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蝉外持

それはまだ人々が自然の一部として、共生という美徳を捨て去らなかった頃のこと。

万象のあるべき姿を定める無数の宇宙の中で、静寂は語られ、身体は生きられた。


 小紫那珂から真南の方角に位置する、漁場の栄えた星備という海町が、政府統計開始以来、観測史上最大の台風によって激甚な災禍を免れ得なかったのは誰の記憶にも新しいことであった。常は絹のたおやかさを見せる白波が、村の大半を舐めつくして呑み込んでから数週間の間、反芻を繰り返すように端材や遺体の欠片が海を漂ったという。




 雨後、樫の幹にべっとりと跡をつける蝸牛の如きに進んだ秋廻りが、続く秋晴れにより早々に片付き、

歩けど歩けども、脇や腰に風を通す必要もないほど暑くもなければ、日が没するやいなや俄かに地が冷えてくる落花の時でもない。そんな東国の季節の境をわざわざ、温暖な土地に踵を返して、足袋の裏で降りた霜の高さを響かせ、底冷えが草生から内へ内へと迫って吐息を白くする方へ進んでいく億劫さは小紫那珂の売薬共通の煩事であった。


 彼らに故郷への愛がないではない。生業としている売薬も、故郷に厳しい冬が音なわなければ生まれてはいなかったであろう。


 いずれにせよ、どれほど彼岸の地への滞留を望んだとしても百代の過客として一つ所に留まらぬ性分のために、あるいは郷に残した妻子が絆しとなって必ず小紫那珂を春廻り、秋廻りの終点とするのであった。


 が、彼には妻子がない。その上、好色の趣味もない。多感な時節が過去にないではなかったが、その貴重な期間の始終を動員に放り出されてしまったために、沸騰した鍋の湯が使われずそのまま冷めるように時節を見送った。それゆえ、彼にとっての愛の観念は性愛でもなければ、郷土をはけ口とすることもできず、今はなき父母の情愛が憧憬の的となった。


 小紫那珂へ続く最後の関所跡に差し掛かると、黒枝の吐くため息はますます深く白んだ。空色はといえば曇天の灰か、吹雪の銀世界を時折剥がす紫紺の他なく、窮した身内のために日がな草履を編み、また今年も製薬の勉学につけそうにも無いなと鬱屈な心持で、故郷の小紫那珂にある高林製薬のドアーを開けて

窓口で給金を受け取ろうとすると、御曹司の薬袋が一通の手紙を携えながら黒枝のもとへ駆け寄った。


「黒枝、お帰りのとこ大変申し訳ないのだが、このまま星備まで廻ってくれないか。」

「こっちはくたくたなんだ。親父さんから交通費を貰って、星備の薬売りを汽車で向かわせれば良いじゃないか。」


かつての戦友を突き放すように言い放った黒枝であったが、実際のところ、この唐突な星備への廻商は吝かでなかった。


「この前の台風で汽車は動いていない。頼めるのは黒枝くらいなんだよ。」

「その手紙は関係あるのか。あるなら読みたいのだが。」


手紙の字は女の手によるものか、少し丸みの帯びた文字で無骨さというものはまるでなかった。


「製薬会社あてに届いた手紙だ。身内が奇病に冒されているらしい。」


手紙を読み進めると、どうやら両手が身を離れて、行方不明になったようである。星備から程近い大都市の明庫奥から医者を呼んでも、まるで解決の糸口がつかめないという。文末の方では、皸だらけで愛想を尽かしたからなどと、手目線の考察が綴られていた。


「新手のいたずらか?」

「と思うだろうが、この手紙は星備の小高い山を過ぎた群落から届いている。この辺りは確かに、うちらが廻商に出ているところだ。最後の頼みの綱として送ってきたとも考えられる。」


結局その日のうちに、黒枝の星備行きが決定した。

廻商の目的は台風によって被災した星備に、火事場泥棒の如き不意打ちの新掛けが行われていないか探るためであり、群落の奇病については廻商のついでであった。なんにせよ、小紫那珂から再度追い出されるように南へ向かえという奇妙な請願が出たことは、数年来の勤めの間で初めてのことで津波で配置薬が流れて大赤字のはずが、かつての御曹司の戦友ということで気を遣われたのか、潤沢な旅費と、それから数世紀と付き合いの続く停宿場を案内された。黒枝は数日郷里の家で英気を養うと、霜が解けゆく正午前に星備へ発った。




 郷里の小紫那珂を背に南へ下ると、まず手前に紅良山脈がある。

その山裾をすり抜けるようにして街道が続いているのだが、近頃は冬眠前の熊が餌を求めて忙しなく里山へ降りているというのだから、少しも気が抜けない。二尺まで延びる護身のための筆立ても、山賊相手ならともかく、熊との大立ち回りには大層心もとない。


「小紫那珂から星備までの道は南へ一直線であるから、そう遠く感じることもないだろう。」


確かに地図上では一本道である。しかし、いくら進めども目の前の峻険な山壁が消えることはなく

汽車や自動車にすっかり座を譲った街道筋のツタに足を取られ、竹笹揺らす夜影に、二尺のおっとり刀を携え、熾火を踏み消しては夜目を凝らすという日々を送っていては、徐々に神経を擦り減らすというものである。


 しかし何よりも厄介なのは、この頃山々がよく異状を知らせることであった。

まとわりつくように麓から金気が走っている時は稀で、大抵は赤錆びた色で、百足がとぐろをまいたようであったり、田の隅に淀んだ油のような毒々しい色を発している。好い土地に見えて、商人が入っては去り、去っては入るを繰り返し目まぐるしく屋号を変える土地があるが、この山も主の代替わりが激しいのだろうか。


 峠の茶屋でじっと山を観察していると、ときおり「もう白化粧をしていら」などと行商人や旅芸者が呑気に茶屋でそばを啜りながら話しているのを聴くが、偶然に修行者や山師と居合わせると、異状が見える者は皆揃って首をかしげる。無論、こうなってはそばの香などしない。何度七味を振り撒こうと、練った粉に辛みがくっつくだけである。こういう時は決まって、山越えを避けるよう彼らに進言するのが彼の務めであった。


「小紫那珂から星備までの道は南へ一直線であるから、そう遠く感じることもないだろう。」


 星備の群落が彼の姿をとらえたのは、小紫那珂を発ってからひと月後のことであった。役場の用さえも汽車を使って参じるほど金に余裕がある薬袋の話を真に受けたことを今更になって後悔した。山脈を3つ抜ける険阻な道のりで、東国まで向かうのと同じくらいか、むしろ土地勘がある分、東国の方がまだ近く感じられた。



 それにしても、この群落は竹林に包まれて休らうかのように横たわっている盆地の上にある。しかし同じ町村であっても、一山挟む挟まぬといった土地の事情は大いに異なる結果を齎したようだ。壊滅的な被害を受けたという海岸沿いに比べ、こちらには綻びというようなものが一つも見当たらない。


竹の間に木霊する鹿威し、農閑期の畑を舞い続ける烏除け、開いた障子から零れる機音。

同じ11月半ばといえ、小紫那珂の景色とは全く異なっている。冬には晴れが続くという東国の景色もこのようなものだろうか。黒枝はいつも春秋の終わりを待たずに帰郷を始めるため、東国の夏冬を知らなかった。


 瓦を敷いた屋根はない。漁村は豊かと聞くが、皆慎ましい生活を送っているようである。

収穫を終えた狭い田に、稲藁で作ったであろう藁人形が一列に隊列をなしている。


 製薬会社宛に届いた一通の文をもとに彼が茅屋の戸を叩くと、五つにも満たない二人の童が戸をガラリと勢いよく開け、右わきに飛びついた。じゃ香の匂いはかくも覿面に効果を示すものか、彼には戸を挟んで鬼気迫る飛蝗のように身構える童子の姿が丸見えであったから、不意を打たれるようなことはなかった。このような光景は廻商の風物詩である。大抵の子供は紙風船やブロマイドが柳行李の2段目に入っていると知っていた。裕福な子供の多い町を過ぎると、柳行李の二段目が軽くなるため、小紫那珂に戻ってからの腰痛が軽減される。


 柱の陰間から、申し訳なさそうに父親と思しき男が頭を下げた。父親は子供らの肩を掴んで、黒枝から引き離して自分のところへ寄せた。


 高尾という家主の後ろに続いて家に入る。引き戸を閉めようとしたが、建付けが悪いのか上手く閉まらない。

「もう1か月近く閉まらんのですよ。」


玄関サッシのせいではないらしい。引き戸の先にある厚く硬い柱が歪んでいた。


「お世話になってます。高林製薬の黒枝です。」

「高尾と申します。」


 作物の実りに向かない山の溝の小高い丘にありながら丈は170を超し、生業の竹割で盛り上がった腕は、何枚も樹皮を纏った巨杉のように色黒く、小山を超えて運ばれる海風で皮膚が硬く荒くれだっている大男は、その見かけによらず実に腰の低い態度で挨拶を返した。よく見ると口の横には、えくぼが折りたたまれ、厳つい五分刈りからは柔らかそうな頭皮が透けている。黒枝は古薬を回収するのを後にして、製薬会社の元に届けられた手紙について尋ねた。


「それで、手紙にある病というのは。」


「私の妻でございます。」


家主は妻の名前を呼ぶと、縁側から溌剌とした返事が僅かに開いた障子の隙間を巡った。声は程なくして床を跳ねる足音へ変わり、障子をずらしながら家主と黒枝のいる居間の方へ近づいた。


「どうも、妻の安江と申します。」


 手紙より、両手を失った病人がいると前もって知った黒枝は、たとえば女工などが機械の操作を誤って両手を切断し、出血多量で死に瀕している姿を想像していたために、この妻の快活な登場についぞ差し向ける言葉も出てこなかった。


「手紙を拝見しました。明庫奥の医者にも散々匙を投げられたようで、藁にも縋る思いで薬売りの雇元の製薬会社に手紙を書いたとありますが。」

「明庫奥ほど栄えて優秀なお医者さまが居るところでも、この病は直しようがないみたいで。」


足の裏の畳が濡れている。彼女の白い足指の付け根から水滴がぽたぽたと垂れている。今しがた小走りで来た道には、障子の隙間に入り込んだ薄日の淡い光線に照らされている雫が二つ三つ散らばっている。


「病状はいかがですか。」

「この通り元気でございますが、時折無くなった手の辺りが痛みます。」


と言って、安江という妻は両手の包帯を外すように家主に頼んだ。彼女の手首から先、本来ならば手のある個所は綺麗に欠けていた。切断した後もなく、血が飛び出て青くなった形跡もない。蜻蛉の頭が落ちるように分離したとでもいうのか。黒枝は薬売りではあるが、無論医者ではない。製薬会社に手紙が届いた以上、暇のない薬師に代わって様子を見に来ただけなのであるが、こんな珍妙な物を見せられては、例え法に触れたとて、触診の真似事でもせずには帰れないだろうという薬に仕える者としての責任を感じた。


「手首を触っても良いでしょうか。」


手首は恐ろしいほどに冷たく、生命としての一切の活動を静止しているようであった。骨の浮いた細い手首の中に血管が走っている。血管は手首の先を終点として、さも異状がないかのように巡っている。


「改めての確認なのですが、本当に止血などの施術は一切なかったんですよね。」

「ええ。」

「というより、ひとりでに出て行ったんです。いや、ふたりでに、ですか。」

「そんなおとぎ話みたいな。」


 手紙には確かに両手がすぽんと離れて外へ出て行ったとあったが、そんな話は今日非科学的である。非科学なら非科学で、黒江にとってはそっちの方がまだ幾分か馴染み深く、製薬会社もその事情故に黒枝を派遣したのであろうが、このような事例は彼にとっても未だ見たことがなかった。


「できれば、その時の状況を詳しく教えてくれませんか。」

「ええ。最初の違和は、台風が過ぎた頃でしょうか。眠くなっても、手縫い物が進んでいくのです。

 頭がうつらうつらと揺れて眠ったはずなのですが、朝起きて手元を見ますと、手縫いが終わっていました。」

「まあ。」

「それから日を追うにつれて、だんだんと手が冷たくなってきました。娘と手をつないだ時、おかあの手は氷のようだと手を離されました。そして今度は逆に、手が眠くなったように鈍くなっていきました。」

「さっき触診しましたが、腕はまだ温かいままですよね。」

「そうでございますね。」


彼女が話を続けようとすると、末の子と思われる子供が母の来た道を辿ってひょこひょこと居間に入ってきた。そして、床に置いた柳行李の二段目をじっと見た後、母親の方を向いて言った。


「おかあ、洗濯物終わった。」

「まあ、ご苦労さん。」


子供の手は湿り気を残しており、薄藍に染まった母親の服を軽く掴んだ子供の手の跡がくっきり付けられた。黒枝にはまた、玄関の方から柳行李を覗く二対の視線が強まるのを感じていた。黒枝は一息ついて、柳行李の二段目の引き出しを開け、末の子に紙風船を渡した。


「兄弟で仲良く遊ぶんだぞ。」


玄関にいる兄弟にも聞こえるよう少し大きな声で言った。蠅が脚をこするように忙しなく服で手を拭いて紙風船を受け取った末の子がこくりと頷くと、堰を切った水のように玄関から居間へ兄弟が駆け寄った。

そして頭を抱えた父の表情を見ると、脱兎のごとく外へ駆けていった。


「紙風船はプレゼントということで良いので、続きを話していただけますか。」


 紙風船は決して値の高いものではない。それどころか、二段目に入っている土産物のなかでも一番安価である。薬売りという珍客が持ってきたもの、それがいかにも稀少なもののように子供の目に映るのだけである。子供の年がもう少し増すと、アイドルや役者のブロマイドを欲しがるようになるが、文化的資本に乏しい田舎では都市部の近接地帯でもない限り欲しがるものは少ない。


「ありがとうございます、それでは。」

「はい。」

「いや、どこまで話をしたのか忘れてしまいまして。」

「手が氷のようだと娘に言われた、と。」

「いや自分のことなのにお恥ずかしい。そしてある日、厨で洗い物をしていた時、この時期ですから皸だらけの手なのですが、突然に両手が洗い物をほっぽりだして玄関の方へ私を引っ張っていったんです。自分の中に別の生体が同居しているような。もうだめだと思って、足を玄関にひっかけて何とか家から出まいとしたのですが、両手は玄関の柱を掴んで引っ張るわけです。ちょうど、くの字になって長いこと引っ張り合いをした果てに、息が上がったところで両手は鍬の柄が外れたようにすぽんと離れて竹藪の方へ向かっていきました。」


黒枝は話の内容を書き留めると、静かに高尾夫人の方を見た。高尾夫人は居間の窓から見える竹藪の方をずっと見つめ、消息を絶って久しい子供の親のような物憂げな表情を浮かべていた。


「きわめて特異な症例ですので、病が治る手立てというのは正直なところ持ち合わせていません。が、薬種商ならではの視点で解決策を考えてみようと思います。」

「もう帰ってはこないと思うんです。毎年皸だらけにする主人に見切りをつけて、出て行ってしまったのかなと考えております。」


 今から漁村の新掛けをして戻るとすれば、ちょうど厳冬期の最中に里帰りすることになる。いつもよりも重い給金袋は、一仕事を終えたら台風を免れた明庫奥の先の辺りから電車にのって帰れということだろう。あるいは、海町での掛け直しが捗ることを期待して、春先までの旅費を上乗せしておいたという意図かもしれない。


「しばらく星備にいるので、まあ、できるだけ調べてみます。」

「宜しくお願い致します。」


ときおり幻肢痛に悩まされるという家主の妻の為、烏頭の薬を処方しようとしたが、それより少々毒性が弱い附子を調合した鎮痛薬を渡して、黒枝は夥しく竹の生えた裏山の方へ向かった。



高尾の家を独りで出たはずが、黒枝のすぐ後ろで笑いを隠したようなが耳に入った。


「なにしとん。」


洗濯物を取り込んでいた老女が、不審者を見たかのように黒枝の少し後ろを見つめている。さすがに薬種商を知らぬ者はいない。黒枝が後ろを振り向くと、幾人かの子供の姿があった。どうにも、高尾の子供らは日ごろの探検ごっこで実際に飯を食っている薬種商には強い憧れがあるらしく、鹿の角のようにしなった木の枝を携えて、さも勇ましく彼のあとをついてきたようだ。とりわけ驚いたのは、後をついてきたのが高尾の子供だけではなく、群落の遊び仲間も一味に加わっていたことであった。高尾夫人の奇異な病を知っている父兄が、相次いで竹林への逍遥を禁じて退屈していた折、ちょうど黒枝が現れて原因調査のため裏山へ出かけるというのだから、高尾の子供らを筆頭に、木の枝を振りまわすにも一層力が入るというものである。しかし、竹林というのは昔から蝮が多い。微風に翻弄される竹笹も、人の皮膚を切りつける程度には鋭利である。何の珍しさもない雑草を薬草と偽ってひき抜かせると、給金の代わりとして紙風船を与えた。高尾家の周りで、翻る洗濯物のように紙風船を叩いて遊ぶ子供らを見ると、黒枝はひっそりと竹林へ忍び入った。




 裏山は星備と群落の境にあり、ちょうど群落に入った山とは反対の位置にある。群落から見送られる旅人の背が小さくなっていくように見えることから、かがまり峠と名付けられた峠を登ってきて、その先、旅人の姿が消える頂に立って、黒枝は星備の湾を見渡した。


 台風の残影は余程濃く、草木が今ひとたび言を問いだすのではないかというほどに、近代社会を自然の晦冥に戻していったようであった。雨を浴びた蜘蛛の巣のように白波が光る浜には、漁村を離れて荒れ狂う海をさすらった家の残骸が転がっている。煤けたような曇り空には、帆翔するトンビが水面に向かって緩やかに風を切っている。



 星備の道はどうか。麓の方では、山林らしからぬ茶色を晒している。膨らんだ柔らかい土の褥を敷いて日光浴をしていた禿山に杉が植えられ、やっとその怠惰な寝姿が隠れた頃、布団を引っぺがす悪童のいたずらのような台風によって、またしも意匠を剥がされてしまったようである。被害の範囲を示すように、茶となった禿山の境からは青々しい竹が続いている。奔騰は小山を遡って、群落を呑み込む威勢であったが、竹林の保水力によって幸い手前で留まったと見える。竹林の版図拡大は止むことを知らぬように、頂の先の星備への道にまで延びている。


頂から少し戻って裏山に葺いた竹笹を踏み分ける。しかし、もう11月というのに、まだ蝉噪がけたたましい。昨晩頓に雨が降ったらしい、靴裏に泥が張り付く。折れ竹に淀む水が、地下深くから吸い上げた塩水のように映る。


「塩害から立ち直るのも楽じゃないわな。」


木枯らしに靡いて騒めく竹籟が、襟を通って背中を冷やす。風が止むに応じて、けたたましい蝉時雨が竹の間を伝って降ってくる。言語によって定義され、具象化された自然が目の前に広がっている。


「だが。」


しかれど竹の育ちが早い。土砂崩れがあったにしては。

残余の古竹も色が青い。黄土の竹笹が散る頃合いにも関わらず。



 雨の滴り落ちぬ林床に、蝉が這い出た穴凹がある。しかし、竹の他には一寸の木もない。常ならば、迷い込んだようにして根を下ろすナラやカシがあってもよいだろうに。竹笹の幹を眼で追う。華奢な枝のつけ根に雨を弾いた抜け殻を一つ見つけると、床の陰間に落ちている髪の毛のように続いて二つ、三つと浮かびだした。抜け殻の爪は、微小な竹の穴に引っかかっている。竹の穴を覗く。中は空洞であった。ホホビロコメツキモドキという、竹節の中で暮らす生き物がある。が、居るべきところにその姿が見えない。


 蝉噪に今一度耳を凝らす。在来の蝉とはまるで異なる、電動鋸を起動した時に僅かに発される低音のような響きが竹林を渦巻いている。先ほどの穴凹の近く、竹林に包み込まれ、雨傘のように開くキノコがある。抜かるんだ地面を掘り返すと、見事な即身仏が座化していた。アナモルフであった。幼虫の蝉の頭から天をめがけて、ほぼ一直線に胞子が伸びている。冬に虫であったものが、夏には草となる。草木悉皆成仏というが、それならば虫は成仏の対象からは外れているのだろうか。


「そうすると、この竹林全体も。」


 そこから底を走る竹茎の方へ更に土を掘り進める。土はぬかるんで一向にこちらを拒んでこない。蝉の尾を始点に伸びる糸は、やがて竹の茎を掴んだ拳となって姿を現わした。








 群落に戻ると、器用にバケツを抱え歩く高尾夫人に出会った。バケツの中を波打っている水は、子供らが汲んだのであろうか。思わず勢いをつけた水が、防壁のように反り上がったバケツの頂を飛び越えないよう水量は控えめに抑えられていた。黒枝は片手でバケツを受け取ると、再び高尾家の軒端を潜った。小波を浴びるバケツの防壁は、仄暗い家の中で境を見失った。


「まだ確定したわけではないのですが、一つ思い当たることが。」


 落日寸前の茜の残光に照らされ、夫人の瞼や額に伸びる黒髪、両手を失った憂いは濃影を隈取った。居間に照明の光が差すと、それらは忽ちに消失した。


「家出をした手の行方ですが、おそらく竹の根の下にいるのではないかと思います。」


竹林のどこかで獣の餌になっているのではないか、という予想は彼女の方でもついていた。凡そ薬種商の返答も、これを越え出ることはないだろうと考えていたが、失った手の具体的な所在まで述べる薬種商の言葉には、戸惑いの表情を浮かべざるを得なかった。いかにもそんな反応は読み通りであるという素振りで、黒枝は続けた。


「耳を澄ましてください。時季外れの蝉が木霊していますでしょう。この竹林に居つく蝉は、タケシジマという蝉です。この蝉は草莽竹という竹と共生関係にあります。紛らわしいのですが、モウソウチクではありません。それで、その草莽竹というのは、土砂崩れが起こって地表が露出した場所に根を下ろす。草莽竹が生える場所は、保水、取水能力が突出して高いのが特徴で、土壌の安定化が促される。」


 これまで竹との共生を謳ってきた星備の外れの群落にて、竹の利用や加工に従事することで、工芸的価値の承認とともに村民もまた自然共生の民という自負を抱き、自身の存在価値というものを規定し

世に知らしめていったのであるが、ここに来て初めて共生という観念の双方向性に気づかされるのであった。


「それで今、私の手はその竹の根を支えていると。」

「はい。」

「普段はセミや芋虫に寄生しているが、木立湧く一山が台風などで流されると、宿主から伸びた茎がまるで握り拳のようにモウソウチクの地下茎を掴む。その時、孟宗竹は草莽竹となる。いわば、土壌回復のワイルドカードのような存在です。」

「では、私の手をセミや芋虫と間違えたのでしょうか。」


「いいえ。山の損害具合によって、コブシダケは宿主を変えることが知られています。我々はホストルーピングと呼んでいるのですが。人間の手を宿主とするとなると、相当大きな災害に見舞われたか。私も鹿に寄生した例は知っているのですが。人間の手に寄生するというのは前例がないです。一度の台風による被害が相当に酷いものであっても、寄生先に人間の手を選ぶというのは考え難い。」

「実は、昨年にも非常に強い台風がこの辺りを襲っておりまして。星備でも割合栄えている漁村や明庫奥の方は被害が少なかったので、大々的に報道されはしなかったのですが。」

「昨年と大災害に見舞われて山が崩れかかっているとあらば、いよいよ人の手でも借りたいということになったのでしょう。」

「借りるということは、用が済めば返してくれるということなのでしょうか。」


 話半分で薬種商の話を聞いていた夫人であったが、自然をもとの形へ戻すべく働くコブシダケに徐々に入れ込むようになっていた。土壌回復の重責を担う寄生生物に、善良な性質ないしは性格を見たのかもしれない。


「コブシダケに寄生された宿主は概してその生を全うすることからして、離れた手が帰ってくることはないでしょう。」


途端に夫人の表情は暗くなった。小面が俯いた時、白い頬が陰影に交じって悲しみを伝えるように。

幻肢痛がひどくなったり、抑える薬が切れたら連絡するようにとだけ言って、黒枝は新掛けのために星備へと向かった。



 両手を取り戻す方法がないわけでもない。黒枝の脳には一閃の光が走っていた。というのも、草莽竹は土壌を回復し終えると、花を咲かせて一斉に枯死する。その時、コブシダケは花の香りを感知して宿主から拳を離し、いよいよ宿主は永眠の時を迎えると言われている。それならば、花の香に似た匂いをまだ花の開かぬ竹藪へ放ったらどうであろう。おそらくコブシダケは握り拳を離すだろう。そこからは手堀で根気よく探すしかないが、茎を離れた手を連れ帰ることのできる確率は高まる。しかしその考えを実践に移したところで、必ず成功するとは限らない。となれば、無意味に期待を抱かせるというのは残酷である。




 文が届けられたのは、それから三ヵ月も経たぬ頃であった。夫人から手紙を預かった知り合いの行商は、黒枝の顔を見るなり、草鞋の緒が足の指に食い込むのではないかというほどの速さで駆け寄り、日向でのびのびしていた薬種商に開封を促した。


 星備復興のため、県道の迂回路を新たに作るといって裏山の尾根を削るという。竹林は保水能力が高いおかげで土砂崩れの心配もなく、海沿いの星備の町から内陸部へのバイパスができるということで自治体にとっては一石二鳥であろう。長年温めてきたというインフラ整備に折よく手を付けられる機会を得られたということで、工事の着手は驚くほど迅速であったという。そして、草莽竹の反撃が始まったか、群落内で手を失った夫人の数が5人に増えたと手紙は伝えた。


「ああ、参った。」


 星備での掛け直しが思いのほか好調で、製薬会社へ旅費と配置薬の補充の電報を送り、温かい海沿いであちこちに腹下しの薬を置きつ、炊き出しの仕事をしつつ小紫冬を決めていた黒枝は、手紙を読むと夜も開けぬうちから群落の方へ発った。




 峠の麓に来るや否や、生え際だけを剥かれた竹林と、佇立したまま何日も放置された工機が眼に入った。手紙が書かれた時点で、工事開始から二週間が経っている。が、それにしては進捗が悪い。群落の集会所で話を聞くうちに、黒枝は工事が難航していると知った。


「祟りですか。」


長老から若者まで口を揃えていうことには、竹林の中に迷い込むと必ず行きつく荒神の石塔というものがあり不用意に荒神の閑居に忍び込んでしまったことを詫びなければ、いつまで経っても群落には戻れないという。それが今回の工事によって、荒神の幽居を奪うように竹を伐ってしまったことで、祟りをかけたようである。以前に迷い込んだという白髪交じりの老父は、唇の端に泡を乗せながら、祟りじゃ祟りじゃと吹いて回っている。黒枝は、集会所を端から端へはしゃいで揺れる白髪を乗せた肩を捉え、


「工事を停めた祟りというのは、一体どんなものですかね。」


というと


「そりゃ、竹を伐るやいなや死人が出たんじゃ。」


蟹の泡のようにたまった老父の唾が、黒枝の顔をめがけて飛んだ。黒枝は不規則に明滅する照明で一層白んだ唾をすんでのところで躱した。固より容易く予見できる攻撃であった。彼は老父の正面に位置しないよう足裏を滑らせた。唾は色を失って、藁の逆立つ畳に浮かんだ。


「へえ。」

「死人が出るくらい炭鉱なんかでもよくあることじゃ。なんでもその日は雨がひどかったらしく、彼とともに仕事をしておった作業員が遺体を安置しておった場所に行くと、遺体は既になく竹林の奥の方でのっそりと這うヘルメットの黄色と作業着の青が見えたらしい。」


畳の上には二、三の小さな湖沼ができていた。遺体を動かしたのは、間違いなく高尾夫人の手を攫っていった犯人と同一である。コブシダケが群生している山々で、根ほり葉ほり土を返せば、彼らの求める宿主は当然より高いエネルギーを持つ生命体となるだろう。誰が悪いというわけではない。大災害を被った星備の町だって、生活を取り戻すにあたって明るい展望が必要だ。


「とりあえず、事が収まるまでは工事をさせないようにしなければ。」


道路建設工事の反対勢力には、群落の反対派と、それから犠牲者の妻が主となって立ち上げた団体がある。関係者との合意が不十分なまま、工事自体が復興に基づいた善行であるとして上からの命令で突如着手に移されたため、現場では混乱が絶えなかったという。黒枝は群落の集会所に居合わせた未亡人に


「近頃はマッチや化粧品に対する主婦の抗議活動が盛んのようである。建設業の劣悪な労働環境の是正を訴えて工事を延期させるように。」


草莽竹は土壌の回復が終わると花を咲かせて枯死する。それまでは工事をさせぬよう時間を稼がなければならない。せっかく落命せずに、戦地から引き上げた夫を亡くしたことは大変気の毒だが、ここはひとつ活躍してもらわなければ。


 時流に乗ったか、星備の運動は日ごとに勢いづいていった。特筆すべきは、夫を戦地で失った海道の町で厚い支持を得たということであった。そのうちに、大都市の主婦運動主体からの協力も味方となって、工事再開の見通し立たずという次第となった。一連の事件の経緯を知る者として、黒枝は出来るだけ長い滞在を望んだ。創薬で些かの暇も与えられない薬師の代わりとして休みなしで向かわせたのだから、こちらのわがままも聞けと電報を打った。


 いずれ社長を継ぐ御曹司から直々に、星備えを起点に東国への春廻りをしてほしいという返答が届いた。黒枝は人の情に付け入るような甘さを漂わせながら、同時に喉元を締め付けてくる御曹司が苦手であった。かつての軍隊では、薬袋は運動能力の低い甘たれ坊主という汚名を着せられ、帝大から来たというインテリ眼鏡と並んで教官から張り手を受け、同期からもいじめられていた。黒枝はその現場を直接見ていた同期のうちの稀少な生き残りであった。当初は黒枝の方も、甘たれが因果応報であるという見方を取ろうとしていたが、張り手で膨れ上がった頬が痛むといって、そう広がらぬ口で晩粥を啜っているのを

根性が足りぬと、同期が教官の口癖を真似て粥の器を口へ押し付けているのを見るや否や、次第に頭に血が上ってきて、貴様こそ根性が足りんと訳の分からぬセリフを吐きながら、甘たれ坊主に群がる坊主頭を片っ端から殴っていったことは鮮明に覚えている。軍事演習の合間に帝大の学生から学問を学び、薬種商として製薬会社に雇口を得たのもあの時のおかげであるかもしれない。敵の銃弾が肩を貫通した時も、この御曹司が助けに来なければ、恐らく野露と消えていたに違いなかった。


「まあ、仕方ないか。」


黒枝は左肩を揉みながら、東国への長旅に出た。







 夜半に蔓延していた牛糞の肥やしを濾して、澄んだ草の香を振りまいた二藍に染まる梅雨の間の暁。海の向こう側、ほの明るい灯が絶えず息をしている明庫奥の都市が見える。夜旅というものは、意識せぬうちに歩調が早まるものである。東国から明庫奥までの道は大洋の汀を延々と進んでいくような路であった。


 山靄が棚引いて、まだ夜の漆黒を残した腰元に掛かっていた。東国から遠路をはるばる往来し、星備に続く丘で、開業前の茶屋を灯した開け放しの野点傘に腰掛けていると、目の前を山師が通りかかったので、黒枝は山師を呼び止めるように声を掛け、うっすらと見える星備の小山を指さして言った。


「山師さん、あの山はどんな調子ですかね。」

「あの山か。近頃、山を走る気が大分よろしくなったように思う。」


骸が皮をつけたような瘦肉で、僅かな山の恵みで生を繋ぎ留め、極限まで感覚を尖らせてきたであろう山師が黒枝に並んで星備の小山を指さした時、野点傘に彩を加えていた躑躅から霞が沸き立つのを黒枝は見逃さなかった。


「それが聞けて良かった。またいつか。」


山師は蓑傘を静かに傾けて去っていった。黒枝も尻の埃を払って、待ち合わせのバス停まで急いだ。





「遅い。」


御曹司を乗せたバスはなかなか来なかった。肘で押さえつけたはずの貧乏ゆすりが次第に勢いを増してくる。


「これじゃ峠を登ったころには、もう夕方手前だ。集会所には一応余裕をもって今日の夜までには到着できると言ってはあるが。」


バス停前の窪んだ地面に溜まった水が、白裾に灰の掛かった雲を映した。アメンボは水中の雲に乗って、広大な水面を旅した。と、振動がバス停の小屋に伝わって、柱が居直りの音を立てた。まもなく薬種商の身形を装った背高の男が、バスのステップから飛び降りた。


「待たせた。明庫奥からのバスが遅れたものでな。」


黒枝は掠れた時刻表を見た。通勤時を除けば、平日、休日ともに70分に1本の間隔でしか走っていないようである。


「しかし不似合いだ。御曹司らしくスーツで来れば良いものを。」


薬袋は梅雨の間で泥濘が多くなるだろうと、製薬会社に仕えている薬種商用の服装を着て、小紫那珂からここまでやってきたのであった。


「暑くてたまらんからな。それに、方々を廻っている社員のフォーマルスーツを着てみるのも重要なことだ。」


真新しい脚絆を捲りながら薬袋が言った。バスに置いてきぼりを食らった排気ガスはしげしげと天を目指した。


「しかし復興が進んどらんな。」


星備のことを言っているのであろう。たかだか半年くらいで、見違えるほど復興が進むものかと黒枝は毒づきたくなる心を抑えた。


「可視化されないだけで、着々と進んでいると思ったが。」

「文明化というと聞こえは良いが、その実は生活のアウトソーシングだ。自己の世界観でもって自己を管理していれば、もっと違った形になっただろう。大都市はそりゃ空襲で焼け野原になったり原爆を落とされたりしても、体力があったから何とかなったが、体力もなく管理を手放した土地は滅びしか残されていない。」

「なるほど。」


自己管理能力を失った社会は一体どうなるのだろう。インフラ整備の救済が僻村においても届いているのは、戦争によって均された身分意識や階級意識と、同時に沸き立った平等意識のたまものである。

が、太平の世が続いてそのルーツが忘れ去られ、なおかつ体力も減衰して割けるリソースが限られるようになれば、おおよそ薬袋の見立て通りになるだろう。


「にしても、本当にコブシダケが山ほど撮れるんだろうな。あと、草莽竹の開花も。」


そのために会社もとい父から暇をもぎ取ったのだと続かない辺り、不用意に下々の反感を買わない危機管理能力の高さが光っている。

コブシダケは漢方の薬材としては、非常に価値のある品である。冬虫夏草を凌ぐ滋養強壮剤として、山師から高値を叩いて在り処を教わる薬種商も少なくない。


「流れ星の予報があったとて、必ずしも流れ星をお目に掛かれるわけではない。あくまでその確率が高いという話だ。」

「今回のためだけに丸薬師に無理を言って大量の甘葛香を作らせたのだから、それだけは御免だよ。」

「今日の朝、山師に聞いて裏は取ってあるよ。」


群落へ続く峠道は、以前よりいっそう青竹に囲繞されていた。そよぐ風は笹の葉から陽光を奪って竹林の肩を払った。屹立する竹は、天に向かうほどに張り上がった悍をたわめている。その力の漲りようは、いよいよ近づく散華の構えか。笹の葉も柔らかさを捨て去って、迷い込んだ温風を斬り刻んでいる。刻まれた風の置き土産であろう、天を埋め尽くした竹に木漏れ日が注ぐ。






 峠を越えてしばらく歩くと、群落の茅葺屋根が近づいた。群落を包む機音の響きは、半年前よりも疎らでか細くなっている。


地に募った笹船が、風の運びにしたがって舵を切った群落の端の港を過ぎた時、二人の薬種商に向かって放たれた視線に気が付いた。高尾家のある辺りから、じっとこちらを見つめる者がある。

馬の尾のような髪を時折振りつつ、日差しを避けるよう軒端に影を滑らせて、こちらの到着を待っているようであった。


「黒枝さんですよね。お初にお目にかかります。高尾の長女です。」

「いや、黒枝は隣の男です。私は薬師の薬袋です。」

「大変失礼しました。」


 高尾の娘は頭一つ分の丈の差がある黒枝を見上げた。風貌は高尾主人に似てどことなく優しい雰囲気を纏い、眼睛の澄んだ黒は夫人の面影を残している。冠を伸ばす竹の青々しさ、また瑞々しさを映す肌、それが湿り気を帯びて麗しい艶を生んでいる。それでいてどこか抜けているところも、疑り深い顔つきが染みついてしまっている黒枝や薬袋とは対照をなす夫妻のもとで育てられて得ていったものと見える。



「父母は集会所におりますので。もし、黒枝さんが先に家を尋ねた時は案内しろと言われているのです。」

「なるほど。」


集会所のある位置は既に知っていたし、何度か出入りもしていたが、半年も経てば忘れてしまうと考えたのだろう。左に右に揺れる馬の尾のような髪にしたがって、集会所までの道を歩く間、蝉の鳴き声が逆位相の理屈によって歪んだレコードをセットしたときのように、ときおり音が絶えた。


「名前を記入しますね。薬袋さんは薬の袋でよろしかったですか。」

「はい。」


高尾の娘が書く筆跡には確かに見覚えがあった。手紙の送り主は妻とばかり思い込んでいたが、思えば手を失った妻が手紙を書けるはずもなく、こういってはなんだが、高尾主人がこの細い流麗な字体の持ち主であるというのは想像ができない。となれば身内か、そうでなければ近隣の村民や行商しかないはずなのに、どうしてこう当たり前の事実に気が付かないものなのだろう。娘は黒枝の字から書き始めたが、枝に差し掛かるところで筆が停まり、間もなく黒に二重線がしかれ、黒枝も薬袋もカタカナで記されることとなった。



集会所の軒端には、寺から借りた屋根付きの香炉が夥しく並べられてあった。


「こんなものでどうでしょう。足りますかね。」


香炉を見つめる黒枝のもとに、腕をまくった高尾主人が駆け寄って言った。軽く15は超えている。よくまあ寺に話を通したものだと関心しつつ

「足りると思います。」

と答えた。

高尾夫人への手紙に、屋根のついた香炉を10つほど集めてきてもらいたいと書いたものの、実際には甘葛を加工したお香の方が重要であり、香炉は5つあれば足りる見立てであった。



 梅雨明けを待たず羽化したセミが鳴いている。あの鋸のような鳴き声は聞こえない。が、その代わりとして、蝉噪が断絶されているのを見るに確かにタケシジマの存在を感じる。在来種のセミが地中から出るタイミングは5,7年とほぼ奇数となっている。それは単に交雑の可能性を減らすためである。タケシジマの周期は、タケコブシの胞子が元の蝉に斎き、その蝉の幼虫が草莽竹の茎の汁を吸ってタケシジマに変わると単年となる。竹の汁を吸って太った蝉の幼虫は、梅雨終わりの数日に土を這い出て羽化するのが常である。在来の蝉が羽化せぬ雨の日に、ホホビロコメツキモドキを殺し、親ゼミが節に穿った竹の微細な穴を突き破る鋭利な爪で竹の悍を昇り、幹の根に爪棘を刺し、雨に打たれながら逆さで羽を広げる姿は異様そのものである。



 数は少ないが、何匹か何十匹かのタケシジマはもうすでに羽化を終えているらしい。今回の作戦は、梅雨が明け、竹の花が咲くまでの僅かな期間でのみ可能となる。その上、群落から峠に向かって薫風を送るには、風の力を借りる必要がある。もし失敗したら、また来年を待つしかない。手を失った群落の夫人の数も5人に増えている。両手を失ったまま日々を送る彼女らの心情はいかようであろうか。出漁後、津波に飲まれて未だ帰らぬ息子を案じる母の心持と似たようなものか。それだって、息子の服を手繰る手が欲しいものである。条件が厳しいにもかかわらず、群落をはじめ、婦女会や星備の有志がこれだけ揃ったのだ。皆、めいめいの生活を中断して、手伝いに来てくれている。



「皆さん、作戦は手紙に書いた通り、峠に向かって風が吹く雨の日に行います。

 リミットは3日ほどではないかと思います。手始めに竹林に香が行き渡るよう、香炉を小高い所へ運びますので、ご協力をお願いします。」






 日が変わって夜が白む直前の静寂、雨どいに垂れる雨音に黒枝ははっと目を覚ました。風はない。微雨は暗く、湿り気を溜め込んだ土に音を隠す。低草を打つ雫が地へと滑り降りる。その中に勢いよく飛び降りるものがある。煙を吸ったように膨らむ雲の光を食って伸びた竹林の闇が、早霧湧く大気に光を吐き戻す。竹林が呼吸を繰り返して空が輪郭を取り戻すにつれ、一つ聴き慣れない音が響きを増していくのに気が付いた。鶏卵の殻を割って中身が出た後の、空虚を晒す低音のような不快な音が光のい竹林を巡る。

それは、いわずもがなタケシジマの一斉羽化であった。黒枝は、深泥の底のように暗い竹林の海を貫く低音のために、残された日数が減っていく焦慮に追われた。




 いつしか眠ってしまったようである。翌朝、黒枝と薬袋は意を決したように眉を逆さにする高尾の娘の呼びかけで起こされ、眠り眼を解いて外へ出ると、雨はしとしとと春先の柔らかさを残して地に注ぎ、竹籟は星備の海に向かって靡いている。待ち望む絶好の機がさっそく黒枝の目の前に訪れた。



 群落の鼻梁、小高い丘に並べられた屋根付き香炉にて、厳冬期を迎えて糖度を高めた小紫那珂の葛の樹液を凝縮した香を焚く。草莽竹の香は、甘葛のそれに似ているらしい。もう1週間ほどでこの甘美な香りが自ずと群落を漂うと、くゆらせた香は香炉を離れ、峠の先の星備に流れる風を頼りに、蛇の腹ばいのように鬱蒼とした竹林を分け入る。春の残した風は涼しく、すっかり長くなった後ろ髪をかき上げる黒枝のうなじを冷やしていった。



 甘葛の蛇が忍び入って寝床に滑り降りた音か、あるいは天に上って笹を折った音か、竹林の暗がりに騒めく遠鳴りが、徐々に幽けさを失ってこちらに忍び寄ってきている。土を破って草を這う。視界に留めておらずとも、蛙の跳梁を感じるように。じきに姿を現わすだろう。雨が額の汗に交じって頬を流れる。竹林に降る雨というものは、常ならばあたかも彗星のごとく天の威を借りて、いたずらに音を荒立てるものである。が、雨粒が耳の手前をなぞるまで、まるで気がつかなかった。この竹は音を吸っている。その中に、在来の蝉の求愛を黙らせるタケシジマの姿が浮かぶ。


「あれはなんぞ。」


視力の秀でた若衆の一人が、香炉の側から後退りした。急いで駆け寄る黒枝と、その場に居合わせた村民が見たものは、地を這って藪漕ぎする土の塊であった。雨に当たって笹が拭った部分からは白い皮膚のようなものが見えている。


「間違いない。あれは手だ。」


事前に予想された結果と異なると、怯える村民あり。手という言葉に喜ぶ夫あり。そして、当の黒枝の脳内は混乱していた。


 草莽竹に似せた香が機能していることは分かった。しかし、香りにつられてコブシダケとその宿主がおびき寄せられていることに対する理屈がさっぱり思い浮かばない。土の塊は、雨粒に土の鎧を剥がしながら竹林を抜け、丘に迫ろうとしている。


「黒枝さん、わしらはどうすれば良い。」


黒枝を頼る村民の声は益々大きくなっていく。竹林の天井には、いつしか翼を広げつつ雨を弾く鴉が舞っている。


「食うつもりなのか。」

「おそらくな。」


焦りに駆られる黒枝を真横で見守っていた薬袋は冷静に答えた。


「あの鴉を見るに、草莽竹の花の香の源へ、あえて動物に見つかるように移動させるのだろう。コブシダケの斎くより大きい宿主を我々がなかなか見つけられないのも、こうした理由からじゃないか。」

「とすると、匂いが切れないうちに、ひとまずあの土塊を取ってしまったほうが良いだろうか。」

「竹林での発掘作業のために、銃を何丁か借りているはずだ。同伴のハンター以外は空砲にしてあるが、脅しには十分だろう。」


というと、薬袋は声を張りあげてハンターに発砲を依頼した。ハンター側も指示を待っていたというように二つ返事で、竹の天へ発砲した。


「一定の間隔で打ち続けて下さい。我々はあの土の塊を取っていきましょう。御覧の通り、あれは夫人の手です。」


 手を失った妻を持つ夫が殆ど転がり落ちるように丘を駆けた。夫人たちは胸の前に腕を運び、誰の目にも映らぬ合掌をした。興味本位でついてきた子供は、親の指示で集会所から水や湯を取りに行った。



 溜めた湯に放った手は、金魚のように桶の中を踊りまわった。手を失った妻とその家族は、どれが自分の手であろうかと桶をうろついたが、手の持ち主が近づくと、桶の手前へ近寄るのであった。そして、夫や子が土を除いてタオルで乾かすと、もと皸のあった部分に根を生やした手は魔術のように腕の切っ先に縫合した。小高い丘に漏れるすすり泣きはしばらく止まなかった。



 他方で、片方の手が戻ってこない夫人や両手の戻らぬ夫人もあった。とりわけ、今や婦人団体の長を務める未亡人も、睫毛に滴る雨粒を払いつ夫の姿を探し求めている。不幸のままの協力者を見放す者はいない。皆、雨に濡れるのもかまわず丘に登ろうとする土塊を追った。が、土を脱いで現れるのは野鼠やトカゲで人の形を伴ったものはこれ以上出てこなかった。薬袋は眼を輝かせて、野鼠やトカゲを乞うて回った。




 手の帰らない夫人に心当たりを尋ねるも、一向にそれらしき手がかりが得られない黒枝に、高尾の娘が一つの仮説を齎した。娘によれば、手が戻らなかった夫人は、概して手を失ってからの期間が短いという。高尾夫人は群落で最も早く手を失ったが、見ると確かに両手を取り戻している。そして、時期が一番遅かったという夫人はいまだ両手を空にしたまま虚ろげに天を見ている。


「思うに、短期雇用か長期雇用かの違いだろう。あるいは雇用契約満了か、そうでないかか。」


あからさまな嘘を言うだけの度量はない。落胆する夫人たちを宥めるように、あえて返事をはぐらかした。高尾の母親が娘と黒枝のもとに近づいて、深々と頭を下げた。そして晴れやかな表情を浮かべると、黒枝にこう尋ねた。


「どうして手は私の元へ戻ってきたのでしょうか。」


恨みを抱いて家出をしたはずの手が、主との再会を懐かしむように戻ってきた。

果たして、手に感情はあるのか。それともコブシダケに操られているだけなのか。

黒枝にとって今度の質問は、おとぎ話めいた曖昧な答えは不適であるような気がした。


「それはまあ、あなたの手に問うてみてください。」


微笑み交じりに黒枝が答えると、微雨を垂らす墨空に光が差した。

ある種の神々しさを伴って伸びる光にかざした夫人の手は、雨粒を吸って生命が萌えるように煌めいた。










明庫奥の駅舎につくと、そのまま優等席に案内された。通り過ぎる一般車両の煙と熱気と過密と汗は、汽車を動かす動力源のように黒枝の眼に映った。コブシダケの詰まった土産袋をそっと床に置いた薬袋が、向かいで寛いでいる黒枝に言った。


「もう数年の間に、新幹線が開通するらしい。東国への長旅も、1週間あれば足りるようになるかもしれない。」

「交通費を惜しみなく出してくれればな。」


 薬袋は、うっかり舌を滑らせたという表情で間抜け面を晒した。黒枝は、薬袋の方を向きもせず名残惜しそうに明庫奥のプラットフォームを眺めた。


 発車の号令がかかって、汽車は明庫奥の根城の壁を蹴った。新幹線開通と書かれた横断幕が遠ざかるにつれ、半開きの窓から都市の熱気が逃げていった。薬袋は席を離れて、車両の後ろにある痰壺の中へ痰を吐きかけると、思わず緑茶の粉を舐めたときのような渋い顔で席に戻った。


 夫人らの手が戻った後も、黒枝と薬袋はしばらく逗留し、草莽竹の開花を見届けてから群落を発った。

開花時の匂いを装ってコブシダケをおびき寄せたのだから、当然、草莽竹が開花するとなれば、コブシダケは草莽竹のもとへと戻っていくだろう。


 草莽竹の花は、枝垂れれば藁の帷子に、風が舞えば天狗の扇に姿を変えた。地中を蠢く影は少なかった。他方、甘葛香を焚いた密室はにぎやかであった。花が枯れるまでの間、甘葛香が切れないだけ多めに作ってよかったと、二人して胸を撫でおろした。出立の朝、二人は竹林を抜けたが、地下茎が枯れた気配はなかった。


「出世の話はないが、薬科学校への支援金は出してくれるだろう。」


 黒枝にとって願ってもない吉報が舞い込んだが、黒枝の耳には届いていなかった。その時、タケシジマにかかわる一つの謎が黒枝を悩ましていた。というのは、タケシジマの積極的な交雑についてである。在来の蝉をタケシジマに変えるのはコブシダケであり、タケシジマへの変化の過程は一貫して受動的である。種としての生存を考えるなら、同種の蝉と交わるのが消滅のリスクを避ける上で最善の選択である。

なぜ、自然の摂理に逆らうような行動を取るのだろう。


「支援金は不要か?。」

「いや、要らんとは一言も言っていない。」


支援金という言葉に黒枝は、今度は迅速に反応した。


「来年には国民健康保険制度が施行されると聞いた。長きにわたって続いた小紫那珂の薬売りもいよいよ終わりか。」

「その割には、薬売りの登録者数は過去1番らしいけどな。」

「皆、今ある仕事が続くと信じて止まないのだろう。そう考えた方が楽だからな。」

「ふむ。」

「そうならないよう、身銭を切って製薬の道に進ませようとしてる。」

「感心感心。」

「いずれ無くなる仕事と思うと、なんだか哀情が湧くというものだ。最後の一人になるというのならでそれでよし。」

「いや、それはごめんだな。」


黒枝はそう言って、使い古されて煤のように黒くなった手甲を撫でた。


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