Prologue 紅葉にけぶる古都、はじまりの記憶
呪われた宿命に抗う恋が、神々を動かす
古都・奈良を舞台に、呪詛に囚われた恋人を救うため奔走する青年。
閉ざされた運命を打ち破る鍵は、祈りと神事、そして切なる愛。
朧げな闇の先にあったのは、二人を見守る神々の奇跡――
血塗られた千年の因縁を超えて響く、熱い想いの物語。
黒い雲が夜空を覆い尽くす。どこからともなく上がる炎の赤が、闇の輪郭を歪ませていた。そこかしこに散らばる破片のような剣の残骸と、燃え落ちる建物のきしむ音。血の匂いが、鼻先を突き刺す。
——斬り結ぶ武者たちの叫び。焼け焦げた柱の向こう側では、刀が火花を散らし、何かを失う悲鳴が轟く。
「……やめろ……!」
気づけば、穂積健吾は声にならない声を上げていた。荒れ狂う戦場の真ん中で、身体が凍りついたように動かない。切り結ぶ刃が闇を裂き、誰かが苦しげなうめき声を上げ、紅蓮の炎が空を焦がす。
周囲から聞こえるのは“物部を絶やせ”“仏を崇める我らに抗うな”という混じり合った怒号。だが、どちらが敵で、どちらが味方なのかもわからない。
血ぬられた刀が健吾の足元に落ち、地面が濡れている。焦げた木片が舞い落ち、咄嗟に腕をかざすが、熱さの感覚もなく、ただ息苦しさだけがこみ上げる。
どこか遠くで、誰かのすすり泣きが聞こえたような気がする——。
そこで、ぷつりと意識が切れる。健吾は唐突に目を覚ました。
しっとりと汗を含んだシーツが背中に張りつき、胸はまだ早鐘を打っている。ビジネスホテルの天井がぼんやりとした光を放ち、ベッド脇の時計は朝の五時半を指していた。
「また……同じ夢か」
寝苦しさを振り払うように、健吾はゆっくり上半身を起こす。昨夜、奈良に着いたばかりだというのに、まるで歓迎されない悪夢のお出迎えに、苦笑する気力もわかない。
冷たい水で顔を洗い、ふと鏡に目をやると、やつれた自分の顔が映った。官僚を辞めたばかりの疲労と迷いが、そこに濃く刻まれているようだった。
——どうしてこんな夢ばかり見るのか。激しい戦場、燃える仏像、血塗れの刀……。
子どものころから断続的に見てはいたが、最近はひどくなっている。もしかしたら、この奈良という土地が夢を刺激しているのかもしれない。
スマートフォンを手にして、東京にいる祖母から夜中に来ていたメッセージを確認する。
「奈良にちゃんと着いたかい? 落ち着いたら連絡しておくれ」
高校時代からずっと祖母に面倒を見てもらっていた。父は大学教授で民俗学を研究していたが、健吾が官僚になった直後、母と共に交通事故で亡くなっている。
そのころ聞かされた「うちの穂積家は、物部氏につながるかもしれないんだ」という父の遺言めいた言葉は、当時は半信半疑だったが……いまはなぜか脳裏に張り付いて離れない。
「やっぱり……ここまで来たからには、父さんの足跡を辿るしかないかな」
ベッドから立ち上がり、窓のカーテンを開けると、奈良の街が薄青く染まっていた。遠くの山並みがかすかに浮かび、幾重にも重なった紅葉がぼんやりと朝靄に溶けている。
東京とは違う、しんとした空気。聞こえるのは、ビルの向こうから流れてくるかすかな車の音と、朝を迎える気配だけ。鹿の鳴き声がここまで届くかは分からないが、確かに空気が違う。胸の内のざわつきが、どこか落ち着かないまま刺激されていく感じがあった。
これから数日、奈良に滞在して“先祖探し”とも呼べる行動を起こすことになる。官僚を辞めた直後に、自分でもよく分からない衝動で来てしまったが——
(父さんが中途で終えた民俗学の研究、それに物部の血筋……本当に俺と関係あるのか?)
そんな問いを抱えながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口含む。少しだけ身体が目覚めた気がした。
「よし……まずは朝の散歩だ。コーヒーでも飲める店があるといいけど……」
軽く準備を整え、財布とスマートフォンをポケットに入れる。時計は六時を少し回ったところ。地元の人は出勤や通学にそろそろ動き出す頃だろうか。
この街に来て初めての朝を満喫するには、歩いてみるのが一番いい。紅葉の名所や古い寺社は、昼間にゆっくり訪れればいいが、早朝の古都には別の顔があるはずだ。
シャツの襟を直し、ジャケットを羽織ってホテルのドアを開ける。外へ出ると肌を刺すような冷気が一気にまとわりつき、目が覚める思いだ。
ビルの合間にちらりと見える空は灰色を帯びているが、やがて東のほうがわずかに白んでいる。地上では落ち葉が路肩に集まり、清掃員の人影が通りを掃き始めている気配がした。
何気なく大通りを離れ、細い路地へ足を向けると、木造の古い建物が軒を連ねているのが目に入る。新しめのコンクリート造りの建物の合間に、唐突に町家を思わせる古宅が挟まっているのも奈良らしい光景だ。
観光客向けの土産店らしきシャッターはまだ下りたままだが、どこかで誰かが朝の仕込みを始めているのだろう。香ばしい湯気や音がほんのり漂ってきて、思わず足を止める。
(……こういう路地を歩くの、久しぶりだな。東京の味気ないビル街とは違う、落ち着いた雰囲気がある)
古い瓦屋根の隙間から、薄い金色の日差しがこぼれ始める。よく見ると道路脇には柿の木が植わっており、オレンジ色の実が風に揺れていた。そろそろ収穫の終わりかもしれない。
少し鼻をすすると、乾いた冷気のなかに甘い香りが混じる気がした。ふと胸にこみ上げるのは、幼いころに父や祖母と話した断片的な思い出。あのころは「穂積家の先祖が奈良にルーツがある」なんて聞いてもぴんと来なかった。
(でも、官僚という枠から外れた今、こうして自分の過去や家系を見つめ直すことになるとは……)
どこか心細さを覚えながらも、健吾はその不安を振り払うように歩を進める。悪夢の中の戦場の残像がまだ瞼の裏に焼きつき、胸をきしませるが、奇妙な高揚もある。
やがて小さな十字路に出たとき、看板が目に入った。まだ開いてはいないが、町屋を改装したとおぼしき喫茶店の文字が見え、“7時開店”と書かれた札が掛かっている。
(いいな……こういう店で、のんびりコーヒーを味わえる日々が過ごせればいいんだが……)
心の中に、ささやかな期待が広がる。東京のように急かされる生活ではなく、奈良の静かな空気を感じながら過ごす時間——そこにこそ、今の自分が求める安息や手がかりがあるかもしれない。
(そうだ……父が未完だった研究の続きを、もし俺が辿るなら、この街の図書館や神社仏閣を巡って、物部氏の痕跡を探すんだ。そうすれば、あの“血塗れの戦場”の悪夢の意味もいつか分かるかもしれない)
そう思うと、踏みしめる路地の石畳がどこか頼もしく感じられる。古都の街並みは、朝の光を受けて少しずつ色彩を帯び、瓦屋根から立ち昇るような薄い湯気に紅葉の赤が差し込み始めていた。
高いビルの谷間ではなく、低い家並みの向こうに山の稜線が浮かぶ。この静かな街には、千四百年以上もの歴史と伝承が息づいている。心の底で、いつか自分の“宿命”と呼べるものと邂逅するような胸騒ぎがした。
「ここで、俺はいったい何を見つけるんだろう……」
問いかけに答えるものはいない。ただ、朝の冷たい空気だけが、千四百年を超える古都の神秘をそっと語りかけるように沁み込んでくる。
遠くから微かに鹿の鳴き声が聞こえるのは気のせいだろうか。
時間が経てば、きっと店も開くだろう。どこかで素敵な一杯のコーヒーにありつけるかもしれない。そんな予感を胸に、健吾は歩き続ける。
紅葉にけぶる古都の夜明けが、ひそやかに“新たな物語”の幕を上げようとしていた。
このあと彼は知ることになる。血と因縁の宿った“物部”の名が、卜部家と絡み合う呪いを解き放つまでの長い闘いを……そして、その先に待ち受ける運命の出会いを——。