煙
香坂伊織が、秋津光一郎と別れた足でそのまま向かっていたのは、駅近くにある小さな八幡神社である。
八幡神社は稲荷神社に次ぐ、日本で最も数の多い神社の一つだ。探そうと思えば簡単に見つかる。
しかしながら、この日本全国を覆う八幡信仰は、意外にも謎が多い。
祭神である八幡神は、古事記や日本書紀には登場していない。
三韓征伐を為した神功皇后の皇子である応神天皇の神格化という説もあれば、秦氏などの新羅系渡来人集団の祭神が日本に習合された神であるという説など、ハッキリとしない。ユダヤ系の神の習合神であるという説まで出てるくらいだ。
しかし、神仏を政治利用してきた歴々ならばともかく、大衆にとっては案外どうでもいいことなのであろう。そもそも神道自体、かなりフリーダムな宗教なのだ。一神教が当たり前である社会で暮らしてきた異人の中には「神道は宗教ではない」と断ずる者もいるくらい特異なのである。
八幡神という曖昧模糊な神が全国で信仰を集めた理由も、そんなものなのかもしれない。
千年近くも前から、八幡神は軍神として崇拝を集めてきた。今でも必勝祈願とかで参拝者が絶えることが無い。
もっとも、伊織が己の剣技の祖として尊崇している宮本武蔵は「仏神は尊し、仏神を頼まず」と、神頼みという行為を否定している。伊織もそのスタンスを真似ている。だから賽銭も入れないし初詣も行かない。
伊織がそんな神社へ向かう理由はひとえに、『雑草連合』の仲間達がそこで集結しているからだ。
今夜七時が、集合時間だった。
仲間達はひと暴れする前、必ず軍神八幡を参拝する。
自分達が剣士としてもっと強くなり、そして至剣流ではない自分達の流派もいつの日か顧みられるようになりますように、と。
今夜も、伊織はそんなふうに八幡神に手を合わせる仲間達の様子を、微笑ましく見つめるはずだった。
だが、境内にいる『雑草連合』の仲間達は、全員雑魚寝していた。
全員、服装には大なり小なり土埃が付着しており、顔には殴られた跡なり鼻血の跡なりが浮かんでいる。
石の参道や狛犬には、血の滴。参道の外側の土の部分には、引きずった形跡がいくつも見られる。
明らかに闘争が行われたであろう爪痕を残した境内が、淡い月光に照らされていた。
「な、んだ……これ…………?」
乾いた声で独りごちる伊織。
それに対し、
「——誰、君?」
拝殿の方から、誰何の声が返ってきた。
若くて、やや高めな男の声。どこか人を食ったようなニュアンスを感じる響き。
その人物は、拝殿の軒下にいる。しかし軒下には濃い闇が溜まっていて、存在しているという事実以上の視覚情報が得られない。
しかし、この状況で最も怪しい人物であることだけは確かである。伊織は睨みをきかせ、
「テメェこそ誰だ?」
「質問に質問を返しちゃダメだろ? 君は暴れることしか能の無い低学歴なのかな?」
「誰が低学歴だ。俺ぁこう見えて帝都大付属高校の生徒だ」
「知ってるよ。確か、付属高の二年生だったね。帝都で随一の難易度を誇る帝都大付属高の筆記試験をトップの成績で合格。こうやって『雑草連合』なんて引き連れて暴れ回ってるけど、今なお学年主席の秀才だから教師からは目こぼしをされている。そうだろう? 香坂伊織くん」
「…………テメェ、マジで何者だ?」
見ず知らずの他人の口から詳細に自分の略歴を述べられ、気味の悪さを覚えながら再度問うた。
その男はおもむろに立ち上がり、三段ほど設けられた拝殿の段差を音も無く降り、境内へと出てきた。
闇に沈んでいたその容貌が、月明かりに晒される。
細くも屈強そうな脚をピッタリ露わにした黒ジーンズ。ゆったりとした黒いパーカー。フードが被さったその頭部には——天狗の面。
その天狗は、変わらず人を食ったような口調で言った。
「見ての通り、通りすがりの天狗だよ」
「ふざけろ、ブチ殺すぞ」
「おぉ、怖い怖い。やっぱりボス猿は雑魚よりも迫力が違うねぇ」
「これをやったのはテメェか?」
「そうだけど?」
あっさり肯定した。
天狗はせせら笑いの響きを交えて語った。
「害虫駆除だよ。古くても味わいのある雰囲気の神社だったのに、そこにゴキブリの群れが集まっていたのが見苦しくてね。こうやって駆除させていただいた次第。帝の膝下たる帝都の浄化に一役買ってしまったよ。我ながら良いことをした」
伊織の両手が、自ずと両腰の木刀の柄にかかった。
「そうか。テメェは——噂に聞く、『天狗男』だな。俺達みてぇなグループを見つけては、半殺しにして回ってるっていう、舐めた根暗野郎か」
「たぶんね。ていうかね、根暗なのはそっちでしょ。……『雑草連合』だっけ? 自分達の剣術が見向きもされないからって帝都で暴れ回るとか、やってることが完全に日陰者のガキの所業なんだよね。まるで駄々を捏ねてる赤ん坊だ。君らが大嫌いな至剣流は、君らみたいに暴力にモノを言わせて繁栄したんじゃない。地道な普及活動と創意工夫によって、日本全国に広まるくらい栄えたんだよ。君らもバカな喧嘩なんかやめて、そういう方向で頑張ればいいじゃないか」
伊織が鼻で笑う。
「はっ。地道な普及活動? 創意工夫? 笑わせんなよ。普及活動ってのはお国様に媚び売ってへばり付くことで、創意工夫ってのは開祖である至剣斎のツラに泥を塗るような「改竄」のことだろ。自分らの力不足を、他力本願と嘘偽りでカバーすることを、綺麗な言葉で飾ってんじゃねぇよハゲ」
「……殺すよ?」
「やってみろよ」
伊織は長短木刀を抜いた。
それらの切っ尖を眼前で重ね合わせた、胴体と両腕と二刀で水平の円を作るような構えとなる。
内心の憤怒を闘気に変え、構えを取る五体に行き渡らせる。
「口ぶりから察するに、テメェも至剣流だろ。——抜けよ。仲間をこんなふうにしやがった落とし前、今つけさせてやる」
天狗男は、ちょうど足元に転がっていた木刀を蹴り上げ、空中で手に取った。
「できるかなぁ? 君のその顔、誰かに殴られた跡でしょ? そこらへんの剣士との喧嘩で簡単に殴られちゃうような凡夫に、俺が倒せるとでも? 斬り合いだったら死んでるの分かってる?」
「——抜かせ」
二刀を中段に構えたまま、詰め寄る。
一瞬のうちに天狗男の立ち位置を間合いの中に喰う。
二刀を振り上げ、十字に振り下ろす。
「た——」
断、という両断の気迫を込めた掛け声を発するよりも先に。
天狗男の木刀が、振り下ろされる二刀をすり抜けて伊織の右頬を横殴りにした。
「な————?」
頬を木刀で殴られた痛みよりも、驚愕の方が圧倒的に勝った。
伊織の目の前を面のごとく覆う、十字斬りの太刀筋。これは有構無構——構えであって構えではない。攻撃であり、なおかつ敵の攻め手を防ぐための防御でもある。
そんな攻防一体の状態である伊織の顔面を一撃したいのなら、立ち位置を移動させて別の角度から木刀を打ち込むしかないはずだ。
しかし、目の前の天狗は、まったく立ち位置を変えていない。
その状態で、十字斬りの太刀筋をかいくぐって、一撃当ててきた。
構えられた相手の刀に、自分の刀を煙のようにすり抜けさせる——そんな非現実的な方法で。
透過する剣技?
あり得ない、物理的に。
天狗の神通力?
そんなわけあるか。きっと何か術理があるはずだ。
実戦では戸惑って動かなくなった方が負ける。なので伊織は今の摩訶不思議な技法に関する考察をひとまず打ち切り、一度天狗男と距離を取った。
「っ痛ぅっ……!」
途端、意識を逸らしていた顔面の痛みを燃えるように実感した。
口元に生ぬるいものが流れてくる。鼻血か。
天狗男は待ってくれなかった。さらに追い討ちとばかりに向かってくる。
いつもだったらこの鼻血を口に含んで、敵の目めがけて噴き飛ばしてやるところだが、天狗男は仮面をかぶっているのでそれは通じない。
両者の剣の領域が重なる。
伊織は左手の短木刀を斜め上へ突き出しつつ、右手の長木刀で上段を守った。天狗男の顔面を狙いつつ、立てられた短木刀で薙ぎ払いを、上段で水平に構えられた長木刀で真上からの攻撃を防ぐ、堅牢でありつつも攻め手を忘れない有構無構。
しかし、それさえも。
天狗男の木刀は、煙のように姿を柔らかく変え、尋常ならざるなめらかさでそれらの防御を通過した。
「ごっ……!」
再び、右頬を打たれた。
痛みに怯まずまたも二刀を手堅く構えるが、やはりそれすらも煙のごとく柔和な天狗男の木刀には通用せず、あっさり素通りされて今度は左頬をぶん殴られる。
(畜生っ!)
混乱を押し殺して距離を取る。
しかしまたも追いすがられ、構えも虚しく、また打たれる。今度は右腕。
鈍痛を無視し、長木刀を外から内へ思い切り振り抜く。
そう、振り抜いたのだ。天狗男は長木刀より低い高さに一気に腰を落とした。それと同時に己の木刀を縦に振った。長木刀は天狗男には当たらず、天狗男の木刀は当然のごとく長木刀をすり抜ける。そのまま伊織は顎先を打たれた。
脳震盪。平衡感覚が狂い、構えるどころかまともに立つ余裕すらも奪われ、伊織は尻餅をつかされた。
天狗男はなお容赦をしなかった。
抵抗できなくなった伊織を、木刀でひたすらに殴りつけた。
体のあちこちに、硬い衝撃が襲いかかる。
今度はさっきまでのように、狙いすました、洗練された剣捌きではない。
剣技ですらない。
素人が、心中にわだかまる憂さを晴らすために、力任せに木刀を振り下ろすような動き。
お前には、剣士として同じ土俵に立ってやる価値すらない。そう言わんばかりの粗野な暴力。
(ちく、しょうが……!!)
身を焼くような苦痛と悔恨にさいなまれながら、伊織は己の意識を手放した。