Stylist
今日で最後か。
小山隼人は交差点の信号につかまり足を止めた。同じく足止めをくらった人の群れ。雑踏から垣間見えるショーウインドウに映る自分に気づき、春の風で少し乱れた髪を直す。
ヘアワックスで作り過ぎない自然なスタイリングをしたヘアスタイル。さり気無く流行を取り入れたヘアスタイルは、隼人の端正な顔立ちとファッションに合っている。そのセンスの良さから街で声をかけてくる勧誘に、「ご職業は美容師さんですか?」と言われることも多い。しかし、隼人は有名外資系企業勤務のサラリーマンだ。本当はアパレル系の職種に就きたいと思っていたが、分岐点で選択ミスをしていまの会社に勤務している。
信号が変わり雑踏が動き出す。その波に乗り足を踏み出す。
別れの季節の三月、その最後の日曜日。隼人は行きつけの美容院に向かっている。
春の風に揺れる髪。気に入っているヘアスタイル。理想のそれにカットしてくれる美容師、スタイリストと出会うまで何年もの歳月をかけた。
親が買い与えてくれる服に抵抗を感じ始め、自分の金でファッション雑誌を買い服にも髪型にも興味を持ち始めた頃から、隼人は理想の髪型にしてくれる美容院を探していた。口頭で自分のイメージするそれを伝えるのが苦手な隼人は雑誌の切抜きや、ネットで拾った画像を印刷や携帯電話で撮り持参して伝えたが、納得する仕上がりにはならなかった。何軒も美容院を渡り歩き、カットの上手いスタイリストを捜し求める日々が続いた。
何年も美容院ジプシーを続けていたある日、ガラス張りの新規開店の美容院を見つけた。いつものように期待せず、予約もせずに飛び込みで入ったその店で旅は終わった。
何も持参せずに行き、苦手ながらも口頭でなりたい髪型を伝えた。担当したスタイリストの小川雅也はいままで行った美容院のスタイリストは違っていた。話の腰を折ることも否定することも、自分の提案を押し付けてくることもなかった。
真剣に耳を傾けてくれた小川は、隼人の容姿、ファッション、頭の骨格、髪質、クセのバランスを見て理想の髪型に仕上げてくれた。それだけではなく髪が伸びるとどうなっていくのか、未来を見据えた髪型を作ってくれた。カットの施術も手際が良く早くて丁寧、その最中の会話も煩わしくない程度の会話。まさに捜し求めていたスタイリスト。小川は施術の腕もさることながら、過剰な程に整った顔立ちで長身。第一印象は同じ男として悔しさを感じてしまうほど、正直苦手なタイプの男だった。しかし、施術後は好意的なものに変わっていた。
(…もう十年以上の付き合いか)
先日行ったときに小川から教えられた年数。
あの日から通い始めて十年以上。いまでは一言二言なりたい髪型を伝えるだけで、イメージは伝わり、任せると言えば色々と提案してくれる。何年も通い続けているにも関わらず、同じ髪型になったことがない。流行先取りのそれは男女問わず周りからの評判も良く、美容院と担当を聞かれる事も多い。
いまでは小川のことを職種は違うがリスペクトさえしている。彼とは服の趣味も合い、収集しているモチーフも同じ、好きなシルバーアクセサリーブランドも同じ。友人以上に趣味や価値観が合う。プライベートも無駄に踏み込んでこない。
心地のいい距離感を保ってくれる小川のいる美容院に一ヶ月おきに通ううちに単なる客とスタイリストという域を超えた思いを抱いていることに気がついた。同時に自分の奥底に隠れていたセクシャリティ、―ゲイ寄りのバイセクシャルだということに。新しい発見に驚きはしたが、動揺、困惑、戸惑いといった種類の感情を感じることはなかった。それは元々恋愛もセックスも気持ちが良ければいいと思っているからだ。
「………」
(今日は人が多いな。花見客か?)
桜の開花ニュースを思い浮かべた頭の中の映像が切り替わる。
まるでその場面だけを切り取ったかのように蘇る先日の小川との会話。実は小川から自分を担当している年数を教えられる―――その言葉の前に衝撃的なそれを聞かされていたのだ。
いつものように会話を楽しんでいる途中、ふいにそれが途切れた。
どうした?と隼人は目線を上げて鏡に映る背後にいる小川に視線を遣る。
「小山さんにお伝えしなければならないことが…」
あらたまった表情に指名客を多く抱えている小川のことだ、あぁ、店舗移動か、と思った。
小川が勤務している美容院は大きく系列店が何軒かある。何年かの周期で店舗を変わる。その度に隼人は小川を追いかけてその店に通った。いま通っている店も初めて行った本店ではなく系列店だ。いまの店はお洒落な街として有名な場所にある。好きな街でもあるが以前通っていた閑静な街にある店の方が好きだ。その店舗に移動がいいな、と勝手に思っていたのも一瞬、次の瞬間、小川の口から出た言葉は…―――。
「急で申し訳ないんですが、今月いっぱいで退職することになり…」
隼人は思いもしなかった『退職』の二文字に、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受ける。「え?」思わず間抜けな声を上げて背後にいる小川を振り仰いで言う。
「何で?」
「結婚するので…地元に帰ることにしたんです」
間髪入れずに落とされた言葉。
退職、結婚?、小川の続く言葉は耳に入らず、衝撃的な二文字が頭の中で反復する。考えや思いもしなかったといえば嘘になる。幾ら趣味や価値観が同じでも、セクシャリティは別だ。恋愛対象が異性のみの小川から、いつか『結婚』という言葉を聞く日が来るだろうとは思っていた。けれど、その二文字は思っていた以上に心に突き刺さった。
そしてとどめの『退職』は思ってもいなかっただけにダブルパンチだ。店を移る度に追いかけて行っていたが、小川の地元は遠方、飛行機を使わなくてはならない遠距離。気軽に通える場所ではない。隼人は予期していなかった事態にショックで表情を無くしたのも一瞬。すぐに慌てる素振りも感じさせずにハッキリとした声と口調で言った。
「おめでとう」
「小山さんと趣味が合いそうな子に引き継ぎたいと思うんですが…」
そうすまなそうに小川は言って、以前アシスタントに付いていたいまスタイリストとして働いている女のことを話し始めた。アシスタントのスタッフの入れ替わりが激しい中で、唯一名前を覚えている女だった。
気に入らなかったら店を変える、と意地悪っぽく笑えば、小川は少し困った顔で本人に伝えておきますと笑い返した。
結婚はいい。だけど店を辞めるな、など言えるはずもなく隼人は心の叫びをひたすら隠し、小川との会話を楽しんだ。
小川が寿退職をすると知ったのは、海外出張から帰った今月の頭だった。
今日隼人のヘアスタイルを何年も作り続けた小川が美容院を辞める。その最後の日に予約を入れた。一ヶ月に二度も行くのは初めてだ。
(喜んでくれるかな?)
隼人の手には小川が好きだろう品物が入ったショップの紙袋。小川に対する恋愛感情を抜きにしても、十年以上も世話になったのだから何か贈りたい。本当は抱えきれないほどのバラの花束を贈りたかったが、最後の最後で嫌な印象を持たれても困る。色々と考えて国内では手に入らない品をネットで注文した。予約日ギリギリに届いたそれに手書きのメッセージカードを添えた。感謝の気持ちを綴り、控えめな言葉と一緒に少しだけ期待を込めて、自宅の住所と携帯電話番号を書いた。
隼人の視線の先には、初めて行った本店と同じ外装のガラス張りの店舗。
バカなこと口走るんじゃないぞ、俺、と隼人は胸中で自身に言い聞かせ、大きく足を踏み出す。
「小山さん。いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
いつものように来店した隼人を迎えたのは、数いるスタッフではなく小川だった。
真っ白な内装の店内に通される。
(今日で最後か)
小川の施術を受けられなくなるというよりも寂しさが込み上げる。二度と会えない訳ではないが遠距離過ぎる。否、地球の反対側ではなく同じ国内ならば会おうと思えば会える。そうだ、自分の店を持ったら連絡してくれと言えばいい。メッセージカードに携帯電話番号も書いたじゃないか、と考えていた隼人の頭に『結婚』という二文字が不意に浮かぶ。
隼人は結局何も言えないまま、小川の最後の施術を受け、紳士的な振る舞いで持参した品物を渡して店を後にした。その足で行きつけのバーか、同じセクシャリティが集まる街に行こうと足を向けたが、途中で進路を変更して自宅に戻った。ひとり自宅マンションのリビングでソファに腰掛け、ショットグラスに満たした度数の高い酒を煽る。
何気に視線を遣った置時計の時間は夜の十二時。夕方からずっと飲んでいても、酔えない。
(今日付けで長年の片思いも終わりか)
テーブルの携帯電話が着信を知らせる。画面の非通知表示に一瞥をくれただけで、隼人は電話に出ず無視して空になったショットグラスに酒を注ぐ。が、鳴り止まない電子音。舌打ちして液晶画面を指先で操作して出る。無愛想に出れば、すぐに聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。その声に驚いて言葉を失う。
「実は店を辞めた理由は…―――」
最高のスタイリストは隼人の気持ちまでカットすることは出来なかったようだ。
FIN