Chapter 1 朱に染まる街と、はじめの出会い
1.紅葉色づく朝と喫茶店「古都のしじま」
十月下旬の奈良。朝の空気は、ほんのり湿り気を帯びつつも軽やかで、街の通りはまだ人影がまばらだ。穂積健吾はビジネスホテルを出ると、薄紅に染まりかけた木々を眺めながら歩いている。
前夜に奈良へ着いて一泊。今朝はすっきりした気分で目覚めた——と言いたいところだが、実際には少し胸に残る妙な重さも拭えない。先祖のことや、自分自身の進路。昨日の夜の夢、頭を埋め尽くした雑念は簡単には晴れなかった。
そんな気持ちを断ち切るように、朝の散歩がてら向かったのは、昨夜ネットで見つけた小さな喫茶店。「古都のしじま」という落ち着いた名前が妙に気になっていた。
ガラス戸を開けると、ちりん……とウィンドチャイムが短く揺れて、奥のカウンターでドリップしていた初老のマスターが顔を上げる。店内には古い木の梁が張り巡らされ、アンティーク調の照明がほんのりと床を照らしている。
「いらっしゃいませ」
マスターが微笑み、健吾は「おはようございます」と軽く会釈して店内を見回す。奥の席にはまだ客の姿はない。おそらく開店して間もないのだろう。
カウンターの隅でメニュー表を整えている女性に目が留まった。白いブラウスに黒のエプロン姿で、まだあどけなさの残る顔立ち……いや、どこか儚い雰囲気を湛えている。
(……あれ? ちょっと具合でも悪そうな感じ……?)
彼女はテーブルに手をつき、微かに息を吐いているようにも見えたが、すぐに健吾の視線に気づいたのか、バツが悪そうに軽く頭を下げる。
「コーヒーをいただけますか」
テーブルに腰を下ろしながら注文すると、彼女は「かしこまりました」と控えめな声で応じ、マスターに合図を送る。健吾はその横顔をちらりと見たが、やはり血色がよくないように思える。
やがて、マスターが丁寧にネルドリップで淹れたコーヒーをカップに注ぎ、彼女がそっと運んでくる。ふわりと立ち上がる香りに、健吾の鼻腔と心がいっぺんにほどけるようだ。
「……ありがとうございます。温まりそうですね」
「どうぞ、ごゆっくり……」
そう言いつつ、彼女は微かに胸を押さえ、カウンターへ戻る。健吾は“何か持病でもあるんだろうか”と心配になったが、初対面で突っ込むのは憚られる。
コーヒーを一口すすり、その深い苦味と柔らかな酸味に安堵する。ビジネスホテルのインスタントコーヒーとは別次元の旨さだ。心がほどけるように楽になっていくのがわかる。
(東京で官僚を辞めて、こうして奈良を訪れて……何を探してるんだろうな、俺)
そんなことをぼんやり考えているうちに、二杯目を注文するかどうか迷ったが、まだ朝早いこともあり、店も落ち着かないかもしれない。いずれにせよ、もう少し街を散策したい。
「ごちそうさまです。美味しかった……」
会計を済ませると、彼女が小さく一礼し、「ありがとうございました」と声を絞り出すように応じる。健吾はその表情にどことなく影が差しているのを見て、言いようのない切なさを感じた。
結局、彼女の名前すら知らないまま店を出る。だけど、あの儚げな雰囲気が不思議と胸に焼き付き、足を進めるたびに気になってしょうがない。
(大丈夫かな……)
店の看板には“古都のしじま”と柔らかな書体で書かれ、鉢植えの小さな紅葉の苗が朝日に揺れている。健吾は少しだけ振り返り、その扉の奥を見つめてから歩き出した。
2.鹿せんべいと大仏殿——旧友・佐久間との再会
朝のコーヒーでリフレッシュできたのはいいが、微妙な胸騒ぎを持て余しつつ、健吾は近鉄奈良駅前へ向かう。そこで合流する予定があるのだ。
合流相手は、佐久間遼太郎。中学・高校の剣道部でともに汗を流した親友であり、大学進学後も縁が続いている数少ない仲間だ。彼は医師の家系ながら、敢えて医学部を蹴って医療系ベンチャー企業を立ち上げ、今ではそこそこ成功しているという。
「おーい、健吾!」
声が聞こえ、振り向くと、佐久間が派手めなジャケットをひらりと揺らして近づいてくる。相変わらずの明るい笑顔に、健吾も自然と顔がほころんだ。
「久しぶり。お前、東京じゃ忙しそうなのに、奈良まで出張とは珍しいな」
「商談半分、観光半分ってとこ。いっそ気分転換してえし……で、お前を呼び出したわけよ。官僚を辞めたって聞いて以来、ちゃんと会ってなかったからな」
健吾は肩をすくめ、「まあ、組織に合わなかっただけだ。お前に言わせれば勿体ないんだろうけど、どうもああいう縦割りの世界は性に合わなくてな」と苦笑いを返す。
佐久間は「そかそか」と頷き、「なら一緒に奈良観光でもして、ゆっくりしようぜ」と手を叩く。
「……一応、俺、奈良に来たのは観光ってより“先祖探し”みたいな理由なんだけど」
「へえ、相変わらず渋いな。まあいいだろ、俺も今日は昼までは暇なんだ。ほら、せっかくだから鹿に会いに行こうぜ」
そんなわけで向かったのは、奈良公園。歩いていくと、芝生の上に何頭もの鹿が佇んでいる光景が広がり、朝の光を受けて鹿せんべいを売る露店に列ができはじめている。
「お、いたいた。けっこう人が多いんだな」
「外国人観光客とか、こんな朝から来る人もいるらしい」
健吾が軽く鹿せんべいを買って差し出すと、すぐに鹿の一団が寄ってきて、佐久間ともども袋をつつかれたり頭を舐められたり大騒ぎだ。
「ギャッ!」と悲鳴を上げて佐久間がゆうに50センチは飛び上がった。鹿せんべいを与えるのを焦らせすぎて、キレた鹿が佐久間の尻を角で突き上げたのだ。
「うおっ痛え……鹿、なんて凶暴な動物なんだ!本当に神様の遣いなのか?」「わはは、逃げ場ないんだけど!」
と、久しぶりに見る光景に笑い転げながら、二人は芝生をくるくると回り、そこへ他の観光客がカメラを向ける始末。鹿の熱烈な歓迎にひとしきり翻弄され、ようやく落ち着く頃には佐久間の派手なジャケットに鹿の鼻水が付いていた。
「はあ……なかなかやるじゃねえか。鹿、侮れんな」
「鹿せんべい持ってたら余計だろ。まあ、このくらいは想定内ってことで」
ふたりは苦笑しながら、なおも公園内を奥へ進む。すると、正面に見えてくるのは東大寺の大仏殿。大きな屋根が歴史の風格を漂わせ、南大門の仁王像が厳めしく観光客を出迎えている。
「やっぱ奈良っつったら大仏様も外せないんでしょ?」
佐久間が得意げに言い、健吾は「ああ、まあそうだな」と相槌を打ちながら拝観券を買う。堂内はまだ混み合ってはいないが、それでも外国人ツアー客らしき一団がカメラを構えている。
大仏殿の広い内部に足を踏み入れると、巨大な盧舎那仏が金色の光背を背にして鎮座している。
「おお……やっぱすげえや。こんなでかかったっけ? ちょっと感動するな」
佐久間が目を輝かせて興奮する一方、健吾はその仏像の荘厳さを目にしても、何故か胸に違和感が走るばかりだ。
「……まあ、すごいっちゃすごいんだけど……あんまり、ありがたみは感じないんだよな。なんでだろ」
「え? お前、仏像興味なかったっけ?」
「興味がないわけじゃない……ただ、俺んちの先祖がさ、仏教排斥の物部の末裔かもしれないって父に聞かされて、変な先入観があるのかもな」
口に出すと、より一層複雑な感情が湧き上がる。中学や高校の歴史でも習った“蘇我氏と物部氏の対立”、あれが実際の先祖の話になる可能性がある。
「物部って、神道を守る派閥だったんだろ? じゃあ仏さまを拝むの、居心地悪いとか?」
佐久間は興味津々だ。
健吾は気まずそうに肩をすくめ、「かもな……でもまだ確証もないし。父が民俗学者だったんだけど、調べる途中で事故に遭って亡くなって……俺も詳しいことは知らないんだ」と言葉を濁す。
「あ……そうか。悪い、変なこと聞いちゃったか」
「いいんだよ。今こうして奈良に来たのも、少し父の足跡を辿りたい気持ちがある。官僚辞めてフリーになったし、時間はたっぷりあるからな」
大仏殿を一通り巡ったのち、外へ出る。澄んだ秋空に屋根が映え、立ち込める少し冷たい風が心地よい。佐久間は「昼飯どうする? もう少し散策する?」と尋ねる。
「そうだな……悪いけど、俺はもう少し街を歩いてみたい。散策に飽きたら連絡するよ」
「おお、了解。じゃあ俺もクライアントとの打ち合わせがあるから、一旦別れよう。夜にでも飲もうぜ」
そう言って佐久間はにやっと笑い、「あと、うちの会社に入るって話も忘れんなよ?」と追い打ちをかける。健吾は苦笑しつつ手を振り、佐久間の背中を見送った。
3.古都の町屋カフェで、再びの偶然
佐久間と別れ、健吾は奈良町エリアへ向かう。古い町並みが色濃く残る路地は観光地としても人気が高く、細い路地には地元の人が営むギャラリーや雑貨店、和雑貨の店が所狭しと並んでいる。
(さっきの喫茶店の女性、少し元気になってるといいんだけど……)
脳裏に浮かぶのは、朝の「古都のしじま」で見かけた彼女。半日も経っていないのに、なぜか気になって仕方がない。
石畳の路地を少し歩くと、「甘味処・花かがり」という木の看板が目に入る。町屋造りをそのまま利用した趣ある店構えが、妙に居心地よさそうだ。
暖簾をくぐってみると、土間から座敷へ上がる昔ながらの作りで、靴を脱いで畳へ上がるスタイル。何やら落ち着く匂いがする……と、ふと、奥の席に見覚えのある後ろ姿があった。
(あれ……? 朝の彼女、だよな)
黒いロングスカートと淡い色のカーディガン。その肩越しに見える横顔が、まさにあの儚げな女性だ。彼女はカップを両手で包み込むように抱え、少し顔を伏せている。店内はあまり混んでいないため、一瞬こちらに気づいたようで、視線が合う。
「……あ……」
ちょっと驚いたように目を丸くする彼女。健吾も思わず会釈して近寄る。「さっきの喫茶店で……、少しお話しましたよね?」
彼女は戸惑いを浮かべつつも、やがて小さく笑みを返す。「……はい、今朝はどうもすみませんでした。体調が……」
「いやいや。むしろ、なんか気になってて……。ここ、隣座ってもいいですか?」
彼女は少し頬を染め、「ど、どうぞ……」と小声で答える。遠慮がちに席を詰める仕草が微笑ましく、健吾も自然に緊張が解けていく。
「俺、あんみつ頼もうかな……甘いもん好きで」
店員に注文を済ませると、彼女も追加で白玉入りぜんざいを頼む。お互いに笑いあいながら、注文を終えたところで、健吾は声を低めて切り出す。
「朝は大丈夫だった? 貧血っぽく見えたけど……」
「ええ、だいぶ楽になりました。私、もともと体が弱くて、朝方は特にフラつくんです。ご心配かけてすみません」
その言葉には、諦観に近い響きがある。健吾はなんとか話題を変えつつ、彼女の名前や住まいなど、当たり障りのない会話を引き出そうとする。
「そういえば、まだ自己紹介が遅れました……俺、穂積健吾っていいます。東京のほうから来て、今は奈良をうろついてる感じで」
「穂積……健吾、さん。私は、卜部琴音といいます。奈良生まれで、ずっとこの辺りで暮らしてます」
卜部琴音——繊細な響きの苗字と、優しげな名前。それが彼女の儚げな雰囲気にぴたりと重なる気がして、健吾は胸が騒ぐ。
「卜部、って珍しいですよね。昔からこの辺りのご出身なんですか?」
「ええ……先祖代々ずっと奈良市内です。家系が少し古いらしくて、私自身もよく分からないんですけど……」
「そうなんだ……。俺も似たようなもんだよ。うちも先祖は奈良かもしれないっていう話があって。でも詳しくは分かんない」
お互い、祖先について曖昧な部分を抱えているとわかり、会話は自然に弾んでいく。ほどなく運ばれてきた甘味を前に、琴音は「すごく美味しそう……」とほんの少し笑顔をこぼした。
健吾はあんみつを一口食べ、思わず表情を緩める。「ん、うまいな……東京のカフェで食べるのと違って、和風の雰囲気がすごく合う」
琴音もぜんざいをすくい、「そうですね……こういう場所だと、身体の芯まで温まるような気がして……」と微笑む。
それから、お互い何気ない話をぽつりぽつりと交わす。健吾は「実は官僚を辞めてきて、しばらく自由なんだ」と軽く触れ、琴音は「私、まだ仕事らしい仕事はしてなくて……」と肩をすくめる。
「身体、そんなに辛いの?」
「……まあ、そこそこ。昔から何度も入退院を繰り返してきたんです。詳しくは……ごめんなさい、初対面なのに重い話ですよね」
「いや、そんなことないよ。むしろ、無理しないでほしいって思う」
健吾が率直にそう言うと、琴音はふっと恥じらうように目を伏せる。
「優しいんですね、穂積さん。……私、男性がちょっと苦手で……でも、不思議とあなたとは話せるみたい」
「苦手……なのか。でも、こうして普通に話せてるじゃん」
「そう、ですね。……なんだか安心感があるんです。さっきも朝、声をかけてくれたし、無理に踏み込んでこないし……」
その呟きの裏には、何かがあると感じたが、今は深くは問わない。仄暗いものを隠しているかもしれないが、彼女が心を開きはじめてくれただけで十分だ。
町屋独特の木の香りが、柔らかな陽光とともに二人を包み込む。甘味処の座敷は狭いが、それだけに静かで、時折客が出入りするときの引き戸の音が優しく響く。
「穂積さんって……東京でどんな仕事を? いや、官僚って聞きましたけど、実際はどんな……」
「うん。某省庁で法律関係の仕事をしてた。でも、ちょっと色々あってね。あ、重い話になるから割愛させてもらうけど……」
「ふふ、こちらこそ重い話ばかりで失礼しました」
お互いに笑い合うと、なんだか空気が和んで、和やかなやり取りが心地よくなる。この小さな時間が、健吾にはとても貴重に思えて仕方ない。
そうして席を立つ頃には、二人の間にはぎこちないながらも確かな親近感が芽生えつつあった。
店を出る直前、健吾が「もしよかったら、また会えないかな? これから俺、しばらく奈良にいるから」と尋ねると、琴音は少し頬を染めて微笑む。
「……はい。体調次第だけど、また甘味でも……一緒に行けたら嬉しいです」
そして小さく礼を言って、別々の方向へ歩き出す。健吾が振り返ると、琴音はもう顔を背けたまま、路地の奥へ消えていった。
4.夕暮れの古都に沈む期待と切なさ
町屋の甘味処を出たあと、健吾は日没の時刻までぶらりと古都の道を歩く。秋の陽射しが西の空に沈みかけ、瓦屋根の家並みを赤く染めている。表通りに出ると観光客が増え、みやげ物屋が軒を連ねるが、夕方になると閉店が早い店も多く、そこかしこでシャッターが下り始めていた。
(また会いたい……)
頭に浮かぶのは、卜部琴音の柔らかな笑みと、小さな吐息。彼女の身体が本当に大丈夫なのか、気がかりで仕方がないが、連絡先を交換したわけでもない。彼女がもし喫茶店「古都のしじま」か、ほかのバイト先に出るなら、偶然を装って行くこともできるかもしれないけれど……。
(いや、ここは焦らないほうがいいのか)
街角にある古い石灯籠が、夕闇の中で淡く浮かび上がる。鹿のシルエットが遠くでうっすら見え、ぬるい風が通りを抜けていく。
秋の冷気が首筋をかすめ、健吾は軽く身震いする。まだこの街に来て一日足らず。じっくり腰を据えて“先祖探し”をするつもりだったが、こんなにも早く未知の縁が訪れるとは思いもしなかった。
「ま、まずは今夜、佐久間と飯だな……。あいつに話してもからかわれるだけかもしれないけど、気分転換にはなるか」
スマートフォンで佐久間にメッセージを送ると、「駅前の居酒屋で待つ」と返事が来る。
(それが終わったら、明日はもう少し奈良の史料館とか回ってみよう。父が生前調べていた民俗学の分野に、物部の情報があるかもしれない)
そう思いつつ、彼女のことが頭から離れない。卜部琴音——儚さをまとい、でも笑顔にはどこか温かいものが宿っている女性。会って間もないのに、不思議ともっと知りたくなる。
——どこかで、また会えるだろうか。いや、会いたい。
そう自問しながら、健吾は夜風に吹かれ、ほの暗くなった通りを駅へと戻っていった。遠くでは鹿が小さく鳴き、日中の賑やかさが嘘のように消えていく古都の夕暮れが、朱色を帯びて静かに沈んでいく。
こうして、再び出会った琴音とのひとときの会話が、健吾の胸にほんのり温かい明かりを灯す。が、それはまだ始まりに過ぎない。物語は、この穏やかな光の裏側で、彼女が抱える闇の影や、健吾自身の“先祖の宿命”にじわじわと近づき始めていた。
紅葉の色が少しずつ深まる十月下旬の奈良。朱に染まる街が、彼らの出会いを優しく包み込む。一見、ただの偶然に見えるこの交流が、やがては千四百年にわたる因縁を呼び覚まそうとは、まだ誰も知る由もないのだった。