寄り道、そして弱音
一回戦の全八試合は無事に終わった。
千代田区予選出場校十六校は、八校の勝者と、八校の敗者に分かれた。
それから夕方、出場選手は全員「げんぶアリーナ」から各々の家へ帰宅した。千代田区という限られた区域であるので、全員電車ですぐに帰れるだろう。
富武中学撃剣部も、制服に着替え直してから、最後にミーティングを行ったのち解散となった。すでに空の青は赤みを帯びて紫色となっていた。
部内のミーティングで遅くなるからという理由で、エカっぺと螢さんは僕がすでに先に帰している。
なので、撃剣部員水入らずで駅へ向かう——かと思いきや、
「ねえ、光一郎……これから、少し時間ある?」
「げんぶアリーナ」を出る直前、卜部さんがそう僕を呼び止めた。
「どうしたの? 卜部さん」
「……その、ちょっと、相談が、あって」
「相談?」
「あ、うん……詳しいことは後で話すから。……だめ?」
僕がどうしようか考えたのは一瞬だけだった。どうせこの後予定も無いから。
それに、僕を見つめてくる卜部さんの目が……どこか縋るような感じに見えたから。
僕は卜部さんに頷いた。
先に最寄り駅へ向かう氷山先輩率いる部員のみんなと別れ、僕達二人は別方向へ歩いた。
より正確には、前を歩く卜部さんに僕がついて行ってる形だ。「相談」とやらが出来る場所を探しているのだろう。
肩にかかった防具袋と竹刀袋の重さには、すでに体が慣れていた。入部初期に比べて、足取りにぎこちなさが無い。
ほのかに初夏の気配が混じった温い空気を学ラン越しに感じつつ、カルガモの子供みたいに卜部さんに追従する。
その最中、僕はあまり来ることの無い岩本町の風景へ目を通していた。
江戸時代、この岩本町には江戸三大道場の一つ、玄武館があったという。北辰一刀流を教えていた千葉家の総本山だ。
玄武館が三大道場と呼ばれるほどの隆盛を極めた理由は、先進的な剣術指導法だけではない。
この辺りはかつてあったという池にちなんで「お玉ヶ池」と呼ばれた土地で、江戸で最も学問が盛んな場所だった。玄武館のすぐ近くに、儒学や漢詩などを学べる学舎が存在したのだ。
当時は剣と一緒に哲学や思想を学ぶことが重んじられた。玄武館はそれに最適な立地だったのである。
しかし、行く先々に立ち並ぶビルディングは、そんなかつての気風をほとんど感じさせない。
それが、何だか少し寂しい感じがした。
かつては日本で指折りの規模を誇った北辰一刀流も、今や多くの小規模流派の一つになってしまっている。それらの上で燦然と輝くのは嘉戸派至剣流という日本一の大流派だ。
くり返される諸行無常。
このビルディングの立ち並ぶ現代的風景もまた、諸行無常の流れの下流へ向かっていくのだろう。
しばらくして、卜部さんが止まった。
遊具がブランコと滑り台しか無い、本当に小さな公園だった。今は時間が時間なのですでに子供達もいない。僕ら二人だけだ。
卜部さんはその公園に入り、僕もそれに従う。
彼女がベンチに座るのを僕が立ちながら見ていると、
「……あなたも座ったら」
そう不満気に見返し、自分の左隣をぺしぺし叩いてくる。
従うまま、僕は卜部さんの隣に座った。ベンチの左端へ防具と竹刀を置く。
それからしばらく、僕達は無言になる。
いや、正確には違う。
無言なのは卜部さんだ。
僕は、卜部さんが口を開くのを待っている。
西の彼方で微かに光る太陽が沈みかけ、公園の地面にうっすら浮かぶ二人の影が闇に混じろうとした時、卜部さんは口を開いた。
「ねぇ、光一郎……今日のあの試合、見ててどう思った?」
「誰の試合?」
「もうっ、察しが悪いわねっ。決まっているでしょう? 葦野女学院よ」
拗ねたような顔で不満を口にする卜部さんに、僕は「ああ、それね」と納得してから、
「……すごかった、かな。さすがは全国レベル。天覧比剣に行ったら、ああいう人達がうじゃうじゃいるんだなぁって」
「それだけ?」
「ええっと、そうだなぁ……気を引き締めないと、とか、僕も頑張んなきゃ、とか。そんな感じかな」
「そっか…………やっぱり強いね。光一郎は」
そこで一度区切り、深呼吸したのち、卜部さんは言った。
「私は——怖い、って思った」
かすかに震えた声だった。
「怖い?」
「うん。怖い。だって……去年より強い、って、一目で分かったから」
「そうなの?」
卜部さんはスカートごと両膝を抱え、無言で小さく頷いた。
「……私が去年、大河内篠と戦って負けたこと、あなたに言ったよね」
「聞いたよ」
「うん。……本当に、あの時、私はあの女にまるで歯が立たなかったの」
両膝をさらに深く抱え、顔を完全にその裏に隠す卜部さん。
「今日の試合と同様に……私もあの女の馬鹿力で、竹刀を吹っ飛ばされた。それを受けた瞬間に、私は確信してしまったの。私じゃ絶対勝てない、って。それからは全然自分らしい動きが出来なくなって……二本目もあっさり負けちゃった。氷山部長が次鋒戦で作ってくれた一勝を、私は無駄にした。富武中を予選落ちさせちゃったの。……私のせいなの」
どんどん弱々しくかすれていく卜部さんの声。
僕は慰めを口に出来なかった。去年の富武中撃剣部の試合を、僕は見ていないから。無闇な慰めは彼女の傷口をえぐる事になりかねない。
「もちろん、私だってそれから地道に稽古した。来年は葦野女学院も薙ぎ倒して、地区予選も都予選も通過して、天覧比剣に出ようって……そう思って頑張った。でも…………」
卜部さんの声に、涙っぽい響きが混じった。
「駄目だった。あの女の、大河内の剣を見て分かった。去年よりも強くなってるって。差が、ほとんど縮まってないって。今の私じゃ……勝てないって」
「卜部さん……」
「ううん、大河内だけじゃない……あのギーゼラって子もいる。あの子は清葦隊副長になれたくらいだから絶対大河内と同じくらい強い。おまけに、まだ隊長の天沢って人も残ってる………………私、自信無い。あんなすごい人達に勝てる自信なんて……無いし…………持てない! 私は弱い!」
卜部さんは勢いよく僕の胸に顔ごとしがみつき、哀切に訴えてきた。
「光一郎……私、どうしたらいいの? こんなんじゃ私、また負けちゃう。また富武中を負けにしちゃう。氷山部長は今年で最後なのに、私が、それを駄目にしちゃうっ……!」
僕の学ランの胸元を掴む彼女の手が、かすかに震えているのが分かった。
——卜部さんは強そうに見えるけど、本当は脆い子なのだ。
僕はすでにそれを知っていた。その素顔を、以前彼女に見せられていた。
それを知っている僕だからこそ、彼女は僕に弱音の全てを打ち明けたのだ。
今、「剣士」として彼女の弱音を聞いてあげられるのは、僕だけなのだ。
だから僕は、適当な言葉で濁すことはせず、きちんと考えてから、答えた。
「——だったら、負けてもいいよ」
卜部さんが顔を上げた。胸元から上目遣いで見つめてくる彼女の眼は、少し潤みを帯びていた。
「ねぇ卜部さん、どうして天覧比剣が団体戦の形式を取っているか、知ってる?」
卜部さんはふるふるとかぶりを振った。子供みたいに。
「撃剣は競技であると同時に、軍事訓練の一環だからだよ。ほら、戦っていうのは一人だけじゃできないでしょ? 必ず集団になることが必要じゃない。その時、ちゃんと自分の能力とか特技とか、そういうものを弁えた上で、集団の中でどういう立ち位置で振る舞うべきなのか……そういうのを考える能力を養うためでもあるんだってさ」
「そうなの……?」
「うん。香坂さん……ほら、あの創設祭の時に一緒だった甚兵衛羽織の人がね、教えてくれたんだ。…………卜部さんが、自分を「弱い」と思っているのなら、それは自分を冷静に見つめられているって事なんだよ。だからさ、それを承知の上で動けばいいんだ。弱いから勝てない、って思ってるなら、それでもいい。卜部さんが駄目だったら、僕と氷山部長が頑張って勝ち星を上げて富武中を勝たせるから。また別の試合で、頑張ってくれればいい」
卜部さんはなおもぼんやり僕を見つめていた。
「……なによ、それ」
だが、すぐにその眼に、
「そんなの……私がいる意味、ないじゃない」
だんだんと怒りというか、不満じみた感情が浮かんでくる。
「私なんて、いないのと同じじゃない」
どんっ、と僕の胸を軽く突き、卜部さんは勢いよく立ち上がった。
「馬鹿にしないで。私は確かに弱いわ。でも、私はここにいる。富武中撃剣部として勝ち抜いて、清葦隊の試合を見て圧倒されて、その帰り道にここにいる。私は弱いけど……ちゃんと大会に存在して、戦っていた。それを、無かったことにしようとしないで」
「え、えっと、卜部さん……?」
いきなり気力を取り戻してまくし立ててきた卜部さんに、僕はぼんやりしてしまう。
卜部さんは「ふんっ」と、不遜な感じに鼻息を吐き、
「よくも煽ってくれたわねっ。言っておくけど、私は自分の弱さを嘆いてはいても、勝負を捨てたいなんて微塵も思ってないんだから。——私は戦う。敵わないかもしれないけど、それでも勝負は捨てない。負けるのは嫌だけど、逃げるのはもっと嫌」
「あ、えっと……」
「ヨシ女と当たったら、私のことは遠慮なく捨て石にして構わないわよ。それが富武中撃剣部という集団においての適役なら、私はそれを全うするわ。でも、最初から捨て石として終わるつもりはない。捨て石にも捨て石の自尊心がある。捨て石らしく、勝利を掴むために出来る限り足掻いてみせるんだからね」
興奮気味な卜部さんの口調はなおも止まらない。僕のびしっと指差し、
「それとあと一つ——いい加減、私のことは「峰子」と呼びなさい! 私はあなたを「光一郎」って呼んであげてるんだから、あなたも同じようにしなさいよ!」
「い、いや卜部さん、いきなりなに言って——」
「峰子!」
「は、はい! うら——み、峰子」
よろしい、と澄まし顔で頷く卜部さん……もとい峰子。
彼女は自分の防具と竹刀を持つと、僕に背を向けた。
「私、もう帰るから。今日は話を聞いてくれて、ありがと」
「僕も一緒にいくよ」
「駄目。私の姿が見えなくなるまで、ここから動かないで」
「な、なぜ?」
「教えない。……それじゃ、明日ね。光一郎」
言うなり、峰子はすたすたと早歩きで公園から去っていった。……一瞬見えた彼女の耳が真っ赤になっているように見えたのは、夕日のせいだろうか。
言われた通り彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、僕も立ち上がって持ち物を持った。
「煽ったつもりは、なかったんだけどなぁ……」
ただ、「君が駄目な分は僕らが頑張るよ」と言いたかっただけであって。
それでも、峰子が元気を取り戻したようなので、それで良しとしよう。
僕は公園を後にした。
……駅に着くまでの間、少し道に迷った。




