Chapter 9 鎮魂祭への布石
十一月も下旬に差しかかり、奈良の朝は冬を感じさせる冷気に包まれはじめた。紅葉も色づきのピークを過ぎ、木々は落葉を迎えて風に散りながら、来る冬へと静かに移ろっている。
一方で石上神宮の境内は、11月22日に斎行される大切な神事、鎮魂祭に向けて忙しさを極めていた。宮司・物部道忠をはじめとする神職たちは、早朝から社殿を清め、古書や神具を点検し、儀式で使用する舞台を整備している。
1. 石上神宮、例年になく張り詰めた準備
石畳の参道を歩くと、落ち葉が淡い茶色のじゅうたんを作っており、ご神鶏の一団が境内の一角で小さな声を立てている。普段はのんびりムードの神宮も、この鎮魂祭前は独特の緊迫感が漂う。
幣殿や拝殿の周辺には、歴史的な神具や巻物が並べられ、神職や巫女が確認の声をひそやかに交わしていた。
「鎮魂呪法の古書は、こちらの箱に……。はい、先代から伝わる巻物もすべて揃っています」
「神宝の剣形や鈴、そして灯明の用具など、今のうちに最終点検を」
バタバタと走る足音のなか、宮司の道忠が落ち着いた口調で指示を出す。「くれぐれもミスのないように。鎮魂祭は日程を変えられない。万全の体制で臨まねば……」
道忠の横顔には普段よりも厳粛な色が宿り、周囲の神職たちも背筋を伸ばして応じる。外では冷たい風が吹きすさぶが、神職の衣擦れの音が、どこか張り詰めた緊張感をさらに煽るようだった。
2. 健吾、修行の日々へ
そんな中、穂積健吾は、朝から石上神宮の社務所の一室に籠もりきりだった。卜部琴音の命が風前の灯火となる中、少しでも早く破邪の術をモノにしようと必死だ。
健吾は、宮司が渡してくれた古い祝詞の写しを読み込み、さらに巫女・物部沙弥香の指導のもと、剣舞のような独自の儀式動作を身に刻み込んでいた。
「……この剣を胸の高さで捧げ持ち、息を整える。祝詞は腹から声を出して、言霊を震わせるイメージで……」
沙弥香が優しい声で説明すると、健吾は汗を拭きながら、何度も動作を繰り返す。神剣の代わりに使う木剣を両手で握りしめ、床に足を踏みしめて深呼吸。
「ふぅ……っ。はぁ……分かりました、やってみます」
だが、その工程は想像以上に体力と集中力を要した。肩で息をしながら、「こんなに……大変なんですね」と苦笑いする健吾。
沙弥香は穏やかな笑みを浮かべながら、祝詞を手本に唱えてみせる。澄んだ声が部屋の空気を清めるようで、健吾はその声に合わせて必死に真似していく。
「もともと物部氏は破邪や護国の役目を担う家系とも言われますから、あなたにも資質があるはずです。ただし、技術だけでなく心の在り方が大切。雑念を払い、琴音さんを救いたいという純粋な想いを祝詞に乗せるのです」
「はい……。俺、必ず琴音を救いたい。それだけは絶対に揺らがない」
その言葉を聞き、沙弥香はホッとしたように笑みを返す。「なら大丈夫。その方のためにも、続けましょう」
3. 修行のステップ:祝詞と剣舞
狭い稽古用の部屋で、健吾は木剣を頭上にかざし、腹から声を張り上げる。
「ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のますあせえほれけ……!」
基本の「ひふみ祓詞」。口にするたびに、祝詞独特のリズムが身体の奥へ染み込んでいくような感覚がある。古代から続く言霊の力——それが健吾の胸に温かい光を灯し始めるのを感じ、同時に全身が熱を帯びてくる。
「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ……」「十種祓詞」の一節、「布留の言」は、十種神宝の力で死んだ人でも生き返るほどの元気がいただける、霊力の強い言葉だと言われている。
「……どうやら、少しずつコツを掴み始めたようですね」
道忠がふと現れ、健吾の所作を見定めながら言う。紙をめくって古い文献を示し、「これが当神宮に伝わる ‘破邪剣舞’ の基礎。かつて物部氏が邪を断ち切るために舞ったとも伝えられます。あなたの中に流れる血が反応しているかもしれません」
健吾はその文献を覗き込み、墨書きされた古図やメモに目を凝らす。刀を振る独特の軌道と、祝詞の節回しが詳細に記されていた。
「不思議だ……これを読みながら動くと、身体の芯が燃えるような……。まるで自然に体が覚えているみたいな感覚があります」
「それこそ、穂積氏×物部氏の同祖の血。饒速日命を祖とする流れが、現代に息づいているのかもしれません」
道忠の声には期待と重厚な責任感が滲んでいた。「十一月二十二日、鎮魂祭であなたには ‘破邪の神事’ を担ってもらいます。時間がありませんが、どうか死に物狂いで修めてください」
健吾は拳を握り込み、「分かりました。あと数日……まるで無謀かもしれないけど、やるしかない」と息を吐く。琴音が瀕死の状態で病院に横たわっている姿が脳裏をよぎり、胸が熱くなる。
(間に合わなきゃ意味がない。死ぬ気で修行するんだ。そうすれば、きっと琴音を救えるはず)
4. 龍馬の暗躍:呪詛の完成へ
同じ頃、街の中心部にそびえるオフィスビルの一室では、黒いコート姿の石川龍馬と、その部下・藤堂が静かに怪しい儀式の準備を進めていた。
薄暗い室内の机の上には、護符や儀式用の文様が描かれた紙が散らばり、電子機器のモニターには不穏なデータが並ぶ。龍馬は椅子に深く腰掛け、指先で護符を弄びながら闇の気配をまとっている。
「……もうすぐ鎮魂祭か。卜部琴音はギリギリまでもちこたえているようだが、その苦しみも長くはないだろう」
藤堂がモニターを確認しつつ報告する。「病院の内部から得た情報では、本当にいつ死んでもおかしくない状態だそうです」
龍馬は退屈そうに頷き、「まあ構わん。死にかけてるならそれでよし。だが、万が一、奴らが何かしらの ‘破邪’ に成功して、物部の血を救うような真似があれば面倒だからな。鎮魂祭でとどめを刺す……徹底的にな」
その声はまるで壊れた情念を抱える亡霊のよう。蘇我馬子としての恨みを晴らすため、千四百年を生きてきた狂気が透けて見える。
藤堂は慎重に言葉を選ぶ。「はい……私も呪詛の最終段階を整備中です。石上神宮は霊威が強い場所ですが、それを逆手に取って反動を増幅すれば、破邪ごと壊滅できるかと」
龍馬の唇が薄く歪む。「それでいい。徹底するんだ。今度こそ物部を逃がさない。この国を再び ‘蘇我’ の手に取り戻す……」
脇机には飛鳥時代の史料が開かれ、丁未の乱や乙巳の変の記述が走り書きされている。龍馬はその文字をなぞるように指を動かし、かつての記憶を呼び覚ましていた。
5. 琴音の病室:ぎりぎりの命
翌日、健吾は石上神宮での稽古を終えるとタクシーで病院へ急行した。夜の面会時間ギリギリに間に合い、琴音の病室へ入ると、佐久間と静香が交互に付き添っていた。
琴音はまばたきもままならない様子で、管だらけの身体を微かに震わせている。モニターが警告音すれすれの数値を断続的に鳴らすが、医師も「これ以上打つ手がない」と首を振るばかりだ。
佐久間が小さく溜め息をつき、「医師には転院の話をしてみたけど、やっぱり難しいな。本人がこの状態じゃ、移動中に容態が尽きる可能性が高いって……」
「そうか……。ありがとう、いろいろ動いてくれて。でも、何とか持ちこたえてほしい。俺は今、破邪の術を必死で身につけようとしてるんだ」
健吾の瞳には焦りが色濃く浮かんでいた。きっとあと数日で鎮魂祭が始まる——そこまで琴音が生き延びれば、あるいは奇跡が起きるかもしれない。
静香が目に涙を溜め、「本当に呪いなんて……信じがたいけれど……もしあなたが破邪を成功させられるなら、どんな奇跡だって待ってると思いたいわ」と声を震わせる。
健吾は力強く頷き、そっと琴音の頬に手を伸ばす。「もう少し……耐えてくれ。絶対に助けてみせるから」
6. 深夜の稽古、沙弥香の導き
翌夜、健吾は再び石上神宮へと向かい、閉門後の静かな境内を沙弥香に案内されながら修行を続けていた。
拝殿の灯りは落とされ、細い提灯の光だけが神楽殿周辺を照らす。夜気は冷たく、鼻先や指先がかじかむほど。それでも健吾は木剣を握り、必死に身体を動かす。
「この動作のとき、心臓の鼓動と祝詞のリズムを一体化させます。息を吸って ‘ひふみ、よいむなや、こと、もち、ろらね……’、吐くときに刃筋を通す」
沙弥香の優しい声が静まりかえった拝殿に響く。神域の闇を破るように、健吾は剣先をしなやかに振り下ろし、同時に強く祝詞を唱えた。
「……ひふみ、よいむなや、こと、もち、ろらね……!」
一瞬、神剣の写しが手の中で微かに光ったように感じる。頭の奥で、石上神宮の主祭神・布都御魂大神が鼓動するかのように波動が伝わり、健吾の胸が熱くなる。
沙弥香は息を呑み、「すごい……いま確かに光が揺らいだ気がしました。布都御魂大神の破邪の力が、あなたの意志に反応しているのかもしれません」と瞳を輝かせる。
健吾は肩で息をし、「正直、自分でも何が起きてるのか分からない。でも、体の奥が ‘燃えるような力’ を感じるんだ……。これなら龍馬にも対抗できるかもしれない」
夜風が社殿を吹き抜け、ご神鶏が遠くでかすかな声を上げる。かの鶏たちは鎮魂祭の準備が分かるのか、どこかいつもと様子が違う。
沙弥香はそっと健吾の袖を掴む。「でも……その男は本当に危険だと思います。宮司様も、ここ数日で強い邪気のようなものが奈良の空気に漂うのを感じるとおっしゃっている。気を抜かないで」
「分かってる。あいつは ‘蘇我馬子の転生’ を自称し、物部の血を断つとか言ってた。琴音に止めを刺す気だ。俺は絶対に阻止する。石上神宮には、鎮魂祭の最中に乱入するんじゃないかと思う」
沙弥香は瞳を伏せ、結灯台の揺れる炎を見つめる。「……だからこそ、健吾さんの破邪が必要なんです。私たち神職だけでは、蘇我馬子の転生体の呪詛を完全に退けられるか分からない。物部と穂積の血を合わせ持つあなたなら、きっと……」
健吾はその励ましに微笑み、「がんばる。琴音を助けられるなら、俺は命を賭けてもいい」と告げ、剣を握った掌を改めて固く結んだ。
7. ラストスパート、鎮魂祭の前夜
さらに二日が過ぎ、いよいよ11月21日。石上神宮では総仕上げの準備が行われていた。幣殿や拝殿に捧げる神饌のチェック、当夜に使う灯明や神具のレイアウト確認、そして鎮魂呪法の古書の最終点検。
健吾も朝から神宮に詰め、沙弥香とともに修行を続けるが、夜になって病院へ駆け込み、琴音の容体を確認するという往復を繰り返す日々。身体は悲鳴を上げていたが、彼の心が折れることはなかった。
一方の琴音は、奇跡的にまだ息を繋いでいた。医師は「不思議だ……こんな状態で、どうやって持ちこたえているのか」と首を傾げるばかり。佐久間は「まだ望みは捨てられない」と静香を励まし、病院内であらゆるサポートを担っている。
そんな彼らの努力とは裏腹に、龍馬はビジネス街で最後の呪詛の算段を固め、藤堂が裏から病院内の情報を探っている。陰と陽が背中合わせになり、鎮魂祭の前夜へ向けて緊迫感が極まっていく。
8. 祭りの刻限、決断の夜
11月21日の夜遅く。拝殿前に集められた神職たちが道忠を囲むようにして最終会議を行っていた。
「明日、11月22日の夕刻から天神社・七座社の例祭を行い、その後本社で鎮魂祭に移る。鎮魂呪法と古式の儀を厳粛に進め、深夜前には終わる見込みだ。――しかし、もし外部の邪気が乱入してきた場合、警戒態勢を取らねばならん」
道忠は幣を両手で支え、渋い面持ちで一同を見回す。沙弥香を含む数名の神職が心配そうに顔を合わせる。
「正直、石川龍馬なる男が何者かは断定できません。だが、この神宮に強い邪念が迫っているのは確か。皆で協力し、社殿を守り抜きましょう。鎮魂祭の日程は古くから絶対に動かせない。何としても当夜にすべてを無事終えねば」
神職たちが固く頷き、それぞれが配属先の仕事に戻っていく。最後に道忠は健吾と目を合わせ、「あなたの破邪の術が鍵になる。もし乱入があれば、布都御魂大神の霊威を解放し、呪詛を払うのだ」と重々しく告げる。
健吾は浅く息を飲んで、「はい……琴音を救うためにも、必ずやり遂げます」と応じる。胸の内に不安が渦巻くが、それ以上に強い決意が燃え盛っていた。
9. 夜の電話、佐久間からの報せ
その夜、社務所で休んでいた健吾のスマートフォンに着信が入る。画面には佐久間の名前。
「もしもし? どうした、こんな時間に」
受話口から佐久間の低い声が響く。「琴音ちゃん、正直やばい。いつ息が止まってもおかしくない状態だけど、なぜか心拍だけギリギリ維持してる。医師も『奇跡的』って言ってるんだ……」
「そっか……まだ……生きてるんだな」
ほっと胸を撫で下ろしながらも、崖っぷちである状況に変わりはない。健吾は唇を噛む。
「もう鎮魂祭は明日の夕方だろ? 間に合うのか……?」
「分からない。でも……頼む、あと一日だけ琴音が持ちこたえてくれれば、俺はそこで全力を尽くす」
佐久間は静かに息を吐いて、「お前、本当に凄いよ。俺が同じ立場ならとっくに諦めてるかも。……こっちは出来る限り病院で粘る。お前は鎮魂祭に全力注げ。信じてるぜ」と言い残す。
健吾は電話を切ったあと、暗い社務所の一角で手を合わせるように頭を垂れる。心から神々に祈りを捧げながら、「琴音……待っててくれ、必ず助ける」と強く呟いた。
10. 夜明け前、決戦への準備
迎えた11月22日の朝。空は雲が低く垂れ込み、雨が降り出しそうな気配さえある。石上神宮の境内は既に多くの神職や巫女が行き交い、最終的な祭事準備を進めていた。
健吾は拝殿へ向かう石段をゆっくり上りながら、昨晩までの剣舞稽古を思い返す。肩や腕は痛みを訴えているが、不思議と心は冷静だった。(まるで、これまでの修行が一つにまとまっているような感覚……)
巫女姿の沙弥香が荷物を抱えつつ駆け寄ってくる。「おはようございます。今朝も早いですね。どうか体調は……?」
健吾は微笑み、「大丈夫。これだけ必死にやってきたんだ。今晩の鎮魂祭に全力を注ぐだけ」
沙弥香は安心したように頷き、「きっと、あなたなら大丈夫。私も精一杯お手伝いします。一緒に破邪の力を……」と言葉をかける。
この後は夕刻に天神社・七座社での例祭が行われ、夜に本社拝殿で本格的な鎮魂祭が始まる。終わる頃には深夜近く。その間に、龍馬が姿を現すかどうか——何も分からないが、確実に激突の予兆が漂っている。
健吾は木剣を握りしめ、心の奥で琴音の顔を思い浮かべた。(絶対に守る……これが俺に課された使命なんだ)
——こうして、決戦の日・鎮魂祭へ向け、最終的な布石がすべて揃った。
石上神宮に渦巻く緊迫感、龍馬が狙う物部の血の断絶、そして琴音の命を繋ぐ一筋の望み。時は夕刻を目指し、物語はクライマックスへ加速していく。誰もが息を詰めて見守るなか、健吾の破邪の力が試される瞬間が近づいていた——。