夏休み明け、そして禁忌
今年の夏休みは、やけに短く感じた。
受験やら人間関係やらで、楽しむことができなかったからか。あるいはやるべき事が多すぎて、平日と区別がつかなかったからか。
そんな感じで、僕の中学最後の夏休みはあっけなく過ぎていき……そして新学期が始まった。
九月一日、月曜日。僕は新学期最初の登校日に、富武中学校へ来ていた。
以前までなら少し億劫に感じたであろう長期休暇明けの学校が妙に待ちかねた感じがしたのは、今年の夏休みがあまり楽しくなかったからだろうか。……もしくは、夏休み中にほとんど会うことの叶わなかったあの子に、合法的に会う機会に恵まれたからか。
教室にて級友らの顔を久しく拝み、始業式における校長先生の勅語の奉読や長話を聞くとも無しに聞き、教室に戻ってさらに担任から進路関係の予定——職場体験やら学校見学やら模試の日程やら——を聞いて、夏休み明け一日目はあっという間に終わった。ちなみに、この一週間の授業は全て午前中までの半ドンとなっている。
「光一郎」
帰りのホームルームが終わり、ベルトの左腰に木刀を差して鞄を持って廊下へ出た所で声をかけてきたのは、峰子である。大きなラメ入りビーズの髪飾りで纏められたポニーテールの揺れる様子が、少し懐かしく感じた。
久しく見るかつての級友の顔に懐かしさを覚えると同時に、朝のうちに顔を見せに行かなかったことへのいささかの申し訳なさを感じた。それでも僕は口元に笑みをたたえて、
「久しぶり、峰子」
「もぅ。会いに来てくれないものだから、こっちから来ちゃったわよ。……久しぶりね」
峰子はちょっと拗ねたように唇を尖らせてから、微笑を浮かべた。表情がコロコロ変わる。
それから彼女が最初に出した話題は、やはりというべきか、思った通りのものであった。
「……あの子には、会いに行った?」
その言葉の中に含まれた代名詞の意味は、考えるまでもなかった。
僕はかぶりを振って、
「エカっぺとは、今日はまだ会ってない。夏休み中なら……一度だけ」
「そう……」
峰子は壁に寄りかかり、納得のため息をつく。
「私も、カチューシャとは夏休み中、一回しか会っていないわ」
「そうなんだ……どうだった?」
「……しんどそう、だったわ」
僕は「そっか……」と掠れた声で了承する。
「でもね、朝、カチューシャのいる教室まで様子を見に行ってみたら、普通に学校には来ていたわよ。……辛そうってわけでもなければ、元気ってわけでもなかったわ。ただ、黙って席に座って外を眺めてた」
「話した?」
「ええ……と言いたいところだけど、会話と呼べるかは怪しいわね。『久しぶりね』『うん』『夏休み中はどうだったかしら?』『まぁぼちぼち』……こんな感じで手短に、淡々と答えられたわ」
でも、普通に話すことはできたのだ。顔を合わせるや逃げられた僕と違って。
「……行かないの? 光一郎は」
いくらか間を作ってから、峰子がそう添え置くように訊いてきた。下校しようとする生徒らの雑踏や雑談がガヤガヤ満ちるその空間で、しかしその静かな問いかけはひどくハッキリと耳と心に響いた。
「今は、行かない。——待つ、って決めたから」
僕は答える。ため息混じりではない、芯の入った語気で。
「あの子が、自分の気持ちと向き合って、擦り合わせを終えるまで、僕は待つよ。今の僕にはそれしか出来ないし、それだけは出来るから」
こちらを向いた峰子の顔を見つめる。考えの読めない、ちょっと怖い無表情。
「だから、峰子は引き続き、エカっぺと一緒にいてあげて欲しいんだ。それは、今の僕じゃ出来ないから。……友達の君じゃないと、ダメだから」
僕はあえて、「友達」という言葉を含ませた。
それに対して峰子は、はぁ、と息を大きく下へ吐き、
「分かったわよ。まぁ、あなたに言われるまでもなく、そうするつもりだったし」
「冷たいって、思う?」
そんな僕の問いに、峰子は「ううん」と返す。
「あなたの言う通りかもしれないわ。残念だけど、あの子のあなたへの気持ちは、どこまでいってもあの子だけのモノだもの。あなたがソレに答えられない以上、それをどうにか出来るのはあの子自身しかいない。妥当な判断だと思うわ」
「……ありがとう」
僕がお礼を告げると、峰子は不意に声のトーンを悪戯っぽく高めて、
「強いて文句を言うなら、私を振った後でも、それくらい思い詰めて欲しかったわねっ」
「う。ごめん……」
「私だって本気だったんだからね。本気であなたと所帯を持ちたいってくらいの気持ちだったし、振られた後もそれなりに悲しかったんだから」
脛にぺしぺしとぶつけられる峰子の爪先を、甘んじて受け入れる僕。
ひとしきり蹴ってから、峰子はとても優しい笑みを僕へ見せた。
「でも、きっと大丈夫よ。こんな弱い私ですら、こうやって立ち直れているんだもの。——カチューシャは、私なんかよりずっと強いから」
彼女のポニーテールを束ねる髪留めのラメ入りビーズが、いつもより一層きらめいて見えた。
†
エカテリーナは、新学期初日の学校を、隠れるように過ごした。
ロシア人だ何だと後ろ指を差されるのが嫌だから? 違う。そんなものは慣れっこなので一顧だに値しない。悪態をつくなり、中指の一つも立てるくらいであしらえるし、暴力に訴えてくるなら返り討ちにしてやるだけだ。昔と違って今は至剣流の切紙持ちである。
こそこそしてしまうのは、ひとえに……光一郎がいるからだ。
学校が同じである以上、光一郎とは遭遇しやすくなる。そして現に、朝、昇降口で合わせそうになった。
遠くに光一郎の姿を見かけ、その顔がこちらへ向きそうになった瞬間……思わず顔を逸らして身を隠してしまった。
——夏休み中に見た、光一郎のあの気遣わしい表情を、見たくなかったから。
その顔は、彼がこちらの想いを知っているゆえのモノだ。知っていて、しかしそれに応えられないことをうしろめたく思っているゆえのモノだ。だからこそ、どう接していいか分からないからであるゆえのモノだ。……見た瞬間、おのずと「叶わない恋」を連想してしまう表情。
半ドンの学校が終わるや、エカテリーナは下校する生徒の人波に紛れて昇降口へ行き、逃げるように学校を飛び出した。夏の暑さが今なお健在な昼空の下を汗しながら歩き、まっすぐ家路についた。
家に着くや、洗面所で顔をひと洗いしてから自分の部屋へ行き、扇風機の電源をつけてから鞄を放り出してベッドへ突っ伏した。途端、体がいつも以上に重みを増し、ベッドの下まで沈みこむような錯覚を覚えた。
「……コウ」
ベッドの暑さと、出力を最大にした扇風機の風を同時に感じながら、エカテリーナは自然とその名をこぼす。
……いったい、いつまでこんなふうに生きなければいけないのだろう。
決まっている。来年の春、中学を卒業するまでだ。
中学最後の日々を、このような暗い感じで過ごさなければいけないのだ。
想いを隠しながら、穏便に残りの中学校生活を過ごすはずだったのに、自分が夏休み前に「爆弾」を爆発させたせいで、今のありさまである。
本当に、気が滅入る。
「最ッ悪……」
苛立ちも覚える。今にも暴れ出し、この部屋全部をぐちゃぐちゃにしたい破壊衝動を覚える。しかし暴れたところで状況は好転しない。荒れた部屋が残るだけだ。
(ほんとに……嫌な夢なら、良かったのに)
この状況全てが夢で、しばらくしてまた光一郎と当たり前に一緒にいられている現実が戻ってきたら、どれだけいいか。
しかし、この上手くいっていない状況こそが現実だ。
光一郎と抱き合ったり、何度もキスし合ったりなどという甘美な状況は、全て夢でしか見たことがない。
夢は甘く、現実は重い。
——あの、幸せな被食も。
「…………ゆめ」
真っ白な世界で、最愛の薄墨色の鷲と、一つになる夢。
最愛の鷲は、自分の血を飲むたび、肉を喰むたび、自分への熱情を強めて、さらに深く求めていく。
この身が、愛する彼の血肉の一部となっていくことに幸福と恍惚を感じ、自分は喜んでさらに身を捧げる。
おぞましく、痛々しく、しかし甘ったるい夢。
——その夢から覚めると同時に、自分の中で新たな扉が開くのを感じた。
『血玉章』。
我知らずその名をつぶやいた時には、すでにその名の持つ意味を確信していた。まるで産まれたばかりの幼体が、己に生えた手足の存在を自覚するように。
(——刀で傷つけた相手の、「あたしへの好感情」を強引に増幅させる)
そんな、刀の振り方。
「分かる」のだ。
理屈は説明できないが、そういう振り方が「分かる」し、出来るのだ。
そしてそれを刃のついた日本刀で行い、なおかつその刃で相手に少しでも傷をつければ何が起こるのか、実践せずとも本能のようなもので「分かる」のだ。
半信半疑だった。そのような力を持った剣技など。
一方で、自分は『至剣』という不思議な剣技を比較的身近で見てきた。だから不思議な剣技というモノもある程度は信じる許容量が大きかった。
さらに問題なのが、そんな剣技を——『血玉章』を、自分が使えるようになってしまった、ということだ。
なぜ——
『あなたの助けになるかもしれないモノを、あなたにあげる』
疑問とともに、脳裏に蘇ったのは、リュドミラの最後の言葉。
その言葉の後、麦の香りのするチークキスと、彼女の左手に握られていた短刀の輝きを感じた途端、落ちるような眠りについた。……そして「灰色鷲の夢」を見て、目を覚ました時にはリュドミラがいなくなっていた。
その後だ。己の中に『血玉章』の存在を自覚したのは。
——あなたの助けになるかもしれない。
リュドミラのその言葉から察すると、この『血玉章』は、リュドミラが自分に与えたように解釈できる。
もし仮にそうだったとしたら。
「リュドーチカ…………あんたは……あたしに、どうしろって言うの……?」
この『血玉章』で。
他人の心の聖域に土足で踏み入り荒らすような、この剣で。
禁忌の力を持った、この剣で。
一体自分に、何を成せというのか?
——もう叶わない恋に向かって、コレを振り下ろせというのか。
「ばっかじゃないの……」不快感で軋んだ語気。
それは、彼の心を踏み躙るに等しい好意だ。
彼を愛する女として、一番やってはいけないことだ。
考えることさえ、あってはならない。
しかし、禁忌という言葉は、時として官能的だ。駄目であると分かっていても、魅力を感じてしまうことがある。
ベッドの上でぎゅっと丸まった。
己の罪深い考えを懐に閉じ込めるようにそうしてるうちに、いつの間にかエカテリーナは寝入っていた。
その時に見ていた夢は——また「鷲の夢」だった。




