緊張、そして宣戦布告
「はぁ……緊張するなぁ」
男子トイレの洗面台でじゃぶじゃぶ手を洗ってから、僕は内に溜まった緊張を一人吐露した。
鏡に映る僕の顔は、いつもよりオトガイ筋と口輪筋に力みが出ていた。緊張しているのだと分かる。
——あと一時間くらいしたら、とうとうヨシ女と戦うのかぁ……
すでに二回戦の全四試合が終了し、現在は休憩時間に入っている。
この休憩時間が終わったら、準決勝の二試合が行われるのである。
その準決勝にて最初に戦うのは、僕ら富武中と、ヨシ女なのだ。
ヨシ女は毎年の千代田区予選の優勝候補筆頭。
いつかは当たることを覚悟していたつもりなのだが、いざその時になると、不安と緊張が一気に押し寄せてきた。
(あんな凄い試合を見せつけられたら、嫌でもこんなふうになるよ……)
大河内さんも、牧瀬さんも、そして天沢さんも。
みんな、圧倒的に強かった。
正直、勝てるかどうか分からなくなってきた。
僕だって、今までたくさん稽古してきたが、それでもあの三人には負けるかもしれない。
天覧比剣優勝を目指して稽古してきた時間……それは、汗と労力と試行錯誤を繰り返して、一歩一歩積み重ねてきたものだ。
それは、僕の学校生活におけるかけがえのない思い出の一つとなる。
しかしその時間が、目指した成果として報われるか否かはまた別問題だ。
一回でも負けてしまえば、そこでおしまい。
僕らが今臨んでいるのは、そういう勝負なのだ。
「……落ち着け」
震えを押し殺すように呟く。
昨日、峰子に散々偉そうに言っておいてコレなんて、情けない。
「振りかざす、太刀の下こそ地獄なれ…………一と足進め、そこは極楽」
気持ちを落ち着けるために、僕はぶつぶつとその和歌を呟いた。
世間では宮本武蔵が歌ったものだと言われているが、二天一流修行者の香坂さんは「確固たる証拠がまだ無い」と一蹴している。
それでも、少しばかり心のざわめきが収まった。
振り回される相手の刀の間合いの外で「斬られるかも」とビクビク怯えているよりも、間合いの奥深くに入ってしまった方が案外安全なのだ。
振り放たれた刀身が最もその斬れ味を発揮するのは刃先の辺りだからである。
鍔に近づくほど刀身に宿る勢いは弱まるため、斬れ味も弱くなる。
何事も、遠巻きで尻込みしているよりも、一気に近づいてしまった方が案外どうにかなるものなのだ。
どういう結果であれ、必ず「結果」が得られる。
近づかなければ何も得られない。
「……よし!」
僕は気を取り直し、男子トイレを出た。
まずはエカっぺが作ってきてくれたというボルシチとやらをご馳走になろう。食べておかないと力は出ない。
そうしてエカっぺと螢さんの待つ入口ホールの前まで向かう途中の廊下にて。
「……あ」
——天沢さんと、遭遇した。
他の二人はいない。彼女一人だ。
「え、えっと……こんにちわ」
先ほどの鋭い眼光を思い出して内心震えつつ、僕はそう挨拶をかけた。
「……ええ」
天沢さんはそう短く返事をした。
本当に、短く。愛想の欠片も無く。
……ほとんど言葉を交わしていないというのに、僕の心にはいつの間にやら、彼女に対する苦手意識が出来上がってしまっていた。
だけど、もしかすると、それは僕の先入観のせいなのかもしれない。
あの睨みつけるような眼光も、もしかすると僕の気のせいかもしれない。
もしかすると、結構話せる人かもしれない。
こうして二人だけで直接話す機会はあまり無いだろうし、良い機会だ。
僕は二の句を継いだ。
「あの……次の試合、お互い、頑張りましょうね」
ことさらに笑顔を作ってそう訴える。
しかし、目の前にある硬さと冷たさのある美貌は、眉根を剣呑にひそめた。
それを見た瞬間、僕は確信した。……やはり彼女が、僕を快く思っていないということを。理由は分からないが。
厳しい声音をさらに底冷えさせた声と口調で、天沢さんは言った。
「——貴方達、もしかして棄権なさらないおつもり?」
あまりにも予想とかけ離れたその問いかけに、僕は言葉を詰まらせた。
何を、言ってるんだ……?
僕らが、棄権するって……どういうことだ?
言葉の意図が分からない。
「いや、しない、けど……」
動転した気持ちを持ちつつも、なんとか僕はそう発言できた。
天沢さんは、僕を見下ろす眼差しをさらに冷たいものにし(彼女のほうが僕より少し背が高めだ)、告げた。
「なぜわたくしが、先ほどの試合でわざわざ先鋒として闘ったのか、分かりますかしら? 秋津光一郎。——こちらの実力を見せつけて、貴方がたの戦意を削ぐためですわ。優秀な剣士ならば、戦う前から相手の力量を目で計れるのは常識。わたくし達には遠く及ばないにせよ、貴方がたがそれなりの実力を持っていると評価した上での試みだったのですが…………どうやら、買いかぶりだったようですわね。だからそんな戯言を吐ける」
先ほどまで驚きが占めていた僕の心は、すぐに反感に支配された。
「そ、そんなのっ、戦ってみないと分からないだろ!?」
「分かりますわよ。貴方がたの今までの試合ぶりを見ていれば。その上での結論です。——貴方がたは、わたくし達には勝てない。望月様の前で無様を晒す前に、早々に棄権することをお勧めしますわ」
望月様——それが、螢さんのことであるのは明白だ。
僕は眉根をひそめて尋ねた。
「……なんでそこで、螢さんの名前が出てくるんだ」
それに対し、天沢さんは一瞬だけ眉間のシワを数本増やしたが、すぐに冷笑となって答えた。
「懸想してらっしゃるんでしょう? 去年の九月、我が校に無断で立ち入って取り押えられている貴方を見ましたわ」
……なるほど。去年の僕の不法侵入を、彼女は目撃していたクチか。
「何度も言いますが、棄権したらいかが? ……貴方も知っているでしょう? 望月様は弱い男には興味ありませんの。こんな公衆の面前で無様に負けるような男にはなおのこと。どのみち貴方ごときではあの方の隣に立つのは不可能でしょうけれど、今退いておけば、叶わぬ夢を叶うと心中で誤魔化しながら追いかけ続ける、甘美な期間を延長させることが出来ますわよ?」
さぞ名案だとばかりに得意げに、嘲るように言ってくる天沢さん。
……なるほど。なんとも温情に満ちた提案である。
でも。
「——嫌だ。僕は逃げない。棄権なんかするもんか」
少し高い位置から冷たく見下ろしてくる鉄のような美貌を真っ向から睨み返し、僕ははっきりと否を告げた。
……僕は腹が立っていた。
棄権しろ云々と言われたからではない。
螢さんを侮辱するようなことを言われたからだ。
「はっきり言うよ。——天沢さんは、螢さんの事を何も分かっていないんだね。同じ学校のくせに」
「……なんですって?」
刺し殺すような眼光にも怯まず、僕は続けた。
「螢さんは、何回か負けた程度で見下げるような人じゃない。……僕があの人に、何度負け続けてると思っているんだ。それでもあの人は、僕の勝負を今でも受けてくれる。稽古の手伝いをしてくれる。今回の大会だって、手の込んだお弁当をわざわざ作ってきてくれたんだ。——何も知らないくせに、螢さんを好き放題語るな。あの人が、どうして自分を倒した相手としか一緒になりたがらないのか、それすらも知らないくせに」
胸ぐらを掴まれ、ものすごい力で引っ張り込まれた。
間近にあるのは、静かな憤怒の表情を浮かべた天沢さんの顔。
近くで見ると余計に凄みがある。美人の怒り顔というのはこんなにも怖いのか。
しかし僕は目を逸らさず、まっすぐ見つめ続ける。
天沢さんは、絶対零度の語気で静かに言い放った。
「言い忘れていましたわ。——秋津光一郎。わたくし、貴方の事が前から死ぬほど嫌いでしたの」
「知ってたよ。あれだけ強い視線を送られたらね。いつもは無表情なのに、僕に対してだけは随分表情豊かなんだね。嬉しいよ」
僕が皮肉を告げると、天沢さんは投げるように僕を解放し、背を向けた。
「……せいぜい覚悟しておくことですわね。貴方がたを、最高に惨めに負けさせてあげますから」
「それはこっちのセリフだ。……僕達は負けない。絶対に優勝して、予選を突破して、天覧比剣でも優勝するんだ。あなた達を、踏み台にしてやる」
互いに宣戦布告を投げ合うと、彼女は歩み去っていった。
小さくなり、やがて廊下の曲がり角に消えていくまで、僕はその後ろ姿を睨み続けた。
——絶対に、勝つ。
僕は今、天沢さんとこうして話すことができたことを、天に感謝していた。
負けたくない理由が、一つ増えたから。
いつの間にか、試合前の緊張と震えが消えて、心身に戦意が満ちていたから。
————そして一時間半後、とうとう「その時」が訪れた。
天覧比剣千代田区予選、準決勝。
第一試合。
——富武中学校撃剣部。
——葦野女学院清葦隊。
千代田区予選最大の難敵にして、天覧比剣強豪校の一つである葦野女学院との、対決の時が。
これにて今回の連投は終了。
ヨシ女との試合をこれから書き溜めていきまっする。




