二〇〇三年四月十九日土曜日 〜太平洋の向こうの剣友《上》〜
剣での語らいの後は、茶の湯での語らいとなった。
ウィルキンソンとその護衛二人を望月家の居間へと招き、濃茶でもてなすことに。……ちなみに運転手の後藤は遠慮をして席を外し、今は別の部屋で待機している。
濃茶とは、茶道の作法である「濃茶点前」の略称だ。
大盛りの抹茶を少量の湯とともに練り上げ、文字通り濃厚な茶を作り、それを客人同士で回し飲むというものである。
千利休の生きていた安土桃山時代では、茶といえばこの濃茶を指していた。
居間でいつも使っている低いテーブルを一時的に撤去し、まっさらな畳部屋とし、全員で座布団を敷いて円のように座する。その中には、護衛二人も含まれていた。
『君たちも遠慮せずに加わりなさい。これは命令だよ?』
螢の誘いを一度断った護衛らに、ウィルキンソンが茶目っ気たっぷりにそう訴え、おずおずと参加することが決まったのである。
しかし、ウィルキンソンならともかく、アメリカ人には基本的に正座の習慣が無い。二人の巨漢は慣れない正座にやりにくそうにしていた。
「慣れないのなら、足を崩しても構いません」
螢がそう英語で告げると、二人は一言感謝し、胡坐をかいた。
それを目にしてから、螢は大きめの碗の中に大盛りの抹茶を入れ、鉄瓶で湯を控えめに注ぎ、茶筅で練り始めた。
繰り返すうちに、ビリジアンの絵の具めいた深緑色の茶が練りあがった。
それを、まず螢が一口飲み、
「どうぞ」
「ありがとう」
隣のウィルキンソンの渡した。
ウィルキンソンも一口飲み、隣の黒人の護衛に渡す。
黒人の護衛が一口飲んでから、さらに隣の白人の護衛に渡す。
白人の護衛が飲むと、隣の源悟郎へと渡す。
源悟郎が飲んだことで、ちょうど碗の中の茶は乾いた。
……まさしく、一杯の茶によって、全員の心身が円のごとく繋がったような。そんな程よく弛緩した雰囲気がそこにはあった。
一周して空になった碗を受け取った螢が、問いかけた。
「お服加減はいかがでしたか」
「美味しかったよ。ありがとう螢ちゃん。上手だね」
称賛を送ったウィルキンソンに対し、いつもの銀鈴の声音で「学校で習いましたので」と述べる。
「良い服加減であった」「Thanks」「Tasty」……他の三人からもそう言われる。
「螢ちゃんも、今年で十八か……早いものだねぇ。賢くて剣も達者で、おまけに茶を知っている。もう立派な淑女だ。殿方が放っておかないんじゃないのかな」
「……まぁ」
やや茶化したウィルキンソンの口ぶりに、螢は曖昧に返事をした。……脳裏に、弟弟子である三つ年下の少年を思い浮かべながら。
「ゲンも、すっかりおじいさんだし。十三歳から君を知っている身としては、感慨深いものを感じるよ」
「その言葉そのまま返すぞ、レイ」
「しかも一人称も「わし」だしね。昔は「僕」だったのに」
「レイ……」
昔のことを蒸し返されたのか、源悟郎がややバツの悪そうな様子を見せる。……あまり見たことのない顔だった。
「そうなんですか」
螢は思わずウィルキンソンに追求していた。義父の昔話には、大いに関心があった。
それに対してウィルキンソンは、面白そうな笑みを浮かべて、
「今ではこんないかめしいお爺さんだけど、昔はもっと繊細で、泣き虫だったんだよ」
「他には」
「螢……」
源悟郎が、やや恥ずかしそうに顔を片手で覆って唸った。
ウィルキンソンが笑いかけ、
「いいじゃないか。義理とはいえ、この子はもう立派な君の娘なんだ。もう少し昔の話もしてあげようよ。……私も君も、もう老い先短いんだから」
「……むぅ」
源悟郎が複雑そうな顔になる。
こういう義父は新鮮だった。螢は無表情をしながら内心で面白がっていた。
「私がゲンと出会ったのは、お互い十三歳の頃だ。私は当時、日本の熊本にホームステイをしていたんだが、そのホームステイ先の家の娘にゲンが片想いしていてね。彼がその娘の家まで行って告白して撃沈したその日に、私達は出会ったんだ。……ゲンのやつ、好きな娘の家に男の私が住み込んだことに焦ったらしいんだ。それでアプローチをすっ飛ばしていきなり告白したんだよ。不器用な奴だろう? 私には本国にガールフレンドがいたのにね」
ウィルキンソンは、懐かしむような口調でそう語る。
さらに胸が躍る螢。悩ましそうに顔をしかめる源悟郎。
「フラれて呆然と立ち尽くしていたゲンに私が声をかけたら、ゲン、大泣きしだしてね。私が宥めることになったのさ。なけなしのお金でラムネを奢ってあげたりしてね。それから私達は仲良くなった。ゲンの剣の師匠には、それからすぐに出会って、弟子入りをすることになった。……宮本武蔵は私にとって、剣という人殺しの道具を哲学の域にまで高めた、かっこいい日本人だった。二天一流の魅力にもすぐに虜になったよ。帰国後も、暇を見つけては師範の元へ通い、ようやく免許皆伝できたのさ。ゲンよりも十年以上かかったがね」
「それはそうだ。剣にはわしに一日の長があったからな」
反撃のつもりなのか、源悟郎が少し得意になっていた。そんなところも新鮮で、螢はさらに楽しく思った。
「……まぁ、師範の葬儀に参列できなかったのは、今でもとても心残りになっているけどね」
「仕方があるまい。お前はその頃、本国で大事な選挙を抱えていたんだ。それに師範は前触れもなく、突然身罷られたのだ。予想などつくまいよ。……わしとて、師範の死に目には立ち会えなんだ」
二人は少ししんみりした空気になる。剣師との死別を思い出しているのだろう。
「それにしても、君が軍人志望なのは知っていたが、まさか大将にまでなってしまうとは思わなかったよ」
「同意見だ。本当に、なぜわしなどがな……」
しみじみと語る源悟郎。
……源悟郎が軍人になった最初の理由は、立派な護国の志とか、そういうものではない。
家が裕福でなかったためだ。
士官学校は、受かるのは難しいが、入ってしまえば学費はタダなのである。なので中流以下の家庭の子供が目指すことも少なくない。源悟郎もその一人だった。
そして見事合格し、その後も陸軍大学校で恩賜組に入って頭角を現し、その後も出世を続け……やがてはこの国を救った英雄の一人となった。
「……君が将として戦う戦の時に、大統領になれていたのは、宮本武蔵先生のお導きなのかもしれないね。私と君、まるで二刀が一つの戦いに挑むように、武蔵と師範の祖国と、国際秩序を守るに至ったのだから」
ウィルキンソンがしみじみ口にしたのは、当然ながら、先の日ソ戦のことだ。
——彼は日ソ戦が起こった頃の大統領で、なおかつ日本に惜しみない援助を与えて、戦勝に大きく寄与した。
日本国民には「戦う意志」がある。誰もが祖国とそこの子々孫々の世を守るべく剣を取った、国籍や人種に関係無く、称え、助けるに値するサムライであると。七百年以上前の元寇の時と同じく、たとえ相手がどれほど強大でも、彼らは決して剣を離さないだろう——ウィルキンソンはそう熱弁を振るい、継戦物資の多大な援助を行った。
天は自らを助くるものを助く。洋の東西を問わず、己の存在を守るべく奮戦する者に、人々は心を揺さぶられるものだ。そこへウィルキンソンの熱弁も手伝って、当時のアメリカ国民の半分以上が日本への援助を支持した。
……もっとも、ウィルキンソンが日本への援助を積極的に訴えたのは、ただ単に大統領の好みではないのだろう。
日本領土の一部でも占領されれば、そこはたちまちソ連の不凍港として使われ、太平洋進出のリスクが大幅に高まる。それはアメリカの安全保障上看過できない状況だ——ウィルキンソンは大統領就任前から、日本と手を組むことで得られる国益を盛んに国内へ説いていた。
いずれにせよ、ウィルキンソンが大統領というポストに着いていなかったら、日本への援助は叶わなかったかもしれない。
さらにそれが無かったら、戦争は泥沼化して、国内リソースをもっと費やしていたことだろう。……戦災孤児という身の上であるゆえ、あまり考えたくない可能性だが、敗戦もあり得たかもわからない。
「そう……なのかもしれんな」
源悟郎の表情が、突如影を落とす。
「だが、その代償に……わしは沢山の人間を殺したのだ。わしが下知を送ったがために、大勢の兵が命を落としたのだ」
「ゲン、それは」
「その中には、わしと面識があった者、階級を超えて剣士として親睦の深かった者、わしなどを尊敬してくれた者……そういった、わしと繋がりのあった者もいた。それをわしは指差し一つで死なしめた。その中には、死ななくてよかった命もあるかもしれない。わしの無能が殺した命もあったかもしれない。そしてわしは、そんな彼らの死を数字として、後方で眺めていたのだ。そうして得たのが護国の英雄という国民的称賛と、帝の御下賜品の刀だ。わしは死人が積み重なって出来た階段を一人で登ってそうなった。わしは英雄などではない、本当の英雄は前線で勇敢に戦って殉じた者達だ、わしはそんな彼らの骸を宝物と名誉に変えただけの——」
「——お義父さん」
螢が、源悟郎の腕を掴んで止めた。太い腕なのに、随分痩せているような錯覚を感じた。
源悟郎がハッと我に返る。それから深呼吸を二回してから「……すまない」と落ち着きを取り戻した。
螢はジッと義父を睨み、強めにたしなめた。
「本気で謝って」
「す、すまなかった……」
大きな体が小さくなったように見えるくらい、済まなそうにする源悟郎。
……源悟郎は先の日ソ戦の話をする時、このようになりがちだ。
確かに彼はこの日本においては、超大国の侵略から国を守った英雄なのかもしれない。
しかし、世間的名誉を本人が喜ぶとは限らない。
事実、源悟郎はずっと苦しんでいる。
知っている者も含めた多くの部下を死なせてしまい、自分が生き残って賞賛を受け続けてしまっていることに、負い目を感じているからだ。
日ソ戦の話題は、源悟郎にとって強いストレスになる。心臓の弱っている今の彼にはなおのこと。
ウィルキンソンも同じように、申し訳無さそうな表情を浮かべる。
「すまなかったね、ゲン。君は……あの戦争の時のことをずっと気に病んでいたのだったね」
「……うむ。こればかりは、何年経っても、どうも治らん」
それから少しの間、場が沈黙する。
源悟郎は見ての通り。螢もウィルキンソンも、そんな彼が立ち直るのを待っていた。護衛二人は、ただ黙って警護対象の守護に徹するのみ。
しばらくして調子がいつも通りに戻ってから、源悟郎が口を開いた。
「ところでレイ、アメリカで弟子は取っているのか?」
弟子というのが「二天一流の」という意味であることは、言うまでもない。
ウィルキンソンは少し嬉しそうに、
「一人ね。螢ちゃんくらいの年頃の、アフリカ系の青年だよ。武蔵の大ファンで、肖像画のレプリカを部屋に飾るほどだ。剣の筋も良い。あとは日本語力さえ磨けば、私の二天一流を継ぐのも不可能ではないよ。……ゲン、君もその二天一流を、誰かに伝えたのかい?」
「今年一人、皆伝者が出た」
「それはなにより。亡き師範も、そして武蔵も喜ぶだろう」
ウィルキンソンがにっこり笑った。
混じりっけなしの白人であるはずなのに、妙に日本人めいたものを感じさせる元大統領の笑みを見つめながら、螢は思った。
——螢がウィルキンソンに初めて出会ったのは、十二歳の頃だ。そして今回が二回目である。
しかしそれ以前にも、この二人はこのようにして時々会い、話をしたり、剣で語ったりしていたらしい。
そんな弟弟子が、今になってここへ訪れた理由。
……今年、源悟郎が彼との国際電話で「心臓が悪化した」と話したからだろう。
螢はそれ以上考えるのをやめた。考えたくなかったから。
ウィルキンソンが、改まった口調で尋ねてきた。
「そういえばゲン、君は二天一流ではなく、至剣流でも弟子を二人ほど取ったそうじゃないか。今日はそのお二人はいないのかな?」
「今日は螢を除いて、弟子達には席を外してもらった」
「別に同席してもらっても構わなかったんだけどね」
「あの子らを信じていないわけではないが、お前は元とはいえ国家元首なのだ。多少扱いが大袈裟になるのはご了承願いたい。……おまけに、今が今だ」
ウィルキンソンが残念そうに、難しそうに唸る。
少し間を置いてから、彼の口から言葉が出てきた。国家元首だった頃のような、厳かな響きを持って。
「——去年の十月、シェリル・グオ博士が殺害された」




