Chapter 5 見えざる因縁
1.祖母への依頼
十一月上旬。奈良の紅葉がますます深みを帯び、朝夕の空気が肌を刺すほど冷たくなってきた。けれど、昼間の陽射しはまだ柔らかく、観光客も多く行き交う季節だ。
そんなある朝、穂積健吾は奈良市内の小さな喫茶店のテーブルで、スマートフォンを耳に当てていた。画面に表示されるのは祖母・和江の名前。コールの音が数回鳴ったのち、懐かしいしわがれ声が受話器の向こうから聞こえる。
「もしもし、健吾? 珍しいわねぇ。どうしたの?」
「ばあちゃん、久しぶり。ちょっと訊きたいことがあって……」
店内は朝の静けさとコーヒーの香りが満ちている。他の客は新聞を読んでいる初老の男性と、入り口近くの席でモーニングをとる女性客ぐらい。健吾は少し声を潜め、祖母に切り出す。
「ばあちゃんさ、前に言ってたよね? うちの穂積は物部の家系で、饒速日命を祖神に持つとか……その証拠の古文書があるって」
「そうそう、倉に古い巻物や家系図が残ってるわ。あんた、興味を示したことなかったのに、どういう風の吹き回し?」
祖母の声音には、どこか困惑が混ざっている。健吾は微苦笑しながら、奈良に来た経緯を手短に伝えた。祖母の住む家は東京にあるため、すぐに出向くのは難しいが、とりあえず存在を確かめておきたいのだ。
「実は奈良で調べものをしてて。何かヒントが欲しくてさ……ばあちゃん、もし写真か何か残してたら送ってくれないかな?」
「写真ねぇ……いいけど、あまり深入りするもんじゃないよ。あの血筋を辿ると、ロクなことにならないって、昔から言われてるんだからね」
祖母の言葉に、不意に胸がざわつく。血筋を辿るとロクなことにならない——物騒な響きだが、健吾は構わず「大丈夫、ただ資料として見たいだけ」と答え、会話を切り上げた。
電話を切った後、健吾はグラスの水を飲み干し、思考を巡らせる。穂積氏と饒速日命。なぜか卜部琴音の「物部氏」との繋がりも頭をかすめ、漠然とした歴史の底が見えかけるような不安と好奇心が混在する。
2.大神神社参拝と三輪山登拝の計画
翌週の朝早く。健吾は琴音と連絡を取り合い、「せっかくだから大神神社に行ってみよう」という話になった。琴音も幼い頃に何度か訪れた記憶があるらしく、三輪山がご神体として祀られている由緒を知ってはいるものの、まともに登ったことはないと言う。
「でも、三輪山登拝って、けっこう厳粛なんでしょう? ルールとかもあるって聞きました」
琴音は薄手のコートを胸元で掴み、朝の冷たい空気に肩をすくめる。
「うん。朝8時から12時までに入山して、14時以降は無理みたいだし……。水以外の飲食はダメとか、撮影禁止とか、いろいろ気をつけなきゃいけないって」
健吾はネットで事前に調べていた情報を口にする。山頂まで登るのはかなりの行程だが、琴音の体調を考慮すれば、往復1時間ほどの序盤だけ覗くのも良いかもしれない。
「じゃあ、あんまり無理せず……三光の滝とかいう場所で折り返すのはどう? そこなら小一時間程度らしいよ」
「三光の滝……聞いたことある。昔は滝行も行われてたって……」
「今はできないみたいだけどね。でも、清浄な空気が楽しめるらしい」
そんな話をしながら、二人は朝の大神神社を目指してタクシーに乗った。奈良市内から桜井市の三輪地区までは小一時間ほど。紅葉の色づく山々を眺めていると、少しずつ三輪山の特徴的な稜線が目に入ってきた。
3.大神神社到着
大神神社に到着すると、広い駐車場があり、二の鳥居の手前でタクシーを降りた。深い緑の樹々が生い茂る参道へ足を踏み入れると、確かに背筋が伸びるような清々しい空気が満ちている。
琴音はその場で深呼吸して、小さく吐息を漏らした。
「なんだろう……ここだけ空気が違う感じ。息がすっと通るというか……」
「だよね。三輪山自体がご神体だっていうし、神聖な場所だからなんだろうな」
拝殿へ至る参道をしばらく歩くと、老木が並び、玉砂利が敷かれた道が大きく広がっている。朝の陽射しが木漏れ日となって地面に模様を描き、数名の参拝者が静かに手を合わせていた。
二人も拝殿の正面へ回り、まずは軽くお参りする。賽銭を投じ、「幸御霊奇御霊神ながら守り給え幸わえ給え」と唱え言葉を三度二人で唱和し、深々と二礼し二拍手した後、手を合わせ、健吾と琴音は目を伏せて祈る仕草を取る。そして一礼する。
「……私、実はずっと体が弱いから、今こうしてここに立ってるのが嘘みたい。でも……健吾さんと一緒にいると、少し勇気が出るんだよね」
あまりにも素直な言葉に、健吾は照れながら笑い、声を落とす。「そっか……。なら、ちょっとでも楽しく登れるといいね。無理しないで、しんどかったらすぐ言って」
参拝を済ませた後は拝殿の左手の道を進みその先にある狭井神社へ行き、登拝の受付をする。社頭で登拝の注意事項やルールを聞き、簡単な記帳を済ませてから、首から下げる布製の登拝証を受け取った。琴音はそれを胸にかけ、何だか少し照れ臭そうに笑う。
「本当に行くんだね、三輪山……。私、神社でこんな手続きするの初めてかも」
「俺も初めて。自分の脚力が心配だけど……とにかく出発しよう!」
4.三輪山登拝
静かな山道に足を踏み入れると、途端に空気の温度が下がったように感じる。木々が生い茂り、朝の斜光が葉の隙間から差し込む。その景色はどこか荘厳で、まるで自然そのものが神であることを示すようだった。
「うわ……空気、冷たいね」
「うん……でも気持ちいい。大きく呼吸すると胸がすーっとする」
琴音は歩き始めて十分ほどで、少し息を整えるように立ち止まる。健吾も無理はさせまいとペースを落とし、「焦らなくていいよ」と促す。道の脇には苔むした岩や根が絡まった階段状の斜面がある。ときどき立ち止まり、木々の向こうを眺めると、まるで別世界に入り込んだ気分になる。
そして約二十分ほど上ったころ、目的の三光の滝へ至る分岐道が現れた。昔は修行者の滝行もあったというが、今は禁止されている。その滝の周辺には簡易な腰掛けが置かれ、小さな休憩所のようになっている。
「ここが三光の滝か……意外と小ぶりな滝だけど、綺麗だな」
健吾が目を凝らすと、岩肌の上から細い水が流れ落ち、霧状に飛沫を漂わせている。滝の音はささやかだが、確かな水の息吹を感じさせる。琴音は涼やかな空気を味わうようにそっと近づき、ほのかな水音に耳を澄ます。
「なんだか……心が浄化される感じ。滝の水がきらきらして綺麗……」
「少しここで休憩しようか。せっかくだから滝をゆっくり眺めて帰ろう」
琴音は頷き、ベンチに腰を下ろして息を整える。森林の匂いとわずかな水のミストが肌を撫で、まるで心身を洗い流すような清涼感が胸に広がる。二人は言葉を交わさなくても、何かを分かち合うように滝を見つめていた。
やがて下山を始める。苔の生えた岩場が滑りやすくなっている箇所もあり、琴音が慎重に足を運ぶが、枯れ葉を踏んだ瞬間にバランスを崩した。
「きゃっ……!」
軽い悲鳴。足が滑った琴音が転びそうになるのを見て、健吾は慌てて腕を伸ばす。間一髪、琴音は健吾の腕にしがみつく形で倒れ込みを免れた。
「だ、大丈夫? 足、ひねらなかった?」
健吾は息を呑む。琴音の身体は思ったより軽く、そのまま胸に抱き寄せられた格好になり、心臓が早鐘を打ち始める。琴音も耳元が赤く染まっているのがわかるほど、はっとした表情で固まった。
「ご、ごめんね……助かった……」
「い、いや、こっちこそ……危ないから、ゆっくり降りよう」
二人は言葉を失いそうな気まずさと、心の底で生まれる甘いときめきを同時に感じ取る。ほんの数秒のことなのに、鼓動がやけに大きく響き、静かな山道に二人分の息遣いが溶けていった。
何とか無事に下山し、登拝証を返却したあと、境内へ戻った二人は茶屋で少し遅めの昼食を済ませると、タクシーを拾うまでの間、山の辺の道の入口あたりを散策した。
紅葉に染まる散歩道の先に古い石碑があり、ここから天理の石上神宮まで続くということを示す案内が立っている。
「山の辺の道って、古代からある日本最古の道なんだって。三輪山と石上神宮を結ぶ、物部や穂積の流れにも関係あるかもしれない……」
健吾がそんな話をすると、琴音は興味深そうに目を丸くする。
「物部と穂積って、同じ饒速日命を祖神とする一族なんでしょ? もしかしたら、健吾さんの先祖もここを通ったのかな」
「かもね。ばあちゃんが言ってた古文書、気になるな……。俺の家にも、物部と同じ血が流れてるって話、まだ半信半疑だけど」
どこか遠い昔に繋がる道の風景を見つめながら、二人はしばし無言で歩く。風に揺れる落ち葉がカサリと音を立て、陽が傾き始めると、里山の影が長く伸びていった。
そして、ふと琴音が立ち止まってほほ笑む。
「このへん、静かで……なんだか時間が止まってるみたい。さっき倒れかけたときはびっくりしたけど……」
「ほんとに。もし俺がいなかったら、危なかったね……」
健吾がからかうように言うと、琴音は小さく頬を膨らませて「もう……」と笑う。その仕草が妙に可愛らしく、健吾の胸はまたドキリとする。死の呪いを抱えていると語っていた彼女が、こんな柔らかな表情を見せるのは久しぶりだ。
(俺はまだ何も知らない。物部・卜部×穂積×蘇我の因縁がどう繋がるかも、よくわからない。でも……琴音と一緒にいられるなら、それを知る価値はあるんだろう)
そう心中で呟き、健吾は軽く頭を振る。遠くの山あいから風が吹き、枯れ草の匂いを運んでくる。そろそろタクシーで奈良市内へ戻る頃合いだ。
5.帰路にて
夕方、二人はまた大神神社の駐車場に引き返し、タクシーに乗り込んだ。車窓に広がる三輪山の姿が、薄い朱色の夕焼けに照らされている。琴音は静かに窓越しに山を眺めながら「神様、ありがとう」と呟くように言った。
「健吾さんと一緒に山を歩けるなんて、私には夢みたい。これから……もっと強くなりたいな」
「大丈夫、きっとなれるよ。俺も手伝うし、無理しない程度にね」
そんな何気ない会話の裏で、饒速日命の血を引く穂積健吾、そして物部氏に連なる卜部琴音という因縁が、ひそやかに絡み合い始めている。彼らを待つ運命を、いまだ誰も正確には知らない。
だが、このときふと健吾のスマートフォンが振動し、祖母から一通のメールが届いた。
――「古文書の写真を撮ってみたから、少しずつ送るね。気をつけてね」
短い文面とともに添付されている写真には、古びた書物に「饒速日命、穂積家の由緒」と墨書きされた表紙が写っていた。
(本当に、穂積氏も物部と同じ祖神を持つのか……?)
胸をざわつかせる疑問の種が、じわりと芽を出し始めた瞬間だった。車は夕闇のシルエットを背に、ゆっくりと走り出す。窓の外を流れる三輪山が、夕陽に抱かれて静かに沈んでいく。
そして、二人はまだ気づかない。見えぬ因縁が徐々に形を取り、迫りくる闇が琴音の命を脅かす日に近づいていることを。三輪山に感じた神聖な空気が、彼らを護る力となるのか、それとも何らかの試練を暗示するのか——その答えは、やがて苦しい現実の形をとって目の前に現れるだろう。
車内の沈黙を破るように、健吾と琴音は笑い合いながら今日の登拝を振り返る。だが、二人の穏やかな笑顔の背後で、因縁の歯車がゆっくりと回り始めていた。次の瞬間に待ち受ける痛ましい試練は、まだ誰にも見えないまま——。