卜部峰子の衝撃
競技撃剣では、竹刀が面・小手・胴の防具のいずれかに当たれば、その時点で一本だ。
そう。竹刀が当たれば勝ち。
強く当たろうと弱く当たろうと、竹刀が当たれば勝ち。
どのような技で、どのように当たろうとも、竹刀が当たれば勝ち。
判定基準が結構甘めに設定してあるのだ。
この甘い判定は、「戦技としてのリアリティ」と「体力差のある男女間における平等性」を追求した結果である。
競技撃剣とは「本物の刀を持って戦う」ということを想定したものだ。
日本刀という最強の刃物を持てば、もはやそこに男女差など無いに等しい。男でも女でも、日本刀の刃が急所で滑れば致命傷なのだから。
あとは剣の腕の問題である。
とはいえ、女子にとって不利な点も残念ながら存在する。
それは「組討」だ。
競技撃剣では、剣だけでなく、素手による投げや崩しの技術の使用も認められている。
無論、投げたり体勢を崩したからといって、一本になるわけではない。
しかし体勢が崩れた状態なら、竹刀を防具に簡単に当てて一本が取れる。組討はそのためのものだ。
これは明らかに男子に分がある。男子の方が女子より力が強く、体格もあるのだ。男の力のみにモノを言わせた粗暴な組討でも、力で劣る女子を組み伏せることは十分に可能である。
女子がこの組討を男以上に行うには、筋力的、体力的な不利を補って余りあるテクニックが必要だ。……それが十分に出来る女子は、それほど多くは無い。
ではどうすればいいか。
決まっている。剣の腕を磨くのだ。
素早く、正確に、変幻自在に竹刀を操り、確実に一本を取るための技術を。
男が生まれ持った腕力に頼った戦い方をしてきても、即座に一本を取って返り討ちにできる技術を。
腕力で競い合う舞台から下ろし、純粋な剣の戦いに男を引きずり込む技術を。
それが、非力な女が男に勝つための定石だ。
ゆえに競技撃剣では、必然的に女子の方が剣が巧い者が多い。
——卜部峰子も、そのように闘ってきた女剣士だった。
稽古着に防具一式を装着し、学校の稽古場の中央に立つ。
左手には長く愛用している竹刀。中学一年生になってから母に買ってもらったものだ。希少な国産真竹で出来た高級品で、頑丈で今なおささくれ一つ無い。峰子の大切な相棒だ。
対して、大きく向かい側に立ったのは、自分がこれから剣を交える男子生徒、秋津光一郎だった。
今日は剣術授業も体育も無い日なので、稽古着も体操着も無い。なので学ランを脱いだワイシャツとスラックス姿の上から防具一式を装着するという何とも不恰好なありさまとなっていた。
左手に持った竹刀も含めて、全て学校の借り物だ。
——ロシア女の色香に惑わされてヘラヘラ仲良くしている男なんかに、負けるものですか。
峰子は心身に力を充実させた。
部長である氷山京が、二人の間に立つ。
「では、確認をしておこう。——先に相手から二本取った方の勝ち。もしも秋津君が勝てば即入部、峰子が勝ったら秋津君の入部は取りやめる。……それでいいな?」
京の確認の問いに、
「はい」「は、はい……」
峰子はハッキリと、光一郎は渋々といった感じで返事をした。
京は二人から距離を取った。
「よろしい。……では、お互いに礼!」
両者ともに一礼。
「構え!」
峰子はその声に従い、構えを取った。
右足を後方へ下げて真半身となり、やや腰を低くする。
両肘を前後に張り、竹刀を右鎖骨のあたりに構えた。その剣尖は、後方斜め下を向いている。
「車の構え」と呼ばれるものだ。
——峰子の得意とする剣術は、鹿島新当流だ。
宮本武蔵と並ぶ剣豪、塚原卜伝を開祖とする流派。
多くの同級生が望月源悟郎に憧れて至剣流剣術の門戸を叩いたが、峰子はこの鹿島新当流を好んで選んだ。
最初は茨城県まで足を運んで学ぶことも覚悟した。しかし幸運なことに、この帝都東京の中に新当流の皆伝者がいた。皇宮警察官をしている人物だった。小学四年生の頃にその人に弟子入りし、現在まで稽古を続けている。
慣れ親しんだ構えを取りながら、光一郎の様子を伺う。
光一郎はもう観念して戦う気になったようで、動きから迷いが消えていた。
慣れたように五体が動き、取った構えは竹刀を中断に置いた「正眼の構え」。
(————っ)
光一郎の構えを一目見た瞬間、峰子の背筋を怖気が駆け抜けた。
(何なの、あの構え…………)
ただの「正眼の構え」だ。至剣流の。
今の日本ではありふれた、よく見る構え。
しかし、光一郎の構えた位置には、まるで周囲の重力が吸い込まれているような、そんなプレッシャーを否応無く感じさせてくる。
構えは、その人物の腕前を如実に表すものだ。
一目見ただけで、どれほどの稽古を積んでいるのかが、目の肥えた剣士ならすぐに分かる。
光一郎の構えは、同級生の誰もが見せられないであろう、重厚な含蓄を感じさせるものだった。
思わず生唾を飲み込む。
——強いとは噂に聞いていたが、これほどとは。
明らかに中学生のレベルを超えている。
光一郎はいけすかないが、剣士としては軽んじて良いわけではなさそうだ。
油断してはいけない。
峰子はそう自分に言い聞かせ、「車の構え」に気を充実させた。
「————始めっ!!」
京の掛け声を合図に、峰子は「車の構え」のまま、大股のすり足で光一郎へ近づいた。
その最中、光一郎の様子を伺う。
光一郎はいくら近づいても、その見事な「正眼の構え」から変ずることが無い。まるで彫像のごとく微動だにしない。
——なら、こっちから動かさせるだけよ。
峰子はさらに近づく。
両者の間合いがぶつかり合う寸前に「車の構え」を変化させ、竹刀を後方で平行に寝かせた「拂の構え」へ移る。
そして次の瞬間、間合いへの踏み出しと同時に、後方の竹刀を右側から大きく袈裟懸けに放った。
光一郎が動く。
目の前にある仮想の球体を内側からなぞるように竹刀を操り、峰子の右袈裟斬りを柔らかく受け流した。至剣流の『綿中針』の防御の太刀だ。やはりよく見る型だが、他の生徒が使うソレと違い、まるで本当に綿玉を叩いたような柔和な感触。鍛錬の裏付けを感じた。
『綿中針』は、防御の最中いつでも反撃が出来るように切っ尖を相手へ向けておく。光一郎もその使い方に則り、防御の次の瞬間には刺突に移っていた。
しかし峰子も、今度は左からの袈裟斬りへ転じていた。
パシィ!! と竹刀の衝突音。光一郎の刺突を、峰子の左袈裟斬りが防いだのだ。
しかし峰子は光一郎の竹刀を弾き飛ばしたりはせず、竹刀同士を滑り合わせながら、己の竹刀を敵の間合いへ侵入させた。その竹刀の動きに我が身も追随させていく。——鹿島新当流の『拂ノ太刀』という型にある一連の流れだ。
ガラ空きとなった光一郎の面めがけて、峰子の竹刀が跳ねる。
当たる——そんな予想は、光一郎の姿が消失したことで裏切られた。
驚きながらも、峰子は止まる事なく迅速に反応した。
大きく直進しながら、後方へ片手で竹刀を薙ぎ払う。
次の瞬間、竹刀越しに手に衝撃。一瞥すると、光一郎の竹刀と切り結んでいた。……先ほどの光一郎が使ったのは間違いなく至剣流の『颶風』の型だ。身を翻して立ち位置を移動させつつ斬りつける型。
さらにもう一歩大きく退く峰子。
それに近づく光一郎。
全身に太刀筋を巻き付けるように竹刀を振る『旋風』を用いながら、飛び込むように接近してくる。
『旋風』は確かに攻撃にも防御にも使える便利な技だが、回転という一定の動きであるゆえに、どうしても読みやすくなる。だから峰子も焦らず対応できた。
左手で柄を握り、右手を峰に添える形で竹刀を持つ。「中取り」という持ち方だ。峰子から見て左からやってきた光一郎の薙ぎ払いをその両手持ちで防いだ。
さらに素早く竹刀を捻った。峰子の竹刀が、光一郎の竹刀を上から圧して止める形となった。同時に峰子の切っ尖は光一郎の小手へ向き、そのまま奥へまっすぐ疾駆。
——鹿島新当流『薙ノ太刀』の型に則った動きだ。日本刀の戦いであれば指を斬り落とせる。
それに対し、光一郎は足を後退させながら、竹刀を時計回りに縦回転させた。それによって峰子の刺突から小手を逃し、かつ一周する形で峰子の面へ竹刀を振り下ろした。——縦回転の軌道で太刀筋を刻みながら移動する至剣流の型『法輪剣』である。速い。
峰子はまだ中取りの状態だった竹刀を素早く上へ平行に掲げ、鳥居受けの構えで守りを固める。本当なら面を打たれるより速く胴を打つところだが、それをするには光一郎の太刀筋は速すぎた。
次の瞬間、振り下ろされた『法輪剣』が、峰子の平行に構えられた竹刀へ衝突した。
「え——?」
綿玉みたいに柔らかい。
それが、光一郎の振り下ろしを受け止めた感想だった。
何故ならば、光一郎の振り下ろしは、峰子の竹刀に叩きつけられることなく——その表面を柔和に滑って下っていたのだから。その太刀筋は、まるで球体を内側からなぞっているようだった。
剣の滑り下りに併せて、光一郎も腰を落とした。
……垂直になった彼の竹刀の切っ尖は、真下から峰子の面を真っ直ぐに向いている。
それに気づいた時にはもう遅かった。
ぱしんっ。
真下から伸び上がった光一郎の刺突が、峰子の面金を軽く叩いた。
その音は実にちっぽけだが、もしこれが本物の刀なら、鼻を削ぎ落とされているか、もしくは顎を串刺しにされているだろう。
「——面あり!! 秋津光一郎、一本!!」
京が審判として、容赦無く峰子の一敗を告げる。
撃剣部の部員達がどよめいた。
「嘘だろ……あの卜部から早くも一本取ったぞ」
「ていうか、卜部の小手斬りを初見で避けた奴、初めて見たんだけど。あれ動きが小さくて速いから、来るって知っててもなかなか避けられないんだよなぁ……」
「『法輪剣』って、あんな使い方があったんだな……初めて知ったよ」
「いや、それよりも、最後のあのしゃがみ込む技は何だ? あんなの至剣流にあったか?」
「至剣流以外の剣術も習ってるんじゃないのか?」
「うーん……やっぱり他の流派もかじった方が強いのかなぁ……」
——違う、と峰子は心中で否定した。
最後に面を取った光一郎のあの技は、紛れもなく至剣流の技だ。
『綿中針』である。
球体を内側から竹刀でなぞるような、防御の太刀筋。
その防御の太刀筋によって、峰子の構えを受け流したのだ。
防御で防御を防御するという常識破りな発想で完全に峰子の虚を突き、足元を取った光一郎は、すかさず峰子に反撃の刺突を当てたのだ。……鹿島新当流でいうなら『遠山』という型によく似た用法だ。
普通の『綿中針』の使い方とは違っても、その動きは完全に『綿中針』の法則通りであった光一郎の技巧は、明らかに型を深く練ってその法則を肉体に刻み込んだ者にしかできないものであった。
——こいつ、凄く強い。
峰子の額から汗が一雫流れる。
しかし、まだこの試合は一本残っている。勝負を決めるのはまだ早い。
峰子と光一郎は、再び開始位置へと戻る。
「二本目、始めっ!!」
京の合図とともに、二本目の勝負が始まった。
大股のすり足で一気に間合いを詰め、頭上から袈裟懸けに竹刀を振り下ろす。
光一郎は相変わらずの『綿中針』でその袈裟斬りを下から円弧をなぞるように受け止めた。
両者の竹刀が切り結んだ——と思えば、峰子の竹刀が小刻みに向きを急変させ、光一郎の小手を下から狙う。
その俊敏な太刀筋の変化にやはり光一郎は反応し、素早く竹刀ごと小手を上に逃した。小手斬りを避けた次の瞬間には面を狙って振り下ろしてくる。
峰子は立ち位置を横へズラしながら、その振り下ろしを上段に構えた竹刀で受け流し、振り下ろしが下に達した瞬間すかさず上から小手を狙う。光一郎はまたも反応して小手を引っ込めるが、空振りした峰子の太刀筋はそのまま円を描いて一回転し、一周してくる形で再び小手に迫る。『鴫羽返』という技だ。
光一郎は再び退歩とともに小手を引っ込め、峰子の太刀を躱した。同時に、右耳隣に垂直に竹刀を構えた「陰の構え」となった。
その構えと気迫から、次に来るであろう技を予想できた峰子は、衝撃に備えて竹刀を中取りで素早く構えた。
両手で一文字に構えられた峰子の竹刀で、巨大な爆竹のような衝撃が弾けた。
(重い————!!)
光一郎が放ったその一太刀は、まぎれもなく『石火』だった。両足の揃えと手の内の絞りで、切っ尖を突発的に加速させる型だ。至剣流修行者にとって一番馴染みの深い技の一つ。
しかし、峰子が今まで受けてきた『石火』の中でダントツに鋭く、重い。
足が浮き上がりそうだった。腕力にモノを言わせた振り方ではこうはいかない。並並ならぬ稽古の蓄積を感じさせる。
衝撃をアースのように稽古場の床へ逃すことができた峰子は、すぐに動けた。間合いはいまだに接している。であれば手を止める道理は無い。
そこから幾度も打ち合った。
峰子は迅速で、かつ緻密な太刀筋で、光一郎を狙い続ける。
主に狙う箇所は小手。
剣士は剣を手で振る。だからこそ小手は否が応でも前に出さざるを得ない。ゆえに狙いやすい。そして峰子の剣はそういうものだった。
鹿島新当流は戦国時代に創始された剣術だ。竹刀稽古が生まれた江戸期以前の剣術には、頭を狙ったりする対防具的な技は少ない。
むしろ積極的に狙うのは腕とか手首とか指だ。
将を射んと欲すればまず馬を射よ。手を斬り落としてしまえば相手はもう刀を握れない。刀が握れないなら後は楽に殺せる。
斬り合いが当たり前だった時代の合理性と怖さを感じさせる剣術である。
速攻に切り替えた峰子の手数に、光一郎は上手く攻められず、防戦一方のありさまを見せていた。
防ぐのが上手いのに越した事は無いが、防いでいるだけでは相手は倒せない。むしろ守勢を保持し続けるほど、自分の心身の余裕が削れていき、やがて「穴」が生まれる。瓦解は時間の問題だ。
だというのに、
(……なに、この違和感は?)
自分が攻めて追い詰めている側だというのに、攻めれば攻めるほど、逆に自分が追い詰められている気分になる。
金脈を目指して穴を掘っているつもりが、実は己の墓穴を掘っているような——そんな心境。
(根拠が無い)
峰子はそんな漠然とした違和感と不安を、そのように切り捨てた。
さらに、自分の本当の狙いは、小手打ちではない。
無論、小手が当たれば喜ばしいが、さらにもう一つ先が存在する。
もう何度目かになる小手打ち。それを光一郎の竹刀で右へ阻まれる。
瞬間、峰子は己の竹刀に力を込め、光一郎の竹刀を思いっきり左側へ払った。竹刀が左へ遠ざかる。
光一郎は小手を狙われまいとばかりに大きく後退するが——それが命取りだ。
峰子は大きく右斜めへ踏み出し、それに左側からの竹刀の振りを付随させた。斜めにラインを引くような太刀筋。狙うは面。
斜め右へ目掛けて放たれた峰子の太刀は、光一郎の面をすっぽりと間合いに納めている。光一郎の竹刀は遠く左に払われているため防御は間に合わない。峰子の太刀が当たる方が早い。——鹿島新当流『地ノ角切』。
ずっと小手を狙い続けてきたのは、狙いやすいからだけではない。
小手に注意を集中させ、他への集中をおろそかにさせるためでもある。一箇所を気遣うあまり生じたその不注意を的確に突くための、布石。
当たる——峰子はそう疑わなかった。
面に己の竹刀が当たる寸前。
牢獄の格子のような面金の奥にある、光一郎の顔を見た。
(ひっ——)
ぞくり、とした。
光一郎の眼には、面金に阻まれてよく見えないはずの峰子の貌が、不気味なほどはっきりと映っていた。それに気味悪さを感じた自分の表情すらも。
その口が動いた。
————つ か ん だ
瞬間、峰子の竹刀が、光一郎の面をすり抜けた。
否。光一郎の面の高さがわずかに低まり、その頭頂部スレスレで峰子の竹刀が通過したのだ。
それと同時に、真下から峰子の小手に軽い衝撃。
「え……」
呆けた声を漏らしながら、峰子は己の小手を見る。
左手首の、動脈がある辺りに、竹刀が添えられていた。
竹刀の刀身を視線でたどっていくと、それを握った光一郎の右小手。
そこからさらに全体像をたどっていき——光一郎が中腰になりながらこちらへ竹刀を伸ばしている全体像が視認できた。
それ以降、五秒ほど稽古場が静まり返り、
やがて、
「小手あり!! 秋津光一郎、一本!! ——勝負あり!!」
この試合の勝者を、京が宣言した。
その次の瞬間、エカテリーナの「っしゃあっ!!」という歓喜だけが響いた。
撃剣部員らは、ただただ唖然としていた。
峰子が負けてしまったことへの落胆と、それをはるかに超えるほどの驚愕で、一言も発せずにいた。
しかしそれらの感情は、実際に立ち合った峰子の方がずっと強烈だった。
————秋津光一郎、撃剣部入部決定。
今回の連投はこれにて終了。
また書き溜め開始します。




