手の上の鴉
——それは、香坂伊織が富武中学校へ駆けつけ、光一郎の生命の危機を救う、およそ十分前のことだった。
五月十九日を境に、次々と発見されている斬殺死体。
最初は関東黒森会系の下部団体の構成員ばかりの死者だったので、報道は「極道組織の抗争」と決めつけていた。
しかし伊織はその「殺し方」の共通点から、早い段階で『人斬り錦蔵』こと久原錦蔵の仕業ではないかと疑念を抱いていた。……『人斬り錦蔵』もまた、先の集団脱獄で豊島拘置所から逃げ出した囚人の一人だったからだ。
そして案の定、すぐに極道者以外の、似通った死に方の斬殺死体が出始めた。
『人斬り錦蔵』には直接会ったことは無い。しかしそれでも「ある事情」から、伊織は『人斬り錦蔵』に対する遺恨のようなものがあった。
それに、仮に『人斬り錦蔵』の復活であったとしたら、一刻も早くその所業を止めなければならない。でなければ、困る人物がいるからだ。……その人斬りを出してしまったがために風評を害し、絶えてしまった剣術。それを復活させんと頑張っている、伊織の友人が。
しかし、そう意気込んで探し始めてはみたものの、手がかりや足取りはほとんど掴めずじまいだった。
むべなるかな。伊織は剣が多少出来るだけの、ただの大学生なのだ。警察のような捜査能力も無ければ、嘉戸宗家のような優れた情報網も無い。探索はすぐに手詰まりとなった。
それでも、伊織は足を止めたくなかった。こうしている間にも、あの人斬りは友人と同じ剣で人を殺して楽しんでいる。「その剣を復活させろ」と友人に発破をかけたのは自分だ。だからこそ、傍観者ではいたくなかった。ほとんど意地だけで動いていた。
そんな実りが無いに等しい捜索に今日も没頭し、昼になった頃。
千代田区神田の一角。そこにあるビルディングの間を縫う、濃い影の差した隘路へ入ろうとした時、言い争うような声を聞いて、思わず曲がり角で足を止めた。
「——お願いです、春川さん! どうか私を、富武中学校へ行かせてください!」
男とも女とも判別しづらい、中性的な声色。必死に訴えかけるような響き。
さらに「富武中学校」という単語。……自分と同じ師に就く少年と少女の通う学校の名前。
それに対し、太く、静けさのある男の声が短く答えた。
「なりません」
「何故です!? 私の至剣『八咫烏』は、富武中学校を危険な場所だと告げているのです! あの方が通われている学び舎で、何かが起ころうとしています! 今すぐ駆けつけなければ、あの方が……!」
(——至剣だとっ?)
聞き間違いではない。中性的な声は、確かにそう言った。
至剣を会得している? こんな、聞くに幼い声の者が? いや、自分の周りには十一歳で至剣を使えるようになった天才少女や、一時的にだが至剣を使えた中学生という、至剣流の長い歴史において特異な存在が二人もいる……
どんな見た目をしているのか今すぐ覗きたい衝動に駆られるが、ただならぬ雰囲気だったので、もう少し耳を傾けるにとどめることにした。
太い男の声が、冷静に返す。
「危険ならばなおのこと、行かせるわけには参りません。どうか御身を弁え、賢明なる御判断を」
「ならば、私以外の方……そう、警察の方を、富武中学校へ向かわせてください! 今すぐに!」
「それこそ不可能でございます。「至剣」などという主観的根拠しか無い現状では、警察も動くことはありません」
「っ……とにかく、この手を離してください!! 私は行かなければ!!」
さらに必死さを増した中性的な声に対し、太い男の声はどこまでも静けさを保っていた。
「私はいざという時は、多少手荒な真似をしてでも貴方様を止めるよう、あの方より仰せつかっております。極力、そのような真似はしたくはありません。どうか、何卒自制いただきたく————何奴?」
短く鋭い誰何の声に、伊織は思わず身を震わせた。……気づかれた。顔を出して覗き込んでもいないし、気配も消していたつもりだったのに。
ここで逃走しても良かったが、中性的な声の言っていた「至剣」が気になった。……「富武中学校が危険」という発言も。
好奇心が勝ってしまった伊織は、観念して姿を現した。
かくして伊織が目の当たりにした人物らの正体は……十代ちょっとくらいの少女と、四十くらいの男だった。
前者は、誰が目にしても「美しい」と口を揃えるであろう美少女だった。
静かな華やかさのある美貌。丸眼鏡の奥にある漆黒の瞳。太い一束の三つ編みとなった美しく長い黒髪。血管が透けそうな白い肌。さらに姿勢と佇まいも非常に整っていた。高貴な育ちであることを思わせる、品のある存在感。
しかしながら、その装いはまるで少年のようだった。
頭にかぶっているキャップ、着ているTシャツ、それらはどちらも人気特撮シリーズ『ベクターシリーズ』のアパレル品であった。履いているのもごく普通の短パン。
清涼感のある気品に、そこらのガキみたいな装いという、チグハグな有様。まるで庶民に扮して街へ出たお姫様を思わせる。
後者は、伊織よりも上背の高い男だった。
スマートだが、ひ弱そうな感じが少しもしない、姿勢の整った体型。それを黒いスーツが整然と覆っている。
坊主の一歩手前まで短く切られた髪。硬く通った鼻筋に、静かな気迫の宿る瞳が特徴的な細面。
静けさがありつつも、近寄りがたい武張った雰囲気のある人物。
伊織はまず、少女の方へ目を向けた。……至剣を体得していると述べていた声は、彼女のものだろう。大きな瞳を瞬かせてこちらを見ているその顔は、声に違わぬ幼く愛らしいものだった。
(ん? この娘のツラ、前にどっかで見たことがあるような……)
既視感めいたものを感じながら少女の顔をジッと見ていると、もう一人の男の胴体がそれを遮った。
「何か、用でも」
短く告げてきた男は、そこはかとない警戒姿勢を取っていた。左足前の立ち方となり、黒スーツの懐に右手を差し入れていた。
その姿勢と動きを見ただけで、伊織の背中に冷や汗が流れた。
(……このおっさん、クソ強ぇ。今の俺じゃ刀抜いても絶対勝てん)
先ほどの会話と、少女を守ろうと警戒を厳にしている姿勢から見て、あの少女の護衛役か付き人みたいな存在だろう。……となると、あの少女はやっぱり、それなりに社会的地位のある家の令嬢か何かということになる。
これは慎重に言葉と態度を選ばなければ、面倒臭いことになる。
「悪い悪い。盗み聞きする気は無かったんよ」
両手を上へ挙げながら、努めて無害な笑みと声でそう呼びかけた。腰の刀に手をかけるつもりは無いという意志表示。
当然だが、男はなおも構えを解かない。
「そこのお嬢さんが、俺の知り合いが通ってる中学について言及してたもんでな。つい聞き耳立てちまったんだ。不快に思ったんなら謝って消えるよ」
すると、少女は男の後方から、モグラ叩きのモグラよろしくひょこりと頭を出し、
「富武中学校に、お知り合いがいらっしゃるのですか?」
「あ、あぁ。そうなんだよ。だからその……富武がヤベェって言葉が気になってよ。それと……お前さんが至剣を体得してるって点も、な」
少女が男の背後から出てくる。……流れるような美しい所作だ。
男は「——んか、何を」と聞こえにくい小声で呼びかけるが、少女はそれをやんわり手で制した。
「案ずるに及びません、春川さん。——この方に、邪な思いはありません。私の『八咫烏』もそう告げております」
柔らかくも、どこか逆らい難い厳かな語気で告げる少女。
やりにくそうな表情を浮かべる男——春川というらしい——を背にし、少女は柔和な笑みを浮かべて、右手甲を前へ出した。……そこには何も無い。ただの白い素肌の右手甲だ。
「信じて頂けないかもしれませんが、私はこの年にして、至剣を体得しております。——今この手には、私にしか視えぬ鴉が留まっております。名を『八咫烏』。この鴉は、私を命を失う可能性のある場所から遠ざけ、かつ安全に歩むことのできる「王道」を指し示してくれます。……今、この手の『八咫烏』が飛んでいないということは、貴方に害意が無いことの証」
——私にしか視えぬ鴉。
伊織がそれを聞いて、即座に連想したのは、あの少年……秋津光一郎の至剣。
彼の至剣も、「己にしか視えない金の蜻蛉」というものだった。その「金の蜻蛉」が描くのは、その戦いを勝利に導く「必勝の軌道」。それを己の剣尖で追いかけることで、その剣に「必勝」を付与する。
この少女の至剣『八咫烏』とやらも、似たような至剣なのだろうか。
「そして、この『八咫烏』は今、富武中学校の周辺を避けて飛んでいる。それは——あの学校に、危険が迫っていることを意味します」
「危険だと?」
「はい。具体的に何が起こるのかまでは分かりませんが……あの学校で、これから「何か」が起ころうとしている。それだけは確かです」
そこまで言うと、春川という男が何か言いたげに一歩出た。
あの男の立場からして、この少女を危険な場所へ行かせたくないのは間違いない。
(なら警察にチクる? ……無理だ。通報の根拠が「至剣」じゃ、イタ電扱いが関の山だ。連中は明確な根拠が無きゃ絶対に動かねぇ。まして、まだコトが起こる前だ。今の段階で通報したとしても、コトが起こった後に容疑者扱いされちまう可能性もある)
さらに伊織は、考察する。
……「危険が迫っている」という、危機感を煽りつつも曖昧な表現について。
その「危険」として考えられるのは、一体何であろうか?
ここ最近の帝都の情勢からして、可能性が高いのは。
(……人斬り事件)
今もなお連日被害者が生まれている、その殺人事件。
それが今まさに、富武中学校で起ころうとしているとしたら?
「——っ」
考えた途端、伊織は切歯し、我知らず刀に左手を置いた。
春川という男がそれに対して再び警戒を強めるが、またも少女が手振りで制止させた。
……彼女の手の上の『八咫烏』は、なおも飛び立っていないのだろう。
こちらを見つめる少女の瞳。静謐で、誠実な、黒い瞳。
伊織はその瞳をまっすぐ見返し、言った。
「行きたくねぇなら好きにしろ。——代わりに俺が行ってやんよ」




