Chapter 2 それぞれの想い、交錯する足跡
1. 父の足跡と、穂積家のルーツ ——健吾サイド
翌朝、まだ朝日が高く昇りきらないうちから、穂積健吾は奈良駅前に立っていた。昨夜、旧友の佐久間遼太郎と居酒屋で飲みながら「お前が今、調べたいのは何なんだ?」と話し込んでいたが、結局は「先祖のことを知りたい」「父の調査の続きを、この地で追いたい」という結論に落ち着いた。
今朝は、その続きで図書館や資料館を回るつもりだ。まだ街は静かで、人影も少ない。昨日の夕方あたりには、あの喫茶店「古都のしじま」の前をちらっと通ったけれど、卜部琴音の姿は見えなかった。彼女のことも気になるが、今は先に自分のルーツ探しを進めよう。
居酒屋で佐久間と交わした会話を思い出す。
「健吾、お前の父さんって民俗学の教授だったっけ? ずいぶん前に事故で亡くなったとは聞いたが……」
「ああ。父は大学で日本古代史と民俗学を研究してて、特にこの奈良地方を重要視していた。それが研究のために地方を回っている最中、母と一緒に道路事故に巻き込まれて帰らぬ人に……」
「そっか……それで、お前も官僚になった後も何となく、先祖のことが引っかかってたわけだ」
「正直、東京で暮らすうちに忘れかけてたけどね。官僚を辞めて時間ができたら、頭の片隅に燻ってた ‘穂積家のルーツ’ を確かめたいって気持ちが再燃しちゃって……」
“穂積”という名字について、健吾の父は「饒速日命の子孫とされる物部一族の分派かもしれない」という仮説を立てていたらしい。実際、家に残る口伝では「うちは古代の豪族・物部氏と同祖で、神道を篤く信仰していたらしい」と言われて育った。
もっとも、確証はない。父があと少しで論文化しようとしていた頃、あの事故が起きた。健吾はその後、大学に進学し法学を学び、国家公務員試験にも合格した。だが組織の仕事に馴染めず、まっすぐすぎる性分もあいまってトラブルが起きやすかった——というのが退官の真相だ。
「……とにかく、今は自分を見つめ直す旅なんだよな」
健吾はそう呟き、駅前の喧騒がゆっくりと増し始めるのを感じる。ビジネス街へ急ぐ人々の流れと、観光客がバスを待つ列とが交錯し、鹿のイラストが描かれた案内板がちらちらと目に入る。
手にはスマートフォン。「奈良市立図書館」「奈良大学図書館」「県立民俗資料館」——いくつか地図をチェックして、まずはアクセスの良いところへ向かおう。
ちなみに昨夜、佐久間に誘われたのは、彼が経営する医療ベンチャー企業への参画だ。「お前の法学知識と折衝能力、うちに来てくれたら強いぜ?」と熱心に口説かれたが、健吾はまだ曖昧に答えを保留している。
(せっかく官僚を辞めたんだ。今すぐ別の組織に入る気はない。それにまだ、俺は父さんの足跡を追うつもりだし……)
そんなことを考えながら歩いていると、ふと電話が震えた。画面に「祖母」の名。健吾が「もしもし、ばあちゃん?」と出ると、少し心配げな声が聞こえてくる。
「あんた、本当に奈良にいるのね? 昨日電話もらったけど、もうちょっと落ち着いてからでいいんじゃないの……?」
「はは、まだ先祖調べといっても何も進んでないさ。でも少しずつ動いてみようかと」
「父さんのことを掘り返すなら、無理しちゃいけないよ。あのときは本当に大変だったんだから……。ま、あんたが自分で決めた道なら止めないけど」
「うん、ありがとう。——そうだ、ばあちゃんの家にあるっていう古い文献、今度いっぺん見せてもらうから。連絡するよ」
「分かった。くれぐれも体に気をつけてね」
通話が切れると、妙な胸の疼きが残る。父の姿を失って以降、祖母と二人暮らしだった自分。あの無念を振り切るためにも、こうして奈良に来たのだ。組織を飛び出したまっすぐすぎる性格というのは、案外父譲りかもしれない——と健吾は思う。
「さて、じゃあ行くか。まずは図書館で ‘穂積’ に関する記述でも探してみよう」
そう独り言ち、バスに乗り込む。朝の陽射しがガラス越しに差し込み、窓外を眺めれば紅葉の木々がちらほら見える。まるで、千四百年前の歴史が息づいているかのように古都の空気が染み込んでくるのを感じ、健吾は心を引き締めた。
2. 父を知らない幼少期 ——琴音サイド
同じ朝、奈良市内の住宅街にある古い木造の家。卜部琴音は、台所に立って朝食の片づけをしていた。奥からは叔母・静香が「終わったかしら」と声をかけてくる。
「ごめん、もう少し洗い物が……」
「無理しないで。冷えこむから、手荒れには注意しなさいよ。——あ、それと今日、私は市役所のほうで夜まで残業になるかもしれない」
静香は福祉課に勤める公務員。四十そこそこながら、まるで老成したように落ち着いていて、琴音を育ててくれた存在だ。
「はい、分かった。私もちょっと外出するかも。体調次第だけど……」
「どこへ行くの? 喫茶店のバイト?」
「ううん、どうしようかな……昨日、少し気になる人と……じゃなくて、あの……」
言葉を濁す琴音。昨夜はぼんやりと健吾のことを思い出していた。甘味処で交わした会話や、彼のやわらかい表情が頭から離れない。
「どうしたの、琴音? 珍しく顔が赤いわね……」
「い、いや、別に。ちょっと考え事してただけ」
静香はじっと琴音を見つめ、それから小さく微笑む。「変なことに巻き込まれないようにしてよ。体力がないんだから……」
その言葉には、優しさと同時に何か暗い影が潜んでいる。琴音は思わずうなだれてしまう。自分がいつか早死にするかもしれないという、卜部家の呪いめいた宿命。その話はいつも心を重たくする。
■ 父母の記憶
朝食の片づけを終え、古い廊下を歩いていると、ふと居間の壁にかけられた写真に目が止まる。祖母や母の若き日が写ったモノクロ写真が数点。琴音の記憶にはないが、母は琴音を産んですぐに命を落としたと聞く。
“母は二十歳で結婚し、二十一歳で私を産んで亡くなった。祖母もまた若くして……私も同じ運命になるのかな……”
写真の母は笑顔だが、その笑顔の先に続く死という現実を考えると息が詰まりそうになる。さらに、琴音の父もほとんど家に帰らないまま、他の女性と再婚してしまった。琴音にとっては、ほぼ「父を知らない」状態だ。
幼稚園のとき、行事で「お父さんと一緒に」なんて言われても誰も来ない。その寂しさを、静香が頑張って埋めてくれた。だが、男性への苦手意識もそこから育ったのかもしれない。
“でも、昨日出会ったあの穂積さん……初対面なのに、あまり怖くなかった。むしろ優しいと思った。”
そう考えると胸が微かに高鳴る。こんな気持ちは初めてかもしれない。けれど、同時に自分の体が弱いことや短命かもしれない運命を思い出し、背筋に冷たいものが走る。
3. なぜ官僚を辞めた? ——健吾と佐久間の会話
その日の午後、図書館で資料を眺めていた健吾のスマートフォンに、佐久間から連絡が入った。
「今から少し時間できた。お茶でもしないか?」
「ああ、いいよ。ちょうど頭がパンクしそうだったとこだし」
そうして待ち合わせたのは奈良大学の近くにある小さなカフェ。ここは学生もよく利用するが、平日の夕方ということで人はまばら。カウンター席に並んでコーヒーをすすりながら、佐久間がやけに真面目な顔をして切り出す。
「健吾、そっちの ‘先祖探し’ はどうだ? 図書館で何か成果はあったのか?」
「まだざっと文献を見てる段階かな。『物部氏と穂積氏が同祖』って説はいくつかあるけど、決定的な資料は見当たらない。それと、蘇我氏と物部氏の争いの話も興味深かった」
「へえ、蘇我馬子とか蘇我入鹿とかのあれか。教科書でもやったなあ。——で、お前は今後どうするわけ? まさかこれだけ調べて東京へ戻る気でもないだろう?」
「うーん、まだ分からない。祖母の家に古い文献があるらしいし、それを確認しなきゃと思ってる。でも、一度くらいは奈良の各地を巡って、父が辿った道を追体験したいとも思うし……」
「そうか。まあ、俺の会社への話はその後でもいいけど、くれぐれも ‘俺が起業家だから嫌だ’ なんて言うなよ?」
「はは……そんなこと思ってないよ。お前の会社は成功してるみたいだし、誇らしいくらいだ。ただ、今は自分自身の問題を片づけてから、次のステップに進みたいんだ」
健吾はカップを置き、視線を落とす。「——俺さ、官僚になったのはいいけど、まっすぐすぎるせいか上司と合わなかった。法律を守らない政治家とか、汚職まがいの動きとか見ているとイライラしてしまって……結局、組織の思惑と俺の正義感がぶつかり合って、爆発寸前で退官したんだ。父みたいに ‘自分で調べる研究職’ に進めばよかったのかもって後悔してたとこでね」
「なるほどな……」
佐久間は納得したように頷き、「お前が剣道部の頃からそういうストレートさを持ってたのは知ってる。いきなり中心に突っ込んで自滅しかけるタイプ、って感じ?」とからかうように笑う。
「まさにそんな感じだ。だが、今はそれを逆手にとって、自分らしく自由に動きたいって思ってる」
ふと、健吾の頭をかすめるのは「卜部琴音」のことだ。彼女の儚げな笑顔がどうにも気になるが、佐久間に話しても茶化されるだけだろう。——それでも、思わず口を開きかける。
「なあ、佐久間……。もし、俺が ‘この街で気になる女性と出会った’ としたら、お前なら応援してくれるか?」
「おっ、何だよ、急に。……まあ、もちろん応援するさ。お前がそういうモードになるの珍しいしな。もしかして今すでに何かあったわけ?」
「いや、別に……。ただ、ちょっとした偶然で出会った子がいて。彼女、体が弱そうで……でも、惹かれるものがあるっていうか……」
「へえ……まあ、お前は慎重にやったほうがいいぞ。相手にもいろいろ事情があるだろうし」
「だよな……」
曖昧にごまかしたところで、佐久間が笑いを含んだ声で「何なら俺の病院ネットワーク使って診察してあげてもいいぜ?」などと冗談めかす。健吾は「まだ早いって」と苦笑し、話題を切り上げた。
4. “事件”が起こる路地 ——軽い貧血の真実
翌日、天気はよく晴れ渡り、奈良町の路地には温かい日差しが注いでいた。健吾は午前中から資料館を回り、昼を過ぎたころ、一休みしようと人気の少ない裏道を歩いている。町屋カフェでも探そうかと思いつつ、道を曲がった瞬間、見覚えのある後ろ姿があった。
(……あれは、琴音……?)
淡いニットにロングスカート、手には小さな紙袋を下げている。すぐに声をかけようかどうか迷ったが、彼女は足早に歩いていく。慌てて追いつこうとすると、ちょうど路地の角で彼女がふらりと足を止めた。
「……あ……」
見る間に、琴音の上半身が揺れ、足元が崩れ落ちるようになる。健吾は咄嗟に駆け寄り、その身体を抱きとめた。
「大丈夫か!? 琴音さん……!」
びっくりして名を呼んだが、彼女は耳鳴りがするのか目をしばたたきながら息を荒げている。
「……すみません……急に目が回って……」
「立てる? ほら、ベンチ……いや、壁際に座ろう、そこに」
近くの石段に琴音を座らせ、健吾は「ちょっと待ってて」と言って自販機まで走り、水のペットボトルを買って戻る。琴音はその間に呼吸を整え、額の汗を拭いていた。
「ありがとうございます……また、こんなところを見られてしまって……」
「いや、そんなことより、今は体を休めないと。……どう? 動悸は落ち着いた?」
琴音は弱々しく頷く。「だいぶ楽です。……昔から貧血がひどくて、突然意識が遠のく感じになるんです」
「そっか……。病院へ行かなくていいの?」
「……今は大丈夫。そんなに大事にするほどじゃ……すみません、本当に」
目を伏せる琴音の顔色は青ざめているが、少しずつ息が整ってきた様子。健吾はそっと彼女の背中に手を添え、「俺の知り合いに医療関係者がいるから、必要なら紹介するよ」と口走る。佐久間のことだ。
「医療関係……? あ、いえ、気持ちはありがたいんですけど……慣れてしまってて……大げさにしてもらう必要はないんです……」
健吾はその“慣れ”という言葉に胸を痛める。彼女はきっと、こうやって体調を崩すのが日常的で、周りに心配をかけまいとひっそり耐えてきたのだろう。
「……そっか。でも、本当にきつくなったら頼っていいんだからな。こんな偶然、俺が通りかからなかったら危なかったろ?」
「そう……ですね。偶然が重なるなんて不思議。昨日も、一昨日も……」
琴音はかすかに笑みを浮かべるが、その笑顔にどこか影が射す。まるで自分の命運を嘲るような儚さが宿っている。
「穂積さんは、今日はお散歩?」
「うん、資料館を回ってきたところ。そろそろ休もうかと思ってたら、偶然あなたを見かけて……」
「そう、なんだ……。ありがとう、本当に。あと少し休めば歩けそうだから……」
彼女の声が震える。健吾はその小さな肩をそっと支えながら、「無理しないで、もう少し座っていこう」と促す。琴音は遠慮がちに俯いてから、少しだけ身をゆだねてくれた。
■ “呪い”の兆し
彼女は一瞬、言いかけるように唇を動かすが、躊躇している様子。代わりに、健吾がやんわりと声を掛ける。
「もし差し支えなければ、何か手伝えることない? ご家族とか、連絡したほうがいいなら……」
「……家族……叔母がいます。父はもう別の家庭を持ってるから……。でも、心配かけたくないんです。何度倒れても ‘またか’って感じで……」
それは悲しげな独白。健吾は「そっか……」と返すしかない。しかし彼の胸には、物部の末裔という奇妙な言葉が過り——いや、関係ないかもしれないが、何か暗い宿命が琴音を蝕んでいるのではないか、と本能的に思ってしまう。
「ちょっと歩ける? 近くに休める店でもあれば……」
「はい、もう少し待てば大丈夫です……。いつもすみません……」
「謝らないで。助けられるなら助けたいだけだし」
ふと琴音が顔を上げ、どこか切なそうに微笑む。その瞳は潤んでいるが、同時に「自分は救われない」と言っているかのような諦観が混ざっている。
“どうしてこんなに儚いんだ? 彼女、まだ若いのに、そんな目をするなんて……”
健吾の胸は締めつけられる。これが一時の同情に終わらせるのは嫌だ。もっと、彼女のことを知りたい。そして、支えられるなら支えたい——そんな衝動が湧き上がる。
やがて琴音は、ようやく立ち上がれる程度に回復したらしく、真っ直ぐ歩き出した。健吾は焦る気持ちをこらえ、「ちゃんと家まで送ろうか?」と尋ねるが、彼女は首を振る。
「ありがとう。でも大丈夫。ここから近いから、一人で帰ります……また……、改めてお礼を言わせてください」
短い言葉を残し、背を向ける琴音。健吾は引き止めたい思いを飲み込みながら、「気をつけて」と声をかけ、路地の向こうへ消えていく後ろ姿を見送った。
5. 深まる縁、そして“呪い”の入り口
その夕方、健吾はホテルに戻ってきたが、どうにも落ち着かない。彼女が無事に帰宅できたか気にかかるが、連絡手段もなければ自宅の場所も知らない。
むやみに探し回るのも迷惑だろう。とりあえず、佐久間に連絡して、「ちょっと相談がある」とだけメッセージを送る。彼に頼みごとをするわけではないが、胸のうちを話すだけでも気が紛れるかもしれない。
――もしかすると、物部の末裔として生まれ、体が弱く、短命に苦しむ彼女……なんて、そんな物語めいた想像は飛躍しすぎか。だが、健吾には妙に嫌な予感がある。まるで彼女が長く生きられないかもしれないという危惧が、心を暗く染めていくのだ。
(父が遺した民俗学の資料にも、古代豪族が抱えていた“呪い”みたいな記述があったっけ……。それと彼女は関係ないと思いたいけど……)
そんなふうに思考が渦巻く。するとスマホが振動し、佐久間から「あとで軽く飲むか?」との返信。健吾は「助かる」と答えた。
——こうして、健吾は自分の父の研究を追いながらも、琴音に対する保護欲や好意を自覚し始める。一方、琴音もまた、「短命の宿命」と自分を重ね、どうしようもない不安と希望の入り交じった感情を抱えていた。
この小さな事件、貧血での倒れ込みは、やがて“呪い”の本格化への序章となる。二人がさらに深く関わり合う運命の足音は、すぐそこまで迫っていることに、まだ誰も気づかない。
夜の奈良の街はしんと静まり、遠くから鹿の鳴き声がかすかに響く。血塗られた歴史の残滓が闇の底でうごめき出す予感を残しながら、ゆっくりと月が昇っていった。
——こうして、穂積健吾と卜部琴音、それぞれの想いが少しずつ交錯しはじめる。次は、彼女の家系に漂う影が、二人の前に立ちはだかることになるだろう。誰もが避けられない運命と知らずに。