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千四百年の夜を越えて、君と~古都に咲く鎮魂の恋~  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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Chapter 10 石上神宮 鎮魂祭

 空気が鋭く冷え込んだ夕刻、石上神宮の境内には、他の季節では味わえない独特の張り詰めた空気が漂っていた。十一月二十二日。待ちに待った――あるいは恐るべき、鎮魂祭が今宵斎行される。

 午後五時を少し前に、神職らが総出で準備する様子を見届けていた穂積健吾は、かすかに震える手を自分でも意識せず握りしめる。辺りには低く太陽が沈みかけ、木々の陰影が長く伸びている。肌を刺すような冷気のなか、ご神鶏たちが社殿近くをうろうろしつつも、やがて一羽また一羽と鳴き声を止め始めた。


1. 境内を走る緊張感、夕刻の例祭の始まり

 まずは天神社・七座社での例祭が行われる時間が迫っている。境内の奥へ向かうと、ふだんはひっそりしている場所に祭壇が設えられ、淡い雪洞ぼんぼりが一対、左右に据えられていた。

 石畳を踏むたびに、いままで感じたことのない低い振動が足裏に伝わってくるような気がする。これは祭が呼び寄せる霊気なのか、あるいは自分の心音が乱れているだけなのか――健吾は戸惑いを拭えずにいた。

「……健吾さん、こちらへ」

 巫女の物部沙弥香が、静かな声で呼びかける。祭列に加わる神職たちの列が、既に祓所の前で整列を始めている。

 健吾は「はい」と短く返事をし、足早にその場へ向かった。五時ちょうどが近づくにつれ、ご神鶏の鳴き声が完全に止み、かわりにどこからともなく得体の知れない鳥の声――まるで怪鳥のような鳴き声が一瞬だけ上空をかすめる。思わず健吾は背筋を震わせた。

 祓所では、宮司の物部道忠を先頭に、神職たちが順に修祓を受ける。心身の穢れを祓う儀式で、祝詞と鈴の音が交互に響き、健吾も深く頭を垂れた。

 道忠がぬさを高く振り、祓いの言葉を唱えると、柔らかな風が頬をかすめる。参列者一同が微かに息を飲むようにして、静かな結束感を共有する。


2. 天神社・七座社への移動、唐櫃からの神饌

 修祓を終えた列は、二手に分かれて天神社・七座社のほうへ進む。あらかじめ両社の中間には祭壇が置かれ、中央には何も飾られていないが、その周囲に一対の雪洞が灯され、ほんのりと暗い境内を照らしている。

 佐久間や琴音の叔母・静香など一般参列者は後方で見守る形だ。健吾もその近くの神職エリアへ招かれ、じっと場の空気を感じ取ろうと目を凝らす。

 すると、神職が唐櫃からびつを開き、そこから九台の神饌しんせんを取り出し始めた。果物や海の幸、野菜、穀物など様々な供物が次々と祭壇に並べられていく。重々しい静寂のなかで進められるその動作は、ひとつひとつが儀礼の結晶のように見えた。

 祝詞が奏上され、玉串拝礼へと流れるとき、健吾の心臓の鼓動がひどく早まり始めるのを自覚する。空気そのものが濃密になっていくようで、視界の隅がうっすらと揺れる感覚があった。

(ここまで張り詰めた祭式、初めてだ……神宮という神域の力なんだろうか。それとも……)

 思わず息を呑む健吾の肩を、沙弥香がそっと叩き、微笑で合図する。大丈夫、と言っているかのようだ。健吾は小さく頷き、再び祝詞に耳を傾ける。

 撤饌と閉扉を終える頃には、辺りはもう五時半を回っていた。雪洞の灯りだけが闇に浮かび、祭壇が静かに息を呑むように闇へ閉じられていく。周囲の参列者は、神職の合図とともに一礼し、今度は本社拝殿へと移動を開始する。


3. 本社拝殿、鎮魂祭の幕開け

 本社拝殿の正面に立つと、そこにはさらに厳かな空気が満ちていた。屋根の下に続く石段を上がり、幣殿へいでんの入口を眺めると、一対の結灯台むすびとうだいが光を放っている。

 宮司以下の神職が拝殿へ進み、神饌を供えるための所作を着々と進める。健吾はその様子を奥の一角から見つめながら、胸の奥に宿った破邪の力が微かに疼くのを感じ取る。まるで「今こそ力を振るうときが来る」と告げられているようだ。

 周囲の照明は徐々に落とされ、結灯台のほの暗い明かりだけが拝殿を照らす。木造のはりが天井高く闇に溶け込み、わずかな衣擦れの音すら大きく感じられるほど静寂が深まっていく。

大直日神おおなほびのかみ……八神の御前にて、ここに魂を鎮め、命を振い起こす儀を執り行わん……」

 道忠の祝詞が響くと、巫女たちが低く鈴を鳴らし、幣殿の御簾みすがゆっくりと巻き上げられた。そこに差し込む結灯台の赤い光が、供えられた神饌や幣帛を幽玄に映し出す。

 しん……と拝殿全体が息を呑み、ご神鶏が完全に声を止める。代わりに、まるで天井から奇妙な気配が下りてくるような——見えざる存在が動いているような感触が健吾の肌をかすめる。

 「これが、鎮魂……」

 小声で洩らした健吾に、隣の沙弥香がごく微細な声で答える。「はい……今、神気が私たちのすぐそばを通っているんです。魂を呼び覚ます ‘たまふり’ の神業は、古代からここ石上神宮に伝わる秘儀……」


4. 闇に包まれる拝殿、神秘の瞬間

 招魂の儀へと進むにつれ、殿内や周囲の照明が一斉に落とされる。闇が拝殿を覆い、結灯台の淡い光だけがかすかな視界を与える。

 健吾は呼吸を詰め、暗闇のなかで鼓膜に伝わる衣擦れの音、そして呪言と鈴の音が交錯するのを必死で追おうとする。すると、何か人ならざる気配——いや、神の気配が背後を過ぎるような感覚が走り、身震いが止まらない。

(怖い……でも、すごい……。これが、古代から伝わる鎮魂祭の本質なのか?)

 視界がきかない暗闇で、闇の奥に確かに異形の「何か」が存在する。それは畏怖と同時に恍惚にも近い感情を呼び起こし、健吾は喉が乾いていくのを感じる。

 さらに巫女の一人が著鈴榊しゅれいさかきを携えて進み出て、参列者を祓い清める儀式が行われる。鈴の音がかすれ、闇の中で霊気が振動しているように感じ、健吾の体は一瞬ふわりと浮くような感覚に襲われた。

「……っ……」

 息を吐き、足元を踏みしめる。沙弥香が小さく手を伸ばしてきて、健吾の袖を掴む。「大丈夫ですよ。神が近づいているんです……」


5. 健吾、儀式の中心へ

 一連の呪法が進み、祭壇を取り囲むように神職たちが所定の位置へ移動すると、道忠が拝殿の中央へ向き直って声を張る。

「穂積健吾、出でよ。布都御魂大神ふつのみたまのおおかみの力をここに示し、破邪の術を行い、鎮魂を助けてくれまいか」

 健吾ははっと息を呑み、周囲の神職が道を空ける。これが約束されていた役目とはいえ、実際に呼び出されるとその重みが全身を貫く。

「は……はい、分かりました」

 震える声を何とか出し、静かに拝殿の中央へ進む。結灯台の仄暗い光が健吾の姿を映し、周囲の闇がうねるように見える。彼は深く頭を下げ、道忠から授けられた剣形けんがたを両手で受け取った。

 「あなたが持つ穂積氏×物部氏の血脈が、ここで布都御魂大神の破邪を呼び起こすはず。どうか、琴音さんを救いたいというあなたの純粋な願いを捧げ、邪を祓ってください」

 健吾は剣形を握り締めると、胸中で強く強く琴音の姿を思い描く。(頼む……この力で琴音の病を消し去り、あの男の呪詛を跳ね返せるように……)

 そのとき、体の奥から熱い感覚が湧き上がり、祝詞の断片が自ずと口をついて出てくる。やがて、巫女たちの鈴音が低くかすれるように揺れ、闇のなかに小さな波紋が広がったかのように感じられた。


6. ご神鶏の鳴き止む不穏、龍馬の乱入

 しかし、その瞬間、拝殿の外から何かが侵入してきたような冷たい風が巻き込み、結灯台の炎がぱちぱちと明滅する。

 「……何だ、この気配……」

 健吾が剣形を抱えたまま背筋を伸ばすと、宮司や沙弥香も不安そうに周囲を見回す。すると、拝殿の入り口付近が不自然に暗闇に沈み、神職の一人が短い悲鳴を上げた。

 いつもなら静かに参道に佇むご神鶏さえ、この気配を感じ取ってか、ピタリと鳴くのを止め、縮こまっているようだった。

 その闇の隙間から、黒いコートの男がするすると現れる。姿を見た瞬間、健吾は背筋に電撃が走った。(あの男……! 石川龍馬、いや、蘇我馬子!)

 男はコートの襟を手で軽く整えながら、一歩ずつ拝殿のほうへ歩み寄る。目は冷ややかに細められ、口元に得体の知れない笑みを湛えている。

「賑わってるな。まさか本当に ‘鎮魂祭’ などという古来の呪法が、現代まで残っていたとはね……」

 男の声は低く、妙に響いて周囲の空気を震わせる。道忠が鋭く声を上げる。「ここは神域だ。無断で踏み入ることは許されん。立ち去りなさい!」

 しかし、男は嘲笑を深めるだけ。「ほう……。物部の血を守るつもりか? あいにく、そうはさせない。この場こそ絶好の舞台だ。破邪? 滑稽だな……俺はそれを砕くために来たんだ」


7. 闇が広がり、社殿が暗黒に沈む

 男が懐から紙切れのようなものを取り出し、指先で破るようにちぎった瞬間、拝殿に黒いもやが拡散した。参列していた神職たちは悲鳴を上げ、近くにいた巫女が「いやっ……!」と倒れ込む。

 「くそっ……!」

 健吾は剣形を握り、祝詞を唱えようとするが、この闇の圧力が想像を絶して重い。まるで呼吸がまともにできないほど、体が押し潰されそうだ。

 結灯台の火が不気味に揺れ、拝殿の梁がきしむような音がする。ご神鶏の姿は既に見当たらず、まるで恐怖に怯えるかのように皆が蹲り、暗闇だけが濃度を増していく。

 男はふっと笑って、「物部も穂積も、まとめて消し去ってやる……」と囁くように言う。健吾の胸が早鐘を打ち、頭がクラクラする。

「道忠様……このままでは……!」

 沙弥香が宮司の方へ駆け寄り、ぬさを振りつつ祝詞を試みるが、邪気の勢いが強すぎてか、なかなか押し返せない。

 健吾はなんとか踏ん張ろうとするものの、背後から重力がのしかかるような圧迫感に、膝が折れそうになる。


8. 健吾の意志、破邪の光を求めて

 「……負けるもんかっ……!」

 健吾は剣形を胸の高さで支えながら、ぎりぎりの声で祝詞を叫ぶ。頭には琴音の姿が浮かぶ。病院で死線を彷徨う彼女を救うため、ここで折れるわけにはいかない。

 (頼む、応えてくれ……布都御魂大神!)

 彼の呼びかけに合わせるように、胸の奥から小さな熱が沸騰する。稽古で感じた“破邪の波動”が、全身を走り抜ける気配がする。

 結灯台のか細い灯火が、一瞬だけ強い輝きを放ち、それに反発するように黒い靄がぶわりと広がった。神職たちの悲鳴がこだまするなか、拝殿が限界を超えそうなほど闇に覆われていく。

 そして、男——龍馬が満足げに笑い、「この暗黒を超えられるかな? ふは……」と声を漏らす。その嘲笑が聞こえた瞬間、健吾の心に怒りが燃え上がった。

 (邪を断ち切る。絶対に!)

 握り締めた剣形が微かに振動し、剣先からきらりと閃く光が走った。


9. 邪気と闘いの予感

 突如、闇の中で鈴の音が高く鳴り、宮司の道忠が幣をかざして声を張る。

「穂積健吾、今こそ破邪の力を解き放て! 布都御魂大神の威を示すのだ!」

 健吾は呼吸を整え、背中から汗をにじませながら剣形を高く掲げた。体を突き抜ける痛みをこらえ、祝詞を最大限の声量で口にする。

 暗闇がごうっと揺れ動き、まるで音が振動するように拝殿の柱が軋む。巫女たちがその場に伏せ、神職が何人か倒れ込むなか、健吾はなおも踏みとどまる。

 その瞬間、男の瞳が光り、「ふん……破邪など戯言。物部を再興させるわけにはいかん!」と拳を握り締め、さらに黒いオーラを放出した。社殿の奥にいた神職が悲鳴とともに後退し、照明や設備がばちばちと弾ける音を立てる。

 闇とわずかな結灯台の光がせめぎ合い、拝殿はまさに混沌の一歩手前。健吾は唇を噛み、「ここで退けば、琴音が……俺の大事な人が……!」と奮起する。

 男が不穏な声で笑いを上げ、視界がゆがんでいくところで、健吾は剣形を振り下ろしながら叫んだ。

 「うおおおお……っ!」


10. 暗闇に沈む社殿

 最後の声とともに、拝殿全体が閃光に似たものを放ち、次の瞬間にはさらに深い闇が押し寄せる。ご神鶏の声は完全に消え失せ、ただ邪気と破邪の力がぶつかり合う衝撃音が木霊するばかり。

 社殿の外の風がうなり、落ち葉が舞い散る音が微かに聞こえた。呪詛と祝詞とが激しく衝突し、拝殿の灯火は瀬戸際に揺らぐ。健吾は痛みと光に焼かれながら、必死で意識を繋ぎとめる。

 (ここで負けたら……すべてが終わる。琴音……死なせない……!)

 男の冷たい瞳が闇の奥に光り、健吾の剣形がかすかな聖なる光を灯す。それぞれの力が正面から衝突する刹那、闇に包まれた社殿が深い鳴動を起こし、まるで世界が二つに裂けるような感覚が駆け抜けた。

 ——鎮魂祭が絶頂へ向かうこの瞬間、物語は最終局面を迎えようとしている。

 漆黒に沈む拝殿。響き渡る鈴の音、呪詛のうめき、破邪の閃光。そして健吾の必死の雄叫び。

 夜の石上神宮で繰り広げられるこの激突は、いままさにクライマックス手前の最大限の緊張を孕み、次の一瞬、すべてが爆発するかのような空気を漂わせていた。

破邪と呪詛が真正面から衝突する夜の闘い。神職の声が途切れ途切れに聞こえ、ご神鶏の鳴き声も消え去ったまま、結灯台の炎だけがかろうじて社殿の暗闇を照らしている。

 次の瞬間、闇が激しくうねり、神職たちの悲鳴が重なって響く。健吾の視界が一瞬白く染まり、男の狂気に満ちた笑いが拝殿内を裂いていくのだった——。


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