背中
先の日ソ戦以降、学校は避難訓練にいっそう注力するようになった。不審者の侵入に限らず、学校やその付近にミサイルや爆弾が炸裂した時などに備えて。
訓練を頻繁に行ってきた生徒達には、緊急時の避難経路がしっかりと体に覚え込まされていた。
卜部峰子もまた、その一人だった。
放送では「学校敷地内に侵入した」と言っていた。つまり、まだ校舎には入ってきていないということだ。であれば、逃げ道は自ずと二階へ向かう上り階段に限られる。
今いるこの一階は、購買や自販機で並んでいた生徒らでごった返していた。だが校舎の階段は複数ある。人が多くとも、分散すればスムーズに二階へ上がれる。そして各人、そのように動き始めていた。
峰子がけたたましい非常ベルと緊急放送を聴いたのは、昇降口の自販機に並んでいる最中だった。それからまだ一分と経っていない。
警報が鳴った際、たまたま昇降口の近くにいた男性国語教師の山根が、大慌てで昇降口の重い鉄の引き戸を次々閉じ、施錠していく。峰子も手伝おうと昇降口へ駆け寄ろうとしたら、
「何してる!? さっさと体育館へ避難しろ!」
手を出すよりも先に、教師にそのように一喝され、思わず足が止まる。
乱暴な言い草に少しムッとするが、山根の言い分は正しい。一般論で言えば、教師は真っ先に生徒を守るべき立場だ。彼もそのように動いている。であれば、それを無下にするべきではないだろう。
それに、すでに山根は扉の最後の一枚に差し掛かっている。なので峰子は他の生徒同様にきびすを返そうとした。
「わっ!?」
だが、扉を閉じ切る寸前、その隙間に「がごんっ!」と一本の棒が外側から割って入ってきて、それによって閉門が妨げられた。山根は思わず飛び上がって尻餅をついた。
さらに、扉に出来た隙間の外側から、人間の指が入って来た。その指が扉をおもむろに引いて開ける。
それによって、投げ込まれた棒の正体が血まみれの刺股であったこと、それから——もっと血まみれの刀身を剥き出しにした黒づくめの人物の姿が、明らかになった。
上下だけでなくインナーまで黒一色のスーツ姿、左目が隠れた長い黒髪の男だ。陰険な整い方をした細面は白骨のように色白であり、右こめかみの辺りで分かれた前髪の隙間から覗く右目は、あらゆる色を吸い込むような濃厚な闇が凝縮されている感じだった。
右手にある血まみれの刀を見るに、この男が、件の「危険人物」なのだろう。
「ひっ……!」
ソレと間近に対してしまった山根は、恐れで喉を鳴らす。
男の右目が、キョロリとそちらを向く。
刀もまた動こうとした次の瞬間——薄桃色の煙幕が、男をごうっ、と包み込んだ。
峰子が壁際に設置してあった消火器を持ち出し、その中身を男にぶちまけたのだ。
鼻につく独特の匂いがする粉末消火剤がノズルから轟然と射出され、その奔流を浴びた男が煙幕の中で顔を覆う人影を見せる。咳き込む声が聞こえる。
山根を助けたつもりだが、山根はまた一般論の範疇で峰子を叱責してきた。
「おい!! 体育館へ逃げろとさっきから言って——」
「——今はお前が逃げろこの鈍間ぁっ!!」
状況次第で一般論の優先度などいくらでも下がる。そして今この瞬間において合理的なのは峰子だ。それを怒号で伝えるとようやく頭でっかちの教師も理解したようで、慌てて立ち上がって後方へ退がる。ダメ押しに「君も早く逃げろ」と告げて。
「貴方達も早く行きなさい!!」
後方へ一瞬振り返り、まだ残っている生徒らに声高に告げる。すると、足音が離れていくのが聞こえた。
二十秒くらいして、ノズルから消火剤の放出が止まった。
もうもうとした消火剤の煙幕も薄れていき、再び危険人物がその全容を露わにした。
「…………やれやれ、酷いことするじゃないか。消火器は火を消すためのものであって、人にかけるものじゃあないのだよ?」
全身についた薄桃色の粉をはたき落としながら、悠々とした口調で言う。
「模範的なことを言うじゃないの、人斬り風情が」
強がった口調で言い返すも、峰子は内心で進退窮まっている感じを強く持っていた。
今すぐ背を向けて逃げたいところだが、消火剤を強く当てるために、峰子はそれなりに近くまで男に接近してしまっていた。背を向けたりすれば、そこを素早く踏み込んで斬られる。——この男にはそれだけのことが容易にできるというのを、剣士である峰子はすぐに見抜けてしまった。
「まぁいいさ。君も子供だ。その首筋をこの刀で裂けば、私の見たい「彼岸花」をきっと咲かせてくれるだろう。鑑賞させてもらうよ」
男はそのなまっ白い陰険な顔つきを歪に微笑ませ、おもむろにその剣尖を向けてきた。
——刀。血まみれの。ここに来るまで人の命を刈り取ってきた、まごうことなき凶刃。
それが今、自分を狙っているのだと思うだけでも、怖くてたまらない。
剣尖の向こう側にある、漆黒の底なし沼めいた瞳。それに自分の心を呑まれそうな気分になる。
全身が浮き上がったような錯覚を覚える。
しかし、峰子は必死に呼吸を整え、気を落ち着ける。浮き上がったような感覚が消え、しっかりと地を踏みしめる感覚が戻ってくる。
自分のポニーテールを揺らす。それを束ねている、大きなラメ入りビーズの髪飾りの存在を感じ取る。
——恐れるな。私はもう、「あの頃」の私じゃないんだ。
自分へ襲い来る白刃に対して、情けなく腰を抜かすしかなかった、去年の自分じゃない。
考えろ。今、この状況を乗り切るには、どうすればいいのか。
自分の持っているモノで、どうやればそれが出来るのか。
空っぽになった消火器をギュッと抱きしめ、峰子は男の姿を見た。
男がおもむろに剣を構えた。中段。
……剣だけに意識を奪われるな。相手の全体を見ろ。剣は末端。末端は根幹の動きがあってこそ動く。末端は速く、根幹は遅い。根幹を掴め。
男の足が、手前へ滑り寄る。
よく見て、よく視て——刺突が来ると判断!
「っ!」
その刺突を発した拍子と重ね合わせるように峰子は気合を入れ、手元の消火器を小さく左上へ掲げた。やってきた剣尖は消火器に触れ、滑り、さらにその動きに合わせて左上へと持ち上がり……峰子の左側頭部の横を通過した。
(刀に気を取られるな、刀に気を取られるな——!)
峰子は何度もそう念じながら男の全体像を見つめ続けた。引かれる顎。曲がる肘。左耳に感じた風——それらを感じ取った時には、峰子はすでに右側頭部へ消火器を素早く構えていた。それから半秒も経たず、金属が鋭くぶつかる感覚を消火器越しに感じた。
受け止めた。しかもそれだけじゃない。刃が消火器に食い込んでいた。
(好機——!)
峰子は力いっぱい、消火器を回した。刃が食い込んでいるということは、見方を変えれば「刀を捕まえている」状態だ。消火器が動けば、それに捕らわれている刀もまた動く。
そして日本刀は全体的に反っている。刀全体が回転すれば、それを握る手の中の柄も同じく暴れ出す。それによって刀を奪い取ることも、消火器の回転に巻き込んで相手を崩すことも出来る。
狙い通り、峰子は刀を奪い取ることに成功した。——あまりにも、簡単に。
成人男性と未成年女子の力比べだ。後者が明らかに劣る。その後者である峰子は、念を入れて思いっきり力を込めて消火器を回した。だがあまりにも軽やかに奪えてしまったため、逆に勢い余って体勢が崩れかける。……そして悟る。用心を逆手に取られたと。
次の瞬間、男は体勢を大きく崩した峰子の左肩口に、踏んづけるような蹴りを叩き込んだ。
「あぐっ……!!」
峰子の軽い体は、あっさりと蹴り転がされてしまう。蹴られた際、衝撃で消火器を持つ手の力が弱まり、手元からすっぽ抜ける。
転がって止まった時、手放した刀を消火器から引っこ抜く男の姿が見えた。
急いで立ち上がろうとするが、さっき蹴られた痛みで一瞬体が硬直し、また体勢が崩れる。
そしてその間に、男はすでに距離を詰めていた。すでにその刃は振り上げられている。
峰子の手元には何も無い。
死ぬ覚悟以外の、何も。
(お父さん——)
三歳の頃に見た、戦地へ赴く直前の父の笑顔を追憶した、その時。
振り下ろされた血塗れの凶刃の前に——まっさらな刀身が割って入り、受け止めた。
そして、目の前には、見慣れた背中があった。
小さくも、大きな背中。
自分が一番好きな背中。
想いを伝えて、袖にされてなお想ってやまない、彼の後ろ姿。
「……こう、いちろう」
「斬られてない!?」
光一郎は急いだ口調で、短く訊いてくる。
彼の後ろ姿になおも感極まったものを禁じ得ずにいたが、我に返り、やや震えた声で告げる。
「だ、だいじょうぶだけど……その刀なにっ?」
「校長室から黙って借りた! 停学覚悟!」
「っ…………もうっ! 本当に貴方、馬鹿ねっ……!」
涙の混じった声で言う峰子。男の凶刃から自分を守る彼の白い刀身には……笑い泣きのような自分の顔が映っていた。
その刀が、敵の刃とともに、閃くように踊った。
角度と立ち位置を変えて、瞬時に数度斬りかかってきた男。しかしそれを光一郎は的確にいなし、防ぎ、牽制の一太刀を送り込んで後退させる。
瞬く間に、二人と峰子の距離が、大きく離れた。
「…………すごい」
今の短いやりとりを見ただけで、峰子は男の力量と、そしてそれ以上に光一郎の力量を思い知った。
彼が剣が立つのは知っていたが、真剣での戦いは竹刀や木刀とは訳が違う。少し掠っただけで致命傷を負いかねない、綱渡りのやり取りなのだ。
それを、顔色ひとつ変えずに行う胆力。
彼ならば、きっと、もしや——
「峰子、今のうちに逃げて。……この男は、僕が足止めする」
しかし、それでも、その提案に素直に頷けなかった。
「で、でも……」
「大丈夫。——僕は、あの望月螢に勝つ男だ」
そう告げられた峰子は、胸がずきりと痛むのを感じた。
何も出来ないもどかしさか。
ここへ彼を置いていくことへの心苦しさか。
それとも……自分以外の女を今なお強く想い続ける、彼の剣に対してか。
峰子は一息間を置いて、静かに言った。
「——絶対死なないって約束して」
「する」
「危なくなったら逃げるとも約束して」
「逃げる」
「絶対だからっ!」
そういって、峰子はその場から走り去った。
曲がり角に阻まれて見えなくなるまで、ずっとその姿を見つめながら。




