治療プログラム 2
俺は生まれてこの方無視論者だったが、軍のセラピールームで聞いた聖書の引用で、強い刺激を受けた出来事がある。
「わたしは答えた『主よ、あなたはご存じです』すると、彼はわたしに言った『彼らは大きな患難から出てきた者たちで、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのです』と」
壮年の女性カウンセラーが口にしたそんな言葉に、俺は訳が分からず顔をしかめ、問い返した。『なんだ、それは?』と。
すると、女性カウンセラーは待ってましたと言わんばかりに口元を綻ばせ、こう答えた。
「『小羊の血で洗い、白くした』というのは、文字通りの意味ではありません。それは、あなたの過去がどんなに過酷で、心がどれほど汚れてしまったと感じても……それを乗り越えたときに、完全に清められ、新たな始まりを与えられるという深い癒しと再生の約束です。まるで、嵐を乗り越えた後に澄み切った空が広がるように、あなたの魂が再び輝きを取り戻すことを示しています」
天国に行けるとか、そういう話か?
そう尋ねれば、女性カウンセラーは少し考える仕草を見せた。
「この聖句が直接的に『天国に行ける』ということを約束しているわけではありません。それはむしろ、あなたが今、この地上で経験している心の苦しみや重荷から解放され、内面的な平安と新たな生き方を見つけることができるという、希望についてのメッセージなのです」
それ聞いた俺は瞬時に問うていた。
このカウンセラーからすれば異教徒であるはずの敵も同じか? と。
「この聖句のメッセージは、宗教や信仰の枠を超えて、全ての人間に向けられたものです」
俺は思った。それが本当なら不条理だ、と。
敵は異教徒と見れば、だれかれ構わず惨殺するような連中だった。
情報提供者であるパルチザンが何人も目の前で殺される姿を見て、何度も敵はこの世から駆逐せねばならない存在だと思ったものだ。
それが伝わったのか、もうこれ以上は無駄だと感じたのか。
「他に何かありますか?」
カウンセラーは締めくくりの言葉を口にしていた。
「くそくらえ、だ」
俺の発言にカウンセラーは表情を動かすことなく、十字を切った。
「アナタに神の祝福があらんことを」
△
会議終了後、更生機関の廊下を黒人の武装警備員と歩いていた。不意に俺は立ちどまって、背後の彼へと振り返る。
「聖書は読むか?」
聞くと、彼は少しだけ肩を浮かした。
「マジメに読んだことは一度もない」
「どうして?」
「字がビッシリ詰まってる」
俺は苦笑しながら、再び歩き始めていた。
「お前は読むのか?」
初めて武装警備員側から質問をされた。
俺は振り返らず、歩きながら、
「読まない」
「どうして?」
「本は嫌いなんだ」
ちょうどそこまで話したところで、無機質な金属性の扉をした、自室の前までたどり着いていた。俺は部屋の冷たいアルミノブを手に取りながら、
「なあ」
「うん?」
「俺は、良くなろうと……思う」
暫くの沈黙。扉を開いて、中に入り、振り返る。
黒人兵士は、ライフルのグリップから手を放していた。
「シェーン」
「……ああ」
「救えなかった命もあるだろう」
ドクンッと。心臓が強く脈動していた。
脳裏に浮かぶのは、草むらに伏せって、仲間を見殺しにしたあの時の光景だ。
続けて、黒人武装警備員は、こんなことを口にした。
「だからお前は、ここでもう一度兵士となって――この国にいる皆を救え」
命令とも、懇願とも違うその言葉。それを吐いた黒人兵士は、不意に見事な敬礼を見せてきた。
俺も元軍人の端くれだ。反射的に敬礼を返す。
「デズモンドだ。デスって呼ばれている」
「……シェーンだ」
「知っている」
「だろうな」
お互いに示し合わせたようなタイミングで腕を下ろすと、
「じゃあな兄弟」
黒人兵士……デスが、ノブに手をかけてゆっくりと扉を閉めた。
「ああ、兄弟……」
俺は暫くそこに立ち尽くし、鉄製の扉にそんな独り言を吐いていた。
△
それから数時間後。部屋に控えめなノックが鳴り響いた。
音の鳴らし方からして、てっきりカナだと思い込んで返事もせずに扉を開けると、
「こんにちわ」
俺は呆気にとられた。そこに居たのは、後ろ手にクラスルームとやらVR空間で初めて会った、東アジア人の少女。
「名前は確か――」
「酷いなあ。ミヤビだよ」
彼女は笑みを浮かべながら言った。何だか、仮想空間で出会った時より気安く感じた気がした。
それには違和感を覚えていた。
「入っても?」
そう言われ、俺は廊下を見渡す。武装警備員も研究者も見当たらない。
廊下の監視カメラを見つめたが、当然ながらカメラが一人でに話す筈もない。
俺は入れるぞ、とだけカメラに向かってジェスチャーし、彼女を招き入れた。
「部屋は私の部屋の方が広いわね」
中央でクルリとターンを決めてそう言った。
俺はポリポリと顎を掻きつつ、意図を探ろうとする。
「何しに来た?」
ミヤビはとぼけたように肩眉を持ち上げた。
「元兵隊さんなんだって?」
「ああ」
「かっこいいね」
カッコいい、か。退役兵士に対しての表現として、適切なのかはともかく。
若者らしい言葉だと感じた。故に、顕著な価値観の違いもはっきりとした。
「それに、あの乱暴者を抑え込むんだもん」
俺が起こした、あの横暴をまるで肯定的に捉えるような言い方だ。
彼女……ミヤビはあのグループのまとめ役のように思っていたが、違うのだろうか?
俺は備えつけの冷蔵庫を開けた。入っているのは水とゼリーだけ。胡散臭い成功者が好みそうなラインナップだ。
とりあえず水を手に取って、自身を落ち着かせるように口に含んだ。
若者と長く触れあっていない、しがないオッサンからすればこの会話は、まるでエイリアンと邂逅したかのような感覚だった。
「あの子は大丈夫か?」
俺が聞くと、ミヤビは大げさに肩をすくめてみせた。
彼女は断りも入れずに俺のベッドへと腰掛ける。
そして、まるで大女優でも気取るかのように足を組んだ。
「もしかして、エイデンのこと?」
「確かそんな名前だったな。白人の、金髪の小年だ」
「自分でボコボコにしたのに、心配してるの?」
「危うく食い扶持を失うとこだった」
「食い扶持? 更生機関のこと?」
彼女がそこまで口にした時だった。
ノックも無しに、部屋に東南アジア系の武装警備員と、サイモンがバディで踏み込んできた。
「探したぞ、お姫様」
武装警備員はそんなことを口にした。
「もうすぐ夕食の時刻です。早く部屋に戻りなさい」
続けてサイモンが早口でそう捲し立てる。
それを受け、ミヤビは残念そうに肩をすくめていた。
「邪魔が入っちゃったね」
「……やはり、勝手に来たのか?」
ミヤビは暫く俺の顔をまじまじと見つめたあと。
「またね」
そんなことを口にして、武装警備員とサイモンに連れられ、部屋を去っていった。
「なんだったんだ……」
俺はそうひとりごちりながら、ベッドに腰掛けようとする。
すると、指先に触れる小さな異物のような感覚が。
……もしかして彼女が来たのは、このためか?
俺は布団を被り、なおかつ明かりが入って来るよう僅かな隙間を作って視界を確保。
まるで子供が両親から隠れてゲームをするかのような態勢でその異物を眼前まで持ってくる。
それは、何かの資料の切れ端のようで、短くこう書か
れていた。
〝更生機関を信用するな〟
△
腰先くらいまで伸びているであろう草むらに、伏せっていた。同じくらいの長さのライフルを持って。
居心地は最悪だ。露出した首元や手首に葉先が突き刺さって、チクチクとする。
茂みの先には道路がある。舗装されていない土の道路だ。戦車が通ったであろう履帯の痕と、それから――
「絶対に道路上には出るな。良いマトになるぞ」
真横に伏せる黒人兵士がそんな言葉を漏らした。視線をやれば、彼は自分と同型の迷彩服を着ている。腕章は第百二連隊。別の部隊で、空挺隊員だ。
その言葉を受け、俺は理解していた。
「これは夢だ」
口にすると、黒人兵士は顔をしかめていた。
「何を言っている?」
「これは俺の罪悪感の表れだ。もう、俺は止まらない。受け止めるって決めたんだ」
俺がその場で立ち上がると、黒人兵士は信じられないといった表情を浮かべていた。
俺はそのまま、道路上へと歩いていく。その先には、両目から血を流した兵士が倒れていた。
「バカ、戻――」
轟音。その次に黒人兵士の言葉が途切れ、振り返ると彼の頭が吹き飛んでいた。再び轟音。散発的。ヒュンヒュンッと、音速で何かが飛んでくる風切り音。
俺は呆然とした表情で、暫くその場に立ち尽くしていた。
「写真を……」
道路上に倒れた兵士の声で、俺はハッと我に返った。
「こっちだ!」
俺は倒れた兵士を引きずって、そのまま草むらに入っていく。
その間にも風切り音は絶えなかった。兵士を引きずったまま、頭を吹き飛ばした黒人兵士の横を通り過ぎる。
「違うんだ、夢だと思っていた」
通り過ぎさま、そんな言い訳が口から漏れ出ていた。
『エコーシックス、こちらアルファワン。聞こえるか?』
不意に、本部からの無線が鳴った。俺は目の見えない兵士を引きずりながら、通話ボタンを押す。
「アルファワン、こちらエコーシックス! 敵部隊に追われている! ポイント、ビー・ファイブだ!」
答えたが、暫くの間返答が無かった。
敵が草をかき分けながら、草むらに侵入してくる。俺は兵士を引きずりながら、背中に回したライフルを片手で構えた。
『なぜソイツを見捨てなかった?』
そんな無線の言葉に、思わず立ち止まりそうになった。
「……なんだって?」
『優先順位を考えろ。黒人兵士は優秀な空挺隊員。五体満足だ。対して、お前が引きずっている男はなんだ?』
その冷酷な返答に、思わず俺は無線に向けて怒鳴っていた。
「俺たちは仲間を見捨てないんじゃなかったのか!」
『そうだな。じゃあ何故――』
続く言葉を聞いて、俺は足を止めていた。
『その両目を失った兵士は死に、黒人兵士は死んだんだ?』
バシュン! 割と近距離からの、ロケットモーターの点火音。
ギューーーーン! というバカみたいな音とともに、高速で飛翔する物体が近くの地面に着弾した。
『シェーン、命は天秤だ』
吹っ飛ばされ、四肢が無事かも判別できないような状態。スローモーションの中。
キーンという耳鳴りだけは響いているのに、何故か無線の音声だけはクリアに聞こえていた。
『片方に重しを乗せれば、片方は傾いてしまう』
「……じゃあ、見捨てろって言うのか! あれが正解だったのか!」
『いや、お前らの見捨てるという判断は早かった。道路上に捨てずに、何とか脱出路までたどり着き、助ける道もあっただろう。だが――両目を失った状態で祖国に帰ってきて、それでどうする? 恋人からは見放され、家族からは厄介者扱い。世間からは英雄ともてはやされて、それでおしまいだ。大人しく、死なせてやれ』
「本気で言っているのか?」
俺が呆然としながら言うと、無線の声が途端にくっくっく、と。噛み殺しきれない笑いを漏らした。
『お前が証明だろう? お前は国に帰って――どう過ごしていた?』
△
「はあっ、はあっ――」
意識を取り戻した。動悸が激しくなり、呼吸は整わない。それに汗まみれだった。
目の前にはカナコが居て、必死に俺の背中をさすっていた。
「大丈夫、大丈夫ですから……」
俺は両目からボロボロと涙を流しながら、シーツが破れるくらいに強く握りしめていた。
「ああっ、ああ――」
自分の口から、人間とは思えない声が漏れていた。
カナコは変わらず、俺を抱きしめ、背中をさすっていた。
「大丈夫、ここは研究所です。安全な場所です」
俺はカナコを強く抱き寄せ、子どものように泣きじゃくっていた。
「分かった、分かった、分かったんだ――」
「どうしたんです?」
「俺、俺は、結局――助けられなかったんだ……」
「そうですか」
「命は、命は――天秤だって、アイツが――無線で――」
「そうかもしれません」
俺はそこで、ようやく落ち着きを取り戻しかけていた。カナコから香る、控えめな柔軟剤の匂い。それを嗅いでいると、妙に安心できた。
「ここに来るのは、アナタじゃなく別の軍人だったかもしれません」
呼吸を整え、必死に彼女の言葉に耳を傾ける。今は彼女の言葉が、妙に心地良かった。
「でも、ここに来たのはアナタです。それには、何かしらの意味があるのかもしれません」
――軍でもこの手の話はあった。運命とかいうヤツのことだろう。だが、俺はそれを信じない。
レイプされて殺された十四歳の少女が、ゴミのように戦場に裸で転がされていた。それが彼女の運命ならば、あまりにも残酷すぎる。
そんなことを考えていると、途端に冷静になってきた。彼女から離れ、震える手を見つめる。
「俺は、無神論者だ」
不意に飛び出た言葉がそんな言葉だ。偏屈極まりない。だが、カナコは顔をしかめなかった。
「意味は神が定めるモノじゃありません」
カナコの表情を伺うと、彼女は初めて浮かべるような、真剣な表情を浮かべていた。
「――じゃあ、誰が決める?」
俺が聞くと、カナコは俺の胸にドンッと拳を当ててきた。
「アナタですよ」




