Chapter 3 卜部家に漂う影
1. 古き家の息遣い——静香の視点
早朝、秋の風が冷ややかに瓦屋根をかすめ、静かな住宅街の一角に佇む木造の家。その玄関先には苔むした石畳が続き、周囲を低い石垣に囲まれた卜部家の古い屋敷がしんと息を潜めている。
屋敷に住む卜部静香は、朝の支度を終えると、仏間の襖をそっと開けた。畳敷きの床に正座し、香を焚いて一対の位牌へ向かい手を合わせる。
「どうか……琴音をお守りください。あの子が、少しでも長く生きられるように……」
静香は心の中で懸命に祈る。位牌には、静香の双子の妹、つまり琴音の母である卜部鈴子の名と、そのさらに上の世代、祖母の名が並んでいる。まるで母娘代々若くして亡くなった系譜が、この空気を重く圧し掛かってくるようだ。
静香は42歳。卜部家に生まれ、琴音の母と二卵性の双子として育った。しかし、妹の鈴子は琴音を出産してすぐに命を落としている。静香自身も若いころに子宮癌で手術を受け、出産の可能性を断たれた。
だからこそ、妹の娘である琴音を、まるで自分の子のように慈しんできたのだが——卜部家の女たちはみな、二十代で逝ってしまうという不吉な“呪い”に囚われている。静香はそれを痛感しているからこそ、絶えず琴音の命を案じて祈り続けているのだ。
(私だけが、こうして長く生き延びてしまったのは、子宮を失ったからなのかもしれない。あの一族の血を繋ぐ役割を果たせなかったから、呪いを免れた……なんて。あまりにも皮肉でしょう?)
静香は立ち上がり、襖をそっと閉じる。仏間を出て廊下を進むと、古い梁の木目がじんわりと朝の光を浴びている。何十年、いや百年以上も前から、この家は同じ姿で家族の営みと死を見届けてきたのだろう。
部屋の奥から、琴音が起きる物音がする。いつもより少し遅い時間だが、今日は特に仕事でもない。昨日、琴音が外出先で倒れかけたと聞いていた静香は、不安を抱えつつもそっと見守ることしかできない。
「あの子をどうにか救えないものか……私は、調べるしかないよね」
静香はそう呟き、居間の隅に置いてある小さな木箱を開けた。中には古いメモ書きや写真、さらには何冊かのノートが入っている。そこには卜部家の血脈や、物部氏の伝承について、静香なりに調べた断片が書き留められていた。
福祉課職員として働く合間に、図書館やネットで必死に検索して集めたものだが、やはり決定的な解決策は見つからない。たまに「呪術」や「先祖の祟り」じみた情報を目にしても、それが本当に琴音を救う術になるのかどうか分からない。現実的には医学的な支援が必要だと頭では理解しているが、琴音の病院通いでは原因が分からないままだ。
(子宮を失った私には、もう卜部の血を繋ぐ役割は負えない。だからこそ、あの子だけは……と思うのに……どうすればいいの……)
奥歯を噛みしめ、静香はノートを閉じる。外では風に揺れる柿の木が、朱色の実をゆらゆらさせていた。深まる秋とともに、琴音の命の灯火は果たしてどうなってしまうのか——不安ばかりが募る。
2. 福祉課の合間に——静香の日常
その日の午後、奈良市役所・福祉課のデスクに座った静香は、書類とパソコンを相手に淡々と仕事をこなしていた。生活保護の相談や介護サービスの案内など、業務は多岐にわたるが、静かに黙々とこなす性格ゆえに同僚からの信頼は厚い。
夕方近くになると、同僚が雑談まじりに静香へ声をかける。
「卜部さん、今日は残業になるの?」
「はい、月末は事務が重なるので……」
「そう……そういえば卜部さん、奈良の古い家に住んでるんですよね。むかし、おばあちゃんが言ってたんだけど、物部とか卜部とか、なんだか古代の豪族の血筋がうんぬんって……」
「ああ……まあ、そう言われてるけど、うちもただの一般家庭ですよ」
言葉を濁す静香。同僚は興味深そうに「ふーん」と頷き、あまり突っ込んではこないが、その視線には好奇心が宿っている。静香は愛想笑いでやり過ごし、デスクに視線を戻した。
(私は仕事でもきちんと責務を果たしてきた。でも、家系のことまでは誰にも分からないし、話したいとも思わない。誰に分かってもらえるはずがない、あの呪いを……)
実際、双子の妹を亡くし、妹の娘を育てているなどと話しても「大変ね」の一言で済まされるだろう。ましてや “早世の呪い” など、仕事仲間に話すわけにもいかない。
書類を整える手を止め、静香はふと天井の蛍光灯を見上げる。この仕事が終われば夜。帰宅して琴音の顔を見れば少しは安心できるだろうか……。
3. 蔵の記憶——古文書の片鱗
翌朝。静香は少し早めに起き、琴音を残して一人で蔵へ向かった。屋敷の裏手に建つ古い土蔵は、壊れかけた木扉が錠で留められ、滅多に開けることはない。
その奥には、卜部家に伝わる古い家系図や古文書が眠っている。静香はそれを幼いころ祖父から見せられた記憶があるが、その内容は半ば伝説じみていた。
扉を開き、埃が舞う空気の中に入る。段ボールと古めかしい木箱が積み重なり、薄暗い窓からは蜘蛛の巣が垂れている。静香は懐中電灯を片手に奥へ進むと、隅に置かれた箱をそっと開ける。
「……これね。饒速日命や物部の文字が書かれた巻物。あの子にはまだ、見せたくない」
かつて琴音が子供のころにちらりと目にして、「怖い夢を見た」と泣きじゃくったことがある。文字も読みづらいし、何より “物部氏と卜部家の宿命” を琴音が知ったところで、救いにはならないと思ったから、静香は封印する形で蔵に閉まっているのだ。
しかし、最近の琴音の体調不良を見るにつけ、静香自身も「もう手の打ちようがないなら、何か手がかりが載っているかもしれない」と思わずにはいられない。
(でも、琴音が知ったらどう思う? もう死を受け入れてしまうかもしれない。何もできなくなるかもしれない。……そんなのは嫌だ)
静香は複雑な表情を浮かべ、巻物に手を伸ばしかけるが、結局開かずにそっと蓋を戻す。まだ心の準備ができない。血塗られた歴史に触れた先で、何か呪術や祟りの真実があるのかもしれない——だが、それはあまりにも恐ろしい。
「……どうか、何事もなく、琴音が生きてくれれば……それだけでいい」
小さく独り言ち、蔵を出る。背後で扉を閉めるとき、木々のざわめきが耳に入った。ざわざわと風の音が増幅し、まるで何かが蔵の奥からうごめくような不吉な感覚が静香の胸を叩く。
振り払うように鍵をかけ、敷石を踏み鳴らして屋敷へ戻る足取りは、妙に重かった。
4. 『見てはいけない』と言われた紙束——琴音の葛藤
同じ朝、琴音はいつものように早起きこそできず、寝ぼけまなこで廊下へ出てきた。静香の姿が見えないので「叔母さん、もう仕事?」と呟きながら居間へ向かうと、開け放たれた障子の向こうに靴の気配がする。
静香が玄関に回ってきたようで、「行ってくるわ」とだけ短く言った。琴音は「いってらっしゃい」と返事をするが、その声はどこか上の空だった。
(最近、身体のだるさがずっと続いてる。貧血も良くならないし……このままじゃいつか本当に倒れて、そのまま帰らぬ人になってしまうのかも……)
少し前に、町で出会った穂積健吾の優しい声を思い出すと、胸がちくりと痛む。健康な人生を送れるなら、もっと普通に恋のようなものを楽しめたかもしれないのに……。そんな淡い夢を抱きつつ、自嘲する気持ちも芽生える。
「……でも、可能性がゼロというわけじゃないでしょ? 何か、方法があるなら……」
小さく呟きながら、琴音はふと思い出す。幼いころ、蔵でちらりと見た紙束。そこには難しそうな漢字で「物部」「饒速日命」などの言葉が並び、恐ろしくて夜も眠れなくなったのだ。けれど、もしそこに自分の運命に関わる情報があるのだとしたら……?
(叔母さんは “まだ見ちゃダメ” と言ってたけど、もしあれが呪いを解く手がかりになるなら……)
琴音は廊下に立ち尽くし、蔵のある裏庭のほうに視線を投げる。扉は閉められており鍵もかかっているだろうが、どうにかすればこじ開けられるかもしれない——と、そんな背徳的な考えさえ浮かんでくる。
しかし、静香の言いつけを破るのは心苦しいし、その結果「何も救いが得られなかった」ら惨めだ。それどころか、古い文書を見て精神的に追い詰められたらどうする?
「……怖い。けど……少しでも手がかりを探したい……」
結局、この朝は動けずに台所へ立った。昨日具合が悪かったせいで、家事も片づいていない。卵を割りながら手が震え、フライパンにぽたりとこぼしてしまう。
(自分には普通の生活すら維持できないのか……)と虚脱感に苛まれながら、琴音は半熟の卵をなんとか火を通して皿に移した。
(それでも……穂積さんに会ったときに感じたあの安心感だけは、本物だったかもしれない。彼、今頃何してるかな……)
思い浮かぶ彼の笑顔に、一瞬心が温かくなるが、またすぐに「どうせ私は長く生きられない」とすぐに冷え込む。この揺れ動く感情が、彼女の胸をかき乱す。
5. “普通の恋愛”なんて、やっぱり無理——琴音の独白
昼過ぎ、洗濯物を干したあと、琴音は縁側に腰を下ろした。ちょうど陽射しが心地よいが、背後の廊下からは冷たく静かな空気が漂ってくる。古い家の木の香りが鼻をくすぐり、庭の片隅には小さな秋桜が咲いている。
「ああ、きれい……でも、もうすぐ枯れてしまうのかな。秋も深まるし……」
花の儚い姿に、自分を重ねてしまう。——数日前に出会った健吾が、「大丈夫?」「無理しないで」と手を差し伸べてくれたとき、どれほど胸が熱くなったことか。彼の声音は優しく、まるで琴音の弱さを肯定してくれるようだった。
でも、そうやって好意を抱いたところで、自分には明日があるかどうか分からない。家を継ぐ使命云々以前に、母と同じ年齢か、それより少し年上になったら死んでしまうのではないか、と薄ら寒い恐怖が離れないのだ。
「ごめんね、穂積さん……もし私がいなくなったら、悲しむよね。でも、もうどうしようもないの」
唇を噛み、視線を落とす。穂積健吾は、官僚を辞めてまで奈良に来たという話をうっすら耳にした。そんな行動力のある真っ直ぐな人と関係が深くなるのは、あまりにも後ろめたい。自分がいずれ死ぬと分かっていながら、彼を巻き込むことになるから。
それなのに、心の奥底では「また会いたい」「話をしたい」という思いが膨らんでいる。普通の女の子なら、そこから恋愛が始まるのだろう。——けれど、琴音は普通の恋愛など夢のまた夢だと思ってきた。
そのとき、廊下を歩く足音が聞こえ、静香が昼の休憩で一度帰宅したらしい。顔を覗かせ、「琴音、大丈夫? 具合は?」と声をかける。
「うん、何とか。……叔母さんこそ、仕事忙しいのにごめんね」
「いいの。……何か気になることがあったら、話してね。あなたには、いろいろ抱え込まないでほしいから」
静香の声は柔らかいが、どこか不安そうでもある。琴音は曖昧に頷くと、何となく目をそらした。
(叔母さんも本当は不安で仕方ないんだろう……。私が母と同じように逝くんじゃないかって。早く健康になれる方法があればいいのに……)
縁側から庭を見つめながら、琴音はひたすら何か“救い”を探すように視線を巡らす。だが、秋の陽射しは穏やかなだけで、その答えを与えてはくれない。
6. 新たな一歩の前に
そんな卜部家の静かな空気のなか、琴音も静香も、それぞれ胸に不安を抱いている。古い家屋には、物部氏の末裔としての歴史が息づき、それがまるで呪いのように彼女たちを締めつける。
静香は蔵に眠る文献を開く決意ができず、琴音は見知らぬ古文書を覗く勇気が持てないまま——けれど、薄々「自分たちには時間がない」と感じ始めていた。
(琴音の寿命は、もしかすると本当に短いのかもしれない。私が今できるのは、何か助かる手段を探すこと。でも、それがどこにあるか分からない……)
(物部の一族とか、饒速日命の末裔とか、そんな伝承が本当に呪いを解くカギになるの……?)
静香の脳裏にさっと蘇るのは、最近やたらと琴音の前に現れると琴音がぽつりぽつりと語った青年の話——穂積健吾と言ったか。彼がもし本当に何か縁を持つ存在なら、あるいは琴音を救う力になり得るのだろうか。
琴音もまた、健吾への想いを捨てきれずに胸を痛めている。「でも、私なんかが恋をしたら、相手を不幸にするだけ……」という思いと、「少しでも彼と時間を過ごしたい」という願いとが入り乱れる。
そして静香は仕事に戻るため玄関を出ていき、琴音はぽつんと屋敷に残される。階段を上がり、古い押し入れに手をかけてみるが、その先に何があるのか分からないので、開く勇気は湧かない。
裏庭の土蔵は鍵がかかり、そこに眠る家系図や古文書も封印されている。卜部家の呪いを解くヒントがそこにあるかもしれないのに、両者とも踏み込めずにいた。
「ごめんね……母さん、おばあちゃん……。私はどうしたら……」
琴音は階段の途中に座り込み、そっと膝を抱える。儚い秋の陽射しが障子越しに伸び、畳を黄金色に染めていた。まるでこの家が永遠に時を止めたまま、来るべき悲劇を待っているような、そんな静寂が漂う。