vs葦野女学院清葦隊 〜違和感〜
6/25 修正完了
——何度見ても、腹の立つ顔ですわね。
向かい側に立つ小柄な少年……秋津光一郎を見て、天沢紫は眉をひそめる。
面越しでも、あの顔の造作が分かる。そんな自分の視力が腹立たしい。
提刀の状態で竹刀を握る左手に、ぎりりと力がこもる。
だが、その握力をすぐに緩める。
……この激情と悋気に呑まれるな。飼い慣らせ。
どんな剣術でも心の有り様を重視するが、紫が学ぶ新陰流ではとりわけこれが当てはまる。
心をば待に、身をば懸にすべし——柳生宗矩の遺した武芸書「兵法家伝書」に書かれている言葉だ。
同武芸書には「懸待」という言葉がある。
「懸」とは、急いで相手に打ち込まんとする有様を表す。
「待」とは、無闇に突っ込まず慎重に相手と戦おうとする有様を表す。
心身ともに「懸」ならば、素早くは打ち込めるが、粗雑で荒ぶった太刀筋になってしまう。
心身ともに「待」ならば、無闇な攻めはしなくなるが、代わりに攻撃も満足にできない。
ゆえに新陰流では、心を「待」にして冷静に敵を分析し、身を「懸」にして積極的に動き回るという在り方が重んじられている。
憎たらしく、生意気で、贅沢者で、許されるなら数発は殴りたい男——そんなマイナス感情のフィルターを一時的に取り払い、純粋に「剣士」として秋津光一郎を観る。
彼の今の構えは、至剣流の「正眼の構え」。
その立ち方から感じられる重み。
構えを形作る五体が内包する筋の練度。
それらの要素を総合して、導き出された答えは。
(確かに、去年螢様に挑んだ時に比べれば、驚くべき成長ですが————まだまだですわね)
普段通りの調子に自分を律していれば、確実に勝てる相手であるというものだった。
……大国主様というのは、結構イイ性格をした神様かもしれない。
ヨシ女との試合が始まり、双方の先鋒・次鋒・大将のメンツが明かされた時、僕はまず最初にそう思った。
先鋒戦の氷山部長・牧瀬さんという組み合わせはともかく、次鋒戦は峰子・大河内さんという因縁の戦いとも呼べるもので。
これから始めようとしている大将戦は——僕と、天沢さんの対決。
現在、大体育館の中央にて、遠間を作って向かい合っている僕ら大将二人。
僕は「正眼の構え」となりながら、天沢さんを見た。
同じような中段の構えを保った彼女の立ち姿からは、浮き足立った感じは全くと言っていいほどしない。氷山の一角のごとくそこに留まっている。しかし何かあればすぐに電光石火で動き出しそうだ。
——僕の剣が、果たして彼女に通用するかどうか。
そう考えて、慌ててその悲観的な思考を振り払った。
勝てるかどうか、という気持ちで挑むな。
勝つつもりで挑め。
そもそも、峰子が次鋒戦を頑張って勝ってくれたからこそ、今僕はここに立っていられるのだ。
彼女が渡してくれた襷を、粗末に扱うことは許されない。
——勝つんだ。この試合。絶対に。
僕は自身の密度を高めるように、「正眼の構え」にさらに気を加えた。
それでいて、天沢さんを観る。
——相手が強いからこそ、「影響の連鎖」を見抜くことは絶対に必要だ。
相手の動きをよく観察し、相手の運動の中に存在する「体癖」を見つけ出す。
その「体癖」から、次に行うであろう動きを逆算し、予知する……このように、一つの「体癖」から全体像へ繋がることを「影響の連鎖」と僕は呼んでいる。
観察には時間がかかるが、この「影響の連鎖」さえ掴めれば、その時に見せた「体癖」から相手の次の動きを予知し、その上でワンテンポ早い対応が可能になる。
模写という昔取った杵柄がもたらした、僕の権能。
これを活かせば、いくらか格上の相手とでも、互角に戦える。
おそらく、「影響の連鎖」を掴めるか否かが、勝敗の分かれ目となるかもしれない。
双方構えたまま、審判の合図を待つ。
「——始めっ!!」
やがて、始まった。
しかし僕は、その場から動かない。
天沢さんを、ひたすらに見る。視る。観る。
防具越しでも、彼女の動きを仔細に観て、そこから彼女自身の持つ「体癖」を読み取ろうと神経を集中させる。
しばらく構え合ったままだったが、ほどなく天沢さんが動いた。
中段に真っ直ぐ竹刀を構えたまま、鋭く近づいてきたのだ。
双方の間合いが接する。彼女はなおも進む。
僕はやってきた竹刀を右へ払おうとする。だがそれよりも速く天沢さんは竹刀を軽く振り上げてそれを避け、またも小手を狙って斬り下ろしてきた。
僕は小手ごと竹刀を引っ込めながら一歩退がり、竹刀を真後ろに隠した「裏剣の構え」を取った。そこからすかさずアーチ状の太刀筋を刻みながら戻った。『波濤』の型だ。狙いは天沢さんの小手。
天沢さんは僕の振り下ろしを、担ぐように斜め下向きに構えた竹刀で受け流す。
僕の竹刀はなおも止まらない。勢いよく跳ね上がり、天沢さんの小手を下から狙う。
またも竹刀を迅速に構えられて防がれるが、その小手打ちは囮だ。僕は一気に身を翻しながら退がり、竹刀を鋭く薙いだ。『颶風』の型である。天沢さんの間合いから外れるその寸前で胴に当たる算段だ。
胴を打たれる直前に小さく退歩し、紙一重で逃れる天沢さん。だが僕は『颶風』から『旋風』の型へと移行し、周囲に太刀筋を渦巻かせて突っ込んだ。天沢さんはそれも防御。
さらに剣戟は続く。
僕は矢継ぎ早に剣を発し、天沢さんはそれを的確に、最小限の動きでいなしていく。
それでいて、時折反撃するのも忘れない。
彼女の剣は、なんだか掴みどころが無く、それでいて抜け目がないものだった。
牧瀬さんのように迅速でもなければ、大河内さんのような力強さも無い。
中庸とでも言えばいいのか。そんな地味な剣技だった。
だが、一太刀一太刀を、めんどくさい角度や距離感から放ってくる。
自分の剣は届き、相手の剣は届きにくい——そんな絶妙な立ち位置を常に取ってくるのだ。
手数は少なめだが、やってくると避けにくい。
それでも、どうにか打ち合いが拮抗している。
同時に「影響の連鎖」の分析も順調だ。
ひとまず順風満帆と言って良い状況だった。
だというのに。
(なんだ? さっきから感じる、この「違和感」は——?)
その理由はなんとなく分かった。
——僕が、自分らしくない動きをしているせいだ。
僕の戦い方は、どちらかといえば積極的ではない方だ。まず相手の反撃ありきで始まる「後の先」を求める戦い方。
しかし今の僕はどうだろう。そんな戦い方とはまるで逆の、積極的に攻めまくる戦い方をしている。
まるで、一刻も早くこの試合を終わらせようと、慌てているように。
自覚した途端、僕は一度天沢さんと距離をとった。
——落ち着け。らしくないぞ、僕。
いつも通りの僕でいくんだ。最後の一戦という重圧に呑まれるな。
僕がとった構えは「裏剣の構え」。
この構えは剣を真後ろに隠すため、太刀を発する直前まで剣の次の軌道が分からない。……斬り合いにおいて「分からない」という情報は、心理的なプレッシャーを相手に与える。
その構えのまま、天沢さんの出方を待つ。
天沢さんは、僕のそんな構えを全く気にしていない様子で近づき、薙いできた。視界の左端から竹刀が急速に迫る。
「っ!」
僕は後ろから前へアーチを描くような太刀筋を勢いよく発した。『波濤』の型だ。……これで天沢さんの一太刀を防ぐと同時に下へ強烈に弾いて、姿勢をぐらつかせてやる。崩れたところをさらに狙うのだ。
ぱしぃん!! と、天沢さんの竹刀を下へしたたかに弾く。
彼女の防御がガラ空きとなったと思った僕は、下へ振り抜いた『波濤』の太刀筋を、もう一回転させた。足を一歩進めながら、反時計回りの縦円軌道で剣を発する。車輪が転がるような太刀筋を発するその型は『法輪剣』。……『法輪剣』には、『波濤』の身体操作が混じっているため、こういう繋ぎ方が可能なのだ。
瞬時に半周して上段に達した僕の竹刀は、すでに天沢さんを射程に納めていた。あとは振り下ろすのみ。
だが、その天沢さんを見て、僕は目を見開いた。
今まさに竹刀を振り下ろしている最中だった。
定規で綺麗に線を引いたような彼女の縦一閃が、振り下ろされる僕の竹刀に触れ、滑り合い——横へ押しのけた。
僕の竹刀は軌道をズラして天沢さんの隣の空気を斬り、天沢さんの竹刀は、なおも真っ直ぐな軌道を保ったまま僕の面を打った。
「面あり!! 一本!!」
審判の声の意味を理解するまで、僕は三秒ほど要した。
——打たれた。僕が。
どういうことだ。
天沢さんの竹刀は、確かに僕の『波濤』で下に強く弾いた。
その反動に手元を引っ張られて、すぐに竹刀のコントロールを取り戻せないはず。
まして、その状態から持ち直し、さらにそこから僕よりも少し早いタイミングで竹刀を振り下ろすなど。
……まさか、弾かれた勢いを逆に利用して、竹刀を回転させ、その軌道の流れで振りかぶったのか。至剣流の『風車』の型のように。
そうとしか考えられない。
さらにそこから、僕の太刀筋を完全に読んだ上で綺麗に縦に斬り下ろし、僕の竹刀と接触して、押し勝ち、一撃入れた。
……間違いない。第二回戦で見た『合し打ち』という技だ。
食らってしまった。
一敗してしまった。
最初の余裕の半分くらいが削ぎ落とされ、焦りが一気に心中に募った。
手元が少し震えるのを実感する。緊張で息が上がる。
あと一回。
あと一回。
あと一回打たれたら、僕と、富武中の負け。
僕らの今年の夏は、ここで終わる。
一年生、二年生は来年もあるから良いが、氷山部長は今年が最後だ。
氷山部長の最後の夏を、ここで終わらせてしまう。
——落ち着け。
重圧に呑まれるな。
それこそ敵の思う壺だ。
心を潰されたら負けだ。
呼吸を整えろ。肉体を整えろ。それを心に連結させろ。体と心は繋がっている。
僕はまだ、天沢さんの「影響の連鎖」を見抜いていない。
それを掴むことを最優先としろ。
「影響の連鎖」さえ分かれば、勝機はある。
開始位置に戻った僕は、右足を引き、竹刀を右こめかみの高さで垂直に構えた。「稲魂の構え」である。
この構えからなら、迅速で広範囲でかつ高さも調整可能な『電光』の型が使える。至剣流においては鉄壁の防御の構えという位置付けだ。
天沢さんを見る目をさらに強めた。重心や筋肉や関節の動きだけでなく、細胞一片の働きすらも捉える気持ちで。
彼女と目が合う。いつもは僕に対して鋭い眼光をぶつけてくる彼女だが、今はまるで無風の湖のように落ち着いた目つきだ。
……いや。よく見ると、その静かな瞳が、微かに揺れている。
まるで、静かな湖の奥底に、獰猛な何かが潜んでいるような。
強大で恐ろしい存在を、静かな湖という外面でマスキングしているような。
「二本目——始めっ!!」
審判の声が響いた。
しかし僕は一本目の最初と同じく、動かない。
「稲魂の構え」のまま、攻めずに様子を見続ける。
天沢さんが立ち位置を移動させたら、それから遠ざかるようにして僕も移動する。
彼女を凝視し、観察する目をやめない。
やがて、天沢さんは近づき、左袈裟斬りを発してきた。
僕はそれに対し、ほぼ条件反射で『電光』の型を行った。僕の視界に「く」の字を逆にしたような太刀筋が瞬時に虚空に刻まれるのと同時に、ぱぁん!! という激しい竹の音が耳を撞いた。
竹刀を弾くのには成功した。……しかし天沢さんはその弾かれた勢いを利用して竹刀を円弧運動させ、一周させる形で再びの左袈裟斬りを発してきた。
僕は左足を退いて「陽の構え」となる過程でその一太刀をさばき、次の瞬間に左足を鋭く戻すと同時に切っ尖を疾らせた。……『石火』の動きを応用し、受け流しと反撃を迅速に行う『雁翅』の型だ。
天沢さんは竹刀を中取りの持ち方にし、僕の切っ尖を竹刀の真ん中で受け止める。ぱぁん!! というしたたかな音。
かと思えば、そのまま竹刀同士を滑らせながら近づき、僕の竹刀を下から持ち上げる形になっていく。……このままだと胴がガラ空きになる。
「っ!」
危機感を覚えた僕は、全身を急激に反時計回りに捻りながら、今いる位置から瞬時に右へズレた。その動きに竹刀を合わせる形で天沢さんの左側頭部めがけて薙いだ。
そんな僕の『颶風』にも、彼女は問題なく反応し、防御してみせた。
さらに息もつかせずに反撃を繰り出してくる。それを僕は間一髪逃れながら反撃で一太刀。それも防がれ、また反撃が訪れる……そんな定式化したやり取りが繰り返される。
——またも、一本目と同じ「違和感」を覚える。
立ち合いは拮抗している。
先ほどのように、ガンガン攻めるような「らしくない」戦い方を、今の僕はしていない。
しかし、それでもなお「違和感」が消えない。
……この戦いに、僕の意思が全く介在していないような感じがする。
まるで僕以外の誰かがこの身に乗り移り、好き勝手に動かしているような、そんな気持ちの悪さを感じる。
だが、今はそんな曖昧な感覚に執着するよりも、勝利の糸口を探る方が優先だ。
(持ちこたえろ……! あと少し、あと少しだ……!)
僕は天沢さんの剣に抵抗しながら、必死に彼女を観ていた。
構えや振りの姿勢。そこに含まれる細部の特徴。その細部がどうしてそういう動きをしているのかの逆算——脳が汗をかくくらいにまで集中して、天沢紫という剣士を看破せんとしていた。
それはまさしく、右手と左手で違う図形を同時に描くような、凄まじいまでの集中力と精神力を要求される苦行だった。脳みそが真っ二つに割れそうな気分だ。
しかし、その苦行の果てに勝機があるというのなら、目指す以外の選択肢は無い。
観ながら切り結び、観ながら切り結び、観ながら切り結んだ。
そして——
(————掴んだ)
「影響の連鎖」を。
勝利の糸口を。
彼女の動きに宿る法則を。
掴んだ。
瞬間、僕の全身に、気持ちが強まった。
まるで大船に乗った気分だった。
天沢さんが強い剣士であっても、一手先の動きがほぼ完璧に読める今の僕なら勝てる。
——さっきまで掴みどころの無かった彼女の剣が、分かる。
——次の太刀筋が、手に取るように分かる。
僕は予知していたそれを防ぎ、そして斬り返す。
彼女はそれを避けつつ再び太刀を発するが、すでにワンテンポ早い段階からその太刀の到来に気づいている僕は簡単に防ぎ、間髪入れず刺突を送る。
刺突は天沢さんの側頭部の隣をスレスレで通過。彼女はそのまま前へ進み、胴狙いの薙ぎ払いを発した。僕は竹刀を引き戻して垂直に構え、薙ぎ払いを防御してから、背後へ回り込んで斬りかかる。『颶風』の型。
鋭く振り向きざまに発せられた天沢さんの一太刀とぶつかり、僕の全身のバランスが崩れる。そこへ踏み込んでやってきた二撃目を、僕は間一髪で防御した。
(……おかしい)
後方へたたらを踏んだ僕へ、天沢さんはさらに追撃。
僕はなんとか身を守りつつ、重心の崩れを持ち直そうと足腰の力を入れる。
(……確かに、天沢さんの次の動きは、観えているはずなのに)
重心の安定をどうにか取り戻したが、足腰を踏ん張らせたことで重心に居付きが一瞬生まれた。そこを突く形で、天沢さんが大きく踏み込んで袈裟斬りを放つ。
竹刀でそれを防ぎ、切り結ぶ。かと思えば、天沢さんはお互いの竹刀の接触点を中心に、シーソーのように僕へ向けて竹刀を傾けた。切っ尖が面に近づいてくる。
竹刀が面に当たる前に僕は大きく後ろへ退がる。同時に、全身に巻き付くような太刀筋を刻む『旋風』の型を用いて、近づいてこられないようにする。
だが、そんな剣の結界めがけて、天沢さんは真っ向から突っ込んで竹刀を上段から叩き込んできた。竹刀同士がぶつかったその衝撃で再び僕の姿勢が大きく揺らぐ。
(観えているはずなのに、全然押し返せない————!!)
一手先の動きを予知できる、という強力なアドバンテージを得たはずなのに、僕はいまだに天沢さんとの拮抗状態を崩せずにいた。
いや、それどころか、さっきよりも押されてさえいた。
気持ちの悪い「違和感」も、まだ残っている。
(どうなってるんだ、これは——!?)
「影響の連鎖」を掴んだ心強さは、すでに消えていた。
訳がわからぬまま切り札を無慈悲に破られた僕は、どうしたらいいのか分からず、ただただ天沢さんの発する太刀の流れに翻弄され続けていた。




