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千四百年の夜を越えて、君と~古都に咲く鎮魂の恋~  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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Chapter 6 “死”の兆し

1. 幸せな秋の一幕、そして不穏な影

 深まりゆく秋の光が、奈良の町をやわらかく彩り始めていた。まだ日中は暖かさが残るものの、夕方にかけて冷たい風がひとつぶねの落ち葉を舞い上げる季節。

 そんな昼下がり、穂積健吾と卜部琴音は、奈良駅近くの商店街を連れ立って歩いていた。通り沿いには柿や鹿をモチーフにした和菓子や土産物が並び、秋の観光客でどこも賑わっている。

「健吾さん、見て。柿の最中(もなか)だって……ほんとに柿の形に似てるのね。可愛いし美味しそう」

「ああ、これも奈良名物らしいな。一緒に買って味見してみるか?」

 琴音は少し照れくさそうに微笑んだ。以前より表情に活気が出てきたように見える。彼女自身、体調を崩しがちな日々を抱えてはいるが、近頃は健吾との外出を増やし、奈良の街を少しずつ好きになり始めていた。

 一方で、健吾も心なしか弾んだ足取りだ。大学時代以来、思い切り誰かと“デート”らしい時間を過ごすのは久しい。琴音の笑顔を見ると、胸がじわりと温かくなる。

「こうして街を一緒に回るの、楽しいな。昔は……あんまりこういう散策とか興味なかったんだけど」

「ふふ、私も。人混みは苦手だったけど……不思議ね、あなたと歩いてると、なんだか穏やかな気持ちになるの」

 琴音は自分でも驚くほど素直に言葉を重ねる。健吾の優しい空気は、男性に苦手意識を抱いてきた琴音の心を、少しずつ解きほぐしていた。

 彼らが連れ添って商店街を奥へ進むほど、軒先に並ぶ秋の商品の彩りや、観光客の笑い声が鮮やかに混じり合い、まるで二人を祝福するかのような明るい雰囲気が漂う。

 そんなとき、不意に健吾の視界に妙な存在が映りこんだ。ふと人波の先を見やると、黒いコートを着た男がこちらを覗きこむように立ち止まっている。髪色ははっきりしないが、その切れ長の眼差しは鋭く、不穏な空気をまとっているように見えた。

 ——誰だろう。観光客の姿とは明らかに違うし、妙に視線を向けてくる気がする。

(何だ……あいつ……?)

 健吾は一瞬、足を止めかけたが、男はすぐに通行人の後ろへ紛れるように消えていった。胸騒ぎを覚えながら、周囲を見回すが、その姿はもう見当たらない。

 琴音が「どうしたの?」と不思議そうに首をかしげる。健吾ははっとして笑みを取り繕った。

「あ、いや、何でもない。見間違いかな……」

「そっか。……でも、なんだか肌寒いね。人も多いし……もう少し奥まで歩いたら、どこかで休憩する?」

「うん、そうしよう。あんまり無理はするなよ」

 そこまで言いかけた瞬間、健吾の中に得体の知れない不安が芽生える。黒いコートの男の視線が心に焼きついて離れない。深まる秋の日差しが、妙に陰りを帯びて見えるのは気のせいか。

 琴音は相変わらず楽しそうに店先を眺めているが、その瞳が一瞬、痛みに耐えるように伏せられるのを健吾は見逃さなかった。


2. 街角で崩れゆく体——胸を刺す最後の一言

 商店街を抜け、ちょっとした広場のようなスペースに差しかかったところで、人混みがいっそう増えてきた。琴音の顔色が少しずつ青ざめていくのを感じて、健吾は「無理しないで」と声をかける。

 しかし、琴音はうっすらと笑みを作るだけで、言葉を返さない。息の調子が乱れているのだろうか。彼女の額には微かな汗が浮かんでいる。

「ごめん……。ちょっと、休みたいかも……」

「わかった、近くにベンチが——」

 その言葉が最後まで届く前に、琴音の身体がぐらりと揺れた。周囲の人波がざわめき、健吾はとっさに腕を伸ばすが、琴音の膝が抜け、意識が遠のくのがわかる。

 倒れる瞬間、琴音が微かに声を漏らす。

「……健吾さん……まだ、私は……あなたと……」

 その短い一言は、まるで途切れた想いを宿したまま空中に溶けるようだった。健吾は必死に琴音を抱きとめるが、彼女の瞳は既に閉じている。名前を何度呼んでも反応がない。

「琴音さん!? うそ……起きて……!」

 観光客の何人かが足を止め、「大丈夫ですか?」と声をかけ始める。健吾は震える手でスマートフォンを取り出し、すぐさま119番へかけようとするが、動揺で指がうまく反応せず、焦りで呼吸も荒くなる。

 すると、近くにいた学生風の女性が、「救急車呼んでます!」と叫んでくれた。健吾は琴音の頬をさすりながら声を張り上げる。

「琴音さん、しっかりしろ……! すぐ救急車が来るから……!」

 人々が遠巻きに心配そうに見守る。その視線の中、健吾は恐怖に押しつぶされそうだった。ほんの数分前まで笑顔で話していた彼女が、今、手の中で意識を手放している。

 ふと顔を上げた先、通りの向こうで再び黒いコートの男が立ち止まり、こちらを見ている気がした。まるで遠くから状況を観察するような、冷ややかな視線。それを確かめようと瞬きをした刹那、男の姿はまた人混みに飲まれ、消えていった。

(なんだ……あいつは……くそっ、琴音がこんな時に……)

 救急車のサイレンが遠くから近づき、商店街の雑踏をかき分けて到着する頃、健吾の心は既に限界寸前だった。脳裏には彼女の最後の言葉「まだ、私はあなたと……」がこだまする。続きを言えなかった想いを、彼女に返してやることはできるのだろうか。


3. 救急車の中——緊迫した応急処置

 救急隊員が素早くストレッチャーを下ろし、琴音の脈拍を測定、血圧を確認する。健吾も同乗を許され、急いで彼女の手を握りながら搬送される。

「心拍数が乱れてます! 血圧も低い!」

「酸素投与します。モニター装着!」

 隊員同士のやり取りが鋭く飛び交い、車内で機械音がピピピと鳴り始める。健吾は横たわる琴音の顔色の悪さに胸が潰れそうだ。

 点滴の針が静脈に差し込まれ、幾つかの薬剤名が口頭で伝えられる。救急隊員がマスクを琴音の口元に当て、酸素濃度を調整する。

「大丈夫、すぐ病院に着くから……」

 健吾が声をかけるが、彼女は微かな呼吸しか感じられない。救急隊員はときおり健吾に「顔が近い、少し離れて」と指示しつつも、彼の焦りを察して言葉を荒げることはない。ただ「すぐ搬送しますので!」と励ますように告げる。

 救急車のサイレンが街を突き抜け、遠くのビルを揺らすように響く。外の景色が流れていくなか、健吾は琴音の手の冷たさに耐えかねて泣きそうになる。何より、さっきまでの幸せそうな笑顔が脳裏に焼きつき、現実とのあまりの落差が胸をえぐる。

(どうか……助かってくれ。琴音さん……)


4. 病院での必死の治療

 奈良市内の総合病院に到着すると、医師たちが慌ただしく琴音を処置室へ運び込む。心電図や採血などが一気に行われ、モニターが不安定な波形を示すたびに医師が指示を飛ばす。

 健吾は入り口で看護師に制止され、中には入れない。ガラス越しに見えるのは、必死で蘇生措置を施される琴音の姿——心臓マッサージこそ必要ないようだが、酸素マスクや薬剤投与などの重篤対応が続いている。

「早くバイタルを安定させるんだ。心拍が乱れてるぞ!」

「はい、ボスミン準備! 点滴ライン増やします!」

 医療スタッフの緊迫した声が響き、健吾の喉は乾き切る。まるで自分が息をすることすら許されないような絶望感に苛まれながら、彼は額に汗を浮かべてドアの前で立ち尽くしている。

 ——どれほど時間が過ぎただろうか。

 やがて医師が「ふう」と小さく息をつき、看護師が布をかけ直しているのが見える。その表情は深刻ではあるが、最悪の事態は免れた様子だ。

 ほどなくして医師が健吾のもとへ足早に寄り、「とりあえず一命は取り留めました。意識はまだ戻りませんが、急変は落ち着いたので集中治療室に移します」と告げる。

 安堵と恐怖が混ざった感情が一気に健吾を襲い、思わず壁に手をついて肩で息をする。

(よかった……でも、どうしてこんなことに……? 何が原因なんだ?)

 このとき佐久間が遅れて到着し、落ち込む健吾の背中をそっと支える。

「健吾、こっちは任せろ。俺も医療関係のツテをフル活用して原因を探る」

「頼む……マジで、頼む……」

 健吾は絞り出すように声を漏らす。病院の廊下に響く静謐な空気の中、心臓の鼓動だけが耳を打ち続けていた。


5. 卜部家の呪いと、それぞれの行動

 しばらくして卜部静香が病院に到着し、看護師からの説明を受けると、蒼白な顔で壁にもたれかかる。琴音の母や祖母の死が、まざまざと蘇っているのだろう。

 静香は「やはり……卜部家の女に生まれてしまったら、こうして命を奪われるのね……」と苦しげに呟き、涙をこぼす。

「そんなことは……」

「でも、もう……分からないのよ。何がいけないのか……どうすれば救えるのか……」

 健吾はその言葉に胸を締め付けられる。呪いなんて、現代の医療がある時代に馬鹿げた話だと思いたい。でも実際、原因不明の発作が琴音を襲い、医師ですら手をこまねいているという事実が、彼の心を揺さぶる。

 佐久間は頭を掻きながら、「ここは俺が医療方面で全力を尽くす。健吾、お前は……何か心当たりがあるんだろ?」と真剣な目を向ける。

「……ああ、実は祖母の家に父が残した古い資料があるかもしれない。もしかしたら、物部とか穂積とか、そういう先祖の伝承が琴音さんの呪いに関係しているかもしれない」

「じゃあ、行ってみろよ。時間が惜しい。俺はこっちで調べられる限り調べるからさ」

「ああ……ありがとう。頼む」

 静香も弱々しく頷き、「お願い……琴音を救えるなら、何だってして」と声を震わせる。

 健吾は唇を噛み、「必ず助ける……呪いなんか、絶対に負けない」と心の中で固く誓った。


6. 不穏な視線——再び現れる黒いコートの男

 夜に近づく頃、病院の廊下は面会時間も終わりかけていて、人の行き来が減ってきた。救急外来のざわめきから少し離れた場所で、健吾と佐久間は簡単に情報を共有しあう。

「俺は明日、まず大阪の大病院の知り合いに連絡を取る。希少疾患や免疫系の専門医だ。急ぎ対応をお願いしてみる」

「頼もしいな。何とか頼むよ……」

 二人が固い握手を交わして別れようとしたそのとき、廊下の隅で妙な気配を感じる。健吾が視線をやると、やはり黒いコートの男が立っていた。

 ——先ほど琴音が倒れる直前にも見かけた、あの不気味な男。切れ長の瞳が、まるで冷たく笑っているかのようにこちらを見据えている。

 健吾は反射的に足を踏み出すが、男はすぐに背を向けて角を曲がるように消える。まるで、状況を監視しているかのようだ。

「おい、ちょっと……!」

 思わず呼び止めようと声を上げるが、廊下を折れた先にはもう姿がない。佐久間が「どうかした?」と首をかしげる。

「いや……変なコートの男が……さっき琴音さんが倒れたときもいたような気がするんだ。気のせいかもしれないけど……」

「……言われてみれば、非常口のほうに誰かいたかもな。知り合い?」

「いや、違う。初めて見る顔だし……何か……嫌な感じがする」

 佐久間は苦い表情で、「念のため警備員に話しておくか」と呟く。健吾は頷きながら、やり場のない不安を抱え込んだまま、病院のロビーを後にした。

 秋の夜風が肌を冷たく包み、遠くで鹿の鳴き声が風に乗って微かに聞こえる。闇が深まる奈良の街に、どこか不吉な影が落ち始めている。琴音の目はまだ覚めず、原因すら判明しない。黒いコートの男は一体何者なのか——。

 しかし、今は立ち止まってはいられない。健吾は拳を固く握りしめ、(必ず助ける)という思いを心に刻む。次なる手がかりを求め、祖母のもとへ向かう決意を胸に灯しながら、暗い路地を急ぎ足で歩き出すのだった。


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