人斬り錦蔵《二》
「影響の連鎖」。
相手の体と、それが刻む動作に宿る法則。
学んだ剣術という枠組みを超えた、その人物の個性がもたらす体癖。
幼い頃から没頭してきたスケッチによって培われた僕の眼力は、ある程度時間をかけて相手を観察することで、そんな「影響の連鎖」を把握することができる。
錦蔵のソレも、また。
今の僕は、錦蔵の一手先の動きを、高い解像度で先読みすることができる。……先ほどの捨て身の体当たりも、錦蔵の次の動きが前もって読めたからこそできた無茶だ。
その能力は、真剣を用いた戦いにおいて、絶大な有利をもたらす。竹刀や木刀と違い、刀はほんの少し肌を滑っただけで簡単に致命傷を与えられるのだから。
僕は一息つく。
「…………さっきの答えを言おう」
全身を緩め、しかし体の内側を貫く軸は硬く保ち、仰向けの錦蔵へ静かに告げる。
「何度でも言う。……僕は、あなたとは違う。可能な限り、人を斬りたくはない。だから、死体から何かを受け取るなんてこと、できればしたくはない」
剣尖と、剣気を、錦蔵へまっすぐ向ける。
「だから——自首するんだ、『人斬り錦蔵』。神妙に法の裁きを受けろ。僕に何も、受け取らせないでくれ」
それは、最初で最後の情けだった。
……いや、僕にとっての「逃げ道」だった。
ここで再び錦蔵が剣を振るってきたら、いよいよ僕は容赦するわけにはいかなくなってしまう。
たとえ多くの人間を私欲のまま斬ってきた殺人鬼であっても、できれば斬りたくはなかった。
——村正の片腕を斬り落とした時の感覚。
あの時、刀越しに手元へ伝わった感触は、驚くほどあっけないものだった。
軽い感触で、人体が削り取られる。人の命が、まるで羽毛のように感じた。そう思わせるほどの威力を、刀は持っている。
あの軽さに、慣れてはいけない。
慣れてしまったら、きっと僕は今までの僕ではいられなくなる。
だから、それを味わわずに済む「逃げ道」が欲しかった。
「……くっ、くくっ」
そんな僕の最後通牒に対し、錦蔵はしゃくるような笑声をこぼした。
「何を言うのかと思えば……随分とつまらぬ、しみったれた答えだな。己の戦いの結末を、他人に押し付けるとは」
まるで亡者が地中から起き上がるように、錦蔵は立ち上がった。
「もう少し、有望な若い剣士と斬り合いを楽しみたかったが……飽きた。そろそろ君の「彼岸花」を拝ませてもらうとしよう」
そして、おもむろに構えを取った。
どこまでも角が取れたような、柔らかい右下段後方の構え。
相変わらず前髪で分厚く覆われた左目。その前髪の分け目から覗く右目を僕へ向ける。……まるでブラックホールのような、奇妙な引力を持つ眼差し。
「——っ?」
……引力。
そう、「引力」だ。
自分の体が、刀が、まるでその定形を歪め、引っ張られている感覚。
己の心が、体という器を飛び出し、持っていかれそうな感覚。
それらの「引力」の先には——今なお構えを取った錦蔵の姿。
なんだ、これは。
これ以上、足を前へ進めたくない。
そのために片足を浮かせたが最後、この「引力」によって錦蔵のいる位置まで一気に引きずり込まれてしまいそうな、非現実的な予想が浮かぶ。
足元を一瞥。……心なしか、足の位置が、さっきより前へズレている気がする。
僕はすっかり、この謎の「引力」に気を取られていた。居着いてしまうと分かっていても、引っ張られまいと両足を踏ん張りたくなるほどに。
対し、その「引力」の渦中に立つ錦蔵は、僕の内心などお構いなしに悠然と動きだした。右下段後方へ剣を置いた状態のまま、床を這うような足捌きで少しずつ寄ってくる。
ブラックホールのような右眼が近づくたび、僕の身にかかる「引力」も強まっていく。
やがて、ある程度間合い同士が近づいた瞬間、錦蔵は鋭く身と剣を僕へ進めた。右下段後方から、中段にある僕の剣へと刃が流星のごとく疾駆。弾く気だ。
速い。だけどその動きもすでに前もって読めている。僕は中段にしていた剣を垂直に立て、刀身の鍔付近でその太刀を受け止めた。強い衝撃。しかし柄を握る手から近い部位で受け止めたので、剣が衝撃に流されることはなかった。
それから僕は素早く、刀を振り上げながら錦蔵の左側へ進み出た。
——どうして?
その行動の後、僕はふとそう思った。
なんで僕は、錦蔵の左側へ入ったのだろう?
錦蔵の「影響の連鎖」を確認して、先読みを済ませる……そんな過程まですっ飛ばして。
根拠の感じられない我が動きに困惑すると同時に、僕は気づく。
——横顔を見せる錦蔵の口角が、吊り上がっていることに。
そこで確信する。
根拠が無いが、「そう」だと言える確信を。
どういう仕掛けであるのかは分からない。
だけど、先ほどから感じるこの「引力」も、僕をこの理由不明な動きに駆り立てたのも、すべてこの人斬りの為した芸当なのだと。
確信したとて、もはや遅かった。
(あ——)
振り上げられた僕の刀の柄頭を、錦蔵の左手が押さえる。
同時に、錦蔵の右手に握られた刀が動く。
その刃と切っ尖が向くのは——僕の左の首筋。
錦蔵の体が刻む「影響の連鎖」は、これから何をしようとしているのかを、残酷なまでにはっきりと僕に見せた。
(だめだ、これ——)
蹴飛ばそうにも、距離が近すぎる。足が上げられない。
両手も、刀を持っているため塞がっている。
そして、手足が動かせたとしても……錦蔵の剣が突き出され、僕の首を裂く方がずっと速い。
先読みができていても、逃がれることを状況が許さない。
(————死ぬ)
敗死という己の末期を覚悟した、次の瞬間。
視界の左端が、チカリと光った。
突如、錦蔵が僕から反発するように大きく飛び退いた。
次の瞬間、錦蔵が直前まで立っていた位置を、光る何かが通過し、右側の壁の掲示板に突き立った。——刀だ。小太刀。
僕も、そして錦蔵も、揃って同じ方向へ視線を向ける。小太刀が飛んできた方向。
昇降口の、唯一開かれた扉。発せられる外の光。
それを逆光にして、人影が一つ。
逆光のせいで、その人物の顔はよく見えない。
しかし、こちら側へ歩み寄るうち、はっきりしてくる。
ボリュームのある、あちこちささくれ立った髪。
鋭いが、知性の輝きの宿る瞳。
黒いTシャツに黒い袴というチグハグな格好。その左腰には刀の鞘が二本差してあり、そのうち一本から刀が無くなっていた。……小太刀の方だ。
僕の、よく知っている顔だった。
学ぶ剣こそ違えど、僕と師を同じくしている人物。
「——香坂、さん」
その人物——香坂伊織さんは僕の隣まで来ると、いつもの人を食ったみたいな笑みを見せ、問うてくる。
「生きてるか、小僧?」
「は、はい……なんとか。それよりも、どうしてここに……?」
掲示板に刺さった小太刀を左手で引き抜く彼に、僕はそう問う。小太刀を投げたのが香坂さんだということは、今の様子で明白だ。
僕を助けるために投擲したというのは理解できるが……そもそも、まずここに彼が来ている理由が分からない。
「——そこのクソを、ずっと血眼で探してたんでな」
そう言って香坂さんは……『人斬り錦蔵』をキロリと横目で見る。僕に向けていたモノとは全く異なる、静かな敵意と殺気を孕んだ眼差しだった。
錦蔵は小首をかしげ、
「私を探していた……? いったい何故? その腰の刀を見るに……まさか私と勝負がしたいから、というわけではあるまいね」
「んなわけねぇだろ、ボケナス」
香坂さんは右手でもう一振りの刀も抜き放つ。小太刀とは違う打刀。
爪先と、そして強い殺気を錦蔵へ向け、告げる。
「俺はテメェと戦いに来たんじゃねぇ——テメェを斬りに来たんだ」
僕は息を呑む。
香坂さんは、僕の中では「喧嘩屋」というイメージが強い。殴り合いはしても、殺し合いはしない。そんなイメージが。
だが、そんな彼が、はっきりと「斬る」……つまり「殺す」と。
それだけで、彼が『人斬り錦蔵』へ向ける感情が、並並ならぬモノであるということが理解できた。
錦蔵もそれを察したのか、すでに問答の姿勢を捨てていた。ゆったりと、しかしすぐに斬り放てる体勢。
「剣を愛する者として……そして、ダチのために、テメェだけは絶対に許さねぇ」
香坂さんも、そんな錦蔵へ向かって歩き始める。二刀を自然に垂らした下段構え。一見静かだが、極めて殺意の高い構えだ。
そんな後ろ姿を、僕は黙って見ているだけだった。
これから始まる彼の戦いに、剣も、口も出してはいけない……そう察したからだ。
「そんなに「彼岸花」とやらが見てぇんなら、見せてやんよ——貴様のをな」




