vs葦野女学院清葦隊 〜天沢紫〜
望月源悟郎は現在、黒羽織に黒袴、それから鍔広帽にサングラスという装いで、天覧比剣千代田区予選を観戦していた。
同じくこの会場に来ている螢とエカテリーナとは別の場所に座っている点も含めて、「元帝国陸軍大将 望月源悟郎」という身分を隠すための処置であった。
……もっとも、本人の体格の良さに加えて、変装と言うには物々しさの強い格好であるため、周りからは余計に目立っていたが。悪い意味で。
それを気にしないふりをしつつ、源悟郎は観戦を続けていたが、
「……これほどとは」
現在、眼下の大体育室中央にて行われている試合を観て、思わず感嘆の意を込めてそう呟いた。
戦っているのは、愛弟子の一人である秋津光一郎。
光一郎とその相手は、一見すると双方互角のやり取りを演じているように見えるかもしれない。
しかし、判る者には判る。
……光一郎は今、徐々に追い詰められつつあると。
(天沢紫さん、だったか…………話には聞いていたが、あの若さであの剣腕は見事なものだ)
源悟郎は、光一郎の戦っている相手——天沢紫のことを知っていた。
……彼女の存在を知ったのは、今年の五月半ば。
戦友にして盟友である樺山勇魚丸から誘われた八月のホノルル旅行。その話を、同じく戦友である星朱近に電話で話した時だ。
ホノルル旅行の話をすると、彼もそれに参加する意思を表明してくれた。三人とももう老い先短いから、今のうちに揃っておいた方が良いだろう、と。
その後、話題がいくつも移ろい、やがて剣術の話となった。
朱近は日ソ戦を戦った空軍大将にして、新陰流を皆伝した剣の達人でもある。
彼の弟弟子の門弟の中に、わずか十四歳にて目録を手にするほどの実力をつけた、稀代の剣才を誇る少女がいるとのこと。
その少女こそが——今、光一郎と戦っている天沢紫である。
(厳しいようだが、結論づけなければなるまい。この試合、コウ坊が負ける)
光一郎とて、入門したての頃とは比べ物にならないほどにまで腕を上げた。本人はまったく気にした様子は無いが、わずか一ヶ月で切紙免状を取得したことは至剣流の歴史に載るほどの快挙である。まさしく虎の子だ。
しかし、虎の子だ。大人の虎には勝てない。
光一郎が戦っているのは、まさにその大人の虎だ。
その小さな体は、大人の太い前脚と鋭い爪で蹴散らされるのみ。
詰め将棋のような双方の立ち合いは、まだ続いていた。
瓦解は近い。
天沢紫は、日本有数の財閥「天沢財閥」の令嬢である。
天沢財閥は航空機関連の産業を基幹とする財閥だ。
財閥創設者にして紫の曽祖父にあたる天沢昭蔵は、帝国海軍の技師を経てから軍を抜け、エンジン関連の事業を起こした。
当時はヨーロッパ全土で起こっていた第二次大戦の影響によって、日本には大戦景気が訪れていた。昭蔵は好景気の波に上手く乗って事業を拡大させ、たった一代で財閥を築き上げたのだ。
現在では旅客機は言うに及ばず、帝国空軍の兵器開発にも関わっている。
その関係で、天沢一族は帝国空軍との繋がりが強い。
紫は、そんな一族の末妹として生を受けた。
物心ついた時から、天沢一族の娘かくあるべしと英才教育を受けてきた。
新陰流も、そんな教育の一環として七歳の頃より学び始めたものだった。
空軍関係者が数多く在籍する道場へ入門し、その才能を開花させた。周囲の兄弟弟子達からは「神童」ともてはやされた。
しかし当時の紫は、新陰流を「修養の一環」程度にしか考えていなかった。
斬り合いが戦争の主流ではない今の時代において、剣術の習得は精神修養の側面が強い。仏教の影響を受けている新陰流では特にそれが当てはまる。
自分が「天沢の女」として、自分を律するための学問。
昔の紫にとっての剣術とは、その程度の位置付けだった。
それが大きく変わったのは——望月螢との出会いがきっかけである。
中等部一年の頃の話だ。
葦野女学院は初等部・中等部・高等部に分かれており、それぞれ校舎が違う。
中等部に上がりたてだった紫は新たな校舎に右も左も分からず、自分の教室までの道に迷っていた。
そんな時に道案内をしてくれたのが、当時中等部三年生であった螢だったのだ。
案内をしてくれた螢には申し訳ないが、紫は道順よりも……螢の美貌に目を奪われていた。
枝毛一つ無く一律に流れる、長い黒髪。
深い泉のように黒く澄んだ、静謐な瞳。
日光を受けて星みたいにきらめく長い睫毛。
瞳の上にかかる貴人の紗織みたいな前髪。
毛穴一つ無く、よく通った鼻筋。
つるりとしていて瑞々しい光沢のある頬。
乙女椿の花弁みたいに、艶やかで柔らかそうな唇。
髪が流れるたびにちらりと見える、石膏のようなうなじ。
背中に棒を仕込んだみたいに整った背筋。
細くもしっかり芯の通った感じの四肢。
白くきめ細やかだが、病的な感じのしない、健やかに白い素肌。
綺麗で整っているが、よく使われていることが分かる細い指。
しなやかに、吸い付くように地を踏む細い両脚。
度を超えて美しい。
それでいて、美しいモノにありがちな、人に囲い込まれて育てられたような脆弱さがまったく感じられない。
まるで高原に力強く根を張って咲き誇る、野生の一輪花を思わせる…………
望月螢は、そんな女性だった。
彼女の仕草の一つ一つを目に映すたびに、胸が甘やかに高鳴るのを実感する。
それがどういう感覚か、紫は知っていた。
紛れもなく、恋だった。
それを自覚した時、紫がまず最初に心に抱いたのは、二つの感情。
——螢ともっと仲良くなりたい、一緒にいたい、肌で触れ合いたいという、欲求。
——螢への想いに対する、後ろめたさ。
女の身で、女を好きになってしまった。
それが「天沢の女」という規範から逸脱した感情であることは、紫にも分かっていた。
高い教養と礼節を身につけ、相応しい男と結婚し、一族の存続と繁栄を支える……それが上流階級の一族の規範的な女性観だ。
そもそも、良家の娘を囲い込んで教育する葦野女学院という学校自体がそういうシステムの一部なのだ。
今の日本社会では、同性婚が認められていない。
無論、日本でも同性婚を認めようという意見はある。だが賛否両論だ。
「海外でもそうなりつつあるのだから帝国もこの流れに乗ろう。今の帝国は時代遅れだ」という賛成派と、「今は明治時代ではない。無思考かつ無批判に西洋人の猿真似をする時代はもう終わったのだ。そんな思考を引きずっていては、いずれは国さえ売りかねない」という慎重派。
紫は「天沢の女」としての考え方を優先した。
同性同士の恋愛の先には「生産性」が無い。
自分が螢を好いたところで、その先にはどこまで行っても自己満足しか待ち受けていない。
女が女を好きになるなど、不毛もいいところだ。
そんな風に自己を納得させようとする。
しかし、いくらそのように自分に言い聞かせても、螢の前に立った途端、いつもの自分ではいられなくなってしまう。
「天沢の女」から「恋する乙女」に否応無く変わってしまう。
恋心を捨てられない。捨てたくない。
心の奥底にいる自分がそう告げている。
「天沢の女」としての自覚と、螢への恋心……それらの板挟みによって、紫は隠れて苦しんだ。
悩みが悩みなので、親にも兄にも姉にも相談できない。
それが紫をさらに追い詰めた。
だが、ある日、こんな話を聞いた。
『望月螢は、自分を剣で負かした相手としか結婚しない』
この話は、紫の苦しみと葛藤から目を逸らす絶好の材料となった。
螢を射止めるには、剣の実力が必要だ。それもとても高いレベルの。
剣を磨く。
それこそが、螢への恋を成就させる、唯一の方法だったからだ。
ならば、剣を練るしかないではないか。それ以外に道はないではないか。
紫は、新陰流の稽古にこれまで以上に熱を上げて取り組んだ。……それが、単なる結論の先延ばしであるという事実から目を背けながら。
もともと才能に恵まれていた紫がさらに情熱を込めて練剣にのぞんだため、その成長速度は周囲も驚くほどであった。
たった二年で、紫は新陰流の目録位にまで到達してしまった。今年の三月の話だ。
清葦隊でも、隊長にまで上り詰めた。
大人の剣士でも、紫には及ばなくなった。
十四歳という年齢にしては十分すぎるほどの剣腕を、紫は手にしたのだ。
……今なら、螢にも届くかもしれない。
そう思い、紫は螢を二人きりになれる場所へ呼び出した。
——ずっと貴女のことを、お慕いしておりました。どうか、わたくしと立ち合って頂けませんか。
それだけでいい。
たったそれだけ、言えばいいのだ。
だが、言えなかった。
女が女に求愛する。
その行為に対するどうしようもないほどの後ろめたさが、愛の言葉を喉元でせき止めてしまった。
それを口にした「後」の、悪い想像をせずにはいられなかった。
結果、他愛の無い世間話でお茶を濁してしまった。
去っていく螢の後ろ姿が見えなくなった途端、紫は自分で自分を殺したくなった。
自分を呪った。
——なんで自分は「女」なのか。
どれだけ剣を磨いても、
どれだけ強くなっても、
どれだけ修行階位の高みにいっても、
どれだけ清葦隊で強くなっても、
どれだけ大人を剣で下しても、
自分が「女」であるという事実は、変わらないのだ。
体のラインは、昔よりも女性らしい曲線を帯びている。
胸も日に日に膨らんでいる。
月経も定期的に来る。
自分は、どうしようもなく「女」だった。
どうして、自分は男ではないのか。
男であったなら、こんな葛藤をせず、気兼ねなく愛を告げられたのに。
男であったなら、友人や親兄弟にだって、悩みを打ち明けられたのに。
男であったなら————去年の九月に学院へ無断進入してきたあの男子中学生のように、馬鹿みたいに真っ直ぐ求愛できたのに。
秋津光一郎。
まだ幼さの残った、人畜無害そうな顔をしつつも、内親王までもが通う葦野女学院に無断進入してくるという大胆さ。
さらに、多くの女学生が見ている中、堂々と自分の想いを螢にぶつけるという勇猛さ。
螢と剣の勝負をして、惨敗はしたものの、彼女の義父であり師でもある望月源悟郎への師事を得ることができたという幸運さ。
当時の光一郎の剣は、まだまだ稚拙もいいところだった。
紫ならば十秒で七回は斬り殺せそうな、その程度の実力しか無かった。
しかし、紫には無いモノを、光一郎は二つも持っていた。
恥じらいもなく、自分の想いを堂々とぶつける勇敢さ。
そして、「男」という性。
それを考えた途端——紫はその少年が心底憎く思った。
自分が超えられない壁を、臆面も無く飛び越えてしまうその少年が。
「男」というだけで、自由に螢に愛をささやけてしまうその少年が。
生まれ持ったモノのせいで足踏みしている自分と違い、生まれ持ったモノのお陰で自由に恋愛をしているその少年が。
お粗末な剣の腕のくせに、螢の義父である望月源悟郎への弟子入りの機会を得られ、結果的に螢との距離を縮めることに成功している、幸運極まるその少年が。
最上級の師のもとで急速に剣力をつけ、螢との距離もさらに埋めていく、勤勉なその少年が。
——わたくしだって、お前のように「男」であったなら、もっと螢様と。
それは、自分でも分かるほどに、身勝手で、理不尽な、強い嫉妬だった。
だがそれでも、自分は光一郎が嫌いだ。
創設祭の時に光一郎の姿を見た瞬間、石でも投げつけてやりたい衝動に駆られた。
光一郎と目が合うたび、睨みつけたくなった。
光一郎が螢に誘われて創設祭に来たのだと知った時、探し出して殴り倒したくなった。
螢の手料理を当たり前のように食べようとする光一郎に、一太刀を浴びせたくなった。
準決勝前に偶然会った時、棄権しろという嫌味を言いたくなった。
こんな風に、自分が特定の誰かに強い負の感情を向けていることに、自分自身が驚くほどだった。
わたくしはこれほどまでに狭量で執念深い人間だったのか、と。
————しかし、剣を交える時は、そんな強い嫉妬を胸の奥底へと呑み込んだ。
このような強烈な情動は、新陰流においては邪魔でしかない。
妄執を捨て去って、心を「待」にし、技を「懸」にする。それが新陰流だ。
心の純度が高ければ、技からは歪みが消え、相手の動きや彼我の間合いも冷静に分析できる。
そうしていれば——今の光一郎など敵では無いのだから。
光一郎はどうやら「後の先」を取りに行く類の剣士であるのだというのは、無闇に攻めない様を見てすぐに判った。
だからこそ、紫は光一郎を攻めさせた。
攻めざるを得ないような状況に追い込むように剣を繰り出し、光一郎に慣れない猛攻をさせた。そういうふうに操った。
相手が「待」の状態であるならば、「懸」の状態に移行するように仕掛ければ良い——「兵法家伝書」に曰く。
それでいて、こちらが攻めやすく、相手が反撃しにくい角度と間合いを積極的に取る。
新陰流では、このような間合いの取り方を「水月」と呼ぶ。
月は水に映るが、水は月に映らない。
さらに、紫には年不相応に優れた「読み」がある。
有も有、無も有と云ふ也——眼に視える「有」だけでなく、まだ何も起こっていない「無」からも「有」の存在を見出す。
これも「兵法家伝書」に曰く。
その言葉と同じように、紫はまだ何も起こっていない段階から、ある程度の先読みが可能なのである。
紫は、上記のような新陰流の理論や心法をうまく利用することで——相手を操り、逃げられないようにする剣を実現したのだ。
それこそが、光一郎が先ほどから拭えなかった「違和感」の正体。
戦っているのは紛れもなく自分であるはずなのに、自分で動いているような感じがしなかったのは、まさしく紫の剣のせいだ。
光一郎は、戦っていたのではない。
紫の剣が強いるままに、戦わされていたのだ。
例えるなら、終始が決められた映画のフィルム。
「天沢紫が勝利する」というストーリーの終始が記録されたフィルム。その中にいる「やられ役」。
紫と初太刀を交えた瞬間から、光一郎はこの「やられ役」に無理やりキャスティングされたのだ。
逃れたくても、もう逃れられない。
光一郎は、紫の作る「流れ」の中から、抜け出せない。
その「流れ」の行き着く先は、「敗北」だ。
もし竹刀でなければ、「死」だ。
終わりは近い。
次々と現れる若年の免状取得者……




