入部届、そして顰蹙
四月十五日。放課後。
僕と、そしてエカっぺは、撃剣部の部室へと向かった。
場所は、校舎に隣接するプレハブの部室棟だ。
校舎と比べて足音がキシキシとよく響く床を歩き、廊下を視線でなぞる。
一階の一番奥に「撃剣部」という札が貼られたドアへ目を止めた。
ドアノブをひねるが、硬く動かない。ノックをして「すみませーん」と呼びかけるが、応答が無い。
不在のようだ。
「やっぱり、今は体育館の稽古場で稽古してるんじゃないの? 放課後だし」
エカっぺの言う通りだと、僕も最初から思っていた。ここへ訪れたのは、念の為にというのと、入部した後にはよく部室で集まることになるだろうからそのための場所確認のためにという意味合いがあった。
僕らは部室棟を出て、体育館を目指して歩いた。
その最中、今更ながら「ある事」に気づく。
「……えっと、なんでエカっぺも一緒に来てるの?」
「なんでって……あたしも入部するからに決まってんじゃない」
「えぇ? そんなの初耳なんだけど」
「だって今日決めたもんよ。天覧比剣目指すとか、なんか面白そうだし。あたしもやるー」
「えぇ……」
「なによぉ。「えぇ」って。あたしと一緒じゃ嫌ってわけー?」
蛍石のような青眼をジトッと半分に閉じ、白い頬を膨らませて不満を表すエカっぺ。
僕は「いや、そういうわけじゃ」と控えめに言う。
かと思えば、エカっぺは不満顔をはにかみ笑顔にした。
「あんたと一緒に、何かを頑張ってみたいのよ。同じ目標を見据えて、二人三脚で取り組んでみたいの。……部活なんて、そういうのに最も適した舞台じゃない?」
そう言ってから内心で何やらバツの悪さを覚えたのか、白い頬をみるみる赤くしたかと思えばぷいっと前へ向き直った。スカートから伸びる白い脚がすたすたと急くような早歩きを刻む。
エカっぺの方が脚が長いので歩幅が大きく、僕は彼女の早歩きを小走りで追う形となる。
そんな感じで、僕らは結構早いペースで体育館へ着けた。
体育館は校舎と繋がっており、構造は鉄筋コンクリート作りの二階建てだ。
二階が体育館のスペースとなっており、一階には更衣室とかシャワールームとかがある。
……稽古場があるのは、一階だ。
階段を降りて一階へたどり着き、稽古場を目指す。
やがて、稽古場の引き戸の前に訪れた。
戸の前には三和土がある。そこで上履きを脱ぎ、下駄箱へ入れる。
引き戸の把手を掴み、
「たのも————————っ!!」
そう高らかに叫びながら、勢いよく左右に開いた。
稽古場には、面と小手以外の防具を纏った十人の生徒らが、輪を作る形で正座をしていた。各々が、自分の前に面と小手を置いている。左隣には竹刀。……これから練習を始めるところだったんだろう。
彼らの目が、いっせいに僕らへ向いた。
「……道場破りか何かか、あんたは」
エカっぺが呆れたようにそう呟く。
ああ、うん。僕も「たのもー!」はなんか違う気がした……
さて。出だしの失敗は置いておいて、十人の生徒へ意識を向けよう。
全員が驚き顔をしていたが、すぐにその顔はなりを潜め、かと思えばほのかな敵意を抱いた表情へと変じた。……理由は分かる。エカっぺがいるからだ。
「ただ一人」を除いては。
「秋津君、それに伊藤さんも。どうしたんだ、いきなり?」
その「ただ一人」である氷山先輩が、ハスキーな女声でそう尋ねてきた。
彼女のその分け隔てない態度だけで、僕はだいぶ気が軽くなった。この女が部長で本当に良かったと思った。
僕はエカっぺと頷き合って、氷山先輩の前まで近づく。
それぞれが手に持っていた一枚の紙を、先輩に差し出した。
「「——僕達、撃剣部に入部します」」
入部届である。
それを聞いた氷山先輩は、しばし目をぱちぱちさせていたが、やがてぱぁっと顔を輝かせて立ち上がった。
「そうかそうか!! 入部する気になってくれたか!!」
僕とエカっぺの肩に手を置き、しきりに叩きながら喜びを露わにする。
「ふふふ、勧誘はしてみるものだね。君達が来てくれるとなれば、我が部はきっとさらに強くなるだろうさ。一緒に頑張って、天覧比剣にたどり着こうじゃないか、二人とも」
ばしばしと肩を叩かれる。それが先輩の喜び具合を表現していた。
「じゃあ、僕達は入部ということで——」
いいんですよね、と続けようとした。
「——待ってください、氷山部長」
だが、それを別の声が阻んだ。
女の子の声だ。
「私は、その二人の入部には反対です」
続けてその声はそう言った。高い声を無理やり低くして厳しめにしたような、そんな口調だった。
声の主は、部員の正座の輪の中にいる一人の女子だった。
そこはかとない甘さを感じさせる、可愛らしい顔の造作。しかしあえてその顔をいかめしい表情にして、気丈さを表していた。
ミディアムな髪は、後頭部でひと結びしてポニーテールになっている。それを束ねている髪留めには、ラメ入りの大粒ビーズが付いていた。ビーズの痛みようから見るに、ずいぶんと長く使い込んでいるようだ。
知っている人だ。
ていうか、僕とエカっぺのクラスメイトだ。
卜部峰子さんである。
なるほど、彼女は撃剣部だったのか。であれば、腕が立つのも頷ける。
まあ、今はその事は置いておいて。
「反対? 何でだい峰子?」
氷山先輩はそう卜部さんに尋ねる。
「何で、ですって? そんなもの、言わずと知れているでしょうっ? ……その女は、ロシア人ですよ?」
まんま予想と一言一句違わない「反対理由」が飛び出してきて、僕は密かにため息をついた。もう聞き飽きた。
エカっぺも、「ま、そんなもんでしょ」みたいな顔をしていた。
しかし氷山先輩は、その切れ長の瞳を若干細めて、卜部さんをたしなめた。
「峰子、大切なのは人種が何かではなく、剣への熱意と敬意、そして戦う意思だ。我々剣士は、いい加減、その馬鹿馬鹿しい呪縛から解放されなければならないと、私は思う。出来るなら、副部長である君にもその考えを共有してほしい」
「……ならば、合理的な理由を言いましょうか。その二人が入れば最後、我が部の大いなる不利益を招きます」
ただただ厳しい卜部さんの語り口は続く。エカっぺを指差し、
「何度でも言います。この女はロシア人です。十一年前に帝国の北方を侵し、数多の国民を死なしめた露寇どもの同胞です。……ええ、差別は良くありません。理屈としてそれは誰もが理解しているでしょう。しかしそれでも感情は割り切ることは出来ません。侵略された側は、それをした側を色眼鏡で見ずにはいられない。もしもその女を入部させれば、この撃剣部に大きな不和が生じ、部内の結束が揺らぐことは火を見るよりも明らかでしょう? それは天覧比剣を目指す上で大きな障害となります」
「…………なるほど。言わんとすることは理解できるよ。この伊藤さんに後ろ指を指す者達の中には、実際に戦争で身内を亡くした者も少なくない。峰子、君がそうであるように」
卜部さんは顔に一瞬、苦々しい感情を浮かべてから、再び厳しい顔つきに戻して再度告げた。
「部長、どうか考え直してください。この二人を入部させるべきではありません」
他の部員を見る。……全員が、歓迎していない目でエカっぺを見ていた。
息苦しい沈黙が、稽古場を支配する。
しばらくして、
「——あっそ。んじゃあたし、入部やめるわ」
エカっぺが、入部届をその場でバラバラに破り散らしながら、溜め息をつくようにそう言った。
「え、エカっぺ……?」と、僕はその予想外の行動と発言に驚きながら漏らした。
「もともと、あたしは天覧比剣なんか大して興味は無かったもの。ただ単にコウと一緒にいたかっただけだし。本気じゃなかったのよ。だからやっぱり入部は無し。……そういうことだから。良いわよね氷山先輩?」
「い、いや、まぁ……」
氷山先輩も、少し気が動転がした様子で、曖昧に頷いた。
「でもね」とエカっぺは鋭く前置きを言うと、僕を手で示し、部員達にまくし立てるように告げた。
「こいつは——秋津光一郎は違うわよ。こいつには強くなるための明確な「目的」がある。剣に対する熱意も敬意もある。剣の腕もかなり良い。何より——あんたらの大好きな同胞の日本人よ」
そこから、エカっぺの口調は、煽るような響きを持った。
「さあ、ここからよ。ここからがあんたら撃剣部の番。あんたらの天覧比剣に対する本気度が試される番なのよ。選択肢は二つに一つ——あたしら露助を庇い立てするけしからん日本人を嫌うあまり貴重な戦力を手にする好機を棒に振るか、涙を呑んで迎え入れるか、よ。天覧比剣に対する本気度が高いんなら、どっちを選べば合理的であるのかは火を見るよりも明らかよねぇ?」
最後に、卜部さんと同じ言い回しを述べたのは、エカっぺなりの皮肉だろう。
案の定、卜部さんはエカっぺを睨みつけていた。親の仇のごとく。
しばらくしてから、卜部さんは押し殺したような声で、
「……まだよ」
「あ? 何よ、「まだ」って?」
「秋津光一郎が、戦力になるという「証拠」がいるわ」
卜部さんは僕をキッと睨め付けた。
「私と戦いなさい、秋津光一郎。少なくとも、私に勝てないような剣士を、部内不和のリスクを背負ってまで招き入れるメリットは無いわ。——私に勝てたら、あなたが強いってみんなが認めるわ。私は、部内じゃ二番目に強いもの」




