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鷹乃学習

四  鷹乃学習たかすなわちわざをならう


 芳ばしい煙の香に、綱行は目を覚ました。

 眠ってしまった事、椿がいない事にすぐ気づいた。慌てて身を起こす。

 近くに焚き火があり、鮎が焼かれていた。危険が無い事を悟ると安堵した。しかし、椿がいない。

 周囲は暗く、夜であることはわかってもいつの夜だかわからない。

 立ち上がると、眩暈がした。出血のせいか、毒矢を受けたかその身に訊ねる。毒の気配はない。背中と足の傷に布が当てられている。よもぎの匂いがした。

 よろよろと、川に向かう。

 朝が近い。東の山々の輪郭がぼんやりだが見える。薄らと靄がかり、草木は濡れていた。

 いつの朝だ。綱行は怪訝な面持ちで水を飲もうと膝をついた。

「いけません。川の水など傷にさわりますよ」

 声の方へ目をやると、椿が竹筒を片手に立っていた。

 綱行は、竹筒を椿から受け取ると、一気に飲み干した。

「もう成仏したのかと思いましたぞ」

 綱行は、苦笑しながら言った。

「ええ、危うく成仏するところでした。三途の川で家族に会ってまいりました」

 椿がそう言って、微笑んだように見えた。

「成仏しても良かったのに」

 言った傍から、心にもないことを言うものだと自分を嘲たくなる。目覚めたとき、椿がいないことに不安を覚えたのだ。そして今、安堵している。

「俺も、三途の川に行っておりました。親父殿が仁王立ちでおりましてな、怖くて引き返してきたのです」

 椿は、綱行きの傍らに膝を着いて傷を労わる。

「申し訳ありません。私の所為であなたにこんな大怪我をさせてしまいました」

 綱行は、立ち上がったがふらついた。椿がすぐさま支える。

「この程度の傷は、日常茶飯事です。戦じゃ何度死にかけたか」

 綱行は顔をしかめて続ける。

「それに、元はと言えば俺の失態です。敵の膝元で、些か配慮に欠けていた」

 綱行は、深山城下での聞き込みで怪しまれ、逆に敵の術中に嵌ったと自省する。

「どこかで傷の手当てをしないと」

 綱行は、椿が捕まえ焼いてくれた鮎をかじった。

 命が、補充される。命を喰らい自らの命を補充するのだ。

「よく獲れましたね」

 綱行は、今食べている鮎について訊ねた。

「竹の網代あじろが仕掛けられていたのです。そこから拝借しました」

 綱行は、少しだけ笑って頷いた。なるほど、さすがに川に入って鮎を獲る姫君は、見たことも、聞いたこともない。

 小さな炎を見ながら、自身の身に残留した命に理由を訊ねる。答えなど帰ってはこない。虫けらや草木の様に、ただ終わるまで生きるのだ。

 椿は焚火の火を消し、食べ残った鮎を懐紙に包んで綱行に持たせる。

「渡邉殿、体に鞭を打つようですが出立せねばなりませぬ」

 綱行は、黙って頷いた。

 東の山を陽光が背後から照らしている。光の線が山の頂からほとばしる。

 二人は、今日という新鮮な光を全身に浴びながら歩き出した。

 傷を負った綱行の脚は、なかなか進まない。

 少し歩いては休み、少し登ってはまた休む。

 獣道や渓流沿いを、椿が綱行を気遣いながら歩いた。

 一日、一日と経つにつれ、綱行の体力も落ちていき、それを支える椿の様相もくたびれていた。

 椿には、焦りも生じる。早くしなければ、死んでしまう。

 朝から歩いて、昼には仮眠を取った。目覚めるとまた歩き出し、やっと一山越える。

 闇に行く手を阻まれる前に、寝床を探し綱行を休ませた。火をおこし、綱行に食べさせるために捕えた蛙や蛇などを焼く。寝ている綱行を度々気にかけて、息があることを確認した。

 綱行が眠りに落ちると、一人だけの不安な時間が訪れる。

 切に願う。

 綱行の目覚めを。綱行の上下する胸の動きを。綱行の寝息を。

 それだけを気にかけながら、一人の時間を過ごした。

 そうやって歩き続ける事、四日目の夕刻、開けた視界に二人は安堵した。

 西日に照らされ、茜色に染まる田園が広がる。

 整備の行き届いた歩きやすい畦道へと、椿が綱行をいあざなう。

 椿が先頭で、綱行の手を引いて歩いた。

 日が沈んでも、まだ歩みを進めることができた。

 月明かりのおかげで、昼のように歩ける。

 稲葉の露を舐めていた蛍が、一斉に飛び立つ。

 二人の足元から、月光の粒が、空に向かって飛び散ったようだ。

 二人は、しっかりと手を繋いで光舞う畦道を行く。

 天を仰ぎ見れば、この夜の月は満月だった。


 翌日、歩き始めて五日目の朝、二人は小さな山村に辿り着いた。

 山に囲まれた僅かばかりの平地に、ほんの数棟の茅葺屋根が並ぶ。

 懐かしい景色に、椿は安堵の表情を浮かべた。

「渡邉殿、もう大丈夫です」

 綱行の容体は芳しく無く、椿に支えられなければ、一歩も歩けなかった。

 椿は綱行の肩を支えながら、一番奥まった屋敷の門を叩いた。中から老女が顔をだす。

「ご無沙汰しております。この様な格好にて早朝の訪問お詫び申します」

 椿がそう言うと、老女は怪訝な面持ちで訊ねた。

「はて、落武者様はどちら様でしたかな」

 椿は、暫く無言だった。

「お連れさんは、ひどい怪我をされている様だが」

 老女は、綱行を訝しげにみる。

 椿は、諦めた様子で腰の刀を朱色の鞘ごと差し出した。

 老女は、鞘に記された佐貫の家紋と椿の花絵を見て目を丸くする。

「これは、どういう事だい」

 老女は、険しい顔で二人を睨んだ。

「返答次第じゃただしゃおかないよ。これは、佐貫様の為に打たれた物だ。その鎧だって、よく見りゃうちの亭主がこさえたものだ」

 椿が答える。寂しそうな声だった。

「おばさま。私でございます。椿でございます」

 椿は、深々とお辞儀した。

 老女は、また目を丸くした。

「そんな馬鹿な。佐貫様は、椿様は処刑されたと聞いておったが」

「不服では御座いますが、左様に御座います。この身は、佐貫椿の骸に御座います。無念が過ぎて、妖となりました」

「なんと、なんと言うことか」

 老女は、目頭を袖で覆い泣き崩れる。椿は、かける言葉もなく老婆を見下ろしていた。


 甲冑師の稲岡継常いなおかつぐつねは、屋敷の北にある昼中でも薄暗い納戸にて作業に没頭していた。部屋の至る所に、鎧掛に掛けられた甲冑が飾られ、壁には無数の鎧櫃が積み重ねられている。

 開け放たれた長櫃には、小札こざねが山盛に入れた小箱や黒や朱の縅が整然と詰め込まれていれ、簡易な造りの机に小刀やのみなどの工具が乱雑に置かれていた。

 老女が客を部屋に通すと、稲岡は手を止め胡座のまま客に向き直った。目を細め甲冑姿の椿と、その連れである綱行に鋭い眼差しをむける。

 稲岡は、変わり果てた椿の姿にも眉ひとつ動かさなかった。

「ご無沙汰しております。稲岡様」

 椿はそう切り出し、ことの顛末を説明した。

 話の途中、稲岡は綱行の治療を急ぐよう老女に指示した。綱行は梓乃に連れられ、別室に移される。

 稲岡は、老人だが背筋は伸び、堅強そうな体躯と突き刺す様な眼光に、衰えを感じさせなかった。椿の言葉に、たまに頷くくらいで口を挟んだりはしない。

 先程の老女が、玄米の握り飯と漬物を手に戻ってきた。老女は、稲岡の妻で、名を梓乃しのという。

「大したものは無いけどね。さぁ、お食べ」

 梓乃は、久しぶりに帰ってきた我が子か孫にするように、優しい声で食事を椿に差し出す。

「私は、食事を頂きません」

 椿は、申し訳なさそうに辞退した。

「そうかい。ごめんなさいね」

 梓乃は悲し気に食事を下げる。

「楠木さんに、あの方の治療はお願いしましたよ」

 梓乃は、そう告げて部屋を出ていった。

 長く沈黙していた稲岡が、口を開く。

「楠木ってのは、ここに来る途中にあっただろう。あの楠木の前の家だ。名前は知らねぇが、家の前に楠木が生えてるから、楠木って呼ばれている。腕の良い金瘡医だ、あちこちの戦場を渡り歩いたんだろが、昔のことは話したがらねぇ。自分の名前すらな」

 椿は、ここに来る途中の道筋を思い返した。なんとなく、そんな楠木があったような気がする。

「ありがとうございます」

 椿は、畳に手をついて深々と頭を下げた。

 稲岡は、気にするなと言う代わりに鼻を鳴らした。

「一昨日、三賀が来た」

 感情のない稲岡の言葉に、椿は畳に目を落とし膝上の両拳を強く握った。

「わしは、長く佐貫様とその家臣に武具を納めてきたが、三賀にそこまでの義理はない」

 俯いていた椿であったが、その言葉を聞いて顔を上げた。

「あの男の傷が癒えるまで、ここにいるといい。城の者が来てもあしらってやろう」

 稲岡は、そこまで言うと机に向かい仕事を再開した。

 椿は、深く頭を下げて礼を述べる。稲岡の少なくも重厚な言葉に救われた。安堵が心を満たす。

 椿が部屋を出ていくと、稲岡は手を止めて天井を見上げる。深く息を吸い、吐き出したのは深い溜息だった。


 綱行は、それから三日間眠り続けた。四日目の昼下がりに目覚めると、今までの分を取り戻すかのよう、大量の飯を食らった。そしてまた眠る。

 楠木と呼ばれる金瘡医の治療は的確であった。言葉を発することは無く、感情の無い目で淡々と綱行の傷を治療する。綱行が感謝の言葉を述べても、雑談にも反応は無かった。

 治療を始めて五日目には傷は塞がり、六日目には立ち上がれるようになった。

 着物を着なおしながら、綱行は帰り支度をする楠木を眺める。相当な手練れであったのだろう、あえてその素振りや気配を隠している。年の頃は、自分と同じぐらいだろうか。

 綱行は楠木の横顔に、ぼんやりとした違和感を覚えた。

「楠木さん。どこかで会ってはいませんか」

 綱行は、刀を帯に通しながら訊ねた。刀が必要だと、本能がそうさせたのである。

 薬箱や刃物を風呂敷に包む楠木に、何の反応もない。

 気のせいかと、綱行は帯をなおすふりをして刀から手を離した。そもそも危害を加えるつもりなら、傷の手当などしまい。

「いや、良いんだ楠木さん。本当にありがとうございました」

 綱行は、縁側まで楠木を見送る。

 楠木は振りかえると、じっと綱行の左腕を見つめた。

「楠木様、本当にありがとうございました」

 土間にいた椿が走り出てきて、楠木に頭を下げる。

 楠木は感情のない目で、椿を一瞥すると去って行った。

「変わった方でしたね」

 椿は綱行の傍に歩み寄ると、門戸を出ていく楠木の背に目を向ける。

 綱行は、着物の袖から手を入れて左腕を摩った。古傷の凹凸が手に触れる。なるほど、この傷を付けた方か、もしくは治療してくれた方か。

「でも、本当に良かったです。怪我もだいぶ良くなったようで」

 三日間眠り続けたとき、椿は綱行を気にかけずっと傍に付いていた。金瘡医の楠木は何も語らないため、日に日に不安が募る。

 四日目に綱行が目を覚ますと、歓喜に叫び声をあげた。慌てて稲岡のいる納戸に駆けこむと、稲岡の背に報告しながら嗚咽をもらしたのだった。

「本当にご心配をお掛けして申し訳ない。ここまで軟弱であったかと、恥ずかしい限りです」

 綱行は、縁側から椿のいる庭に降りると頭を垂れた。

「何を仰います。私の方こそ、護ってもらってありがとうございました」

 椿が頭を下げると、綱行がよろめいた。慌てて綱行の背を支える。

「かたじけない」

 綱行は、照れくさそうに傍らの椿に笑いかける。

 顔が近くて、椿は慌てて顔を反らしたが、体が密着していることに気付くと赤面した。それでも、足元の覚束ない綱行から離れるわけにはいかない。

「すみません。私の甲冑、痛くはありませんか」

 綱行の方が、椿よりも頭一つ分背が高い。椿の兜の前立てが綱行の顔に当たる。

「いえ、大丈夫です。少しこのまま歩いても良いですか。足が弱ってしまって、早く取り戻さないと」

 このままと言われ、椿は叫びたい衝動にかられた。しかし、拒否したいという感情のすぐ後に、このままで居たいという願望が沸いた。

 一歩一歩を慎重に、二人抱き合いながら淡い紅色の木槿むくげが咲き誇る庭を歩く。足下を見ながら歩く椿の顔は、困惑していたが、いつしか微笑を携えていた。

 

 日にちを重ね、綱行の体力は相当に回復した。一人で歩き回れるまでになり、この日は屋敷の周りを散策したり、薪の小割などして過ごしていた。

 日差しが幾分黄味を帯び、さらりとした風が額の汗を撫でる。

 椿は、稲岡の作業場にいた。屋敷の奥にある広めの納戸である。薄暗く窓は風取り用の小さな窓しかない。しかし、この頃は小さな窓からも涼風が吹き込み過ごしやすくなった。

 稲岡は目の前に椿を立たせ、椿の着る甲冑の板札いたざねやら腰の草摺くさずりを、撫でたり摘まんだりして状態を確認した。

 椿も素波の攻撃を受けていたし、崖から落ちた際の衝撃やらで、身にまとう甲冑は痛んでいた。それを稲岡が補修するのである。最初、椿は拒んだが、職人がもつ眼差しはそれを許さなかった。椿は、渋々応じる。

 稲岡は、椿を畳に座らせると両の手で静かに兜を取り外した。面頬を外すと、椿の顔が露わになる。椿は、目を瞑り口を固く閉じていた。嫌な事に耐える娘の顔だった。

 稲岡は、椿の頬を両手で挟むとゆっくりと持ち上げる。椿の頭部が甲冑から離れると、鎧は音を立てて畳に崩れ落ち、甲冑の中に着ていた着物がするりと畳に広がる。稲岡は、丁寧に椿の頭部を作業台の上に置くと、着物を丁重にたたみ端にどけ、床に散らばった鎧を部位ごとに並べ直した。

 椿は、何も言葉を発しない。目と口をつぐんだままである。

 稲岡は、鎧の部品を検分しながら語った。

 椿が、幼い時の話だった。朧げに記憶している。父親に連れられて、何度かこの山村を訪れていた。思い出話を聞きながら、稲岡の作業を薄目を開け眺めていると、椿は夢の中に落ちるような微睡むような虚ろな感覚に陥った。

 幼い頃、集落の子供達と木刀片手に野山を駆け回ったり、武具を作製する職人達の仕事に見惚れたりした。

 この集落は、もともと訳ありの人間が集まってできた集落であった。

 各地の人里を個々の理由で追われ、この地にたどり着いた。稲岡もその一人である。

 集落の人々は、山で山菜を採ったり小さな畑を耕したりする他、もともと覚えのあった手仕事で生計を立てていた。

 戦場を渡り歩いた金瘡医は、山草を集め薬を作り、鍛冶師は刀や包丁を打つ。

 刃傷沙汰をおこし、坊主と共に逃げてきた侍は、竹細工の職人となり、同じような境遇の者が、漆器職人や甲冑師になった。

 荒くれ者だった稲岡も、若き日に妻を連れてこの地に流れ着いた。元々住んでいた甲冑師の仕事を手伝ううちに、その仕事を引き継いだ。

 一国の領主の息子が、何故この地に幼い娘を連れて度々訪れていたのか、その理由を椿は知らない。

 父親と稲岡が、親しく語らう姿など見たことがない。ただ、お互いを気遣うような認め合うような雰囲気を感じてはいた。

 十五歳の時、父と共に渋る稲岡に甲冑作りを懇願した。稲岡は妻に責められ、渋々承諾する。

 椿は、自分の甲冑が出来上がる様子を、興奮と期待の眼差しで眺めていた。稲岡に煙たがれても、まとわりついた。

 懐旧の情が心地よく、永遠にこの中に居たいと椿の心が切望する。

 作業場に、梓乃が茶の支度をして現れた。作業台の上に置かれた椿の顔を見て、一瞬悲しげな表情をしたが、すぐ険しい顔つきをした。

「何やってんだいあんた。椿様をそんな汚い所に」

 梓乃は、亭主を叱った。稲岡は無言で作業を続ける。

 椿はびくりとして、目を開けた。

 梓乃は椿に詫びると、部屋の隅に置かれ使われていない鎧掛けを椿のそばに運んだ。梓乃は、そばにある箪笥の引き出しを開け、さらしを取り出す。

「ごめんなさいね椿様。男ってのは、気が利かなくてね」

 梓乃は椿の顔をそっと持ち上げると、鎧掛けの上に移し、首にさらしを巻き始めた。

「何をするのです」

 椿は老女の行動に驚いて、声を荒げる。

「嫁に来た時に持たされた着物があってね、ついぞ着る機会なんてなかったけど、椿様に着てもらいたくてね」

 梓乃は、椿の頭部を鎧掛けに固定し終えると、隣室から桐の着物入れを持ってきた。

 白小袖と朱地で桜散らしの打掛である。

 老女にされるがままの椿は、不安そうな面持ちで作業を見守っていた。

 着付けが終わると、老女は化粧道具を持ってきて、椿の顔に白粉を薄く塗る。誰も言葉を発しないまましばらくたつ。

 梓乃は椿の顔に化粧を施しながら、古き日を思い出す。椿が生まれたばかりの頃、椿の父定常に椿の名の由来を訊ねた。他国では、椿の花の散る様が、首が落ちる様に似ていると嫌う武士が多いと聞く。

「女子にそのような心配は無かろう。椿の花は、魔を退けると言う。そして、なによりも美しかろう」

 定常は、腕に抱く赤子をあやしながら笑っていた。

 それが、このような事になるとは口惜しい。

 梓乃は奥歯を噛みしめて、必死に涙を堪えた。

 白粉を塗り終わると、梓乃は蛤の貝殻に入った紅を取り出した。薬指で溶いて、椿の唇をその指でなでる。薄紫色の椿の唇が、真っ赤に染まった。

 椿は、怪訝な顔で訊ねる。

「おばさま、おかしなことをなさらないでくださいね」

 椿は、梓乃の行動に不安を感じた。

「大丈夫だよ。椿様、大丈夫」

 梓乃は、不安げに見つめる椿に微笑みかける。

 紅を塗り終わると、椿の長い髪を櫛でとき油で撫でた。

 作業が終わると、梓乃は深妙な面持ちで椿の前に正座する。

「さて、椿様。お呼びしてよろしいですね」

 椿は、駄々をする幼児のように何度もかぶりを振った。

「無理です。お会いできません」

 椿は、目に涙を溜めて拒否する。

 梓乃は、黙って手鏡を椿の顔前に差し出した。椿は差し出された手鏡を、黙って見つめる。長い時間見つめていた。

「いいですね。椿様」

 梓乃の問いに、椿は答えられない。唇を噛み締めて鏡を見つめる。

「大丈夫だよ。わかるでしょう」

 梓乃はそう言って椿の頭をそっと撫でると、部屋を出て行った。

 しばらくして、襖の外から梓乃の声がした。びくっと、椿の顔が引きつる。

 梓乃が部屋に入ると、後ろにいる綱行に入室を促した。

 椿は困惑した眼差しで、綱行を見つめる。

 綱行は、自分を見つめる椿の視線に気づくと、硬直した。

「椿殿、なんとお美しい」

 綱行は、そう言うと椿の傍らに歩み出た。

 椿は、無言で綱行を見つめていたが、その眼には大粒の涙があふれた。

「あらあら椿様、涙で白粉が取れてしまいます。嬉しいですね、渡邉殿とやっとお会いできて」

 梓乃は、そう言って椿の涙を拭う。

「わかりませぬ。嬉しいのか、悲しいのかわかりませぬ」

 椿は、幼児のようにぼろぼろと泣いた。

 それを見つめていた綱行も、堪えきれなくなり、着物の袖で顔を覆った。

「あらあら、渡邉殿まで」

 梓乃は綱行の肩を叩いたが、自分も堪えきれなくなり、畳に臥して号泣した。

 薄暗い座敷は、しばらくの間そこにいる者たちの泣き声に包まれたが、稲岡だけ一人作業を続けていた。

 しかし、いつしかその手は止まっていた。




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