂逅

 翌朝、健吾は比較的早い時間に病院へ顔を出し、看護師と静香に「何かあったらすぐ連絡してください」と念を押してからタクシーで石上神宮へ向かった。場所は奈良県天理市。山辺の道が貫く歴史の古層に位置する神社だ。

 朝の光が薄く差し込む参道の鳥居をくぐると、鬱蒼とした森が広がり、社殿のほうへと伸びる石段が静かに出迎える。冷んやりとした空気が微かな水気を含んでおり、思わず身震いするような神聖な気配と、ずしりと霊威を感じる。

「ここが……石上神宮……」

 健吾は胸に込み上げるものを抑えつつ石段を上り、拝殿の前に出た。周囲にはご神鶏しんけいと呼ばれる鶏たちが自由に歩き回り、時折くくっ、と短い声で鳴く。その光景がどこか異世界めいていて、不思議な安堵を与える。

 遠くから聞こえる鈴の音に誘われ、社務所を訪ねると、白衣と袴姿の神職が応対してくれた。

「いらっしゃいませ。ご祈祷でしょうか?」

「ええ……病気平癒の祈祷をお願いできないかと思って。あと、可能なら宮司さんにお話を伺いたくて……」

 神職が少し訝しげに首を傾げるが、健吾の真剣な表情を察したのか「少々お待ちください」と奥へ通してくれる。そこには古い木の建築が連なり、廊下越しに視界が開けると、一人の落ち着いた声が響いた。

「ご用件を伺いました。私はこの石上神宮の宮司、物部道忠もののべ・みちただと申します」

 和やかながらも凛とした雰囲気をまとった初老の男性が、健吾を出迎える。横には巫女装束をまとった若い女性が立っていた。

「すみません、突然押しかけて……。俺は穂積健吾と言います。大事な人が原因不明の病で倒れていて……何とか助けたいんです」

 健吾は深く頭を下げ、必死の想いを伝える。道忠は静かに目を細め、「なるほど、病気平癒のご祈願ですね。もちろん当神宮でも祈祷は行っております。ですが、普通の祈祷とは少し異なるご相談のご様子……?」と勘づくように問いかける。

 健吾は躊躇いつつも、卜部家の呪いの話や、自分が穂積氏であること、さらに古文書から饒速日命との関連を感じたことを簡潔に語った。巫女の若い女性——名前を物部沙弥香さやかというらしく——は驚いたように目を見開く。

「物部氏と穂積氏の同祖説ですか……。饒速日命を祖神とする一族だと古くから伝わっていましたが、まさか現代にこうして繋がりを意識される方が来られるとは。それに、卜部姓こそが改姓して物部氏再興後も歴史の表舞台から姿を隠した直系、本家筋だと当社には記録があります」

 彼女の声には不思議な興味が混じり、道忠も「興味深いですね」と深く頷いた。


4. 祈祷と古文書の存在

「わかりました。まずはご祈祷を行いましょう。あなたの大切な方が病で苦しんでおられるのなら、我々にできることはすべてやりたい。実は近々、十一月二十二日に鎮魂祭も控えておりまして……物部氏に伝わる古い鎮魂の儀を執り行う時期でもあるんです」

 道忠が丁寧に説明するのを聞きながら、健吾は思わず胸が熱くなる。ここで何か糸口を掴めるかもしれない——卜部家の呪いを解く手掛かりがあるかもしれない。

「本当にありがとうございます。ぜひ、祈祷をお願いしたいんです」

「では、社務所のほうで受付を済ませてください。特別に病気平癒の念も強く込めましょう。あなた自身もご参列いただく形になりますが……もしよければ、祈祷のあとに少し私どもの ‘古文書’ をお見せできるかもしれません」

「古文書……?」

 道忠は微笑を湛えて続ける。「当神宮には、物部氏の伝承や鎮魂術に関する古文書が残されています。ふだんは公開しておりませんが、あなたの事情を鑑みれば、参考になる部分があるかもしれない。もちろん、あまり刺激的なものではありませんが……」

 健吾は感謝の気持ちで頭を下げた。琴音を救うためなら、どんな情報でも欲しい。一刻も早く形にしていきたいと願う。


 祈祷所へ案内されると、薄暗い社殿の奥に簡易の祭壇が設けられていた。松明や燭台による柔らかな火が揺れ、幾柱もの神々を迎えるための準備が整っている。巫女たちが控え、鈴の音がごくかすかに響く。

 健吾は白い襷を渡され、「まずは心身を清めるつもりで、深い呼吸をしてお入りください」と言われる。緊張に喉が渇き、手のひらが汗ばむ。

「大丈夫ですよ。怖いものではありませんから」

 そう声をかけてくれたのは、巫女の沙弥香だ。彼女の穏やかな声に励まされながら、健吾は祭壇の前に正座し、静かに頭を下げた。

 祝詞が始まると、一気に空気が張り詰める。ぬさが振られるたびに、鈴の音が闇を裂くように耳を打つ。健吾は琴音の姿を思い浮かべながら、“どうか助けてほしい” と必死に願う。


5. 幻視——飛鳥時代の戦乱

 祈祷が進むにつれ、健吾は体温が急上昇するかのような感覚に襲われた。目を閉じているのに、何か視界の端が赤くちらつく。意識がふわりと浮き上がり、別の時空へ飛ばされるような——。

「うっ……!」

 思わず声を漏らした瞬間、視界が一変した。そこは夜の戦場。燃え盛る炎が建物を舐め、刀と刀が激しくぶつかり合う音が耳を裂く。男たちの怒号、馬のいななき、血の臭い——まるで実際にそこにいるかのように鮮烈だ。

 遠くで「物部を絶やせ……!」という叫び声がこだまする。火の粉が闇夜に舞い散り、かすかな悲鳴や咆哮が交錯する。恐怖に足がすくむが、健吾の身体はまるで幽霊のようにそこに立ち尽くすだけで、何もできない。

(これは……飛鳥時代……? 物部守屋が蘇我馬子と戦ったという、あの……!)

 どこかで聞いた史実が脳裏をかすめる。くぐもった視界の中、甲冑姿の武将がこちらへ突撃してきたと思うと、真横で誰かが斬り伏せられ、鉄のにおいがむせ返る。

 そして、燃え上がる炎の向こうに、冷たい目をした男のシルエットが映る。高笑いを上げながら、「物部を根絶やしに……!」と叫んでいる。その姿はまるで——黒いコートの男を想起させる何か。

(あいつは……? 蘇我馬子……?)

 次の瞬間、視界に閃光が走り、激しい耳鳴りに襲われる。頭が割れるような痛みでうずくまりそうになるが、身体が思うように動かない。まるでこの地獄絵図に縛られているかのようだ。

 人々の悲鳴が遠のき、血と煙が空を覆う。最後に聞こえたのは「勝ったのは蘇我だ……物部は終わりだ……」という叫び。そこにかすかに混じって、「呪いだ……血が絶えない……」という怨嗟が絡みつく。


 ぷつりと映像が断たれ、健吾は社殿の床に手をついて息を荒げていた。額には冷や汗が滲み、心臓が激しく鼓動している。周囲の巫女たちが慌てて近づき、道忠も駆け寄って肩に手を置く。

「穂積さん、大丈夫ですか? いま、すごい怯えた顔をされていましたが……」

「お、俺……さっき、飛鳥時代の戦乱を見たような……物部守屋と蘇我馬子が戦ってる……血みどろの光景を……」

 言葉が震える。これが何かの妄想なのか、それとも祈祷によって神秘的な力が働いたのか。理屈では理解できないが、体験した恐怖が肌にこびりついている。

 道忠は神妙な面持ちでうなずき、「やはり……物部氏×穂積氏、そして蘇我氏の因縁が、あなたの血を揺さぶったのかもしれません。祈祷の際、神々があなたの先祖の記憶を断片的に見せたのかも……」と静かに呟く。

 周囲の巫女たちはそっと距離を取りながら、鈴と祝詞を再開する。心なしか、その響きが健吾を落ち着かせていくようだった。

(ただの幻覚とは思えない。何か……強烈な意志がそこにあった。まるで蘇我馬子の怨念が今でも残っていて、物部を滅ぼそうとしているみたいに……)


6. 破邪の力の兆し

「すみません……こんな大騒ぎになって」

 落ち着きを取り戻した健吾は社殿の隅で呼吸を整えつつ、道忠や巫女たちに頭を下げる。道忠はむしろ深刻そうに顎に手をやった。

「いいえ、むしろ有意義な体験かもしれません。あなたは穂積の血を引き、物部の末裔とも同源の素質を持っている。もしかすると ‘破邪の力’ を扱う資質があるのではないでしょうか」

「破邪の力……?」

「はい。石上神宮は、布都御魂大神ふつのみたまのおおかみを祀り、古来より ‘邪を祓う剣’ として崇敬されてきました。物部氏は武器や刀剣の製造などを司り、強い破邪の力を信仰していたとも言われています」

 健吾は無意識に胸元を押さえる。あの幻視で感じた痛みや炎は、単なる夢以上にリアルだった。あの戦乱の余韻がまだ身体に残っているようで、心拍数がいつもより高い。

「あなたが先ほど見た ‘蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす’ 光景は、千四百年前の歴史。けれど、もし蘇我氏が今なお転生し、物部を根絶やしにしようとしているなら……その邪気を祓う力が、あなたに必要となるかもしれません」

 道忠の言葉に、健吾は一瞬息を呑んだ。まさかそんな非現実的な話が……と理性は否定したが、琴音の容態や黒いコートの男の存在を思い返すと、まったく馬鹿にできなくなる。

「じゃあ、俺は何か修行みたいなことをすれば、破邪の術が身につく……んですか?」

 畏れながらも健吾は問いかける。琴音を救うためなら、何だってやってみようという覚悟がある。道忠は頷き、視線を巫女の沙弥香へ向けた。

「そうですね……祝詞や剣を用いた祭式の所作など、基本を学ぶことで力を呼び覚ます可能性はあります。実際、当神宮には11月22日に ‘鎮魂祭’ という古式の祭典があり、ここでは強い破邪の呪法も演じられる。もし間に合うなら、そこに向けて学んでみませんか?」

「鎮魂祭……。11月22日って、あと数日後ですね。琴音がその日まで持てば……」

 健吾は胸を苦しくさせた。時間があまりにも短い。病院では「いつ悪化してもおかしくない」と言われている。だが、希望があるなら掴むしかない。

「お願いします。何でもやります。……石上神宮で習得できるものは全部学びたい」

 強い眼差しで答えた健吾に、巫女の沙弥香がやや感動した風に微笑み、「私ができる範囲でお手伝いします。お辛いでしょうが、あなたの大切な人を救うために、一緒に頑張りましょう」と静かに述べる。

________________________________________

7. 苦悶と決意

 その後、健吾は社務所の一角で道忠に古文書の一部を見せてもらった。色あせた巻物には、物部氏が代々受け継いできた鎮魂祭の起源や、先祖が饒速日命から授かったとされる十種神宝の話などが記されている。

 更には「物部守屋が蘇我馬子に討たれた後、物部の血統が隠棲し、蘇我の呪詛を免れつつ再興を果たした」という内容らしき断片もあった。読んでいるうちに、寒気が背筋を這い上がる。

「もしこれが本当なら……蘇我氏が滅んだ後も、物部は生き延びていた。そして今なお子孫がいる……それが卜部家、そして穂積家にも繋がっているってことか」

「可能性は高いですね。蘇我氏が完全に物部を絶やせなかったことが、彼らの滅亡につながった……という考え方もあります。あなたが見た幻視の最後には ‘呪いだ、血が絶えない’ といった声がありましたよね」

 道忠が神妙に語ると、健吾はゴクリと唾を飲む。琴音が苦しむ“呪い”は、この歴史の暗部から続くものなのか。さらに、あの黒いコートの男が “蘇我氏の転生” か何かだとしたら……寒気が増すばかりだ。

「とにかく、俺は石上神宮で破邪の力の基本を教わって、琴音を助けたい。病院では何もできなくて……でも、こうして動けば、少しは希望が見えそうで……」

 健吾は強い決意を口にするが、その瞳には不安もちらつく。沙弥香がやわらかな笑みで言葉を添えた。

「穂積さん、まずは祈祷と軽い所作の習得から始めましょう。夜には病院へ戻り、大切な人を見守ってあげてください。短い期間ですけど、できるかぎりお力になれれば……」

「ありがとうございます。……琴音のためにも、俺は絶対あきらめません」

________________________________________

 石上神宮をあとにするとき、健吾は拝殿を振り返り、胸に熱いものを感じていた。ここには歴史を超えた力がある。もし “呪い” が本当に存在するなら、それに対抗する術もきっとあるはず。

 けれど、琴音がその日まで命を保てるかどうかが大きな問題だ。医師は「容態が安定しない」と嘆いていたし、黒いコートの男の不気味な姿も頭から離れない。まるで時間が切り刻まれていくようで、焦燥に胸が焼かれる思いがした。


8. 奈良への帰路、そして再び病院へ

 夕方、健吾は再度病院へ向かった。車窓から眺める町並みは紅葉が色褪せ始め、どこか侘しさを帯びている。石上神宮で得た教えと、あの幻視の衝撃がまだ冷めやらないまま、琴音の姿を思うと胸が苦しくなる。

 病棟に入ると、佐久間がちょうどナースステーションで医師と話し込んでいた。こちらに気づくと、「よお」と手を挙げ、しかめ面で近づいてくる。

「琴音さん、また熱が上がったみたいだ。坂下医師が言うには ‘ただの風邪とも違うし、免疫が暴走してる可能性もあるが断定できない’ って。病巣がわからん以上、対処療法しかないらしい」

「そっか……ありがとう。俺のほうは石上神宮に行ってきたよ。やっぱり物部氏の神社だっていうし、いろいろ教えてもらった。破邪の力なんてものがあるらしくて……」

 健吾が熱心に語ると、佐久間は首を傾げる。「破邪……? そりゃオカルトだろ。いや、否定はしないけどさ。医学でもどうしようもないなら、すがる気持ちはわかるよ」

 ふいに扉が開き、静香が顔を出す。「あ、健吾さん……! 琴音、さっき少し目を覚ましたの。でも苦しそうで……何か力になれないのかしら」

 彼女の声には焦りと悲痛が混じっている。健吾は深く息を吐く。

「俺、石上神宮で ‘鎮魂祭’ に向けて修行みたいなことをするつもり。もしそれで呪いが祓えるなら……。とはいえ、時間がない。琴音があと何日もつか……」

 微かな沈黙が三人を包む。佐久間は書類を握りしめつつ、意を決したように言った。

「わかった。じゃあ俺は引き続き、医学方面を頑張る。県外の専門病院への転院も検討できるかもしれない。静香さんにも協力してもらって、手続きや書類を整理しよう。健吾、お前は神社とか、そういうルートを当たれ。二方面作戦だ」

「助かる……ありがとう、佐久間」


 病室に入り、琴音の顔を覗き込む。浅い呼吸の合間に、かすかな声が漏れた。「……健吾……さん……来て、くれたの……」

「うん。大丈夫か? 痛いとこない?」

 琴音は弱々しく首を振る。「痛いより……重い感じ。胸が……苦しい。ごめんね……こんなことになって……」

 その瞳はかすれた光を宿し、申し訳なさと不安とが入り混じっている。健吾はそっと彼女の手を握り、精一杯の穏やかさを装って言う。

「謝ることないよ。俺、何とか方法を探してるから。……石上神宮に行ったんだ。物部の神様を祀ってて、破邪の力で呪いを祓えるかもしれないって。だから諦めないで」

「……ありがとう……でも、私……ほんとは……少し、こわい。母や祖母みたいに、死んじゃうんじゃないかって……」

 彼女の震える声に、健吾は胸が潰れそうだった。だが、その手を強く握り返し、静かに言葉を重ねる。

「大丈夫。死なせない。絶対に……。卜部家の女は早世するなんて言葉、俺がひっくり返してやる。だから少しだけ踏ん張ってくれ」

 琴音はわずかに涙を浮かべ、「うん……」と頷いた。病室の点滴スタンドが微かに揺れ、モニターの機械音が二人の間を埋めるように鼓動を刻む。

 ——どうか、間に合ってくれ。鎮魂祭まで、あとわずかしかない。今はまだ“兆し”でしかない破邪の力を、本物に育て上げられるのか。あの幻視に現れた恐るべき蘇我馬子の怨念、そして黒いコートの男の存在——何もかもが闇のなかでうごめいている。

(けど、やるしかない。俺が琴音を救うための力を手に入れるんだ)

 健吾は決意を噛み締め、優しく琴音の手を撫で続けた。廊下の先から夜の風が染み込み、晩秋の冷気を背後から押し寄せさせる。その冷たさが、彼の心を奮い立たせもした。

 こうして、神力の呼び覚ましへの道が開かれようとしている。古代史の底から蘇った因縁が、奈良の地で現代の命を翻弄する中、健吾は破邪の術を身につけるため、そして琴音の命を繋ぐために、石上神宮へと通う決断を下すのだった。

 ……次なる一手は——あの得体の知れない男との正面衝突を避けられない運命を孕んでいるかもしれない。だが、それでも進むしかない。

 夜の病室で、琴音が眠りに落ちるまで手を握りしめる健吾の姿は、静かでありながらも熱い闘志を秘めていた——。


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