羊羹、そして進路《下》
……僕は一瞬、彼女が何を言ったのか、分からなかった。それくらい衝撃的だったからだ。
「陸士を……? えっと、それってつまり——」
「軍人っ。軍人になろうって、あたし思うの」
ためらいがちに、しかし言わなければならないという使命感めいたものを感じる語気と態度。
「そ、そうなんだ……エカっぺは、軍人志望なんだ」
「ん……」
エカっぺは頷く。なんだか恥ずかしそうに。
そういえばエカっぺ、先週やたらと峰子と軍事について突っ込んだ話をしていたな。あれって、ただ単にエカっぺがいろいろ知ってるってだけじゃなくて、そっち方面の進路を目指していたからということか……?
「あ、あはは。やっぱさ……変だよね? あたしなんかが、この国で軍人やるなんてさ……」
エカっぺは空笑いを浮かべながら、自分の髪をしきりに触る。……明らかに日本人のものではない、生え際まで金色の髪。かつて侵攻してきた国の血に由来する色。
……別に変ではない。
確かにエカっぺは周りから「ロシア人」と呼ばれてきた。嫌悪と軽蔑を込めて。
だけど、いくら異国人の血を持っていようが、彼女はこの国で生まれ、この国で育ち、日本語を普通に話すのだ。その時点で、もう立派な日本国民だ。軍隊に入る上で、何ら問題は無い。
だから僕は言える。「決して変じゃない」と。
……けれど、今の僕はそれ以上に、彼女に訊きたいこと一つがあった。
「エカっぺは……どうして、軍人になりたいって思ったの?」
軍人というのは、外国からの武力侵攻から国と国民を守るのが仕事だ。彼女が軍人になったとしたら、当然そのように振る舞う必要がある。
……そして、その守る国民の中には、彼女を散々いじめてきた連中も当然含まれる。
エカっぺもそれくらい分かっているはずだ。
それなのに、どうして、軍人という選択をしたのだろうか。
僕は、それが知りたかった。
そんな気持ちを込めた問いに対し、
「——見返してやりたいって、思ったから」
エカっぺは、静かにそう言った。
「あたしは陸士に入って、そこから軍人としてうんと出世して、偉くなってやるんだ。それでもし、いつか日ソ戦みたいに日本が他国から軍事侵攻されたら、あたしが日本人を守ってやるんだ。あたしに優しくしてくれた人達も、あたしに散々嫌がらせしやがった連中も、みんなまとめて守り抜いてやるんだ」
迷い無く、余計な修飾もせず、
「それでその後……笑い飛ばしてやるんだ。ざまを見ろ、って。おまえらがいじめてた奴が、おまえらを守ってやったぞ、って。そうやって、あたしを弾き出そうとしたこの社会を、まるごと見返してやるんだ」
ただ己の在り方を、純粋に示すように。
「……エカっぺ」
僕はうわごとのように、彼女の名を呼んだ。
——そんなこと、考えてたなんて。
僕は、彼女が大人になったら、この日本との関わりを断つものだと思っていた。
だって、彼女はあれだけ周りから疎んじられ、悪罵誹謗を浴びせられ、実際に手まで出されてきたのだ。それは、僕や峰子が仲良くした程度では修復不可能な心の傷であるはずだ。
だから僕は、少なくとも将来生きていく場として、この国は選ばないものだと、そう思って疑わなかった。
……だけど、エカっぺは、僕の思っていた以上に賢く、強い女性だったようだ。
たとえ敵国人だと後ろ指を差されようとも、その国における自分なりの自己実現の方法を、彼女は考えていたのだ。
「——なんて。ちょっとカッコつけちゃったかしらね」
エカっぺはちょっと照れくさそうな笑みでそう言い、誤魔化した。
僕が何を言おうか迷っていたところへ、峰子が静かに、どこか気遣わしい声で告げる。
「カチューシャ。前にも言ったけれど…………あなたが選ぼうとしているのは、とても大変な道よ。軍では昔より女性将校の数も増えてるけど、それでも女性軍人の最高階級は陸海空問わず中佐止まり。今でも軍は男社会の気風の方が強いわ。まして、あなたはロシア人。なおのこと茨の道よ」
ロシア人——峰子があえてその言葉を強く言ったのは、エカっぺの夢の根源であると同時に、その実現を阻む最大の要素だからだろう。
エカっぺは確かに軍に入る最低限の資格は持っている。試験に合格さえすれば、陸士にだって入れるだろう。
でも、入った後まで保証されるとは限らない。
どんなに制度的合理化を図り、統率に力を入れたところで、結局は軍も多種ある人の群れの一種類に過ぎない。人の群れである以上、その中には必ず心理が介在している。
かつて帝国の北方を蹂躙した超大国の血を宿す彼女への扱いが、その他の日本人と同等になるという予想が、僕にはどうしても出来なかった。
だけど、エカっぺははっきり言った。
「分かってる。でも……あたしやるわ」
限りなく鮮明で、かつ厳しい未来予想図を前にしても、怯まずに。
「後ろ指を差されながら腐って消えていくより、あたしはその現実と闘いたい」
周りが強いるに流されることなく、自分の生き方を選んだのだ。
……僕はようやく、彼女に対してかける言葉を見つけられた。
「——エカっぺはさ、山川浩って人、知ってる?」
出し抜けな僕の問いに、エカっぺはきょとんとした。
それから彼女は首を横に振って「ううん」と否定。
「山川さんは、会津藩の上級武士の生まれだった。若くして才覚を発揮してトントン拍子で出世していって、わずか二十三歳で家老にまでなった。戊辰戦争ではその実力を遺憾無く発揮して薩長を相手に戦ったけど……会津藩は籠城戦の末に敗北して、解体された。
山川さんは会津だけでなく、奥さんも籠城戦で失った。そして他の会津藩士ともども、不毛の土地である斗南藩へ流刑同然に転封させられたんだ。
それらの酷い経験から、山川さんは薩長新政府を強く恨んでいた。それこそ、思案橋事件を起こした永岡久茂のように、反政府活動に走っていてもおかしくはなかったんだ。
……だけど、山川さんは新たな日本で軍人になる道を選んだ。当時の西欧列強の脅威を理解していたのは、彼もまた同じだったからだ。「賊軍会津の出身」という理由で周囲からの偏見を受けつつも、それにも負けず、山川さんは最終的に少将にまでなった。そうすることで、会津の名誉回復に大きく貢献したんだ。……立派な人だ。山川さんは、僕ら旧会津藩士の誇りなんだよ」
エカっぺは、その青い瞳を大きく見開いた。
分かったからだろう。僕が何を言いたいのかが。
「——だからエカっぺも、山川さんみたいに頑張ってみてよ。生まれとか身の上とか、そこから来る偏見なんかに負けないで、満足するまで上を目指してみようよ。周りの人が無理だ何だって言っても……僕だけは、絶対応援するから」
そこで僕はハッとする。随分長々と熱く語ってしまったと自覚したからだ。
エカっぺも、峰子も、僕を惚けたように見つめて黙っている。
それを見て、僕は顔が熱くなった。
「……ごめんね。ちょっと、無責任なこと言っちゃったか」
「ううん……!」
しかし、エカっぺは勢いよくかぶりを振った。
「——すごく、うれしい」
その青い瞳は、まるで陽光に照らされた海みたいに、きらめいて潤んでいた。
彼女の唇がほころぶのに合わせて、その瞳から涙が一筋こぼれた。
「あたし、がんばってみる。どれだけやれるか分かんないけど、陸士に入って、いっぱい勉強して出世して偉くなって、凄い女になってやるんだ。どれだけ「ロシア人」って蔑まれても……そんなの気にしないで、自分の信じた道を進み続けるんだ」
「……そっか」
僕も思わず口元がほころんだ。
エカっぺは「あのね」と前置して、泣き笑いのような明るい笑顔を浮かべて言った。
「あたしがこうなれたのは、全部あんたのおかげなんだよ、コウ」
その青い瞳には、驚くほど鮮明に、僕の顔が映っていた。
「あんたと出会わなかったら、あたし、きっとこんなふうになれなかった。
もっと酷く腐ってたと思う。周りから悪魔みたいに言われて、その通りの人間になってたかもしれない。……でも、そうなってない。
これはね、全部コウのおかげ。
あんたがあたしを「エカっぺ」って呼んでくれて、あたしが否定された分だけ、あたしの存在を証明してくれたから。「ロシア人」じゃなくて「日本にいるエカっぺ」だって言い続けてくれたから。あんたのお陰で……あたしはこの地に立って、歩いていけるの」
こぼれ落ちる涙滴の一つ一つにも、僕の顔が浮かんでいた。
「だからね……あたし、コウに会えて本当によかった。コウがあたしをどう思っていたとしても……この中学生活でコウと過ごした思い出は、きっと、あたしの一生の宝物になるの」
エカっぺの涙は止まらなくなり、やがて話す余裕も無いくらいに泣き出した。
峰子が寄り添って、背中を優しくさする。
僕もティッシュを数枚取り、エカっぺに渡す。
涙を拭いて、鼻をちーんとかむ彼女を見守る僕。
その一方で、僕の心の奥底では、彼女の言葉に対する疑問が小さくわだかまっていた。
——コウがあたしをどう思っていたとしても。
ちなみに、山川浩が少将になったことに対し、山縣有朋は「賊軍を少将にしてんじゃねー」的な怒り方をしたそうな。




