二つの至剣流《下》
親子の和やかなやり取りをよそに、僕は心中で整理をしていた。
伝承を歪め、それをさも本物のように門人に教え、自分達だけ正伝を独り占めしている嘉戸宗家には、僕はもう良い感情を抱いていない。彼らのやっていることは、もはや詐欺に近い。
一方で、真っ当な方法では、この欺瞞に満ちた至剣流の状況をどうにかすることはできないことも承知している。それをするには僕達『望月派』は弱すぎる。
であれば、今出来ることは——細々とでもいいから、正しい伝承を遺すこと。
もしかすると、いつか何かの拍子に、今の状況を打ち破ることができる機会が訪れるかもしれない。
「その時」がいつ訪れるのか分からないけど、「その時」が来た時のために、『望月派』を存続させる。
満を持する。
結局、これしか出来ることは無いのだ。
僕はそのように自分を納得させた。しきれていないが、させるしかなかった。騒いだところでどうにもならないことなのだから。
それから、別の方向に意識を向けるように努めた。
「そういえば……お二人は免許皆伝者、なんですよね?」
僕の問いに、お二人は迷いなく頷いた。
それを見た僕は、少し期待を込めて問うた。
「じゃあっ、至剣流の免許皆伝、ということは…………やっぱり『至剣』は使えるんです、よね?」
「もちろんだ」「あたりまえ」と望月親子。
それから望月先生が、困った子供を見るような眼で僕を見ながら苦笑した。
「もしかして『至剣』が見たいのか?」
「え、あ、えっと、その…………見たい、です。見たことないので」
なんだか良くない問いをしてしまったような気が今更ながらしてしまい、尻すぼんだ声で肯定する僕。
しかし望月先生は微塵も気を悪くする様子も無く、不意に立ち上がった。
「よし。では一つ——わしの『至剣』を見せようか」
「え……い、いいんですかっ?」
「構わぬよ。見せたところで、どうということはない。まして、自分の弟子にはな。ほら、立ちなさい」
「は、はいっ」
僕は慌てて立ち上がる。すごいな、『至剣』がとうとう見られるのか。ダメ元で頼んだのに。
望月先生は螢さんへ告げた。
「螢。「後の処置」は頼むぞ。出来るだけ速やかな処置をな」
「……本気? コウ君、死んじゃわない?」
「大丈夫だ。手加減するし、コウ坊の胆力ならば耐えられる。賭けてもいい。もしも死んだら御両親の前で腹を切ろう」
「介錯はだれがするの」
「不要」
「……もぅ」
螢さんは平坦な口調にやや呆れの響きを持たせたため息をつくと、立ち上がり、退がる。
僕と望月先生が大きく離れて向かい合い、それを螢さんが横から見守るという図式が出来上がった。
「さ、構えなさい」
「はい」
望月先生に促されて、木刀を正眼に構える。
遠く前方に立つ望月先生が、おもむろに木刀を上段に持ち上げていく。
やがて、ぴたり、と止まる。
「おぉ……」
僕は思わず感嘆のため息を漏らす。
傾きが一切無い、まるで精緻に設計されて組み立てられた建造物のような構え。身体各部の一部たりとも、地球の力に刃向かった余計な力みが感じられない。引力が滞ることなく切っ尖から足底まで落ち、さらに地から湧き上がった反力が足底から切っ尖までを貫いているかのよう。
振り下ろせば鉄塊も岩も断てそうな「必殺」の前兆を体現したような構え——
「————え」
そこで、僕の声と息は同時に止まった。
僕の正中線を沿う形で構えられた木刀。
その木刀が——半ばから消滅していた。
いや、斬れていた。宙を悠々と舞う木刀の半分と、綺麗な断面を見せるもう半分。
さらに。
————うそ。
僕の胸。正確には僕の鳩尾あたりの高さ。そこの部分の稽古着の布に、横一文字の切れ目が入っていた。
そこから覗く僕の素肌に、切れ目と同じ横一文字に沿うような形で、赤い珠……血の雫がぷつぷつと浮かび上がる。赤い雫は急激に増えて、隣の雫とくっつき合って、一つになって。
決壊した。
連想したのは、小学校の修学旅行の時に栃木県日光市で見た裏見の滝。裏側に回って見れるから裏見の滝だそうだ。なので僕も裏から回って、流れ落ちる水のカーテンを見た。
例えるなら、その水のカーテンが、全部赤黒い血液になったような、そんな光景。
その血のカーテンの源泉は、僕の胸の傷跡。
なんで? 斬れたの? やったのは? 望月先生? いや違う、めちゃくちゃ遠くにいたはずだし、そもそも木刀だし斬れない。ああ、それよりやばい、血がいっぱい出てる。この量は普通に死ぬ。多分心臓までいってるなこれ、でなきゃこんな量は出ない——
状況が何一つ理解できないまま、僕は死んだ。
「————————っはっ!?」
そして目が覚めた。
起きて早々、息が荒くなる。肉体が酸素を渇望しているように。
ひとしきり呼吸を繰り返し、やがて落ち着いてくると、頭が一気に働きだした。
え? あれ? 僕、死んだはずだよね? なんで生き返ってんだ? 胸の傷……は、無い。あの滝みたいに吹き出した血液も稽古場には一滴も落ちていない。
今のは……夢?
何が何だか分からない。
「——気がついた?」
「うひゃぉ!?」
不意に、すぐ後ろから声がして、思わず飛び上がった。
振り返ると、そこには黒髪黒瞳の天使がいた。
螢さんは片膝を付いた状態で、僕の真後ろにいたのだ。
恥ずかしさのあまり反射的に離れそうになるが、それを渾身の理性——いや、欲望か——で踏みとどまらせた。
間近で見る螢さんの顔は、心臓が止まりそうなくらいお美しかった。あと、なんかミルクっぽい良い匂いがする。
「コウ君、だいじょうぶ?」
彼女のご尊顔と香りを堪能していた僕は、その問いかけに我に返ってビクッと反応した。「は、はい!? 何がでしょうかっ!?」
「コウ君、今、気を失ってたの」
「え? き、気を失ってた? 僕が?」
「うん。お義父さんの『至剣』を喰らって。それからすぐに背筋の経穴を強く刺激して蘇生させた。だいじょうぶコウ君? 手足は動く? 呼吸はちゃんとできる?」
「は、はい……だいじょうぶ、です」
「ちょっとごめんね」
「へ? ——ひゃひぃ!? な、何をっ?」
螢さんに不意に手首を握られ、心臓が跳ね上がる。ほ、螢さんの手、すべすべでつめたい。
「………………脈拍に異常はなし」
納得したように言うと、螢さんは僕の手首を離した。……名残惜しい。
「ところで、僕はどうして気を失っていたんでしょう?」
「お義父さんの『至剣』を受けたから」
はっ、と僕は思い出した。そうだ、僕はそれを頼んだはずだ。『至剣』を見せてくれ、と。
望月先生を見る。すでに上段の構えは解いている。手に持っているのはやはり木刀だ。……あんなものでは、木刀を綺麗に真っ二つにしたり、胸をかっ捌いたり出来ないはずだ。
「『泰山府君剣』——それがお義父さんの『至剣』の名前」
「泰山、府君剣……」
聞いた剣技の名前を僕が我知らずそらんじると、歩み寄ってきた望月先生がその先を継いだ。
「コウ坊、お主は喉元に刀を突きつけられたら、恐ろしくて全身が固まるだろう? その刀で動脈を斬り裂かれたり、喉を貫かれたり、そういう死に様を想像することを禁じ得ぬだろう? ……わしの『泰山府君剣』は、その理屈を高度に利用した技だ。わしの構えを見た者の心中に「己の「死」のイメージ」を強烈に植え付け、相手の精神を攻撃する。先ほどはかなり手加減して使ったが、その気になれば相手を発狂させることも、ショック死させることも可能だ」
「……冗談でしょう?」
「まじ。お義父さんは戦時中、突然襲いかかってきたソ連兵を『泰山府君剣』でショック死させたことがある」
螢さんの説明に、僕は思わず喉を鳴らす。
人を殺す技。
それが剣術の本質であることは、言うまでもないことだったはずだ。
だけど、僕はそれを忘れていた。殺人術という、剣の本質を。
江戸時代に入ってから、確かに剣は戦闘術ではなく哲学の側面を強めた。しかしやはり、本質は殺人なのだ。
まして、必殺技ともいえる『至剣』だ。なおのこと強力な殺傷性は宿るはずだ。
必殺技は、必ず殺す技だから「必殺技」なのだ。
僕はぼんやりとした顔と口調でうわごとのように呟いた。
「……『至剣』って、本当にあったんだ」
「おいおい、当たり前だろう。だから『至剣流』と呼ぶんじゃあないか」
何を言ってるんだとばかりに苦笑する望月先生。
驚く一方、僕は今とても貴重な体験をさせていただいたと実感する。
『至剣』。それは免許皆伝者の証。免許皆伝者は、嘉戸宗家の狡知によって圧倒的少数派にされてしまったため、お目にかかれる機会は滅多に訪れない。
その幻の技を、僕は今、心身で味わうことができた。
なんと稀有な体験か。
これが『至剣』。
いや、違う。
——これが『至剣流』だ。
望月先生は手を差し伸べ、カイゼル髭をたくわえた口を微笑にして言った。
「改めて——ようこそ、秋津光一郎。『望月派至剣流』へ。我が門戸をくぐった以上、おぬしには「本物の至剣流」を包み隠さず教えようではないか」




