恋慕、そして憤怒
——嬉しい。
——嬉しい。
——嬉しい。
——すごく嬉しい。
正午の太陽に明るく照らされた街路を駆けるエカテリーナの足取りは、まるで羽が生えて飛び立たんばかりに軽やかだった。
鞄を思いっきり抱きしめ、その顔はこれ以上ないくらい真っ赤。
口元は、甘ったるい多幸感を口いっぱいに頬張っているかのように、ほころんでいた。
『僕はエカっぺと一緒にいたいよ?』
一緒にいたい。
そんな短い言葉で、こんなにも幸せな気持ちになれるなんて。
彼の言葉は、いつだって自分を幸せにする。まるで魔法使いだ。
エカテリーナの軽やかな走りは、とどまることを知らない。
ああ、だめだ。
やっぱりだめだ。
やっぱりあたしは————コウのことが好きだ。
友達としてではない。
一人の女として、自分は秋津光一郎という男の子のことが好きだ。
ずっと一緒にいたい。学校を卒業しても、大人になっても。
彼の望むことだったら、なんだってしてあげたい。
それくらい、愛してる。
でも。
この想いが、報われることはない。
だって彼は——
エカテリーナの軽い足取りが徐々に鈍化していき、ノロノロとした歩行に変わっていった。
胸いっぱいの多幸感は、いつのまにか空虚になっていた。まるで風船がしぼんだように。
「コウ……」
かすれた声で、想い人の名を呟く。
——「コウがみんなに嫌われるのを見たくないから友達をやめよう」なんていうのは、都合の良い嘘だ。
本当は、自分が光一郎と離れたいから。
叶わない恋から、遠ざかりたいと思ったから。
そのための、都合の良い理由が欲しかった。
でも、やっぱりだめだ。
あの人と、もっと一緒にいたいと思ってしまった。
たとえ叶わない恋でも。
——コウのばか。
ひどいやつだ。きみは。
諦めようって思ったのに、もっと好きにさせるなんて。
叶わないのは、分かりきっているのに。
ほんとうに、ひどいやつ。
目頭が熱くなってくる。
泣きそうかも。
涙を誰かに見られるのは嫌だ。
泣き顔を見せたら、スカッとした顔を見せてくるようなひどい人間ばかりが、昔から自分の周りにはいたから。
エカテリーナはちょうど横に続いていた狭い路地裏へと爪先を向けた。
壁に手を伝わせながら、暗い奥へ進む。
途中でその手指が、一枚の貼り紙に触れる。
至剣流宗家認可道場の勧誘ビラだ。
『陸軍の英雄、望月源悟郎と同じ剣が学べる!!』……
望月源悟郎。
帝国陸軍の英雄にして、至剣流剣術免許皆伝。
望月螢の義理の父にして、螢に至剣流を教えた師でもあるそうだ。
彼が日ソ戦争を勝利に導いた英雄となるや、至剣流の道場の入門希望者が爆発的に増えたという。そんな至剣流の熱は今なお世の中で続いている。
さらに爪先に何かがぶつかる感触とともに、かるらん、という木材の転がる音が聞こえた。
……汚い木刀だ。よく見ると、あと二本くらい端っこに転がっている。誰かがここで辻勝負でもしたのだろう。
曲がり角を曲がり、薄暗い場所へ行き着く。
真上には高いビルディングによって狭く切り取られた青空が見え、自分のいる路地裏には沈殿したように薄暗さが溜まっている。
切ない気持ちを少し落ち着けるべく、エカテリーナは冷たいコンクリートの外壁へ背中を預ける。
「っ」
だが、向かい側の壁を見た瞬間、エカテリーナはここへ入った事を後悔した。
壁一面に、無数の落書きが、聚蚊のごとく書き殴られていた。
「1991年 大日本帝国勝利 ソビエト連邦崩壊記念」「ソ連崩壊ニュースをビデオ再生しながら食う飯は格別」「雑草連合最強!!」「くたばれ露助」「露助に天誅を下さん」「嘉戸宗家は武芸界の癌細胞」「天狗野郎を斬り殺したい 情報求む」「露助は日本から出ていけ!」「ボルシチ野郎」「ロシア人から市民権を剥奪しろ!!」「帝国万歳!」「天皇陛下万歳!」「露助を庇う奴も露助」「二天一流最強!! 至剣流はカス!!」————
ほとんどがロシア人に対する呪詛であるその落書きの群れに、エカテリーナは思わず顔を背けた。
鞄を抱きしめ、しゃがみ込んだ。
——露助。
この言葉を聞くのはもう慣れた。子供の頃から数えきれないくらいぶつけられた言葉だから。
今更言われても「もっと他に語彙ないのかよ」と呆れられる程度には慣れたつもりだった。
そのはずなのに、今はしんどく感じた。
十年前——ソ連は日本の北方島嶼と、北海道へと侵攻をしかけてきた。
日本を含むアジアにとって、第二次世界大戦は第一次大戦同様にほぼ対岸の火事だった。
戦争という究極の金食い虫によってしぼんでいったヨーロッパやアメリカとは真逆に、日本は二度目の大戦バブルで焼け太りした。
それによって戦後には、相対的に世界一の経済大国となった。
その繁栄を、欧米諸国は「白人の流血と屍を金に変えた」と痛烈に批判。
白人の潜在意識に宿った黄禍論も手伝って、日本と欧米諸国の関係は急激に悪化。
軍事同盟の類も打ち切られた。
——そこで、怒涛の勢いで軍拡を遂げた、ソビエト連邦という超大国が登場する。冷戦の始まりだ。
日本の経済成長はすぐに頭打ちとなり、低成長率が長年続いた。
相対的に、国防予算も減った。
……健全な国家ならば、国内総生産を踏まえた上で国民生活に無理を強いない範囲で軍拡を行うものだが、のちにGDPの40%を軍事に費やしていたことが発覚したソ連にそんな常識は通用しない。
急激に肥大化していくソ連の軍事力に危機感を禁じ得なかった日本は、不仲であったアメリカとの軍事同盟へと舵を切る。
——だが、その情報が、ソ連に漏れていた。
日米の軍事同盟など、ソ連にとって極めて歓迎できない事だった。
世界六位の海域を誇る隣の島国が、アメリカの勢力圏内に入る事を意味していたからだ。
ならば、正式に同盟が結ばれる前に、獲れるものを獲れるだけ獲ってしまおう——それが、北海道と北方島嶼へ牙を向いた理由だった。
日本北方へ南下し、そこへ橋頭堡を築き、太平洋進出の足掛かりとする。それがソ連の目的だった。
太平洋進出の危険性もそうだが、北海道は日本一の食料自給率を誇る地域だ。
ここがもし堕ちれば、日本の食料自給率は大幅に削ぎ落とされる。
寸土たりとも譲れない土地だった。
日本軍は、侵略者ソ連と戦った。
軍事力の差は歴然。
おまけに当時の日本には、戦を知る世代もほとんどいなくなってしまっていた。
それでも日本軍の決死の奮闘と、各国の積極的支援、アメリカの対日レンドリース、そして猛々しい外面とは裏腹にあまりにもガタガタだったソ連の内情——
それら全てが日本の追い風となった。
一方ソ連では、度重なる作戦の失敗によって、人民の不満が爆発。
もともとあった民族的確執も手伝って、国内で紛争が多発し、やがてソ連は崩壊という末路をたどった。
——こうして、戦争は始まりから一年足らずで、日本の勝利で幕を下ろした。
しかし、戦争というのは、勝った後も終わりではない。
その影響は、戦時中よりも長々と尾を引くものだ。
戦後復興もそうだが、これはここ十年である程度は達成できた。
問題は他にもいろいろとある。
その一つが——在日ロシア人への偏見と差別。
被侵略者にとって、侵略者の民族が憎く感じるのは、いつの時代も変わらない。
戦後間もない時期、日本国内に存在したロシア料理店やロシア民芸品店、ロシア人のいる家庭などを狙った暴力事件、殺人事件が多発した。
エカテリーナの家も例外ではなかった。
自分はまだ三歳児だったから覚えてはいないが、両親によると、戦時中には苛烈な嫌がらせが多かったそうだ。
窓から石を投げ込まれたり、ネズミの死骸を詰めた封筒がポストに届いていたり。
国外移住も一時期真剣に考えたそうだ。
自分がロシア人への差別をはっきり認識したのは、小学校に入ってからだった。
周りの子供達から「露助」という蔑称で呼ばれ、いじめられた。
暴力で訴えてくるいじめは何とかなった。
エカテリーナは生来背丈が大きく、運動神経も良かった。
必修科目で至剣流を学ぶとあっという間に上達し、同い年の誰も敵わないくらいには強くなれた。
エカテリーナも、そんな剣術を好きになれた。
だから、いじめの種類が変わった。
無視をしたり、エカテリーナの分だけ給食のおかずをよそわなかったり、体育の授業や修学旅行で仲間外れにされたりなど。
そんな冷遇が、中学校になっても続くと確信していた。そして案の定続いた。
エカテリーナがそんな日本人と日本社会を嫌いきらずに済んでいるのは、ひとえに——光一郎のおかげだった。
「コウ……」
その少年の愛称を、再び独りごちる。
——アホで単純でお騒がせだけど、愚直で、努力家で、よく笑う、とても心の優しい男の子。
出会いは今年の四月。入学してまだ一週間も経っていない頃だ。
中学でも相変わらずクラスメイトから「露助」と陰口を叩かれた。教室にいたくなかったので、昇降口の自販機でジュースを買いに行った。
だが、押したボタンの品とは全く別のジュースが出てきて、呆然とした。……入れ間違えやがったな、くそったれ。
苛立ち任せに自販機を蹴っ飛ばしてやろうとした瞬間、一人の少年が声をかけてきた。
慣れない学ランに華奢な身を通した、一年生の男の子。
——ねぇ、そのジュース、僕のお金と交換しない?
そう言って、その少年——秋津光一郎は小銭を差し出した。ジュースと同じ額の。
光一郎は得意げに胸を張り、同じく得意げな口調で言った。
——僕が君のそのジュースをこのお金で買うから、君はそのお金でまた同じボタンを押しなよ。どう? いいアイデアでしょ?
エカテリーナは絶句した。驚愕した。
少年のアイデアが名案だったからではない。
——こいつ、あたしのこと、全く変な目で見てない。
物心ついた頃からずっと後ろ指をさされ続けてきたエカテリーナは、他人のわずかな表情から、自分へ嫌悪や偏見を抱いているか否かがすぐに分かる。
そんな自分の勘をして、言える。
この男の子は、自分を蔑んでいない。
裏なんて無い。あるのは、ただただ善意のみ。
すごくあったかい。
たったそれだけだった。エカテリーナが光一郎に興味を持った理由は。
エカテリーナは微笑を返し、答えた。
——名案ね。買ってくれる?
それが、二人の出会いだった。
エカテリーナは自らすすんで光一郎と交流しにいった。
光一郎も全く拒まず、それを自然に受け入れてくれた。
いつも一緒にいるようになった。
お互いの家庭の珍事などを話し、お互いに爆笑し合った。……彼が小五の頃に起こしたという「虫籠事件」には流石に引いたが、それでもいっぱい笑えた。
二人で一冊の週刊少年ジャムプを読み、その内容で盛り上がった。
放課後の教室に残って、期末試験の勉強を一緒にした。
そして——気がつくと、彼のことを好きになっていた。
恋心を再認識した途端、再び、胸が切なくなった。
この想いが叶うことは多分、無い……それも一緒に再認識してしまったのだから。
だって、コウは——望月螢さんに、惚れちゃってるから。
光一郎の性格はよく知っている。
愚直。一途。馬鹿正直。ド直球。
一度目標や熱中できるモノを見つけたら、行けるところまでひたすら邁進していく性格だ。
彼はきっと、螢に勝つか、螢が他の男に負けて先を越されるかするまで、剣の道へ進むことをやめないだろう。
その道へ進めば進むほど、自分から遠ざかっていってしまう気がして、とても、とても寂しい。
エカテリーナは鞄を開け、一枚の折り畳まれた画用紙を取り出し、それを開く。
それは——オニヤンマの絵がリアルに描かれた、鉛筆画だった。
エカテリーナはそれを胸にきゅっと抱きしめた。
「コウっ……」
途端、胸に救う寂しさや切なさが、少し落ち着くのを感じた。
このトンボの絵は、光一郎が描いたものだ。
「トンボは前しか進まないから、「勝ち虫」って言われてるんだ。持ってると、エカっぺも何かに勝てるかもよ?」と言って、自分に譲ってくれた。
それを受け取った時、エカテリーナは表面上こそ淡々としていたが、内心ではすごく嬉しく感じていた。
善意で自分にモノをプレゼントしてくれた人なんて、両親以外にほとんどいなかったから。
しんどかったり、腹立たしかったりしたら、自分はきまってこの絵をこうやって抱きしめている。
そうしていると、まるで光一郎に励まされているみたいで、幸福感が湧いてくる。
「コウ……好き……」
しかし、今回のせつなさは、絵の力でも消えきらなかった。
「大好き」
それでも、胸の中にある想い人の贈り物を抱きしめ続ける。
そこへ。
「——よぉ! 誰かと思えば、一年三組の露助じゃん!! お前、まだ富武中にいたんかぁ?」
馬鹿陽気で元気いっぱい、しかしそこはかとない敵意を宿したような、デカい声。
振り向くと、そこにはガタイの良い、坊主頭の男子がいた。
首が太い。腕も太い。顔も気力に満ちている。手元には木刀。
制服——富武中学の男子夏服の胸ポケットにある、校章の刺繍は赤。つまり二年生。先輩。
「……なんであんたがここにいんのよ、夏村センパイ」
後方に取り巻きらしき二人の男子を引き連れたその坊主先輩を見て、エカテリーナは心底嫌そうな語気でそう言った。……エカテリーナを見かけるたびに嫌味を言ってくる先輩だ。
夏村は鼻を鳴らし嘲笑する。
「別にテメェLOVEじゃねぇよ? ちょっと腕試しに辻勝負でも仕掛けに行こうかなって思ったら、テメェがいましたってだけの話よ。暗くて狭いとこ大好きなゴキブリみてぇによ。あ、実質ゴキブリか。社会のゴキブリ」
「……あっそ。んじゃ他あたりなさいよ。路地裏なんて他にもいっぱいあるでしょ。そこで馬鹿みたいにケンカごっこして馬鹿みたいに名を上げてなさいよ」
エカテリーナが皮肉を込めてそう言うと、夏村はニヤリと嫌な感じのする笑みを浮かべた。
「露助よぉ、お前なんでまだガッコやめてねぇの? どうせあのガッコにお前の居場所なんかねぇんだからよ。とっととやめちまえよ。んで体でも売って稼げよ。お前、見た目だけは良いんだからよ」
「……うるさいわね。あたしがどこでどうしてようが勝手でしょ」
「言ったろ。テメェらはゴキブリなんだよ。何かしようがしまいが、存在して姿現してる時点でもう不愉快で邪魔なんだよ。だからとっとと学校やめちまえよ、バレリーナ」
侮蔑と嘲笑が混じった言葉を吐きだす夏村。……この男の言った「バレリーナ」とは、本来の意味ではなく、今の日本の俗語だ。ロシア人女性を侮辱する時に使う。由来は、北海道駐屯地の陸軍将校とねんごろになって軍の情報を吐かせていた、KGBと繋がりのあるロシア人バレリーナである。
「だからあたしの勝手だって言ってんでしょ」
こいつらが消える気が無いなら、自分が去ってしまおう。そう思ってエカテリーナが踵を返した瞬間——夏村の取り巻き二人が先回りして道を塞いだ。
「……何の真似よ」
エカテリーナがその青い瞳で睨みをきかせると、夏村は先ほどより嫌悪感を感じさせるニヤケ顔で、粘り気のある口調で言った。
「お前もさぁ、なかなかの「バレリーナ」だよなぁ。あんなアホっぽいチビをたらし込むなんてよぉ。筆下ろしでもしてやったんか? ん?」
アホっぽいチビ——光一郎のことだと分かり、エカテリーナの睨み目がさらに鋭さを増す。
「ケンカ売ってんの?」
「いやいや。褒めてんだよ。お前の女としての魅力をさぁ。でもさぁ、あいつだってお前の事なんか心の底から大事してなんかいねぇんだよ? お前と見た目と体が目当てなんだよ、どうせ。ちょっと自分が不利になれば、きっとお前なんかあっさり見捨てるぜ?」
カッと、心の中で激情が弾けた。
「黙れっ!! お前に何が分かる!? コウはそんな奴じゃ——」
我慢ならずに怒号を返した拍子に、両腕を無意識に開いてしまい……抱きしめていた鞄と、光一郎のくれたトンボの絵が落ちる。
垂直落下した鞄とは別に、紙であるトンボの絵は空気に乗って宙を揺れながら落ち、夏村の足元へ着地した。
「あ? なんだぁ、この絵? きったねぇ絵だなぁ」
夏村はそれを拾う。
「返せっ!!」
エカテリーナは焦ってそう叫ぶ。
だが、その反応は良くなかった。
「……へぇ? お前、コレが大事なんだ?」
夏村は歪に破顔すると、トンボ絵が描かれた紙の一番上を両手指で摘み、
「一刀両断♪」
縦一線に破いた。
さらに二度、三度、四度と破いていき、トンボ絵は無惨な紙吹雪と化した。
「————っ」
それを見た瞬間、エカテリーナの中で、何かが切れた。
次話は本日十時ごろに投稿予定。