蒙霧升降
伍 蒙霧升降
椿は、紅絹地毘沙門亀甲の小袖と裾濃の茶袴に髪を通すと、稲岡の手により作り直された甲冑をその上にまとった。今や、髪を手足のように操ることが出来る。
綱行の体力の回復を待つ間に、椿の鎧は完全に修復された。
真新しい着物も譲り受け、心新たに旅立ちの日を迎えた。
外に出ると、久方ぶりの日差しを浴びる。痛いとさえ感じ、屍人の身には不安を覚えさせたが、光の中から現れた真新しい旅装束姿の男を見ると、霧がはれるがごとく消え失せた。
「お待たせしました」
椿は、綱行の傍らに立つ。綱行に素顔を晒したあの日から、綱行の姿を見ることが心地よかった。安堵感も覚える。
椿と綱行は、振り返ると見送りに出た稲岡夫妻に一礼した。
「本当に行かれるのですか」
梓乃が訊ねる。今にも泣き出しそうな顔で、前掛けを力強く握りしめている。
椿は、微笑みをうかべて頷いた。
「すまんが、わしらにできるのはここまでだ」
稲岡は、いつもの険しい顔で言った。
「家族の仇を討たねばなりません。たとえ返り討ちになろうとも、そのために私は妖にまでなったのです」
緑濃い山道に向け、二人は歩き出した。深山城には三日程歩けば辿り着くであろう。
去り行く二人の背に、梓乃は前掛けで顔を覆い忍び泣く。稲岡は、無言で踵を返し仕事に戻る。
細い山道は、里の者が使うのであろう。はだけた土に剝き出しの木の根が、足場の代わりを務める。獣道に近い。
先頭は綱行が歩いた。綱行の汗染みる背を眺めながら、椿はたびたびほくそ笑む。たまに振りかえった綱行と目が合っても、兜の眉庇と面頬のお陰で綱行に表情を悟られることはない。
二人は手を取り助け合いながら、険しい山間の道を進んだ。
日が暮れる前には、夜を越せそうな場所を探し火を焚いて体を休める。その時間が椿には至福の時間だった。焚火を眺めながら綱行と会話をする。いつしか綱行が寝息をたて始めても、椿は語った。父の話、母の話、幼い兄弟の話、語りつくせぬ記憶を反芻するように、椿は語り続けた。
日が昇ると、椿は優しく綱行に声をかけた。母が自分や幼い兄弟たちにするように。
薄く目を合開け、笑いかける綱行の顔に安らぎを感じた。
二日目の昼過ぎ、小さな集落にたどり着いた。椿も存在を知らない小さな集落である。しかし、殆どの家屋が焼かれ炭となっていた。
あたりで一番大きな屋敷の中央に、この集落の住人のものと思われる遺骨の山があった。まとめて焼かれたのだろう。数年の月日が経っているようだ。
「野盗に襲われたのでしょう」
綱行は、遺骸に手を合わせた。
椿もそれに倣うが、屍人の自分が手を合わせることに違和感を覚えた。
「三年前に襲われたのだ」
突然背後からかけられた声に、綱行と椿は戦慄し声の方へ振り返る。そして、椿は目を見張った。
「襲った輩は、全て我が討伐隊にて退治した」
男が三人立っていた。狩衣姿の初老の男と若い男が二人。綱行は、ゆっくりと鯉口を切る。
「おぬしらは、袋田殿が申しておった輩か」
綱行は、隣にいる椿のただならぬ気配に驚いた。憎悪が体から、甲冑から滲み出ているようであった。
「三賀」
椿の口から発せられたその一言は、別人かのような恐ろしい声だった。
「あれ、三賀様。この鎧、あの鎧じゃないですか」
若い男の一人が、椿に近づいてきた。素早い身のこなしで、いつの間にか椿の傍にいる。
「やっぱり、あっしが井戸に捨てたあの鎧です」
男は、そう言って椿の脇の下に短刀を突き刺した。
椿は、ゆっくりと男に顔を向ける。男は、訝しげに椿を見つめた。刺した感触が無いのである。
男は、慌てて短刀を抜こうとするも抜けなかった。黒い毛髪が何本も腕に絡み付いていた。
「あれ、あれ」
男は素っ頓狂な声をあげて、椿の髪を振り解こうとした。
「お前は、誰を殺めた。母か、弟か妹か」
椿が、黄泉の底から響いてくるような恐ろしい声で尋ねる。
三賀は、険しい顔で様子を見ている。
椿は、右腕で男の腰を抱き寄せ、左手で腰の刀を抜いた。
ゆっくりと男の右腹に逆手で持った刀の切っ先をあてる。
「痛い、痛い」
男は刃をかわそうと身を捩るが、椿の右腕と毛髪がそれを許さない。
しだいに、男は悶絶する。椿は、ゆっくりと男の横腹に刃を差し込んでいった。
刀のつばまで刺さると、一気に引き抜き男の縛を解いた。男は、椿の足元で絶叫しながら転げ回る。
「とどめを」
綱行が、悲痛な面持ちでそう促した。
「不要です。永遠に苦しめば良いのです。じきに、命が尽きてしまうのが残念です」
椿はのたうつ男を、蔑むよう見下ろす。
「何をしている」
綱行は、あまりの非道に椿を怒鳴りつけ刀を抜いた。
綱行がそうするより早く、三賀が駆け寄り男の首を抜きざまに突いた。椿は、不服そうに三賀を睨みつける。
「おのれ三賀、お前はこの程度ではすまさんぞ」
お互いが、切り合える距離である。椿と三賀は、刀を手に対峙した。
「女よ、何故我々を憎悪するか」
三賀は青眼に構え、怪訝そうな面持ちで椿を観察する。
「私がわからぬか。私はお前に首を切り落とされた、佐貫椿だ」
椿は、八双に構えた。
「なんと」
三賀は、たじろぎ一歩引いた。
「渡邉殿。もう一人の男をお願いしても宜しいか」
「俺が討っても宜しいのですな」
「逃げられるよりは」
そう言うと、椿は三賀に切りかかった。
「誠に、姫様か」
三賀は、初太刀をかわしながら訊いた。
「お前を討つべく、妖になり堕ちたわ」
椿は、上段から振り下ろした刀を、地につくすれすれで切り上げた。
「むむ、お見事」
三賀は、それをかわし唸った。
「殺すには惜しい腕前、いや」
既に死んでいる事に気づいて、三賀は言葉を濁した。
二人は、一度距離を空けた。
「姫様、拙者を恨むのは至極当然。されど理由はあったのです。やむを得ぬ理由が。」
「それを言って、何になる」
三賀は、押し黙った。
「如何にも」
綱行が、残った一人の男を一刀両断にして、椿の元に戻ってきた。
「手出しは無用です」
椿が、背後の綱行に振り向かずにいう。
「心得た」
綱行は刀を納め、刀の鯉口に手を添えたまま距離をおいた。危うけば斬りかかる。
三賀は、青眼に構えたまま目を閉じて深い呼吸をした。目を開けた時、その目に迷いや戸惑いは無かった。
「この鷹鞍のため、もう一度大罪を犯しましょう」
「何が鷹鞍のためだ、幼児の命まで奪って何が国のためか」
晴天に雲が翳り始めた。まるで椿の怨念が空色まで変えたかのよう。
「幼児とて、いつかは大人になりましょう。さすれば、今の姫様のように仇を討つべく刀を取ります」
三賀は、じりじりと間合いを詰めながら続ける。
「つまるところ、明くる鷹鞍の子供達のためなのです」
「黙れ、もっともらしいことを。剣豪とは名ばかりで、切れるのはその口先か」
近くで二人のやり取りを見守っていた綱行は、危惧した。三賀は、椿をなだめようとしているのではない。観察しているのである。
「やむを得ませんな」
三賀は、上段に構えを変えて椿に詰め寄る。
椿が、八双から青眼に構えを移そうとしたその瞬間、三賀は猫のようなしなやかな動きで打ち込んできた。
その一撃を、椿は辛うじて受け止めたが、三賀の攻撃はやまない。
四方から矢継ぎ早に打ち込まれ、椿はそれを防ぐので手一杯である。
三賀は、気付いていた。椿の動きに生前の切れがない。どこかたどたどしい。椿はまだ、妖の体に慣れていない。
髪の毛で操る甲冑の体は、慣れ親しんだ生身のようには動けなかった。
綱行もそれに気付き、刀の柄に手をかけた。
三賀が、連撃をやめ刹那の溜を作る。
それで、椿は姿勢を崩した。
三賀の渾身の一刀が椿を襲う。
よろめきながらも、椿はその一撃を受け止めた。刃と刃が軋む。
綱行は、刀を抜いた。助言をしても間に合わない。
鍔迫り合いになって、椿は安堵した。しかしその瞬間、足を払われた。大きく倒れ込む椿の頭部に三賀の刀の切っ先が追う。
椿の見開かれた瞳には、眼前に迫る切っ先が映る。その矢先、三賀は大きく飛び退き視界から消えた。
三賀が、椿の頭部を突こうとしたその時、綱行が斬り込んできたのである。
綱行は、三賀と椿の間に入った。
「拙者は、渡邉の綱行と申す。貴殿の高名は存じております。拙者とも立ち合うて頂けますかな、三賀殿」
「ほう。鬼狩りの、お受けしよう」
三賀、綱行共に青眼の構えで対峙した。
椿は、悔しくて土を掴み握りしめた。見上げると、大きな綱行きの背中が見える。
綱行は、目を細め三賀の表情、着物の胸の動きなどから呼吸を合わせた。両者の切っ先が触れる。
三賀が仕掛ける。軽く刀を引いて綱行きの手元を狙う。綱行は、ぴたりと三賀の切っ先に自分の刀の切っ先を付け、小手を打たれる前に受け流した。
三賀は、刀を跳ね上げると次の打ち込みを狙う。しかし、綱行の刀の切っ先は、三賀の刀に張り付きそれをさせない。
三賀は、首を傾げた。綱行の動きに違和感を覚えた。しばらく間を置くも、綱行は動かない。
三賀は、拳一個分間合いを詰め綱行の刀を払うとそのまま胴を払い切る。しかし、綱行の刀が三賀の刃を滑るようにそれを制した。火花が散る。
三賀は、大きく飛び退き間合いを空けた。ここで初めて綱行の刀と離れる。
「お主のその剣技はなんぞ」
綱行は、しばらく間を開けて呼吸を乱さないようゆっくりと単に答えた。
「支綱流鬼抄虚蝉」
刹那、三賀は目を見張る。
「なんと、支綱と申したか。お主、極めたのか」
「家伝でな。しかし、それは貴殿を倒して初めてわかること」
三賀は、久しぶりに戦慄した。背を伝う汗に戸惑う。額にも汗が浮かび、目をしみさせる。
綱行は、三賀に対し畏敬の念を抱く。渡邉と鬼の関わりは有名だが、支綱の名を知る者がいるとは思わなかった。支綱の名を知って、生きている者は少ない。
渡邉の者が流派を明かすとき、それはどちらかが死する。大抵は、聞いた方が死ぬ。三賀がその名を知っているという事は、それをどこかで聞いて生き延びているのである。
綱行は、不敵な笑みを浮かべた。
三賀は、支綱流を知っていた。幻と言われるこの剣技を、若き日にその身で受けていた。
遠き北の辺境にて、御前試合の余興で一人の老人と木刀での試合をした。自らの木刀の切っ先に、相手の切っ先が常にまとわりつく。打とうと思った途端に先に打たれ、混乱の中いつの間にか敗北していた。その老人の名が渡邉の何某。
支綱流の鬼抄虚蝉は、鏡の剣。鏡に映る己と戦うかのような、剣を極めた仙人が扱うという神技であると、後に誰かから聞いた。
三賀は忌まわしい記憶を払拭し、ひとまず、八双に構えた。綱行は青眼のままである。
三賀は、八双の構えのまま身を綱行の刀の切っ先に寄せる。過去、そのようなことはした事は無かったが、次の一太刀で決める。
何かの拍子ので、三賀は刀を振り下ろした。会心の一振りである。空を切り裂く音が響く。しかし、何も切っていない。綱行は紙一重でかわし、三賀の振り下ろした刀に自らの刀を添わせて立っている。肩を触れれる距離である。
三賀は、気合の雄叫びとともに切り上げる。綱行は、半歩下がったのみでそれをかわした。刀は、三賀の刀に添えたまま。
傍で見ている椿には、二人の闘いが型の稽古をしているかのように見えた。
三賀は慌てて、青眼に構えを戻した。自分は、どんな顔をしているのであろう。焦って引きつった顔をしているのだろうか。綱行の澄んだ表情をみて、三賀は不安を覚える。
呼吸を整える。綱行は動かない。三賀は、綱行に悟られぬよう少しずつ左拳を柄端に寄せた。右拳も鐔から離す。
次の手は決まっていた。
発声とともに、三賀は突きを放った。綱行の攻撃の可否は無視した。食らってでも打つ。
一つ二つと綱行の首や胸元を狙って突きを放つ。綱行は、刀を右へ左へ振りながらそれをかわす。
三つ四つと打ち五つ目を打ち、引き戻す際、三賀の刀に綱行の刀が添えられてついてくる。三賀にはそれが見えていた。
三賀の刀が止まっても、綱行の刀は止まらない。刀が、三賀に引き寄せられるよう。
三賀には、その光景が見えていた。ただ、見ていた。
何か冷たいものが、首筋に触れた。その途端に熱くなる。赤い鮮血が視界いっぱいに広がった。
「おお」
三賀は、その光景を美しいと感じた。
三賀は、立ち眩んでその場に方膝をつく。首に手を当ててみると、掌は鮮血で真っ赤に染まった。しばらくそれを見ていたが、満足すると両膝をついて刀を収めた。
「お見事である。剣士として生き、最後に其方のような剣士と相まみれたこと、感無量である。なんと美しきやその剣技、渡邉の支綱天晴れなり」
綱行も刀を収め、膝をついた。
「光栄にござる。ご身内に残す言葉があれば、承りまする」
三賀は、消え入りそうな声で語った。綱行は、三賀の口元に耳を近づけそれを聞き取る。椿には聞こえなかった。
三賀の頬を一雫の涙が伝った。