Chapter 13 大いなる神の奇跡
1. 病室に漂う絶望の夜
奈良市内の総合病院――夜の静寂に包まれた廊下は、わずかな照明が床に長い影を落としている。時刻は午後十時を過ぎ、見舞い客もいない。カーテンの隙間からは、点在する街灯のオレンジ色が滲んで見えるだけだ。
集中治療室(ICU)の奥、モニターの警告音が断続的に鳴り響くなか、穂積健吾の容態は刻々と深刻さを増していた。医師たちが血液検査や酸素濃度を必死に確認しているが、原因不明の衰弱は止まらない。
「……今夜が峠でしょう」
主治医が苦い顔で呟き、廊下に控えている佐久間や卜部静香へ向けて断腸の思いで告げる。「残念ですが……手の施しようがありません。覚悟を……」
「嘘……そんな……」
静香は壁に手をつき、顔を伏せる。琴音の呪いが解かれた代わりに、健吾がその宿命を引き受けてしまったかのような展開。ほんの数日前までは歩けるほどに回復していたのに、今や命が危うい。
一方で佐久間は荒ぶる感情を抑え込むように拳を握り、「医療データの範囲外なら、他の可能性を探すまでだ……」と低く呟くが、その声には焦りが滲んでいる。時間がないという現実だけが、冷酷に二人を追い詰めていた。
2. 琴音の決意
一方、卜部琴音は同じ病院の一般病棟で、ようやく体調を取り戻し、医師の許可を得て簡単な外出が可能になっていた。だが、その目に映るのは、健吾が死の淵にいるという情報ばかり。
「……おかしい……絶対に、こんなの納得できない……」
車椅子で廊下を進みながら、琴音は唇を噛む。わずかな距離を移動するだけでもまだ息が切れるが、それ以上に胸の内に煮え立つ思いがあった。
「健吾さん、死んじゃいやだ……。私が救われて、あなたが消えてしまうなんて、そんなの……」
荒れ狂う感情を抑えきれず、背中を丸める琴音。看護師や知人が「大丈夫?」と声をかけるが、彼女は押し殺すように首を振る。
(何か、まだできることがあるはず。私はもう“呪い”の枷から解放された。じゃあ、今度は大切な人を救うために、何かできないの……?)
そのとき、琴音の脳裏をふとよぎるのが、三輪山を神体とする大神神社の存在。先日の鎮魂祭は石上神宮だったが、大神神社も古くから数々の奇跡譚を持ち、神秘に満ちた社として名高い。そういえば、以前に健吾と三輪山の麓を訪れたとき、あの大物主神の不思議な力を感じた記憶がある。
(三輪山の夜間登拝はできない。でも、拝殿なら……今の私ならタクシーで行けるかもしれない……)
3. タクシーで大神神社へ
午前零時近く。琴音は佐久間に「もう少し健吾さんを看てて……私、出かける」と言い残して病院を出た。夜間のタクシー乗り場から車に乗り込み、「大神神社まで……お願いします」と告げる。
運転手は怪訝そうに「こんな時間に参拝ですか?」と尋ねるが、琴音は必死に笑顔を作る。「すみません、どうしても……祈りたいことがあるんです」
車の窓外には、深い夜を照らす街灯の列。闇に溶けた古都の風景がかすかに浮かび、タクシーは桜井市の三輪方面へと向かっていく。あたりに街の灯りが少なくなり、山の影がわずかにシルエットを見せ始める頃、車は大神神社の二の鳥居前の駐車場へ滑り込んだ。
夜の大神神社は、昼間の観光客で賑わう姿とは打って変わって、静まり返っている。まばらな街灯が鳥居の輪郭をぼんやり浮かび上がらせ、闇の奥へと通じる参道が一段と神秘的に見える。
タクシーの運転手が「夜間は閉鎖されてますよ」と声をかけると、琴音は「拝殿までは行けるはず……」と答える。足を引きずるようにして車から降りると、コートの襟を立てて冷たい空気に耐えながら、社頭へと進んだ。
4. 警備員とのやりとり
灯りのほとんどない参道を数十メートル歩くと、夜間巡回の警備員らしき男性が懐中電灯を手に立っていた。
「すみません、夜間は原則として神社の奥へは……」
警備員はやや硬い表情で琴音を制止するが、琴音はその足元に崩れ落ちるように膝をつき、「お願いです、どうか少しだけ拝殿に……私は、大切な人を救いたいんです……」と声を震わせる。
普段なら絶対に許可されない深夜参拝だが、琴音の切羽詰まった様子に警備員は言葉を失う。しばしの沈黙。参道を吹き抜ける冷たい風が落ち葉をかすかに巻き上げる音だけが響いた。
「……そこまで言うなら、拝殿前で軽くお参りするくらいなら……ただし、奥へは絶対に入らないでください」
警備員の低い声に、琴音は涙目で頭を下げる。「ありがとうございます……本当に、すみません……!」
こうして琴音は夜の闇のなか、三の鳥居をくぐり、わずかな灯篭が並ぶ参道をゆっくり進んでいった。周囲には人気がなく、闇の奥に三輪山の気配だけが潜んでいる。
5. 夜闇の拝殿、必死の祈り
石段を上がって、拝殿の前へ辿り着くころには、琴音の呼吸は苦しく、心臓が波打つほどになっていた。昼間でも厳粛な空気を感じるこの場が、深夜には一層霊気を放っているように思える。
木造りの拝殿は闇に溶け込み、かすかな月明かりと社頭の提灯が辛うじて正面を映し出している。琴音は冷え切った石畳の上にひざまずき、合わせた手を震わせた。
「……大物主神さま……どうか……どうか、健吾さんを……助けてください……」
声が上ずり、涙がぽたぽたと落ちる。かつて三輪山の麓を訪れたとき、感じた畏怖と慈悲が混ざった感覚を思い出す。山そのものが神である――まさにこの場所にこそ、彼を救う力が宿っているのだと信じたかった。
「彼は……私のために呪いを引き受けてしまった……。私を生かすために……だから……」
震える唇から溢れ出る言葉は、もはや祈りというより懇願だ。肩を上下に揺らし、息が止まりそうなほどに絞り出す。
周囲には夜の静寂しかない。警備員も遠巻きに見守るだけで、琴音の泣き声が拝殿に低く響いている。三輪山の闇は深く、どこまでも吸い込むように彼女の声を呑み込んでいるかのようだ。
6. お百度…焦燥の足取り
琴音の胸にふと浮かんだのは、「お百度参り」という言葉。大神神社の本殿前には、お百度石が左右に設置されている。琴音は身体を押し起こし、もう一度拝礼すると、社殿の右と左にある二つの石を見回した。
「……あの人を救いたい。だったら、私にできることは何だってやる」
そう呟き、琴音はふらつく足でお百度石へと歩いていく。辺りはほとんど闇だが、提灯の微光がかすかに道筋を照らしていた。
一度、拝殿前まで歩んで祈り、そこから戻ってはもう一方の石に触れる――そんな動作を繰り返す。夜風が肌を切り裂くように冷たく、息が白く浮かび上がる。だが琴音は痛みを意識するよりも、「健吾さんを救う」という一心に駆られていた。
(こんな小さな行為で何になるかなんて分からない。でも、祈らずにいられない……!)
膝が笑うほど疲労が蓄積しても、彼女は何度も何度も往復を続けた。狭い石畳の上で転びそうになりながら、それでも必死に祈りの言葉を重ねる。
7. 病室での急変――奇跡の兆し
その頃、奈良市の病院。深夜のナースステーションに警告音が鳴り響き、担当医師と看護師が慌ただしく健吾のICUに駆け込んだ。
「心拍が乱れている……呼吸もかなり不安定だ」
モニター画面には、不規則な波形が映し出され、医師が「もう呼吸器の調整を最大限に……」と叫ぶ。佐久間は廊下で顔面蒼白のまま、扉の向こうのやり取りを固唾を呑んで見守るしかない。
看護師が酸素濃度を上げると、健吾の身体がビクリと痙攣する。もう意識はほとんどないように見えるが、眉間に深い苦悶の皺が寄り、その口は何かを言おうとしているかのように震えている。
「くっ……間に合わないのか……」
医師の声が絶望に近い響きを帯びた、その瞬間――モニターの波形が急激に沈んだ。心電図がフラットになる寸前、健吾の胸が大きく上下して、まるで最後の呼吸を求めるかのように口を開く。
だが、そこで終わらなかった。モニターが一瞬だけ点滅し、再び心拍がわずかに高まったのだ。
「……え……? どういうことだ……」
医師は眼を疑う。先ほどまでの危篤状態が嘘のように、健吾の血圧や呼吸が安定し始めた。まるで見えない力が彼の死の底から引き上げているかのように。
「先生……奇跡、ですか……」
看護師が頬を強張らせつつも、どこか興奮した声を漏らす。佐久間が廊下に駆け寄り、「どうなんだ、助かるのか?」と詰め寄ると、医師は「……わからない、だが、こんなことは医学的に説明がつかない」と声を震わせた。
8. 拝殿前、最後の祈り
一方そのころ、琴音の身体は既に限界を超えていた。お百度参りを何度も繰り返し、足首が悲鳴を上げるたびに石畳に倒れ込みそうになる。吐息は白く、視界が霞んできた。
(もう無理……私も倒れそう……でも、諦めるわけにはいかない……!)
最後の力を振り絞り、拝殿の正面へ戻ると、琴音は両手を合わせて頭を垂れる。頬を伝う涙が冷たい石畳に溶け落ち、コートの裾が埃と湿気を含んでいた。警備員が遠巻きに「大丈夫か」と声をかけるが、彼女は振り返ることなく、ただ祈り続ける。
「健吾さん……死なないで……神様、大物主神様……お願い……。どうか、奇跡を……」
何度も繰り返すうちに、まるで自分の鼓動さえ神社の闇に吸い込まれていくような錯覚を覚える。それでも琴音は祈ることを止めない。
――そのとき、急に胸が熱くなり、肺が深く息を吸い込んだ。まるで誰かが近づいてきたかのように、首筋にぞくりとした感覚が走る。背後には何もいないはずなのに、神々の息吹がすぐ傍を通るような気配がした。
9. 病室で目を開く健吾
時刻は深夜二時を回ったころ。病院のICUでは、奇跡的に安定を示した健吾のモニター値が、さらに改善していった。さっきまでの絶望が嘘のように、血圧と心拍が正常範囲に近づき、呼吸も落ち着いてきたのだ。
「何という……あり得ない……」
医師は思わず呆然と立ちつくす。看護師たちも震える声で「助かったんですか……?」と囁き合う。佐久間も力が抜けたように壁にもたれ、「マジかよ……」と唇を噛んだ。
すると、健吾がうっすらとまぶたを開ける。視線が宙を彷徨ったのち、ぼんやりと医師や看護師を捉えるように瞬きをする。
「……俺、死んだかと思った……」
か細い声は、しかし確かに言葉として響いている。医師が慌てて駆け寄り、「分かりますか、穂積さん? ここがどこか……?」と尋ねると、健吾は「はい……病院、ですよね……」と答える。頬にほんの少し血色が戻り始めていた。
10. その知らせを受けて
「健吾さんの容態が急に安定してきたみたい……!」
駐車場で待っていたタクシー運転手が、携帯でやり取りをしていた警備員からそんな情報をもたらした。ちょうど拝殿前から戻りかけていた琴音は、その報せにぎょっと息を呑む。
「……助かった……? 本当に……?」
緩んだ力が一気に抜け、座り込んだ琴音を警備員が支える。「大丈夫か、どうか病院へ戻ってあげてください」と促され、琴音は震える足をなんとか踏ん張って立ち上がる。
「ありがとうございます……本当に……」
琴音は拝殿へ最後の一礼を捧げる。闇の向こうに三輪山が静かにそびえ、大物主神の存在がそこに確かにあるように感じられた。胸の奥で、鼓動が高鳴る。
(健吾さん……待ってて。私、今すぐ戻るから……!)
11. 病室に戻る琴音
再びタクシーに乗り込み、夜の国道を揺られて病院へ引き返す。琴音は座席で震えを抑えきれず、ハンカチで顔を押さえる。涙が溢れそうになるたび、運転手は気を使って黙っていてくれた。
病院に着いたのは午前三時近く。夜勤の看護師に声をかけられるより早く、琴音は病棟のエレベーターを呼び、ICUフロアへ向かう。
ドアが開き、廊下に飛び出すと、そこに佐久間が待っていた。「琴音ちゃん!」
「健吾さんは? 生きてるの?」
息せき切って問いかける琴音に、佐久間は大きく頷く。「ああ、奇跡みたいに落ち着いてる。医者も原因は分からないけど、今は安定して眠ってる。とにかく助かったんだ」
琴音の目に再び大粒の涙がこぼれ落ちる。「よかった……よかった……!」と何度も呟き、佐久間の腕に支えられながらICUのガラス越しに健吾のベッドを見つめた。
12. 二人の再会、劇的な救済
看護師が「面会は短時間なら……」と言って扉を開けてくれる。琴音はふらつきながら健吾の寝顔へ近づき、そっと手を伸ばした。
健吾は薄く目を開け、「……琴音か……」と震える声を出す。まだ呼吸は機械にサポートされているが、そこには確かな意識があった。
「ごめんね、こんな時間に……大丈夫なの? 本当に……」
琴音は声を詰まらせ、健吾の手を両手で包む。手のひらは冷たいが、指先がわずかに握り返してくれる。その感触が琴音の心をいっそう震わせる。
「……なんだか……助かったみたい……死にかけたのに、急に息が入って……」
健吾は力なく笑い、琴音は涙声で「よかった、本当によかった……」と繰り返す。三輪山の参道で祈ったあの時、何かが通じたのだろうか。いまの健吾は、確かに生者の温度を保っている。
医師が「一応しばらく検査が必要です。すぐに退院とはいかないが、危険な山は越えた」と告げると、琴音は深く息をつき安堵する。まるで全身の力が抜け、膝が崩れそうだが、ここにあるのは希望の息吹だ。
――こうして二人は、絶望の淵から奇跡によって救われた。
呪いの刻印は、大物主神への祈りと琴音の執念によって解かれ、健吾の命は失われずに済んだ。深い夜を乗り越え、病室の朝へ向けて、また一筋の光が射し始めたのだ。
夜明け前、琴音はホッとしたように病室の窓から外を見る。空にはまだ星が瞬いているが、東の端からはうっすらと光が差しかけていた。まるで新たな時代を告げる白々とした光。
(もうこの命を二度と失わせない……私たちは、呪いに勝ったんだ)
琴音の瞳に涙が浮かぶ。苦しんでいた健吾の胸には、確かに安らかな呼吸が広がっている。神秘と祈り、そして固い絆が起こした奇跡――それを胸いっぱいに受け止め、琴音は小さく笑みをこぼす。
次の朝が、今までで一番、優しく輝く朝になるだろう。