vs葦野女学院清葦隊 〜同じ想い〜(終)
——あり得ない。
紫は驚愕の極致にあった。
悪夢でも見ているのか。
秋津光一郎は、もはや必敗の状態だった。
剣の勢いは、徐々に、着実に衰えていた。
攻勢の瓦解も、訪れた。
そうして倒れたところを打って勝つ……はずだった。
——だが、その面が運良く外れたその時から、秋津光一郎の動きの質が目に見えて変わった。
動きと太刀筋から、寸分の無駄もなくなった。
こちらの発するあらゆる攻撃が、ことごとく通じなくなった。
紫が一挙手一投足に内包させていた濃密な駆け引きの数々も、無に帰させた。
最短で、最速で、最強となった。
必敗の状態から、必勝の状態へと激変した。
そうして、自分から見事に一本を奪い返した。
(いったい、何が起こったというの……!?)
一本を取られてなお、紫は己の一敗が実感できずにいた。
開始位置に戻り、紫は竹刀を構える。
だがその心中は、今なお驚愕と動揺でいっぱいだった。
必死に己を律しようとするが、心の揺れはおさまりきらない。
どうしても、先ほどの光一郎の剣について、考えてしまう。
……秋津光一郎の変化たるや、まるで別人のようだった。
何か別の人間が乗り移り、その別人格が代わりに剣を振っていたようだった。
明らかに異常だった。
不気味なほどに無駄の削ぎ落とされた剣技。
あまりにも整い過ぎた太刀筋。
無礼を承知で言うならば……自分どころか、その師さえも圧倒するであろう、神がかった技巧。
光一郎自身からも、一切の迷いが消えていた。
どういう太刀筋を発すれば打ち勝てるのかが前もって判っているような、そんな自信と確信に満ち溢れた動き。……事実、その通りになっていた。
その時の光一郎の目。
紫を見ていなかった。
竹刀の先端ばかりを見ていた。
いや、その竹刀の先端の向こう側にいる「何か」を見ていたような。
その「何か」を、竹刀で必死に追いかけていたような。
紫が次々に繰り出す剣よりも、その「何か」を追いかけ回すことを優先していたような。
それが、結果的に、非常に高度な剣技を実現させていたような。
(わたくしを……見ていない?)
そう。見ていない。
自分のことなんか眼中に無かった。
ただ、光一郎自身にしか見えない「何か」しか、目に映していなかった。
(わたくしを見ないまま、わたくしを斬ったというの……?)
まるで、飛んできた蚊や蝿を一瞥もせずに手で払うように。
(わたくしの事など、歯牙にも掛けていない……?)
お前などに興味は無いと、好きでもない女を袖にするように。
(ふざけるな)
瞬間、紫の胸中に、憤怒が宿った。
その憤怒は、火種だった。
ずっと心の奥底に押し殺していた、嫉妬という巨大な火薬に引火する、火種。
その火薬と火種は。
「三本目——始めっ!!」
審判のその声とともに、巨大な爆発へと変化した。
「————ふざけるなぁぁぁぁぁぁっ!!」
怒号を吐きながら、光一郎めがけて突っ込んだ。
心中で濁った激情をそのままぶちまけたような、ケダモノじみた絶叫。
こんな品の無い叫び声が自分の口から出てきたことが、信じがたい。
真っ向から、光一郎と切り結んだ。
そこからさらに、爆竹が鳴るような勢いで攻め立てた。
一見すると凄まじい猛攻かもしれない。
しかし、今の紫の太刀筋は、あまりにも乱れていた。先ほどまで光一郎を翻弄していたのとは、似ても似つかぬほどに。
光一郎からも、全て完璧に防がれてしまっていた。
新陰流において、妄執や激情にとらわれて剣を振るのは「病」であるとしている。
自分の剣の本来の力を出す事を阻害する「病」であると。
その「病」に、紫はかかっていた。
紫も、それを自覚していた。
「なぜっ……なぜお前ばかり!! お前ばかり!! お前ばかりがぁっ!!」
しかし、もう止められない。
嘔吐と一緒だ。
一度吐き始めたら、出し切るまで吐き続けるしかない。
ずっと心に堆積させ続けてきた、ありったけの嫉妬と怨嗟を。
「お前さえ…………お前さえいなければぁ————!!」
紫は激情という「病」に突き動かされるまま、愚かな剣をひたすらに光一郎へ振り乱した。
天沢さんの動きが、変わった。
しかし、強くなったというわけではない。
確かに、息もつかせぬほどの速さと勢いを持った、今の彼女の猛攻は凄まじい。
あまりに濃密な剣の嵐のせいで、攻撃する隙がなかなか見つからない。
だけど——さっきよりは、全然怖くない。
今までの天沢さんの剣は、早く動こうが遅く動こうが、静かな「凄み」があった。
僕に無理やりに言うことを聞かせ、思い通りに動かさせてしまうほどの「凄み」が。
けど、今の彼女の剣には、それが全く無い。
すごく激しい。
ただそれだけ。
一太刀一太刀は確かに鋭い。だがそれら全てが、その場その場で相手を斬ることしか考えられていない。
「その先」が無い。
だから至極やりすごしやすい。
「影響の連鎖」を掴んだ今の僕ならばなおさらだった。
「次の次の次」までを見据えて剣を振っていた今までの天沢さんは、もうそこにはいなかった。
今、目の前にいるのは、謎の激情を吐き散らしながら剣を振り乱す、一人の少女だった。
「——何故、お前は男なのですか!!」
撃剣の試合において、気合の掛け声を除いて、怒号を発したりするのはマナー違反だ。
ルール上、禁止されているわけではない。しかし剣士として、とても褒められたものではない。
まして天覧比剣は、最終的には帝の御前で剣を交えるのだ。なおさらそんな見苦しい戦い方は慮外とされている。
「何故、わたくしは女なのですかっ!!」
しかし、今の彼女の叫びを、剣士失格と断ずることは、僕にはできなかった。
「わたくしだって、頑張った!! お前と同じくらいに……ううん、お前以上に頑張ったんですわよ!!」
面の奥に見える天沢さんの顔は、憤怒の形相だった。
「それなのにっ、わたくしは何もできなかったっ…………お前みたいに、堂々と愛を口にすることもっ、剣で挑むこともっ、どっちもできなかったのよ!! お茶を濁して誤魔化すことしかできなかったのよぉっ!!」
しかし……その目には、涙が浮かんでいた。
「わたくしが女じゃなかったらっ!! お前と同じ男であったならっ!! こんなくだらない葛藤なんて抱かなかった!! あの方と、何の負い目も無く向き合えた!! この想いを告げられた!! 頑張って得たこの剣で挑めたのよぉっ!!」
怒号は、だんだんと涙声に変わっていった。
太刀筋の鋭さと冴えもなくなっていき、むちゃくちゃに振り回すような鈍いモノに変じていく。
「ずるいのよお前はっ!! 男であるというだけの理由でっ、そんな贅沢なことを当たり前に享受できるお前はずるいのよぉっ!!」
とうとう憤怒の形相も崩れ、悲嘆の表情となった。
「お前さえいなければ!! お前さえ、あの方の前に現れなければぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
——彼女のぶちまけてくる言葉の数々は、あまりに不明瞭な語句が多過ぎて、訳がわからないだろう。
僕以外は。
「同じ人」に惚れ込んだ、僕以外は。
僕が愛を口にする人は、この世でたった一人しかいない。
そのために、剣を鍛える人も。
——そうか。彼女は。
僕は、全てを察した。
天沢さんの想い人も。
その人を想うがゆえに、苦しんでいたことも。
その苦しみを容易く乗り越えていた、僕に対する強い嫉妬も。
彼女が、僕を嫌っていた理由も。
——それは、苦しいな。
僕は自分が、いかに幸せ者なのかを理解した。
当たり前のようにあの人に好意をさらけ出せる、僕の性格と性別を。
それができない人だっているのだ。
自分が考える「あたりまえ」が、他の人にとっては「あたりまえ」でないことは、よくあることだ。
僕は天沢さんに同情していた。
僕だって、同じ立場なら、同じように悩んだかもしれない。
——だけど、それは勝負を捨てることと、イコールではない。
僕だって、あの人が好きだ。大好きだ。
同情できるからって、遠慮したり、忖度したりはしない。
それは、あの人への想いも、それを叶えるために剣を磨いたことも、全て嘘にしてしまうことに他ならない。
だから。
僕は——天沢さんを、倒す。
「ああああああああっ!!」
喉が潰れたような叫びとともに、袈裟斬りを発してくる天沢さん。
僕は右足を退いてそれをさばき、そしてまた右足を鋭く戻して剣尖を鋭く発した。『雁翅』の型。
天沢さんはそれを防ぐと、僕の左側へ移動しながら逆袈裟の軌道で竹刀を発した。
下から跳ね上がってきたその攻撃を、竹刀の鍔付近で防御。そこから素早く身を翻しながら立ち位置を遠ざけ、竹刀が小手に当たるギリギリの間合いから薙ぎ払った。
僕のその『颶風』の一太刀を、天沢さんは一歩退いて回避。僕の竹刀が横へ振り抜かれてガラ空きとなった途端、再び急迫してきて大上段からの斬り下ろしを仕掛けてきた。
まだ僕の竹刀には、『颶風』の勢いが残っている。
だが『颶風』の型は、至剣流の基礎の型である『四宝剣』の一つ『旋風』の体捌きを用いたものだ。同じ体捌きと、勢いの向き。ゆえにこの二つの型は、勢いをほとんど喧嘩させることなく繋げることができる。
身を再び旋回させ、太刀を纏う。
ぱぁんっ!!
「っ……!?」
振り下ろされた天沢さんの竹刀を、僕の『旋風』が真横から弾いた。縦に落ちるモノは、横からの力に弱い。
さらにもう一回転。
僕の竹刀も付き従って円弧を描き。
天沢さんの面を、横から打った。
分厚く硬い布を打つ音が響いた途端、天沢さんも、大体育室全体も、嘘みたいに静まり返った。
だが、それは一瞬のことだった。
「面あり!! 一本!! ——勝負あり!!」
審判が僕の勝利を告げ。
それとともに、周囲上段の客席から、割れんばかりの拍手が湧き立った。
天覧比剣千代田区予選、準決勝、勝者————富武中学校撃剣部。
現時点では、純粋な剣の腕は天沢さんの方が上です。
天沢さんのメンタルが爆発していなかったら、望月先生の言うとおり、コウ君は負けておりました。




