Chapter 4 深まる秋と奈良巡り
1. 秋の行楽1――長谷寺で紡がれる想い
まだ朝の冷たい空気が残る頃、近鉄奈良駅で穂積健吾と卜部琴音は待ち合わせをしていた。健吾が半ば強引に琴音から一日行楽に行く約束を取り付けたのだ。健吾には琴音の体調が気になるものの、自分の人生を諦めかけているような彼女の沈んだ心がより心配だった。その気分を晴らそうというのが狙いだ。
まずは近鉄奈良駅から電車を乗り継いで桜井市の初瀬方面へ向かおうという計画だ。
目的地は長谷寺。10月中旬から紅葉が少しずつ始まっていると聞いていたので、健吾が提案したのだ。
「おはようございます。穂積さん。今日はよろしくお願いします」。二人ちょうど同時に待ち合わせ場所に着いて、琴音が朝の挨拶をしてきた。「誘ってくれてありがと、穂積さん。いろいろと気を遣わせちゃって……」
「いいんだ。俺も色々行きたいし……そうだ、 “健吾”でいいよ。“穂積さん”は何だか他人行儀だし、俺だって“卜部さん”じゃなくて“琴音さん”って呼びたい」
その言葉に琴音は頬を染め、一瞬だけ視線を伏せる。どこか照れくさく、でも嬉しい。学校でも男友達はほとんどいなかったから、こういう距離感は初めてだ。
(普通の女の子だったら、素直に喜んでいいのかな……でも、私には時間が……)と胸が疼く。しかし、それでも健吾の言葉はじわりと温かい。
「……じゃあ、私も“健吾さん”って呼ぶね。改めて、よろしくお願いします」
人もまだまばらな駅前で、二人はその言葉を交わす。わずかに距離がさらに縮まったのを感じながら、琴音は心の奥に生まれつつある柔らかな感情を噛みしめていた。
車中で「長谷寺って“花の寺”なんだってね。四季折々に花が咲くとか……いまは紅葉も始まる頃らしい」と、健吾が期待に笑顔を輝かせて言う。
「うん、私も写真で見たことあるけど、舞台造りの本堂が有名だって……実際に行くのは初めて」
琴音は車窓の景色を眺めつつ、小声でつぶやく。さまざまな緑の向こうに、山裾が赤や黄へと染まりはじめているのが見える。穏やかな秋晴れの空に、白い雲が流れていた。
乗り継ぎも含めて1時間と少しで最寄り駅へ到着し、そこから徒歩で参道を進む。山あいの坂道には土産物屋や茶屋が並び、寺へ続く石段が見えてきた。秋風は心地良いが、琴音の体調を考えてペースを落としながらゆっくり登る。
「疲れたら言って、無理しなくていいから」
「うん、ありがとう。でも今日は……なんだか調子がいいかも。外の空気、気持ちいいし」
そう言いながらも、琴音は時折胸を押さえて浅く呼吸する様子を見せる。健吾は気づくたびに心配そうに覗き込むが、琴音は「大丈夫」と笑顔を作る。その笑みは決して暗さだけではなく、少しだけ前向きな意志も混ざっているようだ。
境内へ入ると、本堂へ向かう回廊が現れた。周囲の木々はまだ緑が残るが、ところどころ鮮やかな赤や黄が差し色のように散らばり、所々でモミジがひらりと落ち葉を舞わせている。
本堂は舞台造りの懸造で、眼下に広がる景色を見渡せる。その眺望に琴音は思わず目を輝かせた。
「わあ……すごい、きれい。こんな高さなんだ……」
「確かに絶景だね。紅葉が進んだら、もっと鮮やかなんだろうなぁ」
二人で舞台の縁から見下ろすと、初瀬の里と山並みが一望できる。視界を遮るものは少なく、青空と柔らかな雲が悠々と流れていく。程よい観光客がいるものの、さほど混雑していないため、静かにこの景色を味わえた。
「私……こういう場所、あまり来たことなくて。でもお寺って、心が洗われる感じがするね」
「そうだね。……俺たちの祖先は仏教排斥派だったかもしれないけど……」と苦笑しながら健吾はふと思い出して口にする。物部氏が仏教受容に反対した豪族だった、と資料で読んだばかり。琴音は少し驚いた顔をし、
「あ……そうか、物部はもともと仏教に反対してたって……でも、こんな美しいお寺を見たら、どう思ったんだろうね。きっと、いろんな歴史があって変わっていったんじゃないかな」
二人はなんとなく気まずく笑い合う。過去の人々の争いは今となっては遠い出来事。それより何より、この静謐な空間に身を置けば、敵対とか排斥とか、そんな言葉が嘘のようだ。
しばらく舞台の縁に腰掛け、穏やかな山風を浴びながら一息つく。琴音は木の柱に手を触れ、
「実際に見ると仏像とか建築って、本当に美しくて……なんか、不思議と落ち着く。私、神社派かと思ってたけど、お寺も悪くないかも」
「ほんとだよね。俺も政治とか歴史とか抜きに、単純にすごいなぁって思う。あと……一緒に来られてよかった」
ふとその言葉に琴音が頬を染め、「私も……」と呟く。遠くで風が木々を揺らし、散り始めた落ち葉がひらひら舞う。二人の距離はほんの数センチだけど、その心がそっと重なり始める瞬間が確かにそこにあった。
2. 秋の行楽2——春日大社での小さな“きゅん”
長谷寺を後にし、近鉄線を乗り継いで再び奈良市街へ戻ってきたが、まだ夕刻には時間があった。そこで健吾が「春日大社にも行ってみる? まだ開いてるし」と提案する。琴音は少しだけ疲れ気味だったが、「もうちょっとだけ大丈夫」と笑顔を見せ、二人はタクシーで春日大社の境内へ向かった。
奈良公園を横切って到着すると、少し観光客が減ってきていて、境内の奥は静かな雰囲気が漂う。朱塗りの社殿にほんのり西日が射し、砂利道には落ち葉が舞い落ちていた。
「ここは“有料拝殿エリア”とかがあるんだよね。佐久間が言ってた。観光客も少なくなるから落ち着いて参拝できるって」
「普段、あんまり意識したことないけど……こういう神社は奥が深いんだろうな。十二社とか小さな社がたくさん並んでるって聞いた」
社務所で拝観料を納め、御本殿へと続く回廊を歩く。なだらかな石段の先に拝殿があり、その右奥には並び立つ小社群が見える。風が吹くたびに木立の葉が落ち、足元をくすぐるように転がっていく。
静かな拝殿の前で鈴を鳴らし、健吾と琴音は並んで二礼二拍手一礼を行う。閉まりかけの本殿からは穏やかな神官の姿が見えるが、他の参拝客はほとんどおらず、まるで貸し切りのような空気感だ。
「こういう場所で祈ると、心が洗われるなぁ。いいこと、あるといいね」
「……うん。健康とかね、いろいろ」
琴音は穏やかに呟き、胸の奥で自分の命の行く末を祈る。健吾もそんな彼女に気づきながら、心の中で「どうか、この人を守ってください」と願っていた。
拝殿を出て境内をさらに奥に進むと、ひな壇状に小さな社がずらりと並び、それぞれに別の神様が祀られている。二人は順路に沿ってひとつひとつ小さなお社へ手を合わせて回る。“十二社参り”と呼ばれるコースらしいが、時間帯もあって人影がほとんどない。
「ずいぶんたくさんあるんだね。…ちょっと面白い。こんなに回ったらご利益が増えそう」
「たしかに。欲張りかもしれないけど、お願いしたいこといっぱいあるし。俺も琴音さんが元気になりますように、とか、自分の今後の仕事とか……」
冗談めかして笑い合うが、お互いの胸にはそれぞれ切実な祈りが宿っている。琴音にとっては「死の運命」から逃れたいという内心の悲痛。健吾にとっては「彼女を救いたい」という願い。
そろそろ参拝コースを歩き終えるころ、二人は境内に置かれたおみくじを引いてみることにした。硬貨を賽銭箱に落とし、おみくじの箱を振ると、カランと音を立てて細長い棒が転がり出て記された番号のみくじを引き出しから探して取り出す。
「俺、大吉だ……。え、珍しいな」
「わ……私も大吉……そんなことあるのかな」
琴音は目を丸くし、二人で顔を見合わせて一瞬沈黙する。大吉×大吉の偶然。そこには「出会いが幸福をもたらす」とか「思い焦がれていることが近づく」とか、まるで恋愛運を示唆する文言が書かれており、琴音は赤面してしまう。
「な、なんだか気恥ずかしいね……」
「……でも、嬉しいかも。希望を持てるってことかな……俺たち」
健吾の言い方に、琴音は心臓が跳ねる。思わず「わ、私たちって……」と戸惑いかけるが、健吾が笑って「違う違う、変な意味じゃなくて」と手を振る。
そのやりとりにお互い照れて、自然とくすくす笑い合う。こんな些細な偶然が一瞬で二人の心を浮き立たせるのが、なんとも甘酸っぱい。まるで十代の初恋のようで、琴音は少し心が軽くなるのを感じた。
3. 夜の若草山——ふたつの孤独が触れ合う
陽が落ちてきた頃、健吾は「もう少しだけ行きたいところがある」と琴音をタクシーへ誘う。目的地は若草山。奈良公園の奥にある芝生の山だが、夜景スポットとしては地元の隠れた名所だと聞いた。
秋の夜風が冷えるため、琴音が無理しないか心配だったが、彼女は「ちょっとだけなら……」と微笑んでくれた。タクシーの車窓から夜の街並みが見えてくると、鹿の姿が闇に紛れているのがちらほら視界をかすめる。
やがて舗装された山道をゆっくり登り、頂上近くの展望スペースへ到着。ドアを開けると冷たい空気が一気に入り込み、琴音はマフラーをぎゅっと握る。
「わ……結構寒いね。けど、きれい……」
「うん。ほら、奈良市内の街灯が一望できる。……ここ、あんまり観光客いないから、穴場なんだって佐久間が教えてくれたんだ」
簡易展望台のような柵の前に立ち、二人は奈良の夜景を見下ろす。遠方にはうっすらと橙色の街の灯が続き、空には星がちらほら。闇に溶ける鹿の影が足元を通ると、琴音は思わずくすっと笑う。
「奈良って本当に鹿が多いんだね。夜までふらふらしてるなんて……」
「家族連れよりも鹿のほうが多いかも。……あ、でも今日は俺たち以外誰もいないな」
一帯は静寂に包まれ、時折吹く風が木の葉をさざめかせる音だけが聴こえる。健吾は少し意を決したように、琴音の肩にジャケットをかけた。
「風、冷たいから……」
「ありがとう。……ごめん、せっかく案内してもらったのに、私、あんまり体力なくて……」
「そんなの気にしなくていいよ。むしろ、来てくれて嬉しい」
照れくさそうに笑う健吾。琴音は胸がきゅっと締まるほどその笑顔に安心感を覚えながら、ふと小さな声で口を開く。
「私……実はずっと身体が弱くて、母も若くして亡くなったの。だから、正直、自分も長く生きられないんじゃないかって……ずっと怖かったんだ」
闇夜に浮かぶ琴音の瞳には、うっすらと涙が滲んでいるようにも見える。健吾は静かにその言葉を受け止め、「そっか……」とだけ言う。
「でも、俺だって……両親を早くに亡くしたんだ。だから家族のぬくもりとか、普通に暮らせる幸せっていうのが、どれだけ貴重か痛いほど分かる。……琴音さんの気持ちを完全には分からないかもしれないけど、少しは想像できる気がする」
健吾の声が震え、琴音は思わず俯く。自分の不幸を他人に理解してもらうなんて思っていなかったけれど、こうして少し共有できるだけでも救われる気がする。
「ごめんね、重い話。……でも、誰かに聞いてほしかったのかも。死ぬかもって思うと、普通の生活すら怖くて……恋とか、そんな余裕もなかったし……」
「恋……か。俺はさ、官僚辞めたとき、いろいろ吹っ切れたはずだったんだけど、結局自分がどう生きたいのか分からなくて……。だから、奈良に来たことも一種の気まぐれだったかもしれない。でも、不思議と後悔してない。特に、琴音さんと出会ってからは、なんか……世界が少し色づいた感じがするんだ」
夜景の淡い光が、二人のシルエットを静かに照らす。琴音は涙を拭いながら、健吾がくれたジャケットを握りしめる。
「私こそ……あの時街で倒れかけたとき、穂積さん——じゃない、健吾さんに助けてもらって……すごくほっとしたの。変だよね、まだ知り合ったばかりなのに」
「変なんかじゃないよ。俺だって、あのときすごく心配で……あ、いや……偉そうに言えないけど、もっとあなたのことを知りたいって思った」
視線が重なり、一瞬息が止まるような時間が流れる。琴音は小さく笑みをこぼし、ほんのわずかに健吾の腕に寄り添う。二人きりの夜の山頂、鹿の遠い鳴き声が背景に溶けるだけだ。
「ありがとう、健吾さん。……少し勇気が出た。私も、あともう少しだけ生きてみようって思うよ」
「“あともう少しだけ”じゃなくて、ずっと生きてよ。……俺、あなたのこと守りたいし……一緒に笑い合いたい」
琴音の胸に強い鼓動が広がる。こんな大それた言葉を、今の自分が受け取っていいのだろうか。でも、拒絶できない。頑なだった心が、健吾のまっすぐな瞳に溶かされていくようだ。
「……ありがとう。もう少しだけ、この景色を見ていたいな」
二人は肩を寄せ合って夜景を見下ろす。上空には星が淡く瞬き、下界には静かな光の海が広がっていた。秋の深まる気配に、少しずつ風が冷たさを増していくが、その中で二人の心はどこか温かい。
——これまでずっと孤独を抱えてきた琴音と、道に迷いながらも優しさを失わない健吾。若草山の夜空の下で、それぞれの痛みと希望が初めて重なり合った瞬間だった。
4. 明日へ向かう二人の想い
帰り道、タクシーの中で琴音は目を閉じ、健吾の肩にもたれるように小さく息をつく。心地よい疲労感とともに、胸が満たされていた。
(私、こんなに人と一緒に出かけたの、いつ以来だろう……。しかも、こんなに楽しくて嬉しい気持ちになるなんて……)
健吾も黙って琴音の方に手を伸ばしかけるが、遠慮してやめる。彼女の寝顔を見ていると、儚げな美しさが胸を切なくさせる。
——本当に琴音が呪いを抱えているのだとしたら、どうすれば救えるのか。自分の先祖にも何か関わりがあるのなら、何としても解き明かしたい。それが、健吾の新たな決意だった。
夜が更け、二人はそれぞれの家で休むことになるが、その胸にはあたたかな灯りがともっている。長谷寺の美景、春日大社のおみくじ、そして若草山の夜景——すべてが彼らの距離を深く近づけた一日だった。
「また明日も、明後日も、あなたと一緒にいたい……」
琴音はそう呟きながら布団に入る。どこか自分でも驚くほどの高揚感。死の影がぬぐい去られたわけではないのに、今だけはその恐怖を忘れてしまえる。
一方、健吾は狭いビジネスホテルの部屋で荷物を整理し、これまで調べてコピーした資料を見返しながら「絶対に守る」とつぶやく。自分の穂積家が琴音と同じ物部の血を引いているのなら、それはきっと無縁の話じゃない——何としても答えを見つけたい。その時、再びあの不吉な古代の戦場の夢を見るかもしれないが、もう逃げる気はなかった。
秋の夜は静かに深まり、奈良の古都も闇に包まれていく。
しかし、二人の絆は確かに芽生え、琴音も健吾も、明日へ向かう思いを強くしていた。そんな彼らの幸せを、古代の因縁がじっと狙っているとは、まだ誰も知る由もない。