富武中学校撃剣部 第一回戦《下》
——なんだ、女が相手かよ。楽勝だな。
初岩中学校三年、大宮秀毅は、この次鋒戦にてこれから戦う眼前の相手を見て心中でほくそ笑んだ。
自分と同じく、稽古着と防具を身に纏ったその相手は、氷山京というらしい。
背丈は男顔負けだが、先ほど対戦校同士で一礼したときに顔を拝んだため、女だと分かる。
確かに、そこら辺の男子に比べれば、背丈はある。おそらくは170センチを少し超えた程度だろう。それなりの雰囲気もある。
しかし、それでも秀毅には及ばない。
秀毅は体が他の男子より大きい方だった。
十五歳という年齢にして、身長は一八〇センチを超えていた。
おまけに幼い頃から武芸によって体を鍛えていたので、その筋骨は骨太であった。
確かに氷山京は、女の中では恵まれた体格なのかもしれないが、所詮は女の世界での話だろう。
男の世界でも上位をいく自分とは比べるまでもない。ひとひねりでおしまいだ。
——競技撃剣では、竹刀が小手・面・胴の防具のうちどこかに当たればその時点で勝ちとなる。
そのための「当て方」までは、ルールによって厳密には決められていない。
だから「〇〇流剣術でなければダメ」というのは無く、どんな剣術を使っても良い。
何なら、我流でも良い。
秀毅は、学校の剣術授業における至剣流以外で剣を学んだことが無い。
それどころか、剣術の授業に真面目に取り組んだこともない。
剣の腕だけで言えば、秀毅は初岩中学撃剣部の誰よりもお粗末だった。
しかし——秀毅には「それ以外の武器」がある。
『帝国制定柔術』。
主に警察や軍隊で教えられている柔術。
技の数は少ないが、その分稽古がしやすく、なおかつ危険な技を安全に稽古できるよう工夫がなされている。
おまけに、少し動きを変えるだけで、制圧術にしたり、殺傷術にしたりといった切り替えが容易に可能。
明治時代、柔術諸流の皆伝者が意見を出し合って構築した近代柔術だ。
その即効性と実戦性は高く、日本のみならず海外の軍や警察からも学習希望者が多く、世界中で軍隊格闘術や護身術として派生している。
秀毅の父は警官である。ゆえに、至剣流よりも先に『帝国制定柔術』に触れ、それを学ぶ機会に恵まれた。
剣の腕はお粗末だが、組討に関して言えば、秀毅は部員の中の誰よりも達者だった。
——人間を倒すのに、わざわざ剣術などという限定的な技術を覚える必要は無い。
そも戦国時代の時点で、戦争の主役は剣ではなく槍や鉄砲だったのだ。実用性という観点だけで見れば、剣の時代は数百年前に終わっている。
今の軍でも、帯刀しているのは後方の将校だけで、前線で戦う軍人はナイフくらいしか刃物は持たない。刀は重いし、攻撃できる長さも銃には遠く及ばないからだ。
それでも刀が戦から姿を消さないのは、ひとえに刀が日本武芸の、否、日本の精神文化の核心であるからに他ならない。戦闘術という枠組みを越えた、尊い武器だからだ。
——しかし、「戦闘術」という観点のみで考えれば、どうであろうか。
剣術は、剣を持っている時にしか使えない。
しかし素手の技術である柔術は、どんな武器を持っていても使える。
戦闘術に限定して言えば、剣術よりも、柔術の方がずっと基礎的で応用のきく技術といえよう。
そして、この競技撃剣は「戦闘の競技化」だ。
勝利条件は、刀に見立てた武器である竹刀を用いて、急所を覆った防具のいずれかを叩くこと。
勝敗を決するのは剣でこそあるが、そこに至るために、組討も許可されている。
止めはあくまで剣で刺すが、わざわざ最初から馬鹿正直に剣の勝負を挑む必要は無い。
自分の持ち味を最大限に活かした戦い方をするべきだ。
人一倍大きく、なおかつ鍛え上げてきたこの肉体。その肉体に刻まれた素手の技。
それによって相手をねじ伏せ、動けなくなったところを打つ。
それが秀毅の戦い方だった。
卑怯とか、邪道だとは思わない。ルールには反していないし、何度でも言うが、競技撃剣は「戦闘の競技化」なのだ。
男女の差という言い訳も使えない。
そもそも防具に竹刀が当たれば勝ちというルールは、戦闘としてのリアリティの追求だけでなく、男女のハンデを極力減らすための試みなのだ。……なので、女はそのために剣を磨いて基礎体力差を補うという工夫をしてきた。
しかし、秀毅はそんなことを許す気はなかった。
剣を振る前に、ねじ伏せて、止めを刺す。
この氷山京という女子は、不運だった。
秀毅はそう自分を納得させ、奮い立たせた。
「一本目——始めっ!!」
やがて、審判が開始の宣言をした。
瞬間、秀毅は構えもせずに、勢いよく飛び出した。
獣並みの瞬発力と脚の長さにモノを言わせ、遠間を瞬時に大きく縮める。
右腕と竹刀の長さを合わせたリーチの範囲内に京をとらえた瞬間、秀毅は力任せに左脇から竹刀を振り抜いた。
ばしぃん!! というけたたましい音とともに、京の竹刀が秀毅の打ち込みもろとも横へ流される。
ガラ空きとなる京の前面。彼女の竹刀は打ち込みを受けたときの慣性のせいですぐには引き戻せない。
そして、すでに秀毅は、素手の間合いに京をとらえていた。
太い腕を京の胸元へ伸ばし、まさに掴み掛かろうとした。
世界が回った。
「は——?」
呆けた声を思わず漏らす。
次の瞬間、硬い衝撃が背中に遅いかかった。
「かはっ——」
息が詰まるようなその衝撃と痛みを実感すると同時に、世界は回転をやめた。
目の前には、照明器具がたくさん灯った、大体育室の高く広い天井。
ぼんやりそれを眺めている間に、視界の端から伸びてきた竹刀の切っ尖が秀毅の面金をぱしん、と軽く叩いた。——それによって、ようやく自分が投げ飛ばされて仰向けになっていることを自覚する。
「面あり!! 一本っ!!」
審判が声高に発したその事実を、しかし秀樹はいまだに上手く受け入れられずにいた。
嘘だろう? 投げられた? 俺が? 親父以外に? しかも女に?
あり得ない。
背中にじんじん残留する痛みという現実が、混濁する思考をさらに撹拌する。
「何をしている。早く立ちなさい。それとも降参するか?」
審判の言葉に尻を叩かれるまま、秀毅はごちゃ混ぜな思考を引きずりながらも立ち上がる。
開始位置へ戻り、竹刀を正眼に構える。
切っ尖の向こう側に立つ氷山京も、すでに構えをとっていた。竹刀を右のこめかみの隣まで掲げて刃を並行にしているその構えは至剣流の「稲魂の構え」に似ているが、それよりも明らかに腰が低く落ちている。……至剣流ではないことは明らかだ。
だが、そんなことはどうでもいい。
(俺の、俺の柔術が、負けただと……!? しかも、あんな細い柳みたいな女に、あんなに容易く投げられるなんて……!)
認められなかった。
男女問わず、秀毅はその剛腕を用いた柔術で倒し、止めを刺すというやり方で何度も勝ってきた。この単純だがその分強力な組み合わせを破られたのは、父を含む一部の大人の男だけだった。
しかし、今、同じ中学生で、それも女子で初めて柔術が通用しない相手が現れた。
認めるわけにはいかなかった。
きっと、さっきのは何かの間違いだ。もしくは紛れ当たりだ。でなければ俺が、素手で女に遅れを取るわけがない。
仕切り直しだ。もう一度試してやる。
自分の柔術の方が上だと証明してやる。
「二本目——始めっ!!」
審判の号令とともに、秀毅はまたも勢いよく前へ出た。
剣を構えることすら忘れ、雪崩のような勢いで京へ迫る。あっという間にその太い腕の間合いへ。
秀毅は完全に頭に血が昇っていた。
自分を投げ飛ばしてくれたこの女を組み敷くことで、先ほどのはまぐれであったのだと思い知らせる……それしか頭に無かった。
それに対し——京は真っ向から身を進めた。
腰を落とし、右肩を先にしながら水上を滑る船のように近づく。
両者の距離がセンチ単位になり、ゼロになり、
秀毅の巨体が弾かれた。
「か——!?」
二度目の驚愕が、秀毅を襲う。
こんな細い女が、自分との真っ向からのぶつかり合いで競り勝った。
夢だと思いたい。しかし、この身にぶち当たった衝撃の余韻が濃く残っている。……まるで、堅い木の幹にぶつかられたみたいだった。
なんという怪力。こんな屈強な力を持った女が、この世にいるというのか。
——否。
京は、決して怪力などではない。女の中では確かに腕力はある方だが、秀毅には遠く及ばない。
華奢な肢体で巨体に打ち勝つという漫画のような現象を起こしたのは、ひとえに「術」と「時機」だった。
まず、全身の筋肉を一気に締め上げ、なおかつ腰を真っ直ぐ落として重心の安定を盤石にする「術」。その状態で体当たりを仕掛けることで、まるで全身そのものを巨大な拳に変えて殴りつけるようなインパクトを相手に叩き込めるのである。
それでいて、秀毅の前足が今まさに地面に踏み出す直前という「時機」を狙う。重心が前に流れていて、なおかつ前足がまだ大地を踏んでいないという不安定な状態。非力な女性でも、重心の不安定なタイミングで勢いよくぶつかれば大男を容易に押し倒せる。
——結果、秀毅はこうして飛んだのである。
「っつっ……!!」
驚愕のあまり意識の内で大きく引き伸ばされた刹那を味わってから、秀毅は床の硬さを背中で味わった。一瞬衝撃で息が詰まる。
早々に立ちあがろうと考えたその時には、京の竹刀が秀毅の面を軽く叩いていた。
「面あり!! 一本!! ——勝負あり!!」
あっという間に勝敗が決してしまった。
秀毅の敗北が決まった。
同時に、初岩中学撃剣部の、今年の夏は終わった。
第一回戦・第一試合、勝者————富武中学校撃剣部。




