『呪剣』
ちょっと長いです。
四月十六日。火曜日。
東京都千代田区、日比谷公園。
帝都東京は、何も無い場所から生えてきたわけではない。
江戸時代にあった大名の邸宅を再利用する形で開発が進められ、今日に至るまで発展を遂げてきた。江戸時代という土壌が無ければ、今の帝都はあり得なかった。
日本最初の洋風公園であるこの日比谷公園も、そんな江戸期という土壌から生まれた場所の一つであった。
仙台藩祖、伊達政宗の邸宅跡地周辺に築かれたこの大公園は、まさしく和洋折衷という言葉を体現していた。
チューリップやダリアやバラといった洋花が咲き誇る広大な花壇、ドイツ庭園様式の雲形池、日本最初のコンサートホールである日比谷公会堂などといった、西洋色のある施設が目立つ。
それでいて、江戸期にあった多くのツツジの園芸品種を集めたツツジ山、堀であったのを池にしてその周囲を日本庭園として改造した心字池といった、国風を残した施設もある。
そろそろ中天に差し掛かろうとしている太陽の光と、少し冷たさの残った春の空気に包まれた、心字池。
——嘉戸寂尊は、池の岸の四阿の下のベンチで静謐に座していた。
正絹の黒い着物と羽織に通されたその姿勢は、武芸者として理想的な整い方から一切崩れる事は無い。その姿が無意識的に習慣化している証。たとえ座っていても、後ろから迫っても、寂尊を制するのは容易なことではない。
能面のように表情に乏しい面立ち。その顔に光る一対の瞳には、その前にある池が鏡のようにはっきり浮かんでいた。
池の水面には、しきりにあらゆる角度から波紋が生まれては消え、生まれては消えていた。
しかし、寂尊が観ているのは波紋だけではない。その波紋の先にあるモノだ。
全ての事象には、必ず根本がある。
植物は、地面から栄養を吸い上げるための根っこがあるから生き、成長することができる。
同じように、水に刻まれる波紋には、それを生み出した根本的な現象が必ず存在する。
寂尊は、水面に広がる波紋の大きさや波長、今日の気候、風向き、周囲を飛ぶ鳥類、池の周囲で梢を広げた樹木などといった要素から、波紋を生み出した「根本的現象」を逆算する訓練を暇つぶしに行っていた。
これは、剣術における「先読み」の訓練となり得る。
神内にありて妙外にあらわる——新陰流の柳生宗矩が「兵法家伝書」に遺した言葉だ。
「神」とは心の主人。
「妙」とはそこから外側へ生まれる現象。
すなわち「神」と「妙」は繋がっている。
その「内と外の繋がり」の関係を利用し、末端から根本を逆算し、相手の動きを完全に「読む」。
寂尊はそれが昔から誰よりも得意だった。
それは、特別な才能ではない。誰もが持っているありふれた認知能力だ。
そのありふれた認知能力が、寂尊は他の誰よりも優れていた。
だからこそ、現家元である嘉戸唯明は、寂尊を次期家元に選んだのだ。
しかしだからといって、寂尊は慢心はしないし、する気も無かった。
むしろ、至剣流という大流派を背負って立つことになるのだ。その重責を考えれば、慢心などどうしてしていられようか。
ゆえに寂尊は、一日たりとも稽古を欠かさない。
そして、その日々が楽しくもある。
そのようにしばらく池を観続けていると、
「——待たせたね、寂尊」
後方から、温厚そうな男の声が呼びかけてきた。
寂尊もそれに答えた。
「……予定より遅いな、歩」
「悪いね。こっちは内務省の役人なんでね。忙しいのさ。今日だって、どうにか捻出した貴重な時間なんだよ?」
「……それは俺も同じ事だ」
「ははっ、至剣流宗家の次期家元も忙しいわけか」
軽口を叩きながら、その人物はベンチに回り込み、ゆっくりと座った。
「何にせよ——久しぶりだね、寂尊」
官僚のイメージをそのまま体現したような容姿の青年だった。
知性と清涼感を感じさせる造作をした細面に、銀縁の眼鏡。髪も切り過ぎず伸ばし過ぎずといった長さで整えられている。
必要以上の肉付きが感じられない長身痩躯には、紺色のスーツを整然と着こなしている。シワが少しも見られないところを見ると、張りがあってシワに強い高級生地であることがなんとなく予想できる。
「……久しいな、歩。少し老けたか」
「ひどいなぁ。苦労を重ねたと言って欲しいものだよ。……君は変わらないね、寂尊。大学時代と変わらず、感情が読めない能面みたいな顔つきだよ」
その青年——樺山歩は苦笑しながらそう返した。
寂尊と歩は、ともに最高学府である帝都大学に通っていた旧知の仲だ。
卒業後、歩は内務省の官僚への道を進み、寂尊は至剣流宗家次期家元としての道を歩み始めた。
それ以来は電話や手紙でやり取りをする程度の交流しかしておらず、こうして顔を合わせるのは実に十二年ぶりであった。
寂尊は自分の右隣に置いておいた蓋付きの紙コーヒーカップ二つのうち、一つを左隣の歩へ手渡す。
「ありがとう。……って、ぬるいんだけど」
「お前が約束の時間に遅れたからだ」
愚痴を言いながら、寂尊は自分の分のコーヒーを煽る。砂糖が入っていないため味覚は苦いだけだが、それを嫌に思わせない芳醇な香りが強過ぎない程度に鼻腔を満たす。……これでぬるくなければなお良かったのに。
「美味しい……けどこれ、確か「羽柴屋」のコーヒーじゃないか。確かにあそこの淹れてくれるコーヒーは美味しいけど、ここから近いよ。話したい事があるんなら、テイクアウトにして日比谷公園まで来なくても、あの店の中ですればよかったのに」
「……あまり人に聞かれたくない話なのでな。何分、我が流派の恥部を晒す話になるから」
歩はとりあえず納得したといった感じで軽く唸ってから、ことさら明るめに口を開いた。
「まぁ、せっかく十二年ぶりに会ったんだ。少し茶飲み話でもしようじゃないか」
「……それも悪くはない」
いつも角度を変えることがほとんど無い寂尊の口角が、わずかに吊り上がった。
歩もそれに合わせて微笑んだ。十二年前と変わらぬ笑い方。
「それで、どうなんだい? 至剣流宗家次期家元になってからは?」
「英語と中国語が堪能になった」
「は? ……ああ、世界中へ指導に回るからね。確か国外に約三十万人だっけ? 至剣流の門弟。凄い数だね」
「ああ。皆熱心な修行者ばかりだが……いかんせん日本語の能力が低いのが難点だ。日本剣術の真奥へ足を踏み入れたいのなら、やはり日本語の知識はそれなりにあった方が良い。剣術の中には、日本語にしか無い言語表現も多々あるからな」
それを聞いた歩は、コーヒーをひと煽りしてから、昔を思い出すように青空を見上げた。
「剣術か……遠い昔に投げて以来、僕にはすっかり遠い言葉だな」
「確か、お前の御父上……樺山勇魚丸閣下は、薬丸自顕流の達人でもあったな」
「そうさ。もうね、一太刀を発する前の猿叫の時点でおかしいんだよ。近くにある御猪口がね、割れるんだよ、声で。あとね、近くにいた人が気絶しちゃうんだよ、声で。普通じゃないよ。兄さん達も父のようになろうと昔っから稽古三昧だったけど、僕はちょっとついて行けなかったね。……軍に行った兄さん達と違って、僕だけ内務省の役人の道へ進んだのも、そこが分かれ道だったのかもしれないね」
寂尊は顔には出さなかったが、内心で愉快な気持ちになっていた。
「……お前のその話ぶりを見るに、閣下は今なお壮健そうだな」
「壮健すぎるくらいだよ。この間だって、朝から夕までぶっ通しで素潜り漁に勤しんだり、体長五メートルのサメをひと殴りで追い払って子供を助けたりしてるんだから。あの人が死ぬ姿が全く想像できないよ、僕には」
悟ったような、諦めたような笑いを浮かべる歩。
「……お前の方がどうなんだ、歩。内務省の官僚なのだろう?」
内務省は、警察機構、都市計画、公衆衛生、国家神道などの国内行政を司る巨大機関だ。特に警察機構に関しては強大な権威を誇り、全国各所に特別高等警察を設置して反体制組織の動きに目を光らせている。
「官僚って言っても、僕なんてまだまださ。振るえる権限もそう強くないしね。まぁ、先輩方の話だったら色々とあるけど」
「例えば」
「——国内に蔓延る、ロシア系犯罪組織の摘発とか」
ぴくっ、と寂尊の眉根が微動した。
「ソ連崩壊後、軍関係者の多くがマフィアなどの犯罪組織に身をやつした。そういう組織が今、この帝国の裏社会で跳梁跋扈しているのさ。偉大なるソビエトを崩壊に走らせた帝国への復讐だったり、現ロシア政府と繋がりを持って工作活動をしていたり、ただ単に金欲しさだったり…………理由は様々だが、やる事は大体どこも一緒さ。依存性の強い薬物の密売、帝国での諜報活動、テロ工作。だいたいが摘発されてるけど、中には行方を巧妙にくらましてしぶとく生き永らえている組織もある。元KGB職員が多数属している『玩具』とかね」
「……確かに跳梁跋扈だな」
「だろう? さらに笑えないのが、我が国の議員の中に、そういう連中と金や思想で繋がっている人間が極少数ながらいたという話さ。最近その黒い繋がりが明らかになったのは、内海勉議員だね。彼の事は近々ニュースに出ると思うから、楽しみに待っているといい」
「……内海勉といえば、大幅な軍縮と徴兵制の廃止を声高に訴えていた人物だったな」
「そう。「日本はすでに米国という世界最強の軍事大国と同盟関係にあるのだから、軍事に力を注ぐ必要は無い。軍事に当てる金を、国内の貧富の差を是正するために有効活用すべきだ」ってね。具体的な案すら出さずに。一定数の支持者がいるのがまた悩ましい話だよ」
寂尊は静かにため息をついた。大きなため息を。
「その言説を本気で信じている者がいるとすれば、ずいぶんと近視眼的なことだな。第二次大戦終結後、戦火で痩せ細った欧米諸国が日本のみの経済成長を妬んで勝手に悪感情を募らせて、軍事関係を一方的に切ったことをもう忘れたらしい。民主主義は扇情的な政治体制だ。そして西洋には今なお黄禍論を抱えた白人が山ほどいる。また一方的に同盟関係を切られないとも限らない。そうなったらどうやって国防を成り立たせる? ソ連は崩壊してロシア連邦に生まれ変わったとはいえ、国の中核をなす人材は元ソ連高官だらけだ。帝国に対する領土的野心を捨てているとは考えにくい」
「……相変わらず国防に饒舌だね、寂尊。徴兵を免除されてしまったことをまだ気にしているのかい?」
「言うな」
寂尊は珍しく苦々しさを滲ませた口調で言う。
帝国では、基本的に二十歳になった男子は全員徴兵検査の義務を帯びるが、例外もある。
兵員として不適合となる障碍を持つ者や、家業を司る主人、またはその後継が確定した者である。
寂尊は十九歳の時点ですでに至剣流次期家元の座が約束されていた。ゆえに徴兵も免除されてしまったのだ。
至剣流という大流派を継ぐことに不満を持ってはいなかった寂尊だったが、軍という組織にもある種の憧れや興味のようなものがあった。幼い頃から剣を深く学んできた身の上であるゆえに心身ともに兵員として申し分無いと手前味噌ながら自認していたので、徴兵検査の合格率はかなり高いだろうと密かな期待をしていたのだが……そもそも検査を受けることすらできなかったのである。あまり表に出すことは無かったが、寂尊は当時それをかなり気にしていた。
寂尊が思うに……十九歳という早い次期に後継にされたのは、才覚ある長男坊を徴兵に出したくなかった父、嘉戸唯明の故意であったのではないかと今でも思っている。
歩は話の方向を転換した。
「そういう犯罪組織が起こした事件じゃなく、普通の一般市民が起こすような物騒な事件も最近じゃ増えてるんだよ。丸の内駅前のカフェでウェーターがいきなり激怒して客と大喧嘩したり、明治神宮前で刀を持った通り魔が数人を軽くだが斬りつけたり、宮城の桜田門前で油をかぶって焼身自殺を図ろうとしたり……一番ヤバかったのは、先週起きた兵器廠での銃乱射事件かな。工員の一人が小銃と弾丸を持ち出して、工廠内で無差別にぶっ放したんだ。数人が銃弾を体に掠めこそしたものの、死人や重傷者は一人も出ずに済んだ。小銃が連射中に暴発を起こして自壊したところを取り押さえてひとまず落着したよ」
「……愚かなことを」
「全くさ。だけどね、ここからがちょっと奇妙なんだよ。客を半殺しにしたウェーター、刀を振り回した通り魔、焼身自殺未遂者、乱射魔、その他もろもろ……彼らは取り調べ中に、みな全く同じことを言ったんだ。「心の中から湧いてくる黒いモノに衝き動かされた」ってさ」
「……なんだそれは」
「ほんとね。あと、これは関係無いだろうけど、彼らにはもう一つ共通点があったんだ」
どうせ益体もないことだろうと心中で軽く構える寂尊だが、
「彼らの体には——刃物で綺麗に切ったような、浅い切り傷があったんだ」
その情報を耳にした途端、心音が跳ねるのを実感した。
——我が身を凶行に衝き動かすほどの、心中の黒いモノ。負の感情。
——その凶行をした者の体に刻まれた、刃物の傷。
この情報の組み合わせが、これから寂尊が話そうとしていた「用件」と、無関係とは思えなかったのだ。
「どうしたんだい寂尊、なんか少し怖い顔してるよ?」
歩に、やや不安そうにそう指摘される。
どうやら内心の動揺が顔に出ていたようだ。……まだまだ修行が足りない。
戒めの気持ちを胸に刻んでから、寂尊はそろそろ本題に入ろうと決めた。
「……歩、そろそろ本題に入りたいが、構わないか」
歩は「構わないよ」と告げた。
寂尊は一呼吸置いてから、語り始めた。
「父上……家元が先日、鴨井村正という門弟を破門にした」
「破門? 何か問題でも起こしたのかい?」
「いや。むしろ鴨井は、剣に対して並々ならぬ情熱を持って稽古に励んでいた。……いや、情熱というより、執念と呼ぶべきか。奴は至剣流の最高境地であり奥義である『至剣』に対し、異常な執念を抱いていた。家族からも距離を置き、所帯も持たず、定まった職にも就かず、ただひたすらに己の人生の時間を剣の練磨に費やしていた。そして入門から二十四年後……鴨井は『至剣』を開眼させたのだ」
歩は目を瞬かせた。
「凄いじゃないか。確か至剣って、開眼させられる人がほとんどいないんだろう?」
友人を騙すことにチクリと心苦しさを覚えつつも、寂尊は頷いた。
「……ああ。至剣を開眼させられる者は、至剣流門下でもごく僅かだ。そのごく僅かの中に、鴨井は加わった。しかし——鴨井が開眼させた至剣は、非常に危険なものだった」
「危険? いったいどんな至剣だったんだい?」
「————『呪剣』」
寂尊の答えに、歩は小首をかしげる。
「じゅけん? ……どういう字を書くのかな」
「呪いの剣、と書いて『呪剣』だ。その至剣は——切りつけた人間の「心の闇」を増幅させるものだ」
狐につままれたような顔をする歩。
「斬られた途端、その人間は「呪い」を宿す。その「呪い」によって心の闇……負の感情が増幅されていき、やがてそれに耐えきれず、衝動的に他者を加害したり、または自害しようとしてしまう。受けた「呪い」がより強烈であるならば、体が急激に衰弱して痩せ細り、死に至る。……この『呪剣』の恐ろしい点は、たとえ切り傷が深くとも浅くとも、相手に「呪い」を与えてしまうという点で——」
「ちょ、ちょっと待ったっ……!!」
歩はついていけないとばかりに慌てて止めに入る。
「の……呪いだってっ? そんな、非科学的な……」
「ついて行けないのは申し訳ないが、事実だから仕方がない」
「冗談だろう?」
「ではない。本当の話だ。……確か、お前の下の兄上は、陸軍の将校だったな。彼から聞いた事は無いか? ……望月源悟郎元陸軍大将が、襲いかかってきたソ連兵を軍刀を構えただけで殺したという話を」
歩はおとがいに手を当てて考え、それからおぼろげに思い出したように言った。
「……そういえば、言っていたような。でも……あれって陸軍内部の都市伝説のようなものだろう? それに望月閣下は帝国では言わずと知れた英雄だ。失敬だけど、英雄は得てして盛って語られるものじゃないのかい?」
「都市伝説ではない。本当の話だ。……詳細は伏せるが、俺も望月閣下からその技『泰山府君剣』を食らったことがある。極めて恐ろしい至剣だった」
ますますついて行けないとばかりに大きなため息をつく歩。
気持ちは分かるが、ここまで話した以上、最後まで聞いてもらわねばなるまい。
「話を戻そう。——鴨井村正が開眼した至剣は、そんな危険な『呪剣』だった。門下生は至剣を開眼させたら、その至剣の特徴を記入した手紙を嘉戸宗家に送る決まりとなっている。それによって『呪剣』の開眼を知った我々嘉戸宗家は、鴨井を破門とし、免状や教伝資格も無効にし、至剣流との関係を完全に絶った」
「えっ……ま、まさか、その『呪剣』で実際に事件を起こしたからとか?」
「まだ起こしてはいない。いや……まだ起こしていないうちに破門にした。至剣流の名誉を少しでも守るために」
村正が、至剣流門下に加わっている段階から『呪剣』を悪用してしまえば、それは村正の責任というだけでなく、至剣流という流派自体にも問題があると世間は見てしまいかねない。
しかし、悪用する前の段階で村正を門下から追放しておけば、世間はこう思うだろう。「嘉戸宗家は事前に鴨井の人間性の問題を見抜き、適切な処遇を下した。彼らの判断は正しかった」と。
全員が一様にそう思うことは無いだろうが、それでも至剣流の名誉をいくらか守ることは出来る。
それに、鴨井村正の至剣への入れ込みようは、宗家の目から見ても尋常ではなかった。二十四年もの苦節を貫いてようやく手にした『呪剣』を、ただの収蔵品として終わらせるとはどうしても思えない。……必ずどこかのタイミングで、使いたがる時が来る。
とはいえ、村正は己を切り捨てた嘉戸宗家を、大層恨んでいることだろう。
だが、それも百も承知。覚悟の上。
「それに……これは仕方がない事なのだ。なぜなら『呪剣』は——開祖の至剣斎の弟子がかつて開眼させ、そして師である至剣斎が弟子ごと葬った至剣だからだ」
歩が目を見張る。
そう。ここから話す内容こそが——先ほど前置した「至剣流の恥部」だ。
寂尊は「至剣流宗家次期家元」として、重い石扉をこじ開けるような心境で語り始めた。
「江戸初期……嘉戸至剣斎は、自身の編み出した至剣流剣術を、まず最初に四人の弟子に教えた。その四人は開祖から深く学び、そして各々特徴の全く異なる『至剣』を開眼させた。それは至剣流の最大の特徴である「自分だけの最強の剣技を開眼させることができる」という権能を証明するきっかけになった。……最初の弟子が開眼させた至剣は次の通りだ。『径剣』『隈剣』『龍剣』……そして『呪剣』」
「っ! ……それって、つまり」
「そうだ。至剣斎の最初の弟子の一人が、『呪剣』の開眼者だ。その剣の力は、鴨井村正の至剣と同じだ、歩。……だからこそ、我々は鴨井の至剣を『呪剣』と呼んでいる」
切りつけた相手の「心の闇」を増幅させる——村正の『呪剣』と同じ力を持つ至剣だ。
そこで、歩はもっともな疑問を投げかけてくる。
「……至剣っていうのは「自分だけの最強剣技」だろうっ? それなのに、他人のと全く同じ至剣に目覚める、なんて事があり得るのかい?」
「あり得なくはない。他人のと似た至剣を開眼させる至剣流皆伝者もいたから。おそらく……鴨井もその例の一つに数えて良いだろうが、ここまで特徴が酷似した至剣というのも珍しい。そもそも至剣を開眼するメカニズム自体、宗家の我々にさえ原理がよく分かっていない。分かっているのは、至剣斎の残した稽古法を行えば、至剣を開眼させることができる、という事実のみ」
閑話休題。
「その弟子は、自らが開眼した『呪剣』の力に酔いしれ、魅入られてしまった。他の三人の至剣は威力こそ凄まじいものではあったが、『呪剣』のように人の心を簡単に操ってしまうような妖術のごときモノではなかったのだ。そう——社会そのものを混乱に導いてしまうような、強大な力だったのだ」
そこから先は言わずともある程度想像に難くないだろうが、寂尊は続けた。
「弟子がいたずらに振りかざした『呪剣』によって、多くの人間が心を狂わされ、獣のように凶暴化した。江戸の治安は悪化し、最終的には一度に大勢の人間が暴徒化し、その呪われた人間同士による殺し合いまで起こってしまった。……至剣斎は見かねて弟子を止めに行くが、弟子は聞く耳を持たず、それどころか師である至剣斎すらもその『呪剣』の呪力の餌食にしようとした。今の自分は至剣斎すら超えた最強の剣客だ、という驕りをもって、な。やむを得ず応戦した至剣斎は、弟子を斬り殺してしまった」
寂尊は嘆息を一つ挟む。
「呪われた者達もすぐに元に戻った。しかし『呪剣』が起こしたこの事件のせいで、至剣流は世間からの偏見を受けた。「呪われた剣」とな。この偏見が解けるまでの百年近くもの間、至剣流は少数のみでなんとか伝承を繋いできたのだ。……至剣流は江戸時代からの大流派であると我々は喧伝しているが、最初から大流派だったわけではない。それは不遇だった初期の百年を経てからの話だ」
「……初めて知ったよ、そんな話」
「至剣流の恥部と言っただろう。晒したくないから恥部なのだ」
しかし、その「恥部」を話し切ってからは、最初にくすぶっていた重々しさはすっかり消えていた。
「……そんな流派の汚点を、なんで僕なんかに話してくれたんだい?」
「これから巻き込む人間には、最低限のことは話しておく必要があると思ったのでな」
「……嫌な言い方するなぁ。それってつまり、聞いた以上は黙って手伝え、ってところかい?」
「半分はな。もう半分は筋を通す意味で教えた」
「筋、ねぇ…………んっ?」
歩は鼻白んだ顔をふとやめて、何か記憶の引っ掛かりを見つけたように目を見開く。
「心の内の黒いモノ、浅い切り傷…………まさか」
そこで歩は、合点がいったような顔をした。
「まさか寂尊、君は銃乱射事件を含むあの一連の事件が、全て『呪剣』によって引き起こされたモノだと言うのかい?」
「可能性はある。何せ、すでに鴨井村正は、野に放たれた。もうすでに『呪剣』を使っているかもしれない」
歩は、苦々しい表情で言った。
「……寂尊、仮に鴨井村正がそんな危険な剣技を持っていたとしよう。そんな人間を、君達はなぜ囲い込んでおかなかったんだ? なんで野に放ってしまったんだ……?」
「囲い込んだ後、それからどうする?」
「どうするって、それは、警察に通報して——あっ」
そこで歩は、何かに気がついたように言葉を急停止させた。
寂尊はその先を継いだ。
「そうだ。『呪剣』というのは呪いの剣。そして呪いというのは「不能犯」。すなわち現行法で裁くことのできないものだ。現代の法律は科学的根拠の無い罪は裁けない。そして村正の『呪剣』はその最たるモノだ。……我々による私的制裁で鴨井を殺せば、その時裁かれるのは鴨井ではなく我々嘉戸家だ」
元々、鴨井を破門としたのは、至剣流の名誉を守るためだ。至剣斎のように鴨井を私的理由で殺害すれば、それは名誉を守るどころか至剣流の看板に洗い落とせない泥を塗りかねない。……昔と今では、法体制も政治体制も違う。
かといって、鴨井を放置するわけにもいかない。そうすれば大変なことになる。
創始初期の苦杯を再び至剣流に舐めさせないこと、
帝が君臨し、多くの臣民が暮らすこの帝都東京の安全を守ること、
寂尊は、その両方を達成したいと思っていた。
「歩、今日お前を呼んだのは、内務官僚であるお前に頼みたいことがあるからだ。——鴨井村正を、「監視対象」として設定できないか?」
「監視対象……?」
「そうだ。……最悪のシナリオは、鴨井が帝国内にはびこる反体制組織に加担し、テロ活動に『呪剣』の力を利用してしまうことだと俺は思っている。お前の力で、鴨井を特高の監視対象にねじ込んではくれないだろうか」
歩は予想通り、頭痛をこらえるような顔をしつつ、寂尊に問うてきた。
「……その鴨井村正という人物、何か特殊な政治思想に傾倒していたりとかは?」
「無い。奴が傾倒していたのは剣のみだ」
「なら難しいな…………特別高等警察が動く対象は、共産主義や無政府主義といった、帝国の国体を揺るがしかねない思想に傾倒した人物や組織だ。しかし監視理由が「呪い」じゃあねぇ……」
「……そうか」
「だが、鴨井自体を監視対象には出来なくても、監視対象である組織を監視している過程で、そこに鴨井が関わるか否かを見ることは出来るかもしれない」
「なんでも良い。やれるだけの事はお願いしたい」
「まあ、善処するさ」
歩は残り少ないコーヒーを全て煽る。それから一息と同時に全身を弛緩させる。
「…………ん? 待てよ?」
かと思えば、何か思いついたように目を瞬かせ、銀縁の眼鏡を整える。
「もしかすると、できるかもしれない。鴨井村正を監視することが」
「それは本当か?」
寂尊は食いつく。
「まあ、特高並みにガッチリ見張ることは出来ないだろうけど。それでも良いなら、アテはあるかもしれない。……陸軍にね」
「陸軍? 警察ではないのか?」
確かに日ソ戦に勝利して以来、軍部と内務省の関係は良好なものとなった。ソ連という共通の敵と戦っていたからだ。
軍が外側からの敵を排除している間、内務省は国内の治安維持に努めていた。軍と国民を動揺させる目的で帝の暗殺を実行しようとした、親ソ連的な反体制組織を摘発したりなど。
法に抵触しない限り、協力してくれるのかもしれない……のか?
「超がつく窓際部署だけど、君も知っているはずだよ。帝国陸軍特異科学技能研究所——通称『特研』をさ」
だ い た い こ い つ ら の せ い
幕間的な話なので、とりあえず一話だけ投稿。
また書き溜め。




