ああ古代檜から吹く風は
小紫那珂からの廻商路は、今や薬売りとして商売の形を成したばかりの350年前と比べて数えきれないほど多い。殊に100年前の維新から国の大動脈である大道、町と町を結ぶ地方連絡道の整備、拡充が進み、それに応じて廻商ルートも網の目のように広がったという。
起点の高林製薬から目的地までの旅路に特に制限はかけられておらず、結果が出れば好き勝手やってよいという放任主義が貫かれた。高林製薬としては、多少の道草は許すから新掛けをしてこいというのが本意であったが、薬種商の実情はどうかと言われれば、大半は相も変わらず古道を往来していた。古道を選ぶ利点として、一つは先代から歩き続けているために休息場や宿泊地を求めて彷徨う必要がないということ、もう一つに歩調を管理しやすいというのがあったが、そもそも既存の掛場が古道沿いに多くあって、わざわざ新道を開拓するのが面倒というのが最大の理由であった。
350年の間、小紫那珂の薬売りによって踏み固められた古道であるが、その成り立ちには浄土信仰が深く絡んでいる。というのは、小紫那珂は浄土信仰の魁偉である愚禿上人の生誕地であり、愚禿上人の布教路をなぞって出来たのが廻商路の原型であるからだ。愚禿上人の布教路は極めて長く、その行程は支流を含めた大河の流路を線に起こしたものよりも複雑である。そのため先代の薬種商は布教路を距離、歩きやすさといった一の基準で区切って廻商路とした。ちなみに黒枝が今しがた歩き終えた明庫奥から東国までの道も、その大部分が古道と重複している。その道は南海道と呼ばれている。黒枝の廻商路も古道の一つで、古道の中でも二番目に距離が長い東国路と呼ばれる道である。
東国路について仔細を述べるのは難しいが、端的にいえば、郷里の雪国を出て、風の強い地方を横断し、大洋沿いの平野に入って南下、列島の東端にある港町で往路を終えるような道である。東国の中で最も東寄りの国は、陽出里の国と霜房の国である。陽出里の国は北側に位置し、その北端は北東国に続いている一方で、霜房の国は南側に位置し、湾を挟んで首都の東都に繋がっている。愚禿上人は霜房には寄らなかったが、薬種商の定めた古道では霜房の漁港を廻商路の果てとしている。理由は明快、大洋随一の漁港であって、宗教的連帯がなくとも儲けが出やすいからだろう。
黒枝の担当していた掛場は霜房の猫鳴という港街と陽出里の粟という村であった。いつも通りであれば陽出里に入り、そのまま古道の地図に従えば双方の掛場を廻ることが出来た。が、今回星備から東国入りするという逆の行程を経てきて、しかも再び星備に戻る必要があるため、掛場の後先を決めておかなければ、無駄な往復を増やす可能性がある。
「霜房に入ったは良いが、随分内陸の方に来てしまったものだ。こうなれば、一旦北上して粟の村を目指すべきだろう。」
春分を控え梅花が散ったこの頃は、平たい畑に土煙の渦が巻きたつ。朝、宿を発つときに見上げた晴天は、正午を境に四方から灰の鼠が密集し始めて見る陰も無くなった。鼠が一斉に小便を垂らすまで寸分の暇もないだろう。膀胱が小さいのか堪え性がないのか、フライングしている鼠がある。黒枝は風雨を凌ごうと無人の堂に避難した。こうした堂は行商人や放浪者が寝泊まりするのに丁度良かったが、近頃相次ぐ土地開発で都市に近い所から順々に取り潰されている。
「取り壊されちゃ休むこともできねえ。」
堂の畳に腰を下ろすや否や、屋根を叩きつける雨脚が強まって、湿った砂の交じる暴風が窓を殴りつけた。黒枝は仏壇の引き出しからマッチを取り出して明かりをつけ、腹ごしらえと行李の棚を開けて東都で買い足した羊羹を探したが、羊羹はおろか、行李の棚にあるはずの食料は全て消えていた。昨夜泊まった宿に盗人でも居たのだろうか。金持ちの家にあるという冷蔵庫を拝んで、行李から食料を出して並べている記憶が黒枝の頭に浮かんだ。
この列島で最も早く陽が昇るという猫鳴の辺りは、古来より醤油、鰯、米といった集積拠点として有名であったから、野田が広がって延々と鄙びた光景が目前に広がっていようと、生活に困らないだけの町が点在している。土地勘があるだけに油断した黒枝は、宿で食料を買い溜めておかなかった。
外では春雷が轟いて、堂を一歩も動けない状態が続いた。掛場の粟村まではまだ遠い。粟村の目印となっている古代檜と呼ばれる霊木が姿を現わしていないからである。
僅かに綻びた天井の隙の真下に置いた雨受皿を取り換えていると、何年も居ついた家のように思えてくる。窓の開閉が気になって障子を開けると、農作業を切り上げただろう老夫が床に寝転がっている。窓向こうの景色は鉛色の雨で埋め尽くされ、外壁の隅に張った蜘蛛の糸の一縷さえ見えない。しばらく雨受皿の取り換えに勤しんでいた黒枝であったが、天井からの雨漏りが増えてとうとう面倒に思い始め、床に寝転ぶ農夫のように仰向けになった。
5分と寝たつもりが、起きると風雨は止んでいて障子は晴天に干した衣のように白んでいる。障子の影は山のない均一であった。老夫は既に去っていた。老夫が起きた時に食料と薬の交換を持ち掛けようとした黒枝の計画は失敗に終わった。黒枝の腹の中で唸りとが鳴りが入り乱れた。
陽出里と霜房の境となっているものは刀禰川という大河である。厳密にいうと因果は逆で、刀禰川を境にして陽出里と霜房の国が分けられたというのが正しい。春疾風の吹く日は、旅客を運ぶ渡し守も往来が絶えたとみて、多くは家でいびきをかいていたり、昼間から酒屋で博打に興じている。船を出したところで、強風のために思うように進まず、ましてや暴風が過ぎた後の逆巻く川面の泥の濁りを見て船中に飛び乗ろうという者もいない。運休は暗黙の了解となっており、川面が落ち着いた後も旅中の者は迂路を辿って橋を渡る。
3年前に竣工したばかりの聞き知らぬ名の橋の中腹で、遠くの風景を見やりつ煙草を一服。右手で欄干に貼りついた雫を一掃いしてから肘をついたが、水滴が布に染みこんでほんのり冷える。
悠々と真下を流れていく刀禰川は遥か昔人為的に流路を変えられたという。見渡す限り四方に平野が伸びているのはこの暴れ川の激濤のせいもあるが、それ以前に東国自体がそもそも広大な湿地帯であったからというのが正しそうである。小紫那珂や他の山間の国のように断崖に囚われて閉塞を感じることがなければ、外敵の侵入を阻む自然の防壁の中で暮らす安堵感というものもないだろう。同じ列島に生まれ、同じ言葉を話すも、その暮らしぶりは北国とは大きく異なるだろう。
ようやく掛場の粟村につくと、黒枝は飢えを満たすため参道へ急いだ。村唯一の大通りは参道に繋がっている。緩やかな勾配の続く参道の果て、古代檜のある社に近づくにつれて、立ち並ぶ常夜灯の間隔が狭くなる。
大通りを進むと、右側に豪奢な楼門が見える。参道横の階段を上がって楼門を潜る道は本殿への近道である。夜になると、参道の中でも絢爛たる朱色の光が最も眩しく輝く場所であるが、あくまで近道であって正門はその先の辻を右に曲がったところにある。
が、今日の参道はいつにもまして人目が離れている。真新しいシャッターが悉く閉ざされていた。これがひと月前であれば、既に日没を迎えていた頃合いだからまだ頷ける。しかし今は春先で日が延びていることもあり、庇に淀む夕影もまだそれほど濃くはない。粟の村民はまだ暦を捲っていないのだろうか。あるいは、この社が半年の間にすっかり頽落したということであろうか。ひとたび流行がすぎれば、信仰も神徳も野辺に捨て置かれるという話はよく耳にするところである。こと黒枝にとっては、心当たる節もある。
「それにしては、社自体の雰囲気は褪せていないな。」
参道に群がる店の戸も全て閉められている。粟の村を訪れると必ず立ち寄る食堂も、シャッターで覆われて中を窺えない。小紫那珂に戻って高林のエントランスにあるテレビを見ていた時、非工業用のシャッターのコマーシャルが流れていて、その高価な値段に黒枝は驚いた記憶がある。参道の中でも食堂は特に潤っていたのだろうが、こんなに早々店を閉めて経営が傾かないのだろうか。
シャッターを叩くも梨の礫であった。裏口に掛かったカーテンの端から店内を覗こうと黒枝が近寄ると、ガラス戸には侵入者の立ち入りを禁ずるかの如く一枚の札が貼られていた。漢字が崩してあって黒枝は読むのに難儀したが、貼られていたのはこの辺りでは特に珍しくもない、参道終点の大檜神社の札である。
「航海安全の札を店に貼るか?」
大檜神社は航海安全の利益があることで有名である。しかし、それ以外に何かあっただろうか。もっとも近頃は、どこそこの誰々が云々という、嘘だか本当だか分からない霊験によって全く関係のない利益が加えられていたりする。屋主は商売繁盛の意味合いで貼ったのかもしれない。黒枝はそう考えることにした。参道に連なる商店のうち少なくともその三分の一は、高林製薬が薬の配置と交換を行っている。しかし、こう入り口を閉ざされていては薬の置き換えもままならない。また、黒枝とていつまでも粟に逗留できるわけではない。逗留日が過ぎれば、後日改めて粟村から近い場所を廻商している知り合いの薬売りに頼んで廻ってもらう他ない。が、それはなるべく避けたい。
「こうなったら奥の手よ。」
粟村で最も留守と無縁な店主といえば箸屋の主人である。箸屋は楼門に続く階段の向かいという粟村一の好立地であるにもかかわらず、人の出入りが殆どない。そもそも箸屋など儲かりそうもないものが何故こんな絶好の位置を陣取っているのか、以前から黒枝には不思議で仕方がなかった。確かに観光地には必ず一つ以上見かけるが、たまの客も店に入ったとて高級木で作った箸を目で舐めるだけ舐めて、箸置き一つ買わずに帰っていく光景しか見たことがない。粟の箸屋も例外ではない。黒枝が訪ねる時はいつも、店主は一人で暇そうに新聞を読んでいる。が、その割に高林製薬との付き合いは村でも一番長く、配置薬の減り具合も良ければ金払いも良いのが実に恐ろしい。
幾人もの薬種商が粟を廻ったが、黒枝は箸屋に大分気に入られていたようである。春廻り、秋廻りと箸屋の敷居を跨ぐたびに、新掛けするから得意先を紹介してくれと黒枝は冗談を飛ばすのであった。それどころか、箸屋の裏の縁側で酒を飲んで一泊して以来、黒枝は毎夜の如く入り浸っていた。晩飯を分けてもらうにはここが一番良い。箸屋の扉は閉まっているが、日ごろ客に飢えているからガラス戸を叩けばカーテンが揺れ動くはずである。
「ごめんください。」
黒枝の読み通り、カーテンの端が揺れ動いた。訪問客が廻商に来た黒枝と分かると、箸屋はさっとカーテンを開いてガラス戸を曇らせた。
「黒枝か良いところにきた。疱瘡除けの薬が欲しくてな。」
「聴き取れん。もう一回言ってくれ。」
「疱瘡除けの薬が欲しい。」
「はあ、疱瘡。」
黒枝は初め、民衆の知恵というものの底無き昏さに慄然せざるを得なかった。というのも、種痘によって疱瘡が根絶されたのはたった数年前の出来事であったからである。疱瘡の根絶は戦後、医薬学の成し遂げた忘れがたい快挙の一つであり、黒枝が聴講を望む小紫那珂の薬学校設立の最後の一押しにもなった。
医学、薬学史上の転換点を迎えた今になって疱瘡、もとい天然痘がぶり返すなどあり得ないし、あってはならないのである。
「旦那、それは別の病気です。疱瘡は根絶されましたから。」
疱瘡神の絵が神棚に掲げられている。描かれていたのは剣を携えた赤鬼であったが、地方によっては藁の巨人であったり武士であったりする。いずれにせよ、どの姿であろうと片手で剣を振り上げている。彼らもようやく振り上げた剣を鞘に戻すことができる世が来て安堵していることだろう。
「黒枝がそこまでいうのなら、別の病かもしれん。食堂の子供が病に罹っているから診てやってくれ。」
「私は薬種商であって、医者じゃない。ですが、」
廻商で何度も繰り返される会話であるが、このありきたりなやりとりが毎度ながら実に伝統ある薬種商の存在意義について問いただしてくるような重厚な響きを伴ってくることに関して、黒枝は無自覚ではなかった。病を治す薬を売り歩いておいて、病を診ることはしない。診療は医療行為として医業に限られると、法によって線引きもされているが、よくよく考えずとも奇妙な話である。昔の薬種商はどうあったのか。かつて過去にも病の恢復を求めて、薬種商を頼る者は多く居たであろう。黒枝は幾たびも解なしの霧幻へ連れ去られたために少しは耐性がついたものの、やはり懲りずに迷走を続けてしまうことが度々ある。
「ですが、病状くらいは診ましょう。と、その前に、、、お夕飯分けてもらえませんか。」
おういと、箸屋が食堂のガラス戸を叩くと、見知った亭主の顔がカーテン越しにぬうっと出た。
休業中の札があるとはいえ、薬を確認しに黒枝が戸を叩いても、庇に溜まった雨水が不揃いに落ちていくだけであったのに、なるほどご近所の結びつきというものは、それなしでは生きていかれないだけあって大変強固なものである。
「種痘の接種は行ったのですがね。」
「はい。」
親の側でもこの病を疱瘡と断定しているらしい。亭主が赤面して床に寝付く子供の枕を変えながら言うには、高熱が続いた後に顔に発疹が出来だしたという。発熱時に医者を呼んだが、診断結果はただの熱に過ぎないということで、病状が酷くなるようなら隣町の病院へ行けと邪険にされた。
「緊急接種の際に打つワクチンを間違えたか、疱瘡自体が変種したか、素人考えだとこの2つくらいしか出てこないですね。」
あるいは種痘ワクチンの打ち所が悪かったのか。急ごしらえで予備の風呂敷を顔に巻いたために目元に風呂敷が引っかかって良く見えないが確かに善感の痕がある。薬種商による診療は医者ごっこの域を越え出ることはない。似た者同士でも、臨床を行う医療従事者であるだけ看護師に診させた方が遥かに精度が良いだろう。
「置き薬を適当に使ってしまいましたけど。」
止熱用の粒状の配置ビンが軽い。
「配置薬の中に、疱瘡用の薬はありません。事情は分かりますが、用法容量をしっかり守ってください。」
と返しつつ、黒枝は柳行李の四段目から升麻と紫根を合わせた牡蛎湯を取って渡した。
「疱瘡に効くという薬です。一週間分、一日二錠朝夜に服用してください。」
種痘を打ってあるのでそこまで重症にはならないでしょう、とは言えなかった。黒枝が薬の説明をしている間、箸屋の主人は疱瘡神の絵をガラス戸の内側に掛けて、目を瞑りながら懸命に手をこすり合わせた。
日の暮れかかる閑散とした参道を、紺の布で顔を覆った怪しい二人組が歩いているさまは、いつか芝居で見た盗賊そのものである。一人のうなじは日に焼けて、地面から垂直に伸びる高い背が悠々と風を斬っている。もう一人のうなじは青白く、カーブを描いた背は鈍重な風体を晒していたが、老練の徴にも見える。
「この辺りに、電話機ってありましたっけ。直線距離でいえば東都からそれほど遠くもないので、村に1台はあるのかと思ったのですが。」
東都までは、隣国の霜房の湾を挟んで凡そ50㎞を割っている。問題は陸運が急速に発達して、物流の主要路が海路から陸路に変わってしまったため、かつて海運に恵まれた町は現役世代が老いる頃にはどこも時代に取り残されたような町並みになるだろう。
「それならうちにある。」
「はい?」
電話機は箸屋の居間の隅の柱に取り付けられていた。設置されてから日が浅い。乾燥で出来た柱のヒビを避けるように釘が打たれている。これまで何度も箸屋に寄って、最も長く売れ残った箸置きの位置を把握できるほどまで箸屋を知り尽くした気であった黒枝が、箸の試用に供される胡麻の在り処ならばいざ知らず、電話機のような大きさの、かつ半ば村の共有物として居間か土間の壁に取り付けられているはずのそれをみすみす見逃していたのには、己の薬種商としての観察眼を買いかぶりすぎていたと反省した。
しかし、いつ来ようとも陳列された箸置きも箸も全く変わり映えがしないというに、一体どこに金をため込んでいるというのか。受話器を掴むもなかなか黒枝の頭から邪推が離れなかった。
「もしもし、、、市外です、、、小紫那珂11局の4514番です。」
交換手の声には色艶が乗っていた。顔を見合わせない職業だが、女の花形となって久しい。彼女らは例え顔を明かさずとも化粧をして出勤するのだろうか。
「もしもし、高林製薬電話窓口の銀野です。」
「銀野さん、私。黒枝です。」
「あら黒枝さん。星備での新掛けは上々だったようで。あ、社にお帰りの際はお気を付けくださいね。丸薬師の鹿深さんが黒枝の野郎と鶏冠を立てながら薬研を擦っていますから。」
「はあ、ご忠告ありがとうございます。」
丸薬の部署へは平安以降、確とした製法が存在していない甘葛の香を作れと無理を言ったわけである、こればかりは仕方がない。
「それでどのようなご用件でしょう。」
「小さいほうの薬袋さんに次いでくれますか。」
「承知しました。」
薬袋は仕事はできるが、全く労働意欲の欠けた男である。社長の息子という身分に甘んじて、退刻時間後の会議などをしばしば欠席する。無論、いずれ社長の座につけば、そういった会議に出るより他にないと彼の方でも承知しているはずで、そのためにあれこれ我が儘を言ってモラトリアムを前借りしているのだと彼の口から直接聞いたことがあった。黒枝は箸屋の扉の窓に差し掛かる橙を一瞥した。薬袋が退勤したか否かは、斜陽の輝度からいってちょうど五分五分であろう。
「どうした、黒枝。」
運よく50%を引いたらしい。
「掛場に粟という村があるだろう。」
「ああ。陽出里の。」
「そこで疱瘡が流行っているから、升麻と紫根の薬を手配してくれ。」
「疱瘡は根絶したはずだが。黒枝も一緒に祝ったろう。」
説明を端折ったために、薬袋は病人を見る前の黒枝と全く同じ反応をした。天然痘根絶という功績によって育った自負というものをへし折ってくる現象ゆえに、医薬の人間にとっては認めがたいものがある。
「何か知らんが、粟では西洋医学の勝利が覆されている。」
「黒枝も知っているだろうが、薬は恒久的な策にはならない。種痘を全員に打ち切る、つまり近くの街から医者を呼びこんでワクチンを打ったほうが良い。医者の領分だ、我々の出る幕ではない。」
「罹患者を一人見たが、善感の痕があった。」
「さすがに見間違いだろう。それと、升麻と紫根もこの前に輸入規制があってストックがない。掛場での病にはなるべく手早く応じたいが、薬屋が出来ることは限られている。」
「分かった。村長に掛け合って、医者を呼ぶことにしよう。」
「すまないな、それじゃ。」
「それじゃ。」
黒枝は受話器を置くと、そのままぼうっと天井を見上げた。一方向に流れる天板の木目についたシミの縁が、伸縮しつつ微かに移動したように見える。次々に頭に血が上ってくるためだろうか、隣の天板のシミの縁も仮死状態が解けたように動き始めた。星を見上げた時、星がその後光を広げて輝く。無生物に命の躍動を見出したような心地よい錯覚は箸屋が障子を閉める音で止まった。
夕闇に迫られた常夜灯が一つ、また一つと頬を黄に染めてゆく。食堂の倅が天然痘に罹っているというのはどうも事実であるらしい。運悪く疱瘡の跡が顔にしがみついて、見目の悪くなった郷里の知人のことを黒枝は思い出さざるを得なかった。種痘を打ってもなお発症したというのであれば、疱瘡が耐性を付けたと考えるのが理に適っている。あまり出歩かないでくれよと訴える箸屋の視線をよそに、調査と称した散歩に出た黒枝は、楼門の階段を通らず先の辻にある正門から社に入ることにした。
「いつ見てもでかいな。」
辻と鳥居の間に、人の背丈よりも大きな天狗の頭像が坐している。道祖の神が天狗と習合してこのようなオブジェとなったのだろう。頭だけ形作られることになった天狗はいかなる心境だろう、と問わずもがな天狗の双眸はただ辻を睨むばかりである。辻から鳥居に入って程なく、境内の脇の少し道の細くなったところには双体道祖神が静臥している。新入りの天狗の頭像に座を譲ったということは、道祖神の置かれている場所の不自然さからも窺える。婆の方は不満そうな顔を浮かべているように思える。概ね新しいオブジェに比べて古い道祖神の石像の方が威厳があるという考えで、墓の隅に捨て置くようなことはできなかったのだろう。
「涼しいというにはまだ早いか。」
肌寒い春の宵が近づいて、紫に映える山を映した湖の葦が吹き揃う姿さえ容易に見られない。境内、参道の常夜灯が灯ると、神社の輪郭は闇に浮かび出た。黒枝が手水舎で手を洗っていると、若い女の声と共に戸が閉まる音がした。音の方へ振り向くと、巫女が社務所に退勤の挨拶をしていた。手についた水しぶきを弾いて、神体の古代檜を拝むため手水鉢を離れようとした時、足元から人に媚びたような猫の鳴き声がしたので黒枝は思わず飛び上がった。黒枝の足元には、いつの間にか一匹の猫が忍び寄っていた。猫は黒枝に気づくなり、泥を浴びて虫を落とす猪のように転がりながら黒枝を見上げた。
「驚かすな。」と黒枝が独りごつと、猫はそれに答えるように鳴いた。
湖に続く坂下の稲田を見やる一対の稲荷、馬喰の盛んな往来を偲ばせる馬小屋風の社、結縁離縁の願いが夥しく混在する絵馬の回廊。猫は境内の名所を案内するように先導して歩き、目的地に着くと再び丸くなって地面を転がり出した。この人懐っこい猫に案内されるまで、本殿の裏にこのような愉快な世界があったことに気が付かなかった。
「猫には少々贅沢が過ぎるか。」
黒枝はそう言って、箸屋から袋詰めで貰った煮干し一匹を猫に与えた。煮干しを咥えた猫は思い出したかのように本殿沿いの通りを抜け、古代檜の前で立ち止まったので、ここに来てようやく黒枝は檜の使者に誘われた気分になった。樹齢1000年を超えるかという大檜は、力士の腕のように幹が隆々と膨らんで、歪な力瘤を方々に走らせている。露わになった樹洞は、雷に打たれて出来たものであろう。高木の宿命である。航海安全の利益も、その起こりは恐らくこの霊木が航路の目印になっていたことにあると考えてよい。
「疱瘡除けのお参りですか。」
本殿の脇から降りてきた神職が、肩を揉みつつ顎を上げて神木を仰ぐ黒枝を見るなり声を掛けた。
「まあ、そんなところです。」
黒枝は少し喉を張って答えた。黒枝も神職も、お互いに近寄りはしなかった。
「大檜さんは、悪魔祓いの神としても名が立っているのですがね。古代檜からの風は疱瘡が軽いと吹いてくるなんて謳われたものです。」
「へえ。」
道理で参道の店がガラス戸に大檜明神の札を貼る訳か。粟の村に入って以来、黒枝を悩ましていた謎が一つ解けた。
「鳥居の天狗は、辻で悪魔を寄せ付けないよう見張っていると信じられたものです。」
「ほう、信じられた。」
「無事に流行りが治まってくれると良いんですけどね。では失礼。」
神職は軽く頭を下げると、白袴を揺らしてすたすたと本殿の中に戻っていった。猫は大檜の元を離れて、その反対にある玉砂利の敷かれた虚空を延々と見つめていた。
「信じられた。」
黒枝はついさっき自分が吐いた言葉を復唱した。科学が宗教にとってかわった中で、論理的思考の在り方も塗り替えられた。剣を掲げた疱瘡神の姿が思い返された。が、世を貫く道理は決して一つではない。世を統べる法則というものが、いくつも糸のように結ばれ重なって道理をなしている。科学が説明しうるのは、その一面に過ぎない。とすれば、人間はいかに不安定な世界に足も付かず浮くように生を送っているか。
人の眼が道理を映さないというのなら、仮面を被って人ならざる者となってその動きを見ればよい。黒枝は、柳行李の五段目の引き出しの底にある面箱を開いた。
「相変わらずの面妖で何より。」
この面はいつか小紫那珂の隣国の品乃の山奥で譲り受けた面である。持ち上げると、粉雪のように鱗粉が零れ落ちる。元の持ち主の話では、500年も前に蝶の精が落としたのだという。黒枝は蝶の面を被ると周囲を秋枯れの匂いが漂って、意識は紅葉の狂い咲く異郷の丘を見つめていた。聴覚もまた鋭敏に研ぎ澄まされていき、人の限界を破っていった。足元からは森羅万象の命を掬う漣の音が聞こえる。
「クロエ、まだ近くにいるのなら返事をしてくれ。」
返事はなかった。檜葉の照り返しが少しずつ弱まる。自分と同じ名を読んだ。
「そうか、遂に。」
「残念ながらまだ消えちゃいないよ。」
老成して瑞々しさを失った代償として渋さを得、言の葉一つ一つに重みの加わった声が、黒枝の背後で気怠そうに答えた。
「その面は着けるなと前にも注意したろう。ナマズが増えるぞ。」
「もうすでに一度死んだようなものだ。ナマズが増えたところでそう変わらない。」
視界の端で金色に染まった髪が揺れ動いた。クロエは否と首を横に振ったのだろう。足元を滔々と流れている漣は、夕陽の光を浴びず何物も映さない鏡のような色をしている。足音が遠のいて気配が薄くなった。黒枝は面の下の湿っぽくなった顔を春茜に向けた。
天狗面の鳥居を抜けて、杉木立入り口にぽつりと佇んでいる道祖神の辺りが騒がしい。蝶面の細い二つの虚は、道祖神の前で列をなしている彼岸の者たちの姿を映した。河童、唐獅子、水子、姑獲鳥、貧乏神、その他名も知らない魑魅魍魎の数々。皆もとあった天狗の頭像のある所でなく、移設された道祖神の前に並び、世間話に花を咲かせている。黒枝は背伸びして疱瘡神の姿を探した。この辺りの疱瘡神は鎧を着飾った大赤鬼で、そうでなければ藁の巨人といった出で立ちである。たとえ、日が暮れて雲が山の色を真似て輪郭をぼかしても見えるはずである。が、やはり疱瘡神の姿はどこにも見えない。
黒枝の前に並んでいたのは貧乏神であった。ぼろ布のような服からもやしのような脚を伸ばして、長い爪で脛を搔いている。人間にも話しかけにくい雰囲気を纏っている者が居るが、流石は貧乏神といったところ、段違いのオーラである。道祖神からも不審な眼で見られるに違いない。どのような問答が繰り広げられるか見物である。
「なにもんだ。」
「貧乏神です。」
「目的は。」
「素封家の実入りが良いと聞いたので、少し分け前をもらおうと。」
「よし通れ。」
貧乏神は村にとっては厄介者であるはずが、道祖神との問答は一瞬であった。粟の村人から貧乏神を迎え入れないよう拝まれることもあったのではないか。境界神にとっての入村受け入れ基準は、想像より遥かに緩く設定されているらしい。貧乏神は村の内へと姿を晦ました。あっという間に黒枝の番が回って来た。
「なにもんだ。」
「渡蝶です。」
「あまり見ない顔だね。何しに来たんか。」
「仲間とはぐれてしまって。追いかけに来たのです。」
「あー、渡り蝶なら三日前に通ったなあ。お仲間さんかどうかは分からないがね。」
「どちらの方向へ行かれました。」
「湖の方へ。」
「ちなみに、疱瘡神はいつここを通りましたか。」
「三列前に並んでいたろ。ついさっき通っていったよ。」
黒枝は意味もなく後ろを振り返った。最後列に並んだ時、黒枝の後ろには誰もいなかったはずだったが、気づかぬ間に魑魅魍魎が長蛇の列をなして大混雑といった様相を呈していた。落ち着きない者は自分の番はまだかと隙間から顔を覗かせている。
「通りたいなら通りな。」
双体の婆の方が珍しく口を開いた。黒枝は逃げるようにして道祖神の元を離れた。
蝶面を外すと、漣の音は聞こえなくなった。繊月は太陽の残光を地平の果てに押しのけ、その余力で夜空に浮き上がった。檜の落ち枝は日の当たらない水たまりの上に積もって、家路を忘れた鶏の足跡のように彷徨った。道祖神の周りは閑散として、妖の姿は一つもない。
黒枝は箸屋に戻った後、縁側で酒を煽っていた箸屋の主人の隣の空席に腰かけた。
「そういや、ずいぶんと人懐っこい猫がいるんですね。」
徳利の体温は人肌に近い。寒々しい春月の晩を温める熱燗は、黒枝の逍遥の間に湯気を吐き終えていた。
「飲みたいなら飲め。」
箸屋の顔を見やりつつ、徳利を傾ける仕草をする黒枝に、涎を垂らす飼い犬に餌を与える飼い主の如く、少しにやけた顔を浮かばせて答えた。
「毎度ありがとうございやす。」
黒枝にとって、主人の酒を飲むことは毎年の恒例となっていた。旅中、ただ酒を煽れる所はそうないからである。しかし、昨年だったか一昨年だったか、調子に乗って酒を飲み過ぎたあまり、便所までの道中でカメムシを裸足で踏みつぶしてからは、深酒を控えるようになった。
「猫といえば、粟の破魔囃子というもんがあってだ。」
大檜神社の札が貼られた箸屋の扉に向かって、箸屋の主人は郷土を自慢気に語る郷士のように語り始めた。
「粟の破魔囃子?」
箸屋の猪口に酒を注ぎつつ、黒枝は返した。繊月の輪郭はぼやけて、野には蟋蟀か螽斯が鳴いている。
「流行り病も無くなって最近じゃすっかりやらなくなったが、大檜神社には古来から継がれた囃子というものがあって、湖のほとりにある宇木島という地で流行り病が蔓延すると、その病が粟にも広がらぬよう囃子を奉納していた。」
「他にも経路は多くあるだろうに、限定的ですね。」
「言われてみれば、、その視点はなかったな。」
「となると、宇木島でも流行り病が蔓延しているのでは?」
「宇木島地区は今は誰も住んでおらん。」
光風が箸屋を通り抜けた。雨どいの窪に溜まった水に浮かんだ繊月が押し流されそうになった。月光は躑躅の若葉を撫でた。
「大檜の札を扉に貼っているのも?」
「囃子が由来だろう。最後にやったのも、もう10年くらい前か。戦争が終わって4年目とかだったか。そのうちに演目を忘れ、目的さえ忘れ。さあやろうと言っても、踊り方を忘れてしまっているんじゃしょうがないよ。」
「場所は大檜神社の神楽殿で?」
「男衆が神楽殿で笛を吹いて太鼓を打ち、女衆がその前の広くなった場所で踊る。」
「へえ。」
黒枝は神楽殿の前の開けた砂利の空間を思い出した。
「猫、大漁、檜、網投、塩撒き。他にもあったと思う。こういうのは当たり前に続くと思っていても、忘れてしまうのは一瞬で、その時に初めて大事なものだったのだと気づかされる。」
湖に因む演目が多い。台地の際に大檜があり、そこから湖の辺まで平地が続くというのも、湖岸の線がもとは大檜の下まで届いていたということを考えれば得心が行く。太陽の照射が苛烈となる夕暮れ時に、湖を囲むように生える枯葦や蒲が退いていった証などは、土を掘り返してみないと最早分からないのだろう。大檜の近景はといえば、ただ鬱屈とした杉木立が並ぶだけである。
だがそう考えた場合、塩撒きという演目が引っかかる。陽出里に横たわる湖は、今では完全な汽水湖である。一つの演目だけ、どこからか伝承されたという可能性もなくはない。
「わあしは先に寝るよ。」
いつもの長考癖が祟って、つい箸屋を置いてきぼりにしてしまった。黒枝が長考する時の「難しい顔」は、容易に人を遠ざけるだけの力をもったものであるから、人前では極力避けるが宜しいとは、薬袋の謂いである。
「最後に、塩撒きというのはどのような踊りですかね。」
「全部は覚えちゃいないが」
と言いつつ、顔を赤らめた箸屋は軽くなった徳利と猪口を卓に置いて、桶で海水を汲み、海水を四方に振り撒くような真似をすると、もう体が動かぬと腰に手を当てつつ、黒枝の猪口を拾い上げて流しの方へ消えて行った。
翌朝、大檜の楼門を潜り、黒枝が宝物殿前で神職を待ちぶせていると、昨夕の神職がやってきた。若い容姿から、おそらく職階は権禰宜あたりだろう。
「朝早くから申し訳ありません。箸屋の主人から疱瘡の手がかりがあると伺ったもので、宝物殿を開けていただきたいのですが。」
「昨夕の声は箸屋の薬種商さんだったんですか、ずいぶん御熱心ですね。それならぜひ。」
「ありがとうございます。」
「ついでになんですが。」
若い権禰宜は懐から高林製の薬瓶を取り出した。
「箸屋さんからこれが効くといただきまして。そろそろ掛け替えをしようと。」
口伝いの営業というのは思いの外、効果的である。
踊りも囃子も形を成さない。演目の文献が残っていようと、忘失した芸の復活は難しい。映像記録でもあれば別なのだが。黒枝の目当ては、古文書ではなく大檜周辺の古地図であった。
「失礼します、っと。」
入場料はすでに渡してあった。宝物は全き暗闇に覆い隠されている。視界と入れ替わって鋭敏に働く嗅覚が、埃と黴の籠った臭いを目ざとくかぎ取る。権禰宜は迷いなく宝物殿を進み、雨戸を開けた。轟音と共に挿し込む陽の光で、宝物殿に正方形の明るみが増えていった。
宝物といっても社格がそれほど高い訳でないから、むろん国指定レベルの重要文化財などはない。参拝客はあれど、宝物殿に興味を抱く者はそういないため、採算が厳しく警備がざるになっている。辛うじて小綺麗な状態を保っているのは、氏子の献金と権禰宜のただ働きのおかげによるものらしい。
古代檜一帯の古地図が新旧、いや旧新の順に壁に掲示されている。黒枝の見立て通り、数千年の昔において湖は古代檜の真下まで広がっていたようである。そのうえ、霜房の境界の辺りも水に浸っていたらしい。よく見ると、湖の端の部分がそのまま大洋に繋がっている。古代檜はこの広大な湖の海路を航る上で、交通の要衝になっていたに違いない。
「あ、なんだこりゃ。」
古代檜の北の方向に、米粒を転ばしたような孤島が書かれている。時代を経るにつれ、湖は引いて孤島は陸の一部となった。
「おうい。」
ガラスに降り積もった埃を拭いていた権禰宜の方へ黒枝は手を振って呼びかけた。権禰宜は黒枝の指差す孤島を見ると、目を細めつつ地図に近づいて
「これは宇木島ですね。」
と答えると、さらに調子づいたように続けた。
「宇木島。御覧の通り、浮いているからその名前が着いたんでしょう。祖父母の代まではまだ陸続きにはなっていなかったようです。海の水が流れていた頃、この島では製塩を行っていたようで、粟の破魔囃子の演目の一つにも取り入れられました。」
「今は人が住んでいないそうですが。」
「水が引いたところに地震で陸続きとなったことが決め手となって、粟の村内に転居する人々が多かったと聞いています。」
古代檜から南東の方角にも湖がある。こちらは粟からは遠く、直線距離にして宇木島の7倍はあると見える。海の口が閉ざされ陸地が増えて、中世近世の辺りは窪んだ低地に湖の残滓が分散していったが、この湖だけは古態を留めるかのように居座り続けている。そうして、千年以上も水面に船や月を浮かべていたにもかかわらず、最も新しい地図ではあっさりと平らな土地に変わってしまっている。
「もうひとつ、この湖は。」
「柊の海という湖です。伝説では巨大な柊が生えていて、それが倒れた窪地に水が溜まったと言い伝えられております。が、封建時代きっての大規模な干拓事業で、今では薩摩芋、スイカの名産地になってます。」
「これは大檜神社の誉れ高い話の一つなのですがね、その干拓事業の成功の徴に、粟の破魔囃子が伝えられたという記録があるんですよ。」
「なるほど。」
かつて柊の海のあった辺りは、今は浅日と地名を呼ばれているようである。黒枝も浅日という地名に聞き覚えがあった。この浅日という町は東国廻商の終点である猫鳴漁港から15㎞ほど下ったところにある。浅日の気候や経済の詳細は不明であるが、少なくとも猫鳴に近い風土であるに違いない。猫鳴の特徴は言わずもがな、本州で一番早く陽が昇る猫鳴岬近くの海の底は深く、海からの冷風で夏でも団扇が要らず、冬は冬で暖気が入り混じる風が吹くために、北国の狩人の慣習にあるような囲炉裏で急所を解凍する手間もない。唯一の闕所と言えば、醤油工場の魚の加工場あたりが非常に糞尿臭いことであるが、漁港の中心街を抜ければすぐに臭いはなくなる。浅日は海の近くに位置するものの、猫鳴のように漁業主軸の町ではなく、干拓後の平野を活かした農業が主産業であるというから、魚醤工場の糞尿のような臭いは町に漂ってはいないであろう。
「廻商後、下見に向かうのも悪くない。」
黒枝は廻商の果て、この猫鳴に行き着くたび、早い所蓄えを溜めて、この東国に暮らす夢を見るのであった。干拓後、平野の広がる柊の海も猫鳴同様に暮らしやすいところなのだろう。
「粟と柊の海の関係性はこの資料に乗ってます。」
権禰宜は古地図に釘付けとなっていた黒枝に次から次へ郷土の知識を吹き込もうと狭い館内を歩き回って、黒枝の眼を引きそうな資料を渡した。果たして黒枝は一挙に吸い込まれた。
「囃子の忘失が既に浅日であって、復活のために粟から氏子を送ったと。」
「これも祖父母の代の話で、割と最近の出来事です。」
干拓事業成功の徴として伝えられた粟の破魔囃子は、戦中時の担い手不足により存亡の危機に立たされた。この消失の危殆に瀕した囃子を見かねて、粟村から古く海であったという陸路を辿って助け舟が出された。干潟は一つの町と三つの小村を跨いでいる。そのうち最も栄えていたのが浅日であり、粟から伝えられた破魔の囃子は、別の行政区である三つの小村に伝播し、霜房の内陸部へ広がっていった。そうした経緯から、オリジナルがことさら浅日の破魔囃子復活に傾注するのは当然のことである。となれば、かの謡いの起こった場所は一つに絞られる。
「ああ古代檜から吹く風は、でしたっけ。」
黒枝は拍子が分からないといった様子で祝詞のようにつぶやくと、権禰宜は歌唱を恥ずかしがってわざと音を外す子供に圧を掛ける音楽教師のように
「ああ古代檜から吹く風は、疱瘡が軽いと吹いてくる。」
と謡った。
謡いの言葉は国語であり意味も明瞭であるが、権禰宜が謡うと異国の語のように聞えてくるのであるから不思議である。
「どこから吹くと明言されてはいないものの、これは浅日から伝わった歌ということですかね。」
「左様です。」
「それならば、今の状況は過去に起きたことの逆と考えることも出来て、」
黒枝はそこまで言って、思い返したように口を噤んだ。囃子の演目を忘失したのであれば、かつて復活させた浅日から逆輸入して来ればよいが、史料を紐解いても、破魔囃子の復活の頁に疱瘡の流行という記述はない。破魔囃子の実際的な効力についてはまだ謎に包まれたままである。そのような状態で、浅日から人を招いたところで、疱瘡を治めるどころか、かえって撒き散らす結果に終わる可能性が高い。
「破魔囃子は、どうして破魔囃子というんですかね。」
行き詰まって下らない質問をしてしまったと、黒枝は反省した。囃子の響き、踊りで偶然にも疱瘡が落ち着いた稀代の一例を始まりとして、神秘性を獲得していった。というよりかは、担ぎあげられていった。
「その由来は分かりませんね。」
社に仕える者自ら神秘性を剥ぐような真似はしない。付きまくった尾鰭を飾り立てて日々飯を食っているのだから。
「ですよね。」
古地図の駅家は古代檜のみであって、そこからは内陸部へ向かっている。疱瘡神が人間世界の駅家とは別の経路を行き来しているとして、彼らの辿る道は概ね予想が着く。古代檜は人と人ならざる者が共に選んだ中継点である。箸屋の言う通り、宇木島から疱瘡が流れてくるのであれば、起点は宇木島である。また、権禰宜の謡いから古代檜を出て柊の海へ行くと分かる。大昔、柊があったという場所は、最も古い地図でも既に湖となっているが、かつては巨大な柊を目印として移動していたのだろう。
「さて、残るは疱瘡神周りの状況なのだが。」
なぜ今になって疱瘡が流行っているのか、疱瘡神の側から原因を探る必要がある。古地図と権禰宜の昔語りにより、大まかな疱瘡神の通い路は掴めた。疱瘡神から直接話を聞くのが一番良いのだが、一体どこを彷徨っているのか、また、いつ粟を抜けて柊の海へと向かうのか、それらは明らかになっていない。となれば、一刻も早く出口を塞いでおかなければならない。
「縄と、それから囲碁と将棋の駒を持ってきてくれ。」
神社から戻るや否や、2mほどの折れた竹笹を引きずりながら訳の分からぬ注文を言ってよこす黒枝に、箸屋の主人はとうとう狐でも憑いたのかと不安がった。
「持ってきたよ。」
箸屋の主人はおそるおそる黒枝に近寄って、引きずった竹笹を立てて見上げる黒枝の足元に頼まれたものを置いた。
「さすが。」
用意の良さを褒めたのか、それとも竹の長さを褒めたのか、箸屋にはどちらを指して言ったのか見当がつかなかった。
「箸屋、浅日の方向へ続く道を教えてくれ。」
息を切らし、慎重に立てた竹を寝かせながら黒枝が言った。
「本道を霜房の方へ行くとそのまま猫鳴への道に続くが、その二つ前の分岐を右に進むと浅日の道に出る。地蔵と道祖さんが並んでいる場所だから分かりやすい。」
「あー、あの道か。ありがとうございやす。」
「まさかそこまで、その重そうな竹を引きずるつもりか。」
「分岐まで2㎞もない。現地調達が早いが、この竹が気に入ったからしょうがない。」
「何をするのか分からないが、ほら、納屋の自転車を使え。」
「お、気が利くね。」
自転車を縦断する竹笹は、その斬られた細い幹がヘッドライトの上に乗っかかって、銃口の如く参道に陳列された店を威嚇していった。自転車は時折跳ねて竹笹を揺らしながら、痒いな畜生という黒枝の独りごとを警笛音のように轟かせつ、参道の緩やかな斜面を下って、瞬く間に箸屋の視界から姿を消した。
猫鳴の習俗に道切りというものがある。辻に縄で結界を張り、碁駒や棋駒を垂らした竹笹を木や電柱に取り付けることで、災いをもたらす侵入者の気を引き、娯楽に放蕩させて村落内への立ち入りを防ぐ。粟の外へ疱瘡神を行かせないためには、分岐路に立つ道祖神に一言、「粟の村で疱瘡神のための催しがあると伝えてくれ。」と言えばよい。が、それだけでは疱瘡神は村の中を延々巡回することになる。そのうえ、迂回路を選ぶ可能性も否定できない。
「よし、我ながら上出来だ。」
道切りを設置することで、村内を巡回する疱瘡神を一つ所に留まらせる。村を駆け巡られては、見つけるにも一苦労である。問題は、疱瘡神以外も道切りに集まってしまうことであるが、これは疱瘡神の絵や、剣を模したもの、節分の赤面で間に合わせる。多少、他の神が寄り付いたところで、いっそう賑やかになって良いだろう。
それはそれとして、粟の村に逗留してから、黒枝は薬種商としての仕事を全くしていない。黒枝にとって、この場合の仕事というのは、休息の意味合いも含まれる。粟の村では毎年、掛場の家を巡って薬の配置や交換を行うが、黒枝の要領では、それらの作業は1日あれば十分であって、高林から言い渡された既定の日数の大半を箸屋でただ酒を引っかけて過ごしている。奉社精神の抜き出た者は新掛けや他社からの掛け換えをしたり、あるいは我欲の強い者は、会社に内緒で新掛けした家の利益を独占するのに暇ないであろう。ところが黒枝には奉社精神も欲の強さもまるでなかった。ただそれだけの話である。いや、こう言えるかもしれない。黒枝にとっては、暇と呼ばれる時間の享受を誰よりも熟知していたと。
疱瘡神の面や絵をかき集めて、竹笹に飾りつける。その往来で、宝物殿を淡く照らした陽光は、今や湖の果てに落ちかかろうとしている。黒枝は終日布敷を口に覆っていたため、布敷を外して水を被ると、口元や頬のべたつきが冷たく溶け落ちた。夕飯を食らう間もなく、黒枝が分岐の辻へ急ごうとすると、箸屋は慌てて店から出てきて、塩結びの入った弁当を渡して言った。
「何をやっているのかさっぱり分からないが、粟のために尽くしてくれているということだけは分かる。」
「こりゃどうも。今から面白いものが見れるが、いや見られるはずだが、箸屋も来るか?」
「遠慮しておくよ。帰りは何時ごろになる。」
「そう遅くはならないと思う。」
疱瘡神と接触したいのであれば、蝶面を被ればよい。しかし、待機時間も含めれば相当に体力を消耗して、疱瘡神が訪れた頃には力尽きて野に臥しているかもしれない。クロエからも即刻待ったをかけられるだろう。蝶面を被る、その使い時をよく考えなければならない。黒枝は分岐路までたどり着くと、自転車を降りて物陰に隠れた。日没が近づいているが、竹笹からは特に異様な気配というものは感じられない。
黒枝は小腹の唸りに従って、箸屋の握った結びを齧った。塩結びの山を崩しかかった辺りで、塩味のある魚のフレークが口内一面に弾けた。
「ただの塩結びかと思ったら、鮭まで入っていたとは。」
夕陽の差さない木立の影で、鮭の淡紅は鶏の皮のような地味な色合いに落ち着いていたが、虫食い寸前の若葉から滴る木漏れ日に差し出すと、忽ちに金粉を撒いて淡紅に戻った。
「身に余る贅沢だね。」
ちょうど古代檜の方角から風が吹いて、電柱に据え付けた竹笹が揺れた。地蔵の隣に植わった椿の葉がカラカラと浅日の方へ流されていく。電灯は明滅を始め、駒が二、三度翻った。道祖神の検問がたった今行われている。古代檜から吹く風が凪いだ。黒枝は食いかけの塩結びを喉に押し込んで、すかさず両手で狐の窓を作った。一日中自転車を漕いだ努力の甲斐も虚しく、大藁の巨人も赤鬼の姿もそこには見えなかった。
「やっぱり居ないか。」
浅日の方へ出て行ってしまったかもしれない。浅日の道に茂った低草が靡いて、所々巨人の足跡のように凹んでいる。もっと勿体ぶった口調で道祖神に伝えるべきだったか。黒枝は狐の窓から眼を離して、組んだ両手を改めて見直すと、組み手そのものが誤っていたことに気がついた。黒枝はもう一度両手の親指と中指を付け合わせて狐を作り、記憶を頼りに窓を貼り直して電柱を覗いた。
「なんだ、あのちっこいのは。」
黒枝の眼は、電柱の根の辺りを駆けずり回る、兜虫と同じかそれより少し小さい小動物を捉えた。躑躅の花を掻き分けて近寄ると、声変わり前の童の声を二段階高くしたような話し声が聞こえてきた。
「今年は囃子をやってくれるんでしょうな。」
「もう10年は経っとる。ワクチンというのも効果はあるようだし、我々はお払い箱に過ぎない存在になった。」
「とはいえ、誓いは誓い。向こうが望むなら応じなければ。」
「力を失って、こんなにまで小さくなって。おまけに身内まで流されてしまっても?」
「この状態では抑えきれぬとも思う。が、疱瘡の変異に応じられると信じよう。」
なんてこった。あのちびっこい小動物が疱瘡神であったとは。遠くてよく見えないが、確かに赤い鬼のような顔をしている。道理で昨夕、列に並んだ時に見落とした訳だ。巨体の記憶を追ってつま先立ちで高い所ばかりを眺めていたが、それでは見つかるはずもない。疱瘡神は今や民衆にとって、あるべき存在、表徴ではなくなりつつあるということだ。そして、戦乱のあおりを受けて、人知れず消えかかっている。人ならざる物であろうと、かつてあるべき存在の表徴として担がれた歴史がある以上、有終の美を飾ってその寿命を全うするのが望ましいに決まっている。少なくとも黒枝にとっては、神霊の類となった人間を知っているだけに、彼らが誰からも認知されずひとり消えていくのは到底看過できないという想いが強まった。
箸屋までの参道を勢いよく走る黒枝の背中に迷いはなかった。黒枝は箸屋の扉を叩くと、お早い帰りと猪口を持ってきた箸屋の主人の呆け顔に喝を入れるように
「この自転車で今から浅日へ行こうと思う。浅日に知り合いが居たら教えてくれ。話が早くなる。」
と息も絶え絶えに言った。
「四岡という地区の不動産屋とは古くからの知り合いだが。」
箸屋は曇った表情を浮かべて言った。
「よし。それから、一つ頼みごとがある。私の方でも今から押しかけてみるが、そのなんだ。明日、明後日と大檜の社で破魔の囃子をやろうと考えている。」
「しかし、やろうにも吹き方、踊り方を失ったろう。」
「それは問題ない。浅日から引っ張って来れるはず。」
「わあしからもお願いしてみよう。」
「酒はすべてが終わってからゆっくり飲むよ。」
黒枝が大檜の楼門を潜ったころには夜更け、社務所の明かりも消えていた。宮司と思われる老人が、坂下に続く裏手の階段を降りようとしていたところを捕まえた。
「私は箸屋に寝泊まりしている薬種商の黒枝と申す者です。明日、明後日とこの大檜の社で破魔囃子を行いたいので、氏子様へご連絡をお願いしたいのですが。」
「はあ、いきなり何を。」
「疱瘡を防ぐためです。詳しくは明日の朝、箸屋の主人から正式なお願いがなされると思いますので。」
「箸屋さんから?」
「そうです、それでは。」
宮司からしたら、狂人が目の前に颯爽と立ち現れ、何とも不可思議なことを言ってきたと思ったことだろう。大檜に奉じてきた年数が篤信を深め、窮地に事態に檜の精が予示を与えたという霊験に上手いこと解釈してはくれないかと黒枝は願わずにはいられなかった。箸屋の負担は一層重たくなった。
霜房の境に着いた時はちょうど日の変わる寸前の頃合いで、民家の門前に鎮座する大蛙も皆眼を瞑って眠りこけているように見える。両側を水田に挟まれた道は激しく蛇行し、直線だと思っていた道程が、いざ目前まで近づくと蛇体を大きくうねらせる度、減速を余儀なくされた。何遍も踏んだことのある国であっても、一つ道をたがえては自慢の土地勘も働かなかった。遥か向こうに猫鳴へと繋がる大橋が見える。猫鳴からは岬を下って大洋沿いに進めば、いずれ浅日へ行き着くという話であるから、より堅実な手を選んで、素直に廻商ルートをひた馳せに走ったほうがよかったのかもしれない。
黒枝は暗夜に一里塚を見つけると、自転車を降り、光を照らして塚の文字を読んだ。というのも、一里塚の周囲の風景があまりにも類似していて、さっきから同じところを延々と廻っているだけではないかという疑念が浮かんで止まなかったからである。終始、塚周りの雑草に寝転ぶ黒枝の頭上には天の川が流れていた。
水田の隘路は、湖から流れ出る川を離れると畑に変わった。丘の際を越えると、潮の香りのほんのり漂う長い下り坂が続いた。ペダルを漕がずとも、自転車は勢いよく進んでいく。黒枝は増幅し続ける自走の力に任せて、ペダルから脚を離した。襟下、袖口、裾の境を冷気が泳ぎ回って、籠った熱気とぶつかり合う。端から勝負は決まっていて、冷気が関を破って体中に浸透し、湧き出た汗が引いていく。
黒幕で覆われた水面を流星が走る。その瞬きと速さが遅々たる由は、深く染まる青を海底に落とした沖合に向かって、大海原を滑りゆく漁船の灯した微けき光のみが知る。浅日の町に目も眩むような光を翳しては、町の灯が強く瞬き出して網戸を開けた屋内に押し入り、春眠を妨げることになる。
かつて粟村が囃子を奉納した社は、案外すぐに見つかった。この粟村と浅日の町とを結ぶ道のような、大道とは別に敷かれた連絡道は、年代を二つ遡った維新の時代に整備され、その地で力のある寺社が置かれた場所をその始点や終点としていることが多い。つまり、連絡道をそのまま進めば自ずと浅日の社にたどり着くということであった。海の辺にあるという四岡地区に行き着くより先に、しかもまだ夜も明けぬうちに目当ての神社に着いた黒枝は、鳥居近くに掲げられていた年中祭事の看板に虫のように貼りついて、五月の半ばに破魔の囃子の文字を見つけると、その足で社務所の前まで人の気配の有り無しを窺った。
「思ったより殺風景だな。」
大檜のような目立ったシンボルはなく、荘厳な楼門も、天狗の頭像もない。町は眠って全容を掴ませてはくれないが、農漁ともに豊かな土地であることは確かである。土地を代表する社の規模が、必ずしもその土地の発展度合いと比例の関係にないことは黒枝も承知の上であった。絢爛とまでは言えないものの、摂社、末社の管理も一応のところ行き届いては居る。しかしながら衰弱した疱瘡神のように、この社は蔑ろにされているのではないかと、摂社に供えられたカップ酒を持ち上げながら黒枝は考えた。せめて巨大な柊の根っこを引っこ抜いた跡でも残っていれば、まだ格好はついたであろうに。
日の出の時刻まではまだ3時間はあろうか。粟の村に入ったのが春分を一日過ぎた日であったから、日照時間はこの先ますます長くなっていく一方であるとはいえ、一昨日にその始点を迎えたばかり。秋の夜長というが、春の夜も相応に長く、桜の蕾は甘めに見ても二分咲きに及ばず、昏い海を照らす猫鳴岬の灯台の光を眺めるも時は進まず、突発的な自転車旅の疲労が忘れた頃にやってきて、黒枝は立っているのも億劫という状態になった。
「人間、勢いで動くと碌なことにならん。」
社務所の隣にあったベンチに座り、堪らず横になったのもつかの間、黒枝が再び目を覚ました時には、二分咲きの桜の合間に青雲が覗いた。
「ほら、そこの薬売り。」
「私が起こすんですか?」
若い女が外れくじを引かされたようである。物乞いや浮浪者ならともかく、薬売りの服装のおかげで一定の信頼は勝ち得たらしい。一刻も早く浅日の囃子衆を連れ立たなければならないが、ここで飛び起きては大層不審がられることは目に見えている。
「失礼ですが、どちらから。」
巫女が黒枝に声を掛けた。こうして出所を尋ねるのは、割かし最近になってからである。
「高林製薬の黒枝と申します。昨夜、粟の村からここに参りましたが、宿が閉まっていたので野宿しておりました。」
腕や足の千切れた引き上げ兵が家を追い出され、仮の住処として神社や寺に屯する光景は、一昔前では特別珍しくもなかった。むしろ政治体制が崩壊を迎えた最中にあっては、宗教的なものが秩序を下支えしてやらねばならず、孤児、乞食、放浪、復員などを抱えた経緯から、見知らぬ男が境内のベンチに寝そべっているくらいでは、治安予備隊を呼ぶということもなかった。
「薬売りが風邪を引いては河童の川流れです。お大事にしてください。」
「お気遣いありがとうございます。」
思いの外、厄介者の中でも話の通じる方で安心したのか、巫女は会釈をすると箒を持ち出して、社務所前の埃を払おうとした。
「ちょっと待ってください。」
箒を動かす手がぴたりと止まった。
「何でしょう。」
「昨夜、粟の村からここまで来たのには理由があります。わざわざあの自転車で。」
黒枝は鳥居の隣に停めてある自転車を指さした。巫女はタイヤに泥を被って草臥れていた箸屋の自転車を見つめた。
「実は粟の村でいま疱瘡が流行っておりまして、疱瘡を止めるために破魔の囃子をおひとつお願いしたいのです。破魔囃子といえば粟が本家だからわざわざ頼む必要もないと思ったでしょう。ところが大檜神社では戦中の混乱で演目を忘失しておりまして、浅日から枝を継ぐ以外には復活できない状態にあります。何代か前に、粟から再び浅日へ囃子が伝えられた時のように。」
「社としても粟の大檜には多大な恩があります。しかし疱瘡が本当に流行っているという裏取りが出来ていない以上、動きたくても動けません。」
「では...」
俯く黒枝の表情を見るや、すかさず巫女が続けた。
「裏取りが取れるまでそこでお待ちいただけますか。」
社務所の畳を駆ける足音がひっきりなしに響き、時に停止したかと思うと軽やかな震動がベンチに伝わった。
「裏が取れました。さきほど四岡の不動産屋がお見えになって、粟で破魔の囃子をしてほしいと。今、浅日の氏子に声を掛けているところです。」
猫鳴での競りを終えた漁師を始めとして、一代限りの大催事と次から次へ囃子を吹く者、踊る者が浅日の社に集まった。一度浅日の囃子が途絶えたのは40年近くも前のことであったが、幸いにして往時を見知る者は多かった。かつては親祖父母に連れられるまま、その意味も解さず一夕のみの祭りを楽しんでいた子供も、今や年を重ねて復活の使命に燃え立っている。普段なら止めに回る町医者もその子供の一人であったようで、血気盛んな漁師と円を作って作戦を練っている。
町医者の指示で、粟へ向かうのは種痘を打った成人だけとなった。加えて、町医者は万が一にと口を覆う布敷の用意を命じた。疱瘡が数年前に根絶したことはこの町医者にとっても既知のことであったが、疱瘡がぶり返したという話を疑う素振りはまるでなかった。黒枝が四岡の不動産屋、町医者とそれぞれ顔合わせをして、話の種として疱瘡根絶の経緯とその謀反について語った時、跳ねた魚のように大げさに驚く四岡の不動産屋と比較して、町医者の方はいつかこの時が来るだろうというような構えであったことが証左である。
40年前の一大事の際は、馬車に乗って大所帯で浅日の社に現れたという。今は過疎地を除き馬を引く者はもう殆ど見ない。黒枝が夜通し自転車を漕いだ連絡道は、バスが走って入るものの路幅は狭く時間を要する他、そもそも出ている本数が少ない。農家の何人かが軽トラックを出せるがどうかと提案した。漁船に乗って猫鳴から浅日に向かおうという計画は実行まであと僅かの所で立ち消えになった。
問題は黒枝である。黒枝は鳥居の隣の石垣に停められた箸屋の自転車を眺めた。銀に光る車輪には、千切られて短くなった蔦の破片が絡みついている。突飛な夜旅の折には便利であった箸屋の自転車が、今度は重たい枷となった。箸屋のものとはいえ、借り物に違いないのであるから放っておく訳にもいかない。箸屋だって黒枝が徒歩で戻ることは想定していまい。例え浅日に囃子の復活を懇願するという役割が既に終わっていようと、浅日の民と揃って粟の鳥居を潜ることが心理的に重要であることは分かる。しかし、軽トラックの台数には限りがあり、人を載せ祭具を積めば荷台のスペースはなくなるという。
「こりゃいけるぞ。」
祭具を載せ終えた農家が鳥居の自転車を軽トラックに積み上げた。農家は慣れた手つきで自転車に紐を縛りつけて、箸屋の自転車はみるみるうちに蛹となった。
「これでいいか。」
農家が黒枝に向かって言った。気の利いた返事が思い浮かばなかった黒枝はただ深々と頷いた後、頭を下げた。
かくして陸の船団は荷台とマフラーから気炎を吐きつつ粟の村へと走り出した。海の星と見紛う漁船を見、料峭を浴びて滑り降りた道は日の出を境に延々続く坂と変わったが、揚々に駆け上がっていった。海風が堆く積もった畑の土を蹴散らし、砂埃を舞いあげる中、トラックの荷台は甲高い鈴なりを響かせる。荷台の紐を掴んで揺れに堪えつつ、今や地表となった湖底に屹立する薄の海原を見る船員の眼は勇ましい。漁船は畑の坂を越え、湿地を渡り、硬まった土で覆われた田を縫っていった。菜の花にしがみつく天道虫は花密を吸わず固まった。紋白蝶は、爆風を浴びて舞い上がり、太陽のほうへ引っ張られていった。
粟の分岐路は頓に静かであった。竹笹の駒は力なく釣られていた。参道を昇り詰めると、大檜の鳥居には既に幾人かの人影が立っていた。浅日と粟の神主が無聊を温める傍らで、若い漁師は町医者の指示のもと破魔の囃子の準備を始めた。大檜の方でも浅日の来訪を知った段階から囃子の復活に向けて動いていたため、準備と言っても実際には粟と浅日で二重となった祭具の位置を取り決めるくらいであった。
神楽殿から太鼓の音が響いた。囃子の第一声は決まって神主の打つ太鼓であるという。灼けきった肌に深い皺の折りたたまれた漁師が続いて笛を吹き、音色の足を引き止めて循環させている。浅日の踊り手はその循環を取り囲むように円を為した。演目の忘失というから、浅日の踊り手はさぞ洗練された舞踊を披露してくれるのだろうと期待を込めて眺めていた黒枝であったが、踊りに正しい形はないようである。
老婆のそれは省力の限りを尽くしている。肢体を伸ばして飛び跳ねる娘、孫娘の世代と並ぶと猿真似のようにも思われてくる。しかしながら踊りの根の部分は通底している。
滞留した音色が進み出した。最初の演目は豊漁、踊りから網を引き豊漁を祝いあう漁民の姿が浮かぶ。
神楽殿の段下、黒枝が猫に連れられて大檜の姿を仰いだ時には、玉砂利一つ動かなかった静謐な空間が今や粟で最も賑やかな場所に変わっていた。黒枝と共に囃子を眺めていた粟村の女は一人また一人と佇立を崩し、踊りを思い出しては円を膨らませていった。大檜に吹き渡る笛の音も徐々に大きくなった。黒枝が段上に目を移すと、見知った顔が浅日の漁師に交じっている。
「そうだそうだ、こんな踊りだった。」
たとえ意識が忘却の彼方に捨て去っても、身体は記憶し続けている。身体は奥底に埋まった欠片を回収して、丁寧に欠けた断片をつなぎ合わせる。この村がつい先ほどまで囃子を忘失していたとは誰も信じまい。今や音色も踊りも浅日のそれと遜色ない。豊漁を祝っていたのもつかの間、踊り手は桶に汲んだ海水を塩田に振り撒いている。陽光を浴びて照り映える古代檜の葉影が、乾いた塩田の土へと疎らに染み込んだ海水のように滴る。
と、古代檜の方から神妙な気配を感じて、疱瘡神のお出ましと黒枝が振り返ると、いつぞやの人に慣れきった猫であった。猫は日向を避けつつ黒枝のもとまで歩いて、欠伸をすると俄かに北風が吹いて、檜葉は扇を煽ぐように波打った。この時、黒枝の眼はほんの僅かの間に蝶面の向こうの世界を映した。それは無邪気に剣舞に興じる小さい赤鬼達の姿と円の中に閉じ込められた囃子の音が檜葉に扇がれ剣に砕かれ、粟の村一帯へと放散していく一齣であった。
囃子が静まって円が解かれた時、参道のシャッターが上がった。それから程なくして、勢いよく楼門の階段を駆け上がる軽快な草鞋の足音が境内に響いた。