二〇〇三年四月十九日土曜日 〜賊軍の末裔《中》〜
——戊辰の役、つまり戊辰戦争は、言わずと知れた近代日本最大の内戦だ。
慶応三年、十五代将軍徳川慶喜は、新政府の要職に就くことを条件として、朝廷への政権の返上に頷いた。
これがいわゆる大政奉還だ。
政権を武力でひっくり返すのではなく「将軍自ら返上する」という形式をとることで、内戦を最小限にとどめ、西欧列強が侵略しやすい疲弊状態を作らずに済んだ英断であると、現在ではいわれている。
慶喜の意図は、新政府への恭順などではなかった。
むしろ逆だった。
将軍でなくなった後でも、自分はかつて江戸日本を取りまとめていた一族の長たる男だ。政府が変わってもなお、国全体を動かすノウハウは将軍家たる自分にしか備わっていない。ゆえに新政府の総理たり得るのも自分しかいない——
そう、慶喜は新しい日本においても、支配者になろうと考えていたのだ。
だが、そんなウマイ話があるわけがない。
慶喜に大政奉還を建白した土佐藩は、我知らず薩摩にそう動かされていたのだ。慶喜を操ることで、薩摩が討幕の準備をするための時間を稼ぐ狙いだった。
……同年五月に行われた四侯会議の失敗で公武合体論(幕府と朝廷が力を合わせて体制を強化し、国難にあたろうという論)を捨てざるを得なくなった薩摩は、武力による討幕に路線変更していたのである。そしてこれもまた、会議そのものを台無しにした慶喜の蒔いた種だった。
案の定、討幕派代表格の一人である岩倉具視は仕掛けてきた。
王政復古の大号令である。
幕府の解体、慶喜の将軍職辞職の勅許、京都守護職の解体など……旧来の武家政権を全否定する決定が、臨時に置かれた「三職」という要職による会議の中でなされたのである。それも、将軍慶喜が出席していない会議で。
絵に描いたようなクーデターだ。
それに対し、当然ながら幕府関係者はみな激昂。
特に京都守護職を解体させられた挙句に御所から蹴り出された会津藩士は「たとえ死んでも厲鬼となって祟る」と薩長を憎悪した。……僕のご先祖様の手記にも、その時の憤りが少し荒い筆致でつらねられている。
慶喜は憤る諸藩を必死になだめたが、無駄だった。
薩摩藩邸焼き討ち事件に端を発し、薩長と幕府側の関係は急速に悪化し、やがて鳥羽伏見の戦いが起こった。
——その鳥羽伏見の戦いののちに起こった、薩長軍対幕軍の一連の内戦が、戊辰戦争である。
会津藩、仙台藩を始め、奥羽や北越の諸藩が、対薩長戦を目的とした奥羽越列藩同盟を結び、「君側の奸たる薩長を討滅せん」と戦った。
数の上では幕府側が優っていたが、近代軍として変貌を遂げた薩長軍に比べ、幕軍はなお旧態依然とした「武士団」でしかなかった。
おまけに武器の近代化も遅れており、幕軍の銃器の有効射程に入る前に薩長軍の砲撃に蹴散らされたりすることが何度もあった。
……一万五〇〇〇名の幕軍が、わずか四五〇〇名の薩長軍に惨敗した鳥羽伏見の戦いの時点から、すでにそういった片鱗が見えていた。
加えて、人材不足と人選ミス。
これが顕著に現れたのが、会津と仙台が参加した白河口の戦いだった。
実戦経験豊富な者は、新撰組の山口次郎(斎藤一の別名)くらいだったというのに、総督となったのは西郷頼母だった。
実戦経験皆無な上に薩長軍の戦法を全く知らない西郷は、山口の合理的進言を相手にしなかった。
……結果、会津と仙台は惨敗。白河城は薩長の手に落ちてしまった。
戦争が長引くにつれて、幕府側は負けが込んでいく。
雪崩のような勢いで戦況は悪化していき、それに伴い薩長側に寝返る藩も増え、やがて箱館戦争を最後に戊辰戦争は終結。
「賊軍」である旧幕府が敗れ、「官軍」たる薩長が勝利した。
——「会津戦争」とは、この戊辰戦争における戦況の一部のことを指す。
白河……二本松……母成峠……やがて鶴ヶ城下にまで戦禍は及び、籠城戦の末に会津藩は降伏した。
会津戦争は、白河で惨敗した時点からすでに敗色が濃厚だった。
白河城は難攻不落の城であり、その時の戦いにおいても幕軍の方が数が大きく上だった。
しかし会津側の総督の西郷頼母は敵を知らぬまま采配を振るい、薩長側の司令官の伊地知雅治は敵や地形の綿密な調査を行った上で作戦を練った。
その差が残酷なほどに戦場で顕在化し、会津・仙台軍は敗北。
二五〇〇の会津・仙台が、僅か七〇〇の薩長に大敗……この白河口の戦いは、暗澹たる士気低下をもたらした。
それからも会津は坂道を転がり落ちるように負け続け、やがて鶴ヶ城籠城戦となった。
荘厳たる鶴ヶ城は砲撃で穴だらけとなり、城内外ともに死屍累々の地獄絵図と化し、城下では薩摩の「分捕り隊」による略奪や乱暴狼藉が横行。
城内にいる少なからずの女性が辱めを受けまいと我が子もろとも自決したが、男に混じって戦いに出る女性もまた多かった。
そのような戦いが長続きするはずもなく、限界は来るべくして来た。
やがて、会津藩主である松平容保は白旗を揚げて降伏。
ここで会津戦争と、そして会津藩そのものの歴史が幕を下ろしたのであった。
——長くなってしまったが、これが戊辰戦争、ならびに会津戦争の大まかな経過である。
僕もお母さんも専門家ではないので、それらの戦争の全てを細かく知っているわけではない。
しかし、その戦争に参加した人の血と、その記憶を、秋津家は代々受け継いできた。
僕らの前にいる牧瀬家も、また。
「——牧瀬隆之助は、慶應四年五月二十六日、敵の銃撃を浴びて斃れました」
その末裔たる陽司さんが、静かにそう告げた。
お母さんもそれに頷き、言葉を返す。
「存じておりますわ。光慧がそれを目にして、それを兄の東右衛門に教えていたようなので。その日は大雨で、隆之助殿の持っていたミニエー銃が発火不良を起こし、そこを狙われたそうです。……親友の遺骸を目にして以降、東右衛門は数日の間、一言も喋らなかったそうです」
その時、とある「映像」が、僕の脳裏をよぎった。
——足元に転がる、近しい人間だった肉の塊。
「っく……!?」
喉元に焼け付くモノが迫り上がってくるのを自覚した僕は、思わず口を押さえた。
幸いにも、それは体外へ吐き出される事なく、喉元に達した後にすぐ引っ込んでくれた。いがらっぽさが喉に残る。
「ねぇ……アンタ、だいじょぶ? 顔真っ青よ?」
声。ギーゼラさんのだ。顔を上げると、彼女の猫っぽい青目と視線が合致した。いつも勝気に笑う幼い美貌は、今はこちらを案ずるような表情だった。
お母さんと陽司さんも、目を瞬かせてこちらを見ている。
僕は慌てて言った。
「あぁ、うん……大丈夫」
「すまないね、光一郎君。我々が血生臭い話をしていたせいかな」
「大丈夫です。関係が無いので。……どうか構わず、続きを」
申し訳なさそうな陽司さんに対し掌を掲げ、そう促す僕。
お母さんが無言で頷くのを見て、陽司さんは再び口を開く。
「兄の隆之助を失った悲しみを噛み殺し、秀継はその後も戦いを続けましたが……結果は言うまでもありません。会津が敗北しただけでなく、隆之助の妻は籠城戦の折に幼い子供もろとも城内にて自刃、秀継の嫁も防衛戦に参加して戦死。残ったのは母と、戦で片腕を失った父のみ。そしてそんな両親も……斗南藩の過酷な環境に耐えられず、秀継を残して息絶えました」
——斗南藩。
降伏後の会津藩士はみな、今でいう下北半島のあたりに作られたその藩に転封(領地替えという意味)することになった。
しかし当時の下北半島はまさしく不毛の土地であり、その日の食べ物にも困るほどだった。常に食料が不足しているような土地に、一万七千人もの士族が一気に流れ込んだのだから、どうなるのかは想像に難くないだろう。
それはもはや、転封の名を借りた流刑に等しい。以前エカっぺが教えてくれた、ロシアの伝統的懲罰「シベリア送り」に似たモノがある。
「流罪」となった会津藩士は、みな飢餓や病に襲われた。
体の弱い者、特に子供や老人から真っ先に命を落とした。
生きている者も、その日の食べ物を探すために一日の大半を費やす者が多かった。
原住民からはたいそう嫌われた。野山や海にある食べられる物を片っ端からむしって取っていくだけの会津藩士らを、彼らは「ゲダカ」と呼んで侮蔑した。
……そんな斗南藩は、明治四年の廃藩置県まで、一年半ほど続いた。
僕のご先祖様の秋津光慧と、その兄である秋津東右衛門もまた、その斗南藩で一年半を過ごした。
幸い、二人とも若く体力があり、辛抱の強い体であったため、どうにか飢餓や病にも耐え抜くことができた。
しかし、二人とも藩と家族を、特に東右衛門は妻を籠城戦で胎の子ごと殺されており、何もかも失くしすぎていた。
何の為に生きればいいのか分からず、ただ生きるために生きていた。
お母さんは、済まなそうに目を閉じ、
「東右衛門の妻は、隆之助殿の妹君でしたね。であるならば、たとえ斗南でも、牧瀬家と秋津家は力を合わせて生きなければならなかったはずなのに……」
「仕方がありますまい。同じ斗南でも、放り込まれた土地が離れていたのです。それに、その日の食べ物にすら困っていた状況。探しに行く余裕があったとは思えません。……我々の系譜が絶えることなく、今この時代にまで繋げられただけでも、儲け物であったとお互い思いましょう」
「ええ……」
お母さんは頷き、静かに微笑んだ。
幕末ネタ多くてなんかるろ剣みたいになってきた……




