人斬り錦蔵《終》
二刀・両腕・胴体で水平の円を作った、円相の構え。伊織はそのままゆっくりと歩き始めた。構えより生じる重厚な気勢が相まって、まるで二足歩行をする羆のような威圧感。
「……流石の「気攻め」だが、雷も来ると分かって身構えていればさほど驚きはしないものだ。気の力だけで御せるほど、私も甘くはないぞ?」
言って、錦蔵も剣を中段に構えた。靴で床を擦りながら、這うように少しずつ進む。
双方ともゆっくりだが、互いが互いに近づくならば、間合い同士がぶつかるのもそう遅くはなかった。
円相の構えを取った伊織の右剣が、突然その剣尖を走らせ、錦蔵の顔を貫いた。
しかし、それは残像だ。伊織が刺突を発するより一瞬早く、錦蔵は頭の位置を右へズラしていた。そのまま伊織の右剣の峰に沿うような形で間合いの中へ入り込み、お返しとばかりに刺突を送り込む。
対し、伊織は上半身を右へ傾けながら、左手の小太刀で錦蔵の剣尖を受け流した。その防御と同じ拍子に手元へ引っ込めた右剣で、再び錦蔵の顔面を突きにかかる。……だがその二度目の突きも、頭を引っ込めて避けられた。
後退する錦蔵。
それを追う伊織。左の小太刀を先にして、右剣を脇に引いた構え。「五方ノ形」の五本目と同じ構えだ。早く、大きく斬るための剣勢。
錦蔵が追い討ちを防ぐために右から薙ぎ払った太刀を、伊織は小太刀の鍔付近の刃で受け止め、そこから間髪入れずに右脇の右剣で突きかかった。
だが錦蔵は、伊織の小太刀を中心に、まるでコンパスのような円弧の動きで右へ移動。角度を変えたことで、伊織の右剣の回避と同時に、己の剣を間合い深くまで侵入させた。
そこから伊織の胸部めがけて、水平となった錦蔵の剣尖が迫る。肋骨の隙間から肺や心臓を狙う一閃。
伊織は危機感を覚え、急激に体を左へ捻って飛び退く。錦蔵の狙い通りの展開にはならずに済んだが、左胸を刃で浅く切られた。黒いシャツに綺麗な割れ目が生じ、その下の素肌にも赤い細線が浮かぶ。
さらに数歩飛び退き、両者の間合いを大きく切り離した。
「……次はそんなつまらぬ斬り方はせんよ。しっかりと斬って、美しい「彼岸花」を咲き誇らせてやろう」
錦蔵は言うや、構えた。
右下段後方へ剣を置いた構え。
強烈な「引力」を錯覚せずにはいられない、不思議な雰囲気を持つ構え。
『谷神剣』。
前髪に隠れていない錦蔵の右目が、まるで何もかもを吸い込む底なしの虚のように見える。
——その片目が、両目になった。
「…………な」
その錦蔵の両目が、驚きで見開かれた。
「引力」も、消えた。
伊織はすするような笑声をこぼす。
「左目だけ隠れてたんじゃ視力に良くねぇからよ、気遣いで切っといたぜ。くくくっ……今までで一番表情豊かじゃねぇか? オイ」
そう……錦蔵の左目を分厚く覆っていた前髪が、眉の上あたりからすっぱりと途切れていた。その片割れは今、錦蔵の足元に落ちている。
左手で左目を隠しながら、錦蔵は右眼で伊織を睨んだ。怒気のかすかに混じった軋んだ声で、
「……二度目の刺突の時か。やってくれたな……!」
「そうよ。あれは刺すのが目的じゃなかった。テメェのそのウゼェ前髪を斬るためのモンだったんだよ。……テメェの『谷神剣』モドキを支えてる、狡いトリックを潰すためのな」
錦蔵は再び大きく目を見開き、そして再び睥睨した。今度は両眼で。
「——貴様のその前髪は、自分の意図した「欠落」を生み出すためのモノだ」
伊織はその睨みを微風のように受け流し、使い手に代わって「種明かし」を始めた。
「片目が塞がって見えない……これは斬り合いにおいて、とんでもねぇハンデとなる。これは自分も、そして敵ですらそう思う。己も敵も、その「片目の塞がり」を「弱点」と認識するだろう。……弱点。そう、それは「欠落」だ」
錦蔵の睨みに、強い敵意が加わった。
「テメェはそうやってわざと弱点を作ることで、相手の心に、自分の望んだ「欠落」の認識を植えつけたんだ。
ひとたびテメェの目を見れば、その時点でテメェの望んだ「欠落」が、相手の心に「欠落」と認められる。
するとどうなるか? ……相手が行うあらゆる動きが、意識的にしろ無意識的にしろ、その「欠落」を前提としたモノになっちまう。
戦いでは、相手が嫌がる攻撃を可能な限りやりたがるもんだ。相手の嫌がる攻撃……「欠落」を攻めることを、どうしてもやろうとしちまう。まして命のかかった斬り合いなら、誰だって早々に終わらせてぇだろうから、なおのことそうなる。
テメェはその「欠落」を見せて、そういう心の隙を意図的に相手に作り出したんだ。それは言ってしまえば、相手の心の一部を支配するようなものだ。
そうすることでのみ、貴様の『谷神剣』は初めて実現する。
工夫は悪くねぇよ。工夫は。だがな——忘れてねぇか?」
その敵意を、伊織は真っ向から睨み返した。
「『谷神剣』は単なる技じゃねぇ。思想なんだよ。どれだけ剣を磨こうが、満足することなく、常に己に欠けているモノを認識し、それを埋めるべく精進を重ねる……老荘思想から得た、一玄斎の思想だ。そんな流祖の思想を忘れて、自分の本来の「欠落」と向き合うことはせず、『谷神剣』をただの「便利な技」に変えたテメェは、道枢一刀流に値しねぇ。まして、一玄斎に届いた、なんて台詞はもっての外だ。そんな言葉は、俺が絶対に許さん」
「——よく囀る花壇だ」
静かな怒気の発散とともに、錦蔵は刀を前へ出した状態で伊織の間合いに素早く踏み入ってくる。
急迫してきた剣尖。伊織はそれを左手の小太刀で下から掬うように受け、軌道を逸らす。錦蔵の刺突は、伊織の左肩のすぐ上を通過。
伊織の右剣が斜め下から突きかかるのを錦蔵は後退して回避するが、右剣は今度は切っ尖がかろうじて届く錦蔵の手首を狙おうとしてきた。
錦蔵は己の剣を掲げながら一歩退がり、右剣を空振りさせる。上段に構えられた錦蔵の剣の真下に、伊織の右剣。
「——っ!!」
細く鋭い気合とともに、錦蔵は伊織の刀身へ渾身の一太刀を振り下ろした。運が良ければ刀身を叩き折ることができる。そうでなくともこの右剣を打撃することで、その強い衝撃によって右剣を一瞬動かせなくできる。いずれにせよ、一瞬ながら有効な隙を生み出せる一太刀であった。
そうして太刀を叩き込んだ拍子に柄へ伝わってきた衝撃は——ひどく軽かった。まるで発泡スチロールを叩いたみたいに。
ごぎりぃん! という右剣の落下音が響いた時には、伊織が視界の左半分を占めるほどまで接近していた。
左手の小太刀を右耳隣まで引き絞りながら、刀を手放して空いた右手で錦蔵の両手首を押さえた。
……そう、手放したのだ。
伊織の先ほどの小手斬りは、こちらの剣を上へ逃し、そこからすぐに刀を叩き落とせる絶好の位置関係にするためのものだった。
錦蔵は罠だとは知らず、上段から刀を振り下ろすという形でそんな伊織の目論見に乗ってしまった。
直撃寸前で、伊織は自分から刀を手放した。
持ち主を失った刀を渾身の力で叩いた感触はとても軽く、それに対して錦蔵は肩透かしを食らった。
——そんな、錦蔵の一瞬の心の隙を突く形で、伊織は距離を一気に詰めてきたのだ。
右手で両手首を押さえられている上に、すでに左手の小太刀は今にも放たれる寸前。
次の瞬間、その小太刀が銀閃を描いた。
その刃は錦蔵の首筋……ではなく虚空を斬った。
代わりに、小太刀の柄頭が、錦蔵の左こめかみへ強烈に叩き込まれた。
「か——」
いわゆる柄当て。それを受けた錦蔵は短い呻きとともに体勢を崩し、床に倒れる。その拍子に、血まみれの刀が手元から離れ、落ちた。
錦蔵は、そのまま動かない。
後方から、歩み寄る気配。振り向くと、光一郎が近づいてくるのが見えた。
「こ、香坂さん……その男は」
「のびてる」
伊織が短くそう応じると、光一郎は恐る恐る錦蔵の様子を伺った。
倒れたまま動かないところを見て状態を理解したようで、安心したような、困惑したような、そんな表情で、
「……斬らなかったんですね」
「ああ。状況的に、斬らずにどうにかできそうな状況だったしな。それに——」
伊織は錦蔵の方を向き、不満げに鼻を鳴らす。
「こいつなら、自分から出てくる「彼岸花」も楽しみかねねぇからな。だからこいつには、花一輪咲かねぇ豚箱がお似合いだ」
錦蔵へ歩み寄り、血まみれの刀を蹴っ飛ばして遠ざけてから、なおも油断無く小太刀を構えたまま光一郎へ呼びかけた。
「小僧。オマワリが来るまで、こいつを縛っときたい。なんか縄になるモン取ってきな」
「は、はいっ」
言われるや否や、光一郎は納刀して走り出した。
この間の理科の実験の時、理科室に麻紐が置いてあったことを思い出す。それを持ち出し、伊織の所へ戻った。
伊織は麻紐を引っ張って強度を確認し「まぁいいか。どうせもうすぐ警察来るだろうしな」とまずまずの判断を下してから、慣れた手際で錦蔵を縛り上げていく。
錦蔵の全身をきつく拘束したのち、二人はようやく一息ついた。
「——少しだが見てたぜ、お前の戦い。また腕を上げたな」
伊織が労うようにそう言ったが、光一郎は己の首筋を躊躇いがちに指先で撫でながら、少し気落ちした声で、
「いえ……香坂さんが来てくれなかったら、僕は今頃……」
「仕方ねぇよ。相手が悪かったんだ。むしろ俺が来るまでよく生き延びてくれた」
「その……ありがとうございます。香坂さん」
「いいってことよ。同じ師を持つ者同士、当たり前のことだ」
そう言って、光一郎の肩に手を置く伊織。
光一郎は無言で頷いてから、ふと何か気づいたように瞬きをして、伊織に問うた。
「そういえば……香坂さん、ここ最近、何をやっていたんですか?」
「何をやってたってどういう意味だよ? もうちょいはっきり言えっての」
「韮山さん、心配してましたよ。最近そっけない、構ってくれないって」
すると伊織は「…………あー」と、ものすごく困った顔をした。
それから、縛られて失神している錦蔵を軽く蹴った。
「……この野郎を、探してたんだ。こいつが学んでた剣術は道枢一刀流っていってな、俺のダチの爺さんが興した流派なんだよ。だけど、この『人斬り錦蔵』が暴れ回ったせいで、流派は風評被害で絶伝。ダチは爺さんの道枢一刀流を作り直そうとまた頑張ってるっていうのに……こいつがまた出てきやがった。だから、俺が止めたかったんだ。少しでも早く、こいつが人を斬るのをやめるように。そうすることで、ダチの憂いを少しでも多く取り除いてやりたかったんだ。まぁ……随分被害が出ちまったがな。やっぱり俺の力だけじゃ、足りなかった」
伊織は低くため息をつく。
「そのために、ここ最近帝都中を血眼になって探していたが……そっか。喜恵のやつ、心配してくれてたんだな。それは悪いことをした」
「言ってましたよ? 浮気してるんじゃないかって」
伊織はひどく慌てた様子で反駁する。
「ばっ、おまっ……何言ってやがる!? するわけねぇだろ!? だって俺は——」
「ですよね? だって最初に告ったのは香坂さんだって聞きましたもの。……好きなんですよね? 一生縛られてもいいってくらいに」
伊織はそっぽを向き、静かに「……うるせ」と呟く。その耳はうっすら赤い。
光一郎は微笑し、伊織の肩をポンと叩く。
「ちゃんと、韮山さんと話をしないとダメですからね」
「……分かってる。ちゃんとするから」
いじけた子供みたいな口調で伊織が応じる。
外側から音が近づいてくる。いくつもの足音が重なった音。
それはだんだんと昇降口へ近づき……やがて、昇降口へ警官がぞろぞろと入ってきた。
「——だがその前に、めんどくせぇ事情聴取に応じなきゃならん。お前にも付き合ってもらうぞ」
「ええ」
伊織は二刀を左腰の鞘へ納めると、警官隊へ向かって歩き出した。
光一郎も、それに続いた。
……そして、刀を持っていたために犯人と間違われ、二人仲良く取り押さえられたのだった。
この後きちんと誤解は解きました。
「帝都初恋剣戟譚 少年刑務所編」は始まりませんので、ご安心のほど。
今回の連投はここまで。
また書き溜めてから連投します。
次回から、社会が大きく揺れます。




