夕食、そしてトラウマ
今日は特に疲れた。
いや、稽古はもちろんそうだが、やはり朝に聞かされたあの話だ。
至剣流の変貌。
宗家の分裂。
そして嘉戸宗家の嘘。
あまりにも衝撃的な内容を頭に詰め込まれまくって、心が余計に疲れてしまった。
それでも夕方まで稽古し、それからシャワーを借りて着替えて。
そのまま帰ろうとしたが、今日は何と望月親子から夕食に誘われてしまった。
最初は面倒をかけるので申し訳ないと断ろうとしたが、
「一人分くらいならわたしにとって負担じゃない」
と螢さんに言われたことで、180度心変わりした。
「わたしにとって」と螢さんは言った。
これの意味するところは何か?
そう。夕食とは————螢さんの手料理に他ならない!!
それをご相伴に預かれるというのならば是非も無い。僕はお言葉に甘えることとした。
電話で母にその旨を伝えて、僕は望月家の団欒に加わることとなった。
螢さんの手料理は、イメージ通りというべきか、やはり和食中心だった。
鰤大根、つみれ汁、ほうれん草のおひたし、最後に白米。
絵に描いたような一汁三菜である。
僕と望月先生が稽古をしている最中、すでに下ごしらえ諸々は済ませていたようで、早く用意できたようだ。
螢さんの手料理の中から、まずは鰤大根をご馳走になった。大根も鰤もよく煮込まれており、容易に歯が通る柔らかさでありながらも過剰に味がついていない。つみれ汁もお魚の出汁がよく効いていつつもしょっぱさが無い。ほうれん草も柔らかい。
——結論。全部美味しい。
螢さんの手料理をあっという間に平らげた僕。……螢さんと結婚したら、毎日こんな美味しいものが食べられるのかぁ。
螢さんの手料理を食べ終わったら、次は片付けに入った。僕は率先して手伝いを買って出た。螢さんも「おねがい」と了承してくれた。
二人一緒に食器を台所へ運ぶ。これでテーブルを拭いてと布巾を渡されたので、言われた通り拭いてからまた台所へ戻って布巾を洗って広げる。
それから、食器洗いを始めた。螢さんが洗剤で洗った皿を僕が受け取り、それを布巾で拭いて、言われた通りの棚に戻す。
え。なにこの阿吽の呼吸。もうこれ夫婦じゃない? 結婚何年目だろう? いや落ち着け現実を見ろ。
「コウ君、なんで頬っぺたつねってるの?」
「……夢に溺れないうちに覚めようかと」
言ってる意味がわからないとばかりに小首を傾げる螢さん。その仕草も可愛い。まじでお嫁さんになってくれないかな。
さすがに意味不明な奇行ばかり繰り返していたらキモがられそうなので、話題を変えることにした。
「あの、今日は夕食を振る舞っていただいて、ありがとうございました。おいしかったです」
「ん。おそまつさまでした」
こくんと頷く螢さん。一見するといつものお人形じみた無表情だが、口元が微かに上へ弧を描いている……ような気がする。
ああ、いやね、もうね、ほんとね、こんな奥さんが欲しい。
「いつも、螢さんがご飯を作ってるんですか?」
「その時による。だいたいはわたしだけど、学校の用事で遅くなる時はお義父さんが作ってくれる」
「へぇ、望月先生も自炊とかするんですね」
「ん。……でも軍隊育ちなせいか、味付けがちょっと濃くて、量も多い。あと、しょっぱい」
兵隊の人は体力使うから、塩気の強い味付けが好まれるのかな?
「螢さんは望月先生に料理を教わったわけじゃなさそうですね。独学ですか?」
「ううん。お母さんが、教えてくれた」
「お母さん? 望月先生の奥様ですか?」
「違う。お義父さんの奥さんは、わたしがこの家にもらわれる前に亡くなっている」
つまり、今言った「お母さん」というのは——
「わたしに料理を教えてくれたのは……十年前に死んだ、わたしの本当のお母さん」
どうやら僕はどでかい地雷を踏んだようだ。
「……すみません。なんか、嫌な記憶をほじくり返しちゃったみたいで」
「いいの。確かに、痛い記憶ではあるけど、それが今のわたしの礎になってもいるから」
「礎?」
こくんと頷いてから、螢さんは告げた。
「わたしは————戦災孤児なの」
その発言に驚くと同時に、察してしまった。
十年前に死んだお母さん。
そして「戦災孤児」であるという螢さん。
つまり、そうなった原因は一つしかない。
「わたしは十年前まで、北海道沿岸部の漁村に住んでた。そこはソ連軍による侵攻の被害を真っ先に受けた場所だった。……侵攻が起こったのは1991年1月8日。本当に突然だった。日本軍の上陸阻止部隊もソ連軍に蹴散らされて、陸地は侵食され、民間人が犠牲になった。危ないと思ったその頃には、すでに異人の兵士の集団が村の土を踏んでいた」
そう。十年前の戦争だ。
彼女は、その体験者なのだ。
「……わたし達の村はソ連軍の占領下に置かれた。銃で武装した異人の兵隊が我が物顔で村を練り歩き、家から出ていつものように魚を獲りに行くことはもちろん、家から出ることもほとんど許されない日々が続いた。わたしは男女の区別がつきにくくなるようにと髪を剃られて丸坊主になって、服装も男児ものに変わった。昔からあった氏社も破壊されて燃やされて、拝殿のあった場所に鎌槌五芒星の赤旗を挿し置かれた」
僕の心臓がどんどん高鳴っていくのを感じる。戦慄でだ。
それほどまでに彼女の話は生々しかった。
この綺麗な黒い髪を全部剃り落としてまで生きようとした、そんな怯えに満ちた日々。
「ある日、お父さんとお母さんが、近所の人と話すという理由で外に出たきり帰ってこなくなった。探しに行きたかったけど、怖くて外に出れなくて、そのうち帰ってくるだろうって自分に言い訳して待ったけど、三日経っても帰ってこなかった。日本軍の反転攻勢によってソ連軍が村から撤退したのは、それからすぐのことだった。わたしはようやく外に出て、お父さんとお母さんを探して、見つけた」
螢さんはそこで一度語り口を止め、一度深呼吸して、それから再び口を開いた。
「お父さんの遺体は、氏社の鳥居に縛り付けられていて、お母さんはそんなお父さんの目の前で丸裸になって事切れていた」
「そんな……!」
僕は息を呑んだ。
無論、螢さんが今こうして望月先生と暮らしている時点で、ご両親がこの世にいないことは言わずもがなである。
驚きと一緒に、強烈な胸糞悪さを覚えたのは、その死に方だ。
僕はまだ子供だ。だけど、螢さんの話を聞いただけで、ご両親がどういう死に方をしたのかが察せるくらいには道理をわきまえている。……螢さんに男の子のフリをさせたご両親の意図も。
戦争に巻き込まれるとは、そういうことなのだ。
「わたしとお義父さん……当時の陸軍大将であった望月源悟郎と出会ったのも、その村でだった。その後、いろいろあってわたしは今のお義父さんの養女となった。わたしは最初は心を開けなかった。だけど、お義父さんが教えてくれた至剣流剣術を通して、わたし達は理解し合うことができた。『四宝剣』の型の稽古を通して、お義父さんという人間の本質を知ることができた。とても大きくて怖そうだけど、朗らかで繊細な人であることが、剣筋の随所から見受けられた。……コウ君に、少し似てるかも」
「そ、そうでしょうか……」
喜んでいいのか分からず、曖昧に笑う僕。
「わたしは至剣流の稽古に夢中になった。それは剣術が好きだったというより、現実逃避に近かったと思う。確かにお義父さんには心を開けたけど、死んだ両親のことをすぐには忘れられなかったから。だから剣をひたすら振って、心を空にした。そうしないと、潰れてしまいそうだったから」
むしろ僕は、それで塞ぎ込まないで済んでいる螢さんがすごいと思った。
確か螢さんは今年で十六歳だったと記憶している。つまり十年前は六歳。
そのくらいの歳で、戦争という壮絶な経験をし、その渦中でこの上なく最悪な形でご両親を失ったのだ。塞ぎ込んで、そのまま数年経ったりしたっておかしくないはずである。
「そんなある日、わたしはお義父さんからとある村の話を聞いた。……ソ連軍の侵攻で壊滅した北海道沿岸部の町村の中で、唯一壊滅を免れた村の話。『玄堀村』の存在を」
聞いたことのある単語に、僕は即座に反応して言及した。
「知ってます。確か、明治時代に仙台藩士が移住したんですよね。その武士が伝えたナントカっていう武術が、村人のほぼ全員に伝わっているっていう……一村一流っていうんでしたよね」
「そう。『玄堀村』は村人の約九割が心眼流の修行者。おまけに古典でありつつも軍学に通じた武士の末裔もいた。彼らは村を捨てて疎開することもなければ、敵兵の良心をアテにして捕虜になることもなかった。一人一人が武器を取り、村を守るために米国に次ぐ軍事大国の兵隊を相手に勇敢に戦った。そして、生き残った」
心なしか、螢さんの口調は、少し強めだった。
「『玄堀村』の話を聞いた時、わたしはとても羨ましく、そして妬ましいと思った。わたしの村に無かったものを、『玄堀村』はすべて備えていた。何より……敵の良心をアテにせず、戦うことを選んだ村民達の勇敢さが、わたしは羨ましかった。無抵抗で死んだわたしの両親とは、まるで大違い」
そして、どこか皮肉に尖っているように感じた。
『玄堀村』の勇敢さに比べて、自分の村はなんたるザマか——そう卑下しているのだ。
そう言いたい気持ちは分かる。
「でも……仕方がないですよ。相手は銃を持ってるんです。武装してないなら、立ち向かうことは死ぬことと同義——」
「——仕方がなくなんか無い」
僕はビクッと身を震わせた。
いつもの螢さんとは違う、相手の主張を一刀両断するような、有無を言わせぬ強い口調だった。
戦争と占領を肌で経験してきた彼女の言葉は、僕のソレなんかより、何倍も重かった。
「わたしの村の大人達は言った。村を存続させるために、軍の反撃を信じて今は耐え忍ぶべきだと。捕虜の虐待は国際法で禁止されているから、ソ連兵も迂闊な真似は出来ないだろうからと。でも、それは甘かった。国際法では侵略行為すらも禁止されている。その時点で敵が法を守らない連中であることは明白なはずなのに。その程度の判断能力すら、わたしの周りの大人達は持ち合わせていなかった。そうして敵の良心に期待した結果がアレだった」
愚か者を容赦無くメッタ斬りにするような言葉の数々。
「愚劣の極み。村が大切だというのなら、なおのこと『玄堀村』のように戦うべきだった。けど、彼らはそれをせずに、敵の良心を頼った。だから死んだ。これを愚かと言わずに何と言うの?」
返す言葉が、見つからなかった。
……『玄堀村』は確かに生き残ったが、それは運が味方したことも大きい。
エカっぺは言った。あの村には、あらゆる生存物資を豊富に存在したと。食料、水資源、防御とゲリラ戦に適した山岳地帯、そして戦うための手段と道具。
全ての地域が、そんな豪運を備えているわけがない。
だから、螢さんの住んでいた村の人たちは、悪くない。
それを言いたかった。
人間は、状況が許す限りでしか、物事を行えないのだと。
悪いのは攻められて殺された側じゃなくて、攻めてきて殺した側なのだと。
そんな「当たり前」を、訴えたかった。
だけど、彼女が言っているのは、そういう一般論ではないのだろう。
彼女が言っているのは、人間としての在り方の問題だ。
戦うべきときに戦うか否か、強くあるべき時に強くあろうとするか否か。
「——だから、強くなりたかった。『玄堀村』の住人のように、たとえちっぽけでも、自分を害する敵に噛み付くための「牙」を持ち、それを研ぐことを厭わない人間になろうと思った。わたしは至剣流の稽古に明け暮れ、そして十一歳で『至剣』を得て皆伝した」
「……ちなみに、螢さんの『至剣』って、どんな感じなんですか?」
「教えない」
「な、なぜ?」
「あなたはわたしを打ち負かすためにここに来て稽古してる。つまりわたしの敵。敵に手の内を晒す気は無い」
「…………そうですか」
忘れていたわけではない。僕の最終目的は、螢さんに勝つことだ。勝って、この人を僕の腕の中に抱き寄せることだ。
そのために、僕は望月先生を師と仰いだ。
そのことを忘れてはいない。いないのだが……螢さんにこう面と向かって「敵」と言われると、なんかこう、寂しいものを感じる。
近づいたようで、僕らの距離はまだまだ長い。
「わたしは、弱い人や、自分の牙を持たず、磨こうともしない人と人生を共にしたくはない。……また、いなくなってしまうかもしれないから」
自分を打ち負かした人としか交際も結婚もしない——彼女が公言している言葉だ。
これは最初、彼女自身の好みの問題だと思っていた。
しかし違った。好みなんていう浮ついた理由ではない。
「トラウマ」だ。
自分が好きだった人達が、無抵抗に殺されていったのをその目で見た、彼女の。
両親や、周囲の大人達が、『玄堀村』のように戦う意志と力を持っていたら、また違ったかもしれない……そんな希望的観測も含まれた、彼女の願い。
「だから、わたしがあなたにどれほど恋焦がれたとしても、あなたが勝たない限りは絶対に靡かない。——わたしには、その勇気が無い」
……ああ、これは、大変な道になりそうだ。
何度も顔を合わせ、言葉を交わしているうちに情が湧いて、惹かれあって、結ばれる……そんな夢みたいな展開はあり得ないと、今、思い知ってしまった。
望月先生の言っていた通り、これは茨の道となるだろう。
一瞬だが、気後れを覚えてしまった。
でも、もう歩き出した道だ。
僕は今でも、この人が好きだ。
であるなら、何も考えず、ただ剣を磨くだけだ。
いつの日か、この人に振り向いてもらえるくらい強くなれると信じて。




