朱乃登
九 朱乃登
昼の日差しが西日に変わるまで、綱行は石段の最上段に腰掛け、眼下に広がる田園と微かに見てとれる深山の城下町を眺めていた。
東の空より、黒く分厚い雲が流れてきていた。夕日を浴びて輪郭を神々しく輝かせているが、芯までは届かず大きな闇の塊となって空を覆っていく。闇を司る邪神が如く、禍々しい姿で唸り声をあげた。
綱行は、考えていた。
自らとその家族を惨殺され、復讐のために妖となった者の事。
自らの主君を、この国の未来のため殺害した者の事。
自らの忠義のため、主君の家族を殺めた者の事。
自らとその家族を殺害されたにも関わらず、大義であったと労う者の事。
この鷹鞍の国で一体何が起きているのか、誰の行いが正しいのか。
大粒の雨が、綱行の頬を叩いた。
その様子を、社屋から眺めていた椿は落ち着かない。
うろうろと外を気にかけながら、そばにいた兼定に訊ねる。
「渡邉殿は、どうされたのでしょう。あ、雨が振ってきました」
「あの方からは、心根に住み着いた自責の念を感じます。この時代を生きるには、惰弱かもしれません」
兼定は、歯に衣着せぬ物言いで答えた。
「何を申すのです。惰弱など、三賀も倒した剣豪ですよ」
「剣の腕は認めますが、心が弱い。長生きしませんよあの人」
兼定の冷淡な物言いに、椿は気分を害した。
「あなた、昔からそういうところありますよね。言わなくていいことを、迷いなくさらさらと」
椿は、血走った目で兼定を睨みつける。
兼定の脳裏に、幼き日にいらぬことを言って、椿に散々殴られた苦い思い出がよぎる。
「失言でした。どうかお許しください」
兼定は、深く頭を垂れ謝罪するも椿の怒りは収まらない。
「あの方は、お優しいのです。だいたい何なのですか、あなた仏と神に仕える身でしょう。人を貶めて長生きしないなどと、私に謝罪する前に神と仏に謝罪しなさい」
椿が一息にまくしたてると、兼定は言葉なく膝をついて頭を垂れた。
境内を叩く雨音が強くなった。
「ああ、雨が」
兼定を叱っていた椿であったが、打ち付ける雨音に注意がそれた。
「これは大変だ、傘を用意いたします」
兼定は、好機とみてすかさず紅色の差し傘を用意して椿に持たせた。
「ささ、椿様これを渡邉殿に」
椿は、差し傘を受け取るも躊躇する。
「私などが傍によって、叱られはしませんでしょうか」
「そのようなことありませんよ」
兼定は、綱行の背に目を向けて言葉をつなげた。
「あの方は、優しい方ですから」
椿は、黙って頷くと傘をもって駆けだした。綱行の元へ。
激しい雨が打ちつける中、朱色の甲冑姿の椿が紅傘をさして駆けていく。
そんな椿の後姿を見送りながら、兼定は呟いた。
「私には、そんなに優しくないけどね。椿様」
椿は、綱行の一歩手前で立ち止まり、傘を差し向ける。
「どうされたのです。体を冷やしては毒です」
椿は、綱行の様子を伺いながら躊躇いがちに声をかけた。
「やぁ、椿殿。雨など何ともない。心地よいくらいさ」
そう言って綱行は、天を仰いだ。
「冷たくもない。今まで俺が切り殺してきた漢や、その家族の涙を思えば温いくらいさ」
綱行は、目を細めながら微笑した。
「そうか、そこが違う」
綱行は、独り得心し呟く。
「俺は、自分のためだけに剣を振るってきた。自らの命を守るため、重い刀と名誉のため、目の前の命を露を払うがごとく奪ってきたのだ」
「今は違います。今は、私のために剣を振るってくださっています」
椿は、綱行の背を前にしゃがみ込む。
「貴方は、優しい方です。私は、それを武士として劣っているとは思いません。優しいとは、優れているとも読むのです」
椿は、綱行の注意を引こうとまくしたてる。
雷鳴が、轟く。
「貴方は、人として優れているのです。だから私は」
綱行は、何も答えない。椿のことなど気にも留めず、ぶつぶつと独りごちる。
椿は、涙を流した。豪雨で誰が見てもわからぬであろうそれは、雨とともに流れていた。
雷雨に打たれながら、二つの影は重なったまま闇に溶けていく。
椿は、眠ることのできぬ夜を散歩で愉しんだ。
すでに雨はやみ、いたるとこるにその残滓が残されている。
先程まで泣いていたとは思えないほど、華やいだ気持ちでいた。
新涼の田園を、星明かりの元歩く。実りを蓄え始めた稲穂が、僅かに頭を垂れる。
綱行と蛍舞う畦道を歩いた日が、つい先日のようにも、はるか遠い記憶にも思えた。
屍人の体には、その温もりは感じ得なかったはずなのに、両の腕と胸があの温もりを恋しがっている。
椿は、天を見上げた。星屑が、いつもより一層に輝かしい。
面頬から覗く紅をさした口元は、絶えず笑んでいた。
高らかに笑い出したい心内と、何故か苦しい胸の内が、心地よく切ない。椿は、それが何なのか気付き始めていた。
今、満ち足りた幸せを感じている。
路傍の名もなき花を愛でたり、頬を撫でる風の香を楽しんだりした。
瞬く間に時は過ぎ、東の空が白みはじためた。
椿は、新しい朝を見つめる。
椿は、確信した。
光に照らされ、心の中のそれは、はっきりと輪郭を伴う。
椿は、それを誰にも奪われまいと、自らに課す責として誓った。
「何と美しい光かしら」
思い人の名を新しい朝の光に、指でなぞり書く。
何度も、何度も書いた。
そして、掌を覆う弽)が日の光に透かされ、肉も骨も血もない自らの手が、露わになっていることに気づく。
苦しくなって涙する。
その場でうずくまり、ただ泣いた。
足元の土に、また指で名を書く。
ー綱行ー
椿は瑞龍寺への石段を上がった。喜びと悲しみを湛えた顔で、疲弊が見える。
境内に着くと、人が倒れているのに気付く。
「渡邉殿」
椿は、血相を変えて倒れている綱行の側に駆け寄る。抱き起すと、身体中が痣だらけであった。傍らには、三賀が立っている。
椿は、三賀を見上げた。
「貴様、渡邉殿に何をした」
椿の怒りが爆発する。
甲冑の隙間という隙間から、黒色の毛髪が四方八方へ飛散し、本殿の屋根瓦を吹き飛ばし、灯籠を薙ぎ倒した。椿の身体は中に浮き、その姿はまるで巨大な蜘蛛のようであった。
「それがしは何も」
三賀は、片膝をついた。額からは滝のような汗が流れ、膝が震えとても立ってはいられなかった。
綱行が、脚のように椿を支える黒髪にしがみついて起き上がる。
「椿殿、誤解のないように。これは稽古によるもの。兼定殿と稽古をしていたのです」
怒りが冷めると、椿の体はみるみる小さくなっていった。
「どういうことです。貴方様がここまで打たれるなど。兼定さんは何処へ」
椿は、周囲を見渡す。
境内の隅で、平伏している兼定を見つけた。
「彼奴、姫様の気配を察するや、逃げよりました」
三賀は、険しい顔で兼定を睨んだ。
「兼定さん。こちらへ」
椿は、足元に転がっていた木刀を手に取った。
「私にも、稽古をつけていただきましょう」
木刀を携えた椿は、全身から怨念の気を放出した。
「椿様、誤解にございます。渡邉殿は、わざと拙僧の太刀をお受けになったのです。ですが、お許しを」
兼定は、平伏したまま懇願した。
「どうされたのです。渡邉殿」
椿は、悲しげに問う。
「左様、貴殿があの坊主に負けたとあったら、拙者があの坊主に劣る事になる」
三賀も不満げに訊ねた。
「いやいや、見くびりすぎだぜ。恐ろしい坊主だ、兼定殿は」
綱行は、にたりと兼定を見て笑った。
「やめてください。渡邉殿、ひどいじゃないですか」
「本心だがね。されど、俺が腑抜けておりましたゆえ、兼定殿に喝を入れていただいたのです」
綱行は、あちこちを痛がりながら木刀を杖に立ち上がる。
「昨日は、お恥ずかしい姿をお見せして申し訳ない」
綱行は、椿に頭を下げた。
「坊主の説教で目が覚めました」
椿が兼定を見ると、兼定は大きくかぶりを振った。
「渡邉殿が、拙僧の剣先に飛び込んでくるのですよ。わざと打たれているとしか思えません」
兼定は、綱行と自分の朝食の準備しながら必死に弁解した。幼き日の嫌な思い出がよぎるのか、椿にはことさら気を遣っている。
「まったく。無茶をなさらないでください」
椿は、縁側に腰掛け心配そうに綱行を肩越しに見つめる。
綱行は、苦笑しながら飯をかきこんだ。
椿は、母か姉のような眼差しで綱行を案じる。
綱行と兼定は、先程の稽古について語らい始めた。
三賀は、庭で綱行達の語らいに聞き耳をたてている。
「支綱流の鬼抄、虚蝉とは、どういった技なのです。私も噂程度にしか知らないのですが、先ほどの私との稽古では使っていたのですか」
兼定は綱行の正面に座り、箸を取った。
「使わなかった。いや、使えなかった」
綱行は、苦笑する。
「なぜです。私も見てみたかったのに」
兼定は、純粋に残念がった。
「これを言ってしまうと、種明かしになってしまうのだが、あの技には技量はもちろん相手との相性がある」
聞き耳を立てていた三賀が、綱行を睨む。
「怖いな、三賀殿」
綱行は三賀の視線にたじろぐも、話を続けた。
「元祖は我が祖先、頼光四天王の渡邉源次綱だ。後に京八流の祖、鬼一法眼が鞍馬山の八人の僧に伝授した技が京八流となるが、その源となるのが綱が伝えた鬼抄という型だ。支綱とは、元々は船を進水させるための最後まで支えている綱の事よ」
渡邉の一族は、水運に長け各地の港湾でその勢力を反映させた側面もあった。進水まで船を支える支綱に、剣術の真髄と掛け流派としたのである。
源次綱が自らの剣技を支綱と説き、鞍馬山の天狗に伝えた。それが鬼一法眼によって広められたと、綱行が受け継ぐ渡邉一族には言い伝えられていた。
「御伽噺じゃ、鬼の技を流用したとか、鬼と闘い編み出したとか言われているが、それに加えて我が一族が、長い時間をかけて様々な剣客の技を研究してできたものだ」
綱行は両手に箸を一本ずつ持ち、動きを交える。
「この流派の者はこう動くとか、こういう動きの後はこう動くとか、緻密に言い伝えられているのさ。伝え聞く事だが、人間の死体を解体して骨や筋肉の可動も見分したという」
兼定と三賀は、感心して何度も頷いた。
「そして、大事なのは切っ先だ」
綱行は、箸と箸の先をつけて見せる。
「切っ先を絶えず相手の切っ先に触れさせることで、刀から伝わる振動や音で相手の動きを感知しているのさ」
「なるほど」
三賀は、すごく感嘆し立ち上がった。
「で、切っ先の震える者。緊張や恐怖で切っ先が震えるが、こういった人間は苦手だ。何をするか読み難くなる」
綱行がそう言うと、兼定が不思議そうに口を開く。
「でも、何故私には使わなかったのです。切っ先を震えさせたりは、しなかったですけど」
「もう一つ、苦手がある」
綱行は、兼定に向き直る。
「型のない人間だ。我流であったり、無邪気な人間は掴みどころがない」
兼定は、得心し頷いた。
「結局のところ秘伝の技といえ、己の鍛錬が何より勝る」
綱行は、感慨深げに言う。
「良くわかりました。ご教授痛み入ります」
兼定は、そう言って頭を垂れる。
「これで、貴方には負けることはない気がします」
「言ってくれるじゃないか」
綱行は、先ほど打ち負かされたこともあり、決まり悪そうに笑った。
「しかし、良いのですか。自分の弱点をひれかしてしまって」
兼定は、簡単に自分の弱点を明かす綱行を、ほんの少しだけ憂慮する。
「良いさ。そこから先は己の鍛錬しだいさ。そもそもこれを極めた始祖は、鬼も倒したと言う。詰まるところ、まだまだ俺は未熟なのさ」
綱行は、清々と笑った。
「三賀よ」
椿は、男たちの剣術談議が落ち着いたのを見計らい三賀を呼んだ。
三賀は、返事をして膝をつく。
「お前に、屍人達とやってもらいたい事があります」
綱行と兼定も、椿に注目した。
「本殿の屋根をなおすのです」
三賀は、一瞬耳を疑った。躊躇いがちに椿を見上げると、丁重に承諾した。
綱行と兼定は、目配せをする。
「我々も、手伝いましょう。食後の運動に丁度良い」
綱行と兼定は、庭に降りて三賀の後を追う。三人でぶつぶつと呟きながら、去っていく。
椿は、男達の後ろ姿を見送ると、残された食膳に目を向けた。椿も、ぶつぶつと呟きながらそれを片付ける。