坂道を転がり落ちるように
(あと少しで『血玉章』を当てられたのに、避けられた……!)
エカテリーナは切歯を隠せなかった。
自分がさりげない所作から発した初太刀。あれは間違いなく当たるはずだったのに、光一郎はそれから身を逃した。かすりもしていない。
見かけ上は、横に転んでたまたま外れたように見えるだろう。しかしエカテリーナには、それが光一郎自身の行動の結果だと分かっていた。
だって——今、光一郎は「金の蜻蛉」が視えるというのだから。
『蜻蛉剣』。光一郎の中に宿る中途半端な至剣の存在は、彼と同門である自分も既知だった。彼にしか視えぬ蜻蛉。その「必勝の軌跡」を剣で追いかけることで「必勝の剣」を成す至剣。嘉戸宗家家元の三男を打ち倒すという奇跡を成した絶技。
しかしそれは、今の彼では自分の意思で扱えない。
彼が飛翔し続ける「金の蜻蛉」を眼にするのは、きまって危機的状況であったという。
——つまり、今が危機的状況であるということ。
奥歯が割れんばかりに噛み合わされる。
(なによそれ……!)
自分の想いを、一刀のもとに否定された気分だった。
許せない。そう思ってしまった。
今なお想い続ける自分よりも、現実に存在しない「金の蜻蛉」などという幻を信じた彼が……憎らしいとも。
エカテリーナは胸に渦巻く瞋恚のまま——刀身を薄墨色に染めた。
『血玉章』を振るうと、この色が浮かぶ。これは自分にしか視えない色だ。以前、この刀の持ち主である父の前で見せてみたが、無反応だった。訪ねても小首をかしげられたのだから間違いない。
その薄墨色の刃を、光一郎めがけて何度も振り放つ。
無論、目的は殺すことではない。つけるのはかすり傷程度でいい。刃が少しでも彼の肉体を掠めれば、その瞬間に『血玉章』の効力は発揮する。彼はこちらへ好意を寄せる。そうして動きが鈍った隙にもう一度刃で浅く斬り、それを繰り返していき……やがて好意の天秤をこちらへ大きく傾ける。
だから、あまり深く斬り込むような振り方はしなかった。切っ尖がほんの少し肌に触れればいい、そんな感じでちょこちょこと刃を発していた。相手も真剣持ちだったら命知らずな自縛だっただろうが、今の光一郎が持っているのは木刀だ。斬られる心配をしなくていい。武器の優位はこちらにあった。
——だというのに。
(なんで……全然当たらないのよ……!?)
掠りもしない。
それどころか、木刀を輪切りにすることも叶わない。
こちらが発する鋼の刀身は、光一郎の木の刀身によって何度もいなされる。木刀への損傷を最小限にとどめるような絶妙な太刀筋で。
神業とも呼べる剣技の数々を、中学三年生の少年が息をするように出し続けている。
(これが、コウの剣……)
嘉戸宗家の三男に勝ち、天覧比剣で優勝し、『呪剣』を斬って螢や多くの人々を呪縛から救った、小さな英雄の。
秋津光一郎という「剣士」の恐ろしさを、エカテリーナは今、初めて知った気分であった。
それでもなお、薄墨色の刃を振るい続ける。
何度も述べるが、たった一回掠っただけで、自分の勝ちなのだから。
しかし、何度繰り返しても、その「だけ」がどうしても出来なかった。
彼を護っている「金の蜻蛉」が、それを断じて許さなかった。
体の内側から響く鋭い痛みにも気づかないほどに、エカテリーナは剣戟に熱狂していた。
「金の蜻蛉」に守られていたからだろう。
エカっぺが真剣で切り掛かってくるという異常な状況にはひとまず目を瞑っておくとして……今のエカっぺの放つ剣の「奇妙さ」を、僕は冷静に分析することができていた。
(本気で刃を当てには来てる……だけど、殺そうって気持ちを少しも感じない。太刀筋から分かる)
まるで、掠り傷だけ付けられればそれでいい、と言わんばかりの、浅い斬り込み方。
そのまま動かず何もせずエカっぺの刃に身を晒しても、致命傷や大きな負傷はしない。掠り傷程度で済む。それが何となく分かる。
しかし、それでもなお、「金の蜻蛉」は飛び続けている。
そんな、人一人殺せないような剣に対して。
掠り傷一つでも、あの刀から受けるのは危険だ——そう訴えているように。
(毒でも塗ってあるっていうのか……?)
僕はそんな予測を立て、そしてそんなことを思いついた自分自身にズキリと嫌悪を覚えた。こんな酷い邪推を、エカっぺに対して抱くなど。
「エカっぺっ、一体どうしたんだよっ!?」
彼女がいったい、何を思って僕に刃を向けているのか、見当がつかない。
でも、こんな状況は、絶対に間違っている。
僕とエカっぺが、刃と殺気を向け合うこの状況は、絶対におかしい。
あってはならない。
しかしエカっぺは聞く耳を持たない。怒りに満ちた、しかしどこか苦しそうな面持ちで、その手に握った刀をひたすらに振り回してくる。
上段からやってくるエカっぺの一太刀。
僕の剣尖は、「金の蜻蛉」に導かれるままその一太刀へと真っ向から突っ込む。鋼の刃を的確に避けながら木の切っ尖を触れ合わせ、そのふくらによって太刀筋を円くズラす。エカっぺの切っ尖は僕に触れることなく流れ落ち、「金の蜻蛉」はエカっぺの眉間へ進む。
しかし僕は「金の蜻蛉」には従わず、木刀を手放した。右手でエカっぺの右手首を、左手で右上腕を掴む。
(たとえ真剣を使われてても、相手はエカっぺだ、木刀で打ちのめしたくはない——!)
身を翻しながら彼女の右へ素早く入身。右腕を端から端まで掴まれたままのエカっぺは、そんな僕の動きによって強引に前のめりにされる。そこでさらに前へ体重をかけてうつ伏せに倒し、右上腕に膝を乗せて地面に縫い止めた。——帝国制定柔術の「十本目」。いわゆる太刀取と呼ばれる類の技法で、刀を持った相手の制圧を目的とする。小銃を持った敵にも有用とのこと。
「っ……ぐぅぅぅぅっ!!」
だが、エカっぺはなおも抵抗の気概を見せる。歯を食いしばって唸りながら、刀を持つ右腕に力を込め出した。
腕を折ってでも僕を斬る——そんな気概を感じさせる彼女の振る舞いに悲しい気持ちを抱きながら、僕は渾身の思いを発した。
「もうやめてよエカっぺ!! さっきからおかしいよ! 正気に戻ってよっ!!」
「——もうやめてよエカっぺ!! さっきからおかしいよ! 正気に戻ってよっ!!」
頭上から発せられた光一郎の叫びは、まるで冷水を頭からかぶせたような心境にエカテリーナの心を追い込んだ。
心を支配していた熱狂が、一気に引いていくのを自覚する。
そして姿を現したのは……激しい後悔と自己嫌悪。
(——あたし、なにやってんだろう)
『血玉章』を使い、光一郎の想いを自分に傾ける。
そのために、光一郎を刃にかけようとしていた。
防がれても抵抗されても、意地でも刃に触れさせてやろうとがむしゃらに剣を振り回した。
……どういう理由であれ、好きな人に対し、刃を振るったのだ。
自分の行動の異常性を今更ながら自覚し、エカテリーナは自分が心底恐ろしくなった。
「……っ、はぁっ、はぁっ……」
こころなしか、息が苦しい。
光一郎の膝によって地面に押さえつけられている右腕が、小刻みに震えている。その手に握っている刀もそれに合わせてカタカタ揺れている。
なんだか寒い。まだ残暑の厳しい気温なのに。
眼球もプルプルと震えて、視界が揺れている。
それほどまでに、今の己の行いに恐怖したのか。
「エカっぺ……?」
頭上から、光一郎の気遣わしげな声が降ってくる。首だけで振り向くと、声と同じような顔でこちらを案ずる彼の表情。しかし一方でこちらをうつ伏せに拘束する力は緩まない。今なお右上腕を膝で圧迫し続けている。
「……コウ、お願い、離して。もう何もしないから」
右手から剣を離し、そう訴える。気持ちを押し殺したように低く震えた声。
すると、光一郎はこちらから手を離し、立ち上がる。右上腕にのしかかっていた重みが消え、全身の自由が戻る。
理由もなく刃を振るった自分の言葉をまだ信じてくれるのか——その事に少し嬉しく思い、同時に後悔がさらに湧き出した。
取り返しのつかないことをしてしまった。
彼の自分に対する信頼を利用して私欲を強引に叶えようとする、最低の行為を。
もう自分は、彼にとって今まで通りの「エカっぺ」ではいられない。
これ以上欲をかいて彼に刃を振るえば、今度こそ戻れなくなる。
——自分はもう、光一郎に『血玉章』を使えない。
それを確信してなお、自分の右手は再び刀を握った。
絶望感で冷え切った心に、黒い炎が再燃する。
(なら…………コウ以外を狙えばいい)
光一郎にもう刃を振るえないのなら。
『血玉章』で、光一郎の想いを直接変えられないというのなら。
(コウの「初恋」そのものを——終わらせてやる)
光一郎が剣を振るう原動力たる「初恋」を。
自分から光一郎を奪った、憎き「初恋」を。
この『血玉章』で、両断してやる。
それもまた、光一郎に剣を向けるのと同じくらい、倫理観の欠如した行いだという自覚はあった。
しかし、その理屈を上回るほどの激情が、エカテリーナに再び剣を握らせた。
——もう自分は、『血玉章』を振るってしまったのだ。
なら、坂道を転がり始めたボールのように、もう、とことんまで転がっていく他ないではないか。
エカテリーナは立ち上がり、走り出した。……その途中で鞘を拾えたのは、なけなしの理性だろうか。
坂道を転がり落ちるように、目的地へと向かっていった。




