二〇〇三年四月十九日土曜日 〜太平洋の向こうの剣友《下》〜
いきなり出てきた穏やかならざる話題に、源悟郎も、螢も気が引き締まる。
どこかで聞いたことがある名前だ、と螢は思い、そしてすぐに思い出した。
「……確か、医療関連の研究をしていた方だったと記憶しています」
「そうだよ螢ちゃん。……名前から察する通り、グオ博士は中国系だ。ゴールドラッシュの頃に渡米してきた苦力をルーツに持つ女性で、ボストンの大学にて医学博士としての頭角を表し、ついに去年末、トビヤ出血熱のワクチンの開発に成功した。まだ試作段階ではあるがね」
トビヤ出血熱。
一九八〇年代初頭、アフリカ諸国にて猛威を振るった、激甚な感染症。
トビヤウィルスを病原体としており、発症すれば致死率は八十パーセントを超える。主な感染経路は体液感染で、空気感染は確認されていない。しかしその感染力は非常に強く、ヒトにも獣にも感染して容赦無く命を奪う人獣共通感染症。
アフリカにて爆発的に流行するや、すぐに世界中の国が水際対策に躍起になった。アフリカ渡航歴のある者が発熱を示すたびに、そのことが大きく新聞に乗った。ほとんどの発熱者はマラリアであったが、アメリカでは二人、イギリスでは一人、中国では一人感染者が出てしまい、強制的に隔離された。
……ちなみに日本には、感染者は一人も入ってきていない。
「だが、彼女は不幸にも命を落とした。おまけに彼女のパソコンから研究データもごっそり消えていた。調べたところ、消された痕跡があったとのことだ。
警察の調べによって、同じ大学の研究員である一人の白人男性が容疑者として浮かび上がった。本人は容疑を否認しているが、博士の体内に残っていた銃弾と、彼が自宅に所持している銃の旋条痕が一致したらしくてね。おまけに彼はグオ博士とも対立しており、極め付けに酒の席で「白人の猿真似をして白衣を着ているアジア人は見るに忍びない」と言っていたことがあったそうだ。状況証拠と彼の価値観が、彼をクロだと告げてしまっている。
……彼女の死は、合衆国だけでなく、全人類の大いなる損失だよ。まったく残念でならない」
いたく残念そうにかぶりを振るウィルキンソン。
……報道ではなく、実際にアメリカに住んでいる人物の口から語られたことで、現在アメリカにて行われているアジア人への暴力事件という情報が、螢の中でより生々しさを増した。
しかも、元はといえば日本で起きた『神武閣事件』が発端であるというのに、日系人と中国系アメリカ人とが一緒くたにされて暴力の対象になっている。無知と粗雑さを感じさせる事件だ。
「悲しいかな、我が国には昔から黄禍論という基礎疾患がある。羽振の良い黄色人種を理屈抜きで脅威とし、敵視する思想が。……バークリーが、それを爆発させてしまったんだよ」
「……やはり、今の大統領は」
続く言葉を省いた螢の言葉に、元大統領は重く頷いた。
「言葉選びで巧みにマスキングこそしているが、バークリー現大統領が東洋人を強く嫌悪していることは間違いない。出来ることなら日米同盟も切ってしまいたいとも思っているだろうが、それでも彼は為政者だ、個人的感情を優先させるような真似はしないだろう。
することといえば、日米関係を上手いこと使ってアメリカの国益をなんとか得ようというくらいのものだ。軍事的に優位な立場を利用して日本側にいろいろと要求したり、さらには「アメリカに跪拝する日本」という図式を自国民、特に自分の支持者に見せつけてガス抜きと支持率維持を図る、といったところか。
だが彼はこともあろうに——日本に対して軍縮を提案してきた」
空気が張り詰めるのを感じる。
理由は、源悟郎だ。先ほどまでの緩んだ目元を鋭く引き締めていた。軍人としての彼の顔だった。
「君も知っているだろう、源悟郎。日本軍の保有する戦闘機やミサイルなどの兵器の数は、日に日に増大を続けている。兵器の次世代化も他国より抜きん出ている。先の戦争で攻められた国として当然の軍拡かもしれないが、そんな日本人の心情をきちんと汲んでくれる者ばかりじゃない。そして、そうでないアメリカ人の目には「脅威」と映るだろう」
「……現時点においても、日米の国力差は歴然なはずだ。何を恐れることがある」
「だが多くの軍事研究者は「アメリカの離島を電撃的に占領して橋頭堡を築く」程度の力は持っているとの分析みたいだよ。海に囲まれた島国ゆえの必要性だからか、海軍力と空軍力に関しては世界最高レベルだしね」
「そんなことをしても、帝国に利益など無い。今は一箇所を軍事力でつつけばたちまち全世界に影響が波及する時代だ。そんな無闇に敵を作るような真似は、こちらの首を絞めるだけで、何も得られない」
「だけど「可能である」という結果だけでも、人々は脅威に感じるものだ。まして日米は、同盟を結ぶ前はあまり仲がよろしくなかったのだから。……ゲン、君はバークリーの提示してきた軍縮案には反対のようだね」
源悟郎は腰を強く据えるように息を重く吐き「……どちらかといえば、反対だ」と告げた上で、
「だが一方で、軍縮にメリットがあるというのもまた事実だ。アメリカ側と同盟が出来ている今、軍縮することでその予算を他に回せる。……今の帝国に必要なのは、武器や兵員だけではない」
「経済復興、社会保障、他には傷痍軍人や軍人遺族への給金など…………確かにその通りだね。そのために最強の軍事力を誇る国との同盟関係は都合がいい。国防予算の膨張を抑制し、戦後復興にその予算を大きく使える。土の中でじっくり成長していく蝉のように、国を盤石にさせていくことも可能だ。そしてそれは、両国の関係が万が一切れたその時のための貯金となる」
「そうだな。……問題なのは、その時がほんの数年後に訪れたとしてもおかしくはないという点だ。国家間の関係など、その時の情勢や力関係でいくらでも変化する儚いものだ。
さらに、国内における反発も必至だ。先の日ソ戦の影響で、日本人の国防意識は高まったままだ。おまけに今は、欧米で増加しているアジア人への暴力事件の影響によって、対米感情も日に日に悪化している。そんな状況下で「バークリー軍縮」になど頷こうものなら、大きな反発がこの国で起こるのは火を見るよりも明らかだろう」
源悟郎の言う通りだった。
今はニュースメディアが昔よりも発達した時代だ。
海外で起こった事件が、現地報道支部を通して素早くお茶の間のテレビに流れる。
アジア人暴行事件の数々も、また。
今のところはっきりと騒ぐ団体は見られないが、アメリカに対する日本人の心証が少しずつ悪化しているのを、螢はそこはかとなく肌で感じていた。
……そもそも、同盟を結んだ直後も、コトが起こったのだ。
過激な国家主義者である名倉惟正が、当時の首相に斬奸状を送りつけた上で邸宅に押し入り、「一殺多生」と叫びながら襲いかかった。首相は無事だったが、警護役と女中を含めた十人が斬殺された。……その後、名倉は逮捕され、死刑判決を受けて豊島拘置所に収監された。
反米、反洋的な思想を強烈に抱いている者は、この国には昔からいたのだ。
もしも今の状況で、アメリカの言いなりになっているような有様を現政権が見せれば、名倉のような過激な思想の持ち主が支持されかねない。
ウィルキンソンが重圧を受けたように唸ってから、
「……痛し痒しだね」
「うむ……だが幸いなことに、現首相の蔵川泰三は、「バークリー軍縮」には断固反対の姿勢を貫いている。かつて北海道の北見市に住んでいた彼の姪は、先の戦争に巻き込まれて亡くなっている。軍事力の脅威を身近で知っているのだ。軍縮にはまず頷かんだろうな」
「なるほど……君は同盟国との安定的な関係よりも、自国の防衛力の強化と、国内の暴走の阻止を優先したいのだね」
「そうだな。興奮して思考を欠いた国家ほど、御するに容易いものはない。剣においても、冷静さを失う事が最も命取りだ。武蔵も「心を真ん中に置け」と言っていたしな。……だが、わしはもう軍人ではない。それに政治家どもにも、連中なりの考えがあるのだろう。それを端から引っ掻きまわすことなど、わしには出来ん。まして、なまじ影響力の強いわしの不用意な大言は、世間をいたずらに混乱させかねない」
「……君にとって「英雄」という称号は、まるで錘みたいだね」
「わしは、自分を「英雄」だなどと思ったことは、一瞬たりとも無い」
張り詰めた空気。
しかし、源悟郎は「ふぅ」と深く息を吐き、心身を緩め、
「……螢、もう一杯、濃茶を練ってはくれないか」
「ん」
螢は軽く返事をし、もう一度茶を用意し始めた。
多めの抹茶を少なめの湯で練り、再びビリジアンのような濃厚な茶液が出来上がった。
螢から始まり、輪のように回し飲む。
またしても、全員の心が緩み、溶け合い、輪になったような、柔らかな和合の感覚が生じる。全員が同じ茶の味と、匂いと、碗の質感を共有したからだ。
「……ゲン、私が君にこうして会いに来た理由は、察しはつくよね?」
「わしが死ぬ前に一度会っておきたかったから、か」
源悟郎の言葉に、螢は思わずジッと睨む。軽々しく「自分は死ぬ」なんて言葉を使わないで欲しい。
ウィルキンソンが、螢を向いて言った。……まるで、こちらの心を見透かしたような、穏やかでありつつも芯の入った語気で。
「親というのは、子供より早く死ぬものだ。君が「子」である以上、それは胆に銘じておかねばならないよ」
「……分かっています」
そんな風に言うつもりは無かったのに、少しばかり、その返し言葉には苛立ちが混じっていた。
分かっている。そんなこと。
でも。
いくら早く死ぬといったって…………あんな死に方は無い。
あんな、ひどい死に方。
「螢」
源悟郎の声。
「わしは確かに、お前よりも早く逝くだろう。だが、これは心臓が弱かろうが強かろうが、避けられない現実だ」
触れられてもいないのに、抱きしめられ、撫でられているような気分になる声。
「なればこそ、わしは出来る限り、良い死に方をしたいと思っている」
「……お義父さん」
「だが、それにはわしだけの努力では足りん。お前や、コウ坊や、香坂君や、エカテリーナさんが、笑っていてくれなければ叶わないことだ。……そうすれば、わしは約束できる。お前に訪れる二度目の親との別れを、悲惨なものにはしないということを」
螢は目を見開き、そしてすぐに目元を緩める。
……何もかも、お見通しということか。
螢の本当の両親は、先の日ソ戦で酷い死に方をした。
それを螢は「無抵抗を是とし、侵略者に良心を期待した末路」だと唾棄していた。
しかし、それはあくまで、両親の死に対する考えの一つに過ぎなかった。
……その無惨な離別は、螢の中で今なお、深い傷となって残っている。
悲しくないわけが、なかった。
それを見通した上で、この大きな義父は、そんな自分にとって悲しみの少ない死に様をすべく努力したいと言っている。
これが、子より生い先短い親として、命数に限りある人間として、源悟郎の取り得る最大限の努力と配慮。
——蘇りかけていた、かつての「喪失の苦しみ」を、螢は強引に押し留めた。
「……これからは、少し落ち着くことにする」
螢はそう、小さく呟いた。
源悟郎に配慮したからって、心の傷が癒えるわけではないけれど。
それでも、源悟郎がここまで言っている以上、自分もくよくよ悲観してばかりいられない。
……自分も、もっと強くならなくては。
「——やれやれ、年寄りは駄目だね。すぐに茶が台無しになるような話ばかりしてしまう。これからはもう少し楽しい話をしようじゃないか」
ウィルキンソンが、そう和やかに会話を仕切り直した。




