二〇〇三年四月十九日土曜日 〜二つの剣〜
望月家の稽古場の中は、澄んだ静寂に満ちていた。
そこには現在、六人の人間がいる。
しかし、誰もいないように思えるほど、存在感が希薄だった。
まるで、この澄んだ静寂に溶けて馴染んでいるように。
——稽古場の中央に立つ、二人を除いて。
木刀一本を両手で握る源悟郎、
右手に長木刀、左手に短木刀を握るウィルキンソン、
遠間をとって向かい合う二人だけが、この場において確かな存在感を放っていた。
……望月家へ来訪してすぐに談話を始めるのかと思いきや、二人は着の身着のまま木刀を取り、望月家敷地内にあるこの小さな稽古場へ訪れた。
いつもは警護対象であるウィルキンソンから付かず離れずの距離感を保っている護衛二人も、今では螢や後藤とともに稽古場の端で立ち、二人の剣を静かに見ていた。……国籍や文化背景が違っても、これから行われる事が、世俗的理由で侵すべからざる儀式に等しいものであると直感的に解った。
——アメリカ合衆国シークレットサービスは、元々は偽造通貨の取り締まりを目的として、財務省に作られた組織だった。
南北戦争中、南軍の作った偽札が大量に流通した。貨幣経済を著しく混乱させかねない偽造通貨の根絶は、国家にとって急務だった。そのための秘密組織として出発した。
一九〇一年のマッキンリー大統領暗殺を期に、大統領警護の任もシークレットサービスに回ってくるようになった。……シークレットサービスの警護官的性質は、この頃に端を発している。
ちなみにシークレットサービスには、大統領を含む警護対象をコードネームで呼ぶ習慣がある。
警護対象にアルファベット一字を与え、その一字から始まるコードネームを本人に考えさせるのだ。
……ウィルキンソンのコードネームは「Fencer」。
その由来は、今見ている通りである。
二人が、おもむろに動く。
源悟郎は、正面を向いたまま、木刀を右肩に担ぐように構えた。
ウィルキンソンは、長短木刀を肩の高さで水平に伸ばした。鼻先の延長線上で切っ尖同士を付かず離れずに近づけ、胴体・腕・二刀によって水平の輪を作ったような構え。
源悟郎が、構えを維持したまま、音も無く左足を一歩進める。
「ズゥゥゥゥゥゥ——」
すると、ウィルキンソンは輪みたいな構えのまま、奇妙な声を発した。
巨大な石材を稽古場の床に引きずるような、厳かな重低音。
護衛二人の踏みしめる床が、ビリビリと震えていた。
まるでウィルキンソンの体が巨大化し、体重すらも岩のように重くなっているような。
視界の景色達が、そんなウィルキンソンから逃れるようにあさっての方向へ引っ張られ、自分だけが取り残されているような。
護衛二人は、揃ってそんな奇妙な錯覚に襲われた。
そう、錯覚だ。それはわかっている。
しかし、それでもその錯覚は、心からなかなか離れてはくれない。
……護衛二人は、シークレットサービスの訓練課程において、柔術も多少学んだ。
日本において『帝国制定柔術』と呼ばれているものだ。
これは非常に優れた戦闘術だった。制圧術と殺人術が表裏一体となっていて、片方に習熟すればもう片方も自ずと上達する。おまけに学びやすく覚えやすい。世界中の軍隊からテロリストまで幅広く学ばれ、改良して新たな軍隊格闘術を作る者もいるほどだ。
しかし、今、目の間で行われている剣術は、合理性や有用性をも超えた、極めて高邁で巨大な「何か」を感じさせた。
——これが、宮本武蔵の剣術か。
「ゥゥゥゥゥゥゥゥ——」
なおも重低音を発して二刀を構えながら、ゆっくりと前へ足を進めていくウィルキンソン。巨大な存在感が重厚に動く。
剣に触れられずとも、その存在感そのものに押し出されたみたいに、源悟郎の足が一、二、三、四歩後退。
ウィルキンソンが止まるのに合わせて、源悟郎の後退もまた止まる。
両者とも、相手の間合いの半分を剣で侵した位置関係。
「ゥゥゥゥン…………」
ウィルキンソンが重低音を尻すぼませながら二刀をおもむろに持ち上げていき、声が止まると同時に二刀の上昇も止まる。
二刀とも、時間が止まったかのように、両耳の真上辺りにとどまっていた。
やがて、ウィルキンソンが一歩踏み出す。
それと同時に、二刀も上段から下段へ垂直に振り下ろされた。
……非常にゆっくりとした振りだが、筋力的な加速度にモノを言わせた感じがいっさいしない。地球の重力と、それを受けた木刀の力の流れに完全に沿った、滑らかな太刀筋。
「————断」
岩に鉄杭を打ち込む音を連想させる、静かで、それでいて凝縮された掛け声。声だけでウィルキンソンの足元に穴が穿たれそうな、研ぎ澄まされた気勢を感じた。
源悟郎が右足を後退させて、木刀を右肩あたりまで持ち上げ、それを前へ放つ。
刹那。
「——絶対!!」
これまでスローに徹し続けていたウィルキンソンの二刀が加速した。
左手の短木刀で源悟郎の一太刀を防ぐと同時に、右手の長木刀で源悟郎の左手首へ送り寸止めさせていた。
攻撃と防御をワンテンポで電撃的に行う合理的な剣技。
しかも加速時の剣の動きも、今までの剣同様に虚空を滑るような軽やかさがあった。
……もしもウィルキンソンの持っているモノが本物の日本刀であったなら、その刃は瞬時に源悟郎の動脈深くまで分け入っていただろう。
ウィルキンソンがその場から一歩後退。
双方構える。
そこからさらに双方二歩退がり、深く蹲踞。
そのまま双方とも、床に己の木刀を置く。
源悟郎はまっすぐ前向きに、ウィルキンソンは短木刀を下にした「×」の形に。
ウィルキンソンの長短木刀の「×」の股に、源悟郎の木刀の剣尖が向いた位置関係。
双方はなおも蹲踞を維持したまま、右手甲を左手で下から握る形を作り、一礼。
……日本剣術ではこういった礼法を、ある意味剣技以上に大切にするそうだ。そういう思想が、単なる殺人目的の戦闘術とは一線を画した哲学性や宗教性を付与しているのだろう。
二人は、ゆっくりと立ち上がる。
儀式を行うかのように常に厳粛だった二人の目つきと顔つきが、緩んだ。
「——良い剣だ。レイ」
源悟郎はそういって笑う。……護衛二人は、以前より源悟郎の顔はテレビや写真で見知っているが、こんな気持ちのいい笑みは見たことがなかった。
「——ありがとう」
ウィルキンソンも、同じような笑みを浮かべて返事をした。
「では、もう居間へ行こうか。……螢、濃茶の用意を頼めるかな」
源悟郎の言葉に、螢は「ん」と小さく頷いた。
†
僕とギーゼラさんの手合わせは、竹刀を使ったものに決まった。
ギーゼラさんは木刀でも良いらしかったが、父親である陽司さんの顔を立てたのか、比較的安全な竹刀を使うことに決めた。そして双方ともウチの物だ。
見ての通り、僕とギーゼラさんは性別が違って、しかもギーゼラさんは女子にしても小柄な方だ。螢さんよりもさらに少し小さい。なので僕の使う竹刀が体に馴染むのか心配になったが「問題は無い」とのこと。
そういうわけで、僕らは勝手口から裏庭に出て、その中央で遠間に向かい合った。
装いは双方、私服だ。
僕は長袖シャツとジーンズという装い。
ギーゼラさんは長袖シャツにチェックのワンピース。
互いの左手に提刀された、使い込まれた竹刀の存在だけが、これから行われることを唯一、しかし雄弁に語っていた。
勝手口の傍らには、お母さんと陽司さんが立って見ていた。前者は興味深そうな微笑を、後者は困ったような表情を浮かべながら。
そんな二人に一瞥もくれず、ギーゼラさんは挑戦的な笑みを交えて告げた。
「——もっかいルールを説明するわよ! 互いの竹刀が、先に相手の体に触れた方の勝ち。強弱は問わない。競技撃剣とほぼ同じね。ただし面・小手・胴に限らず、体のどこでも良い。本物の刀だったら、どこ当たってもまぁ致命傷だしね。そういうつもりでかかってきなさい!」
僕は頷いた。
それを見るやいなや、ギーゼラさんは竹刀を右手で抜き、中段に持ってくる。後から柄頭の辺りを左手で握り、構えは完成。
僕もまた同じように、竹刀を中段に構えた。「正眼の構え」。
剣尖が、視線が、意識が向き合う。
抑制された、しかし今にも爆ぜそうな火山めいた気を、ギーゼラさんから感じる。
なおも困った感じな表情を崩さぬまま、もうどうにでもなれといった口調で陽司さんが開始を告げた。
「——よし、始めっ」
ギーゼラさんの性格上、すぐに飛び出してくるかと思ったが、彼女の出だしはゆっくりとしたものだった。
僕と同じような中段を維持しながら、ぬるり、ぬるりと近づいてくる。
硬そうな黒い編み上げブーツがナメクジみたいに見える、粘度の高い運足。
油断はいけない。ゆっくりした状態からいきなり急加速する可能性もある。そして彼女の速さは驚異だ。去年の天覧比剣千代田区予選でそれは目にしている。
僕も構えたまま、ゆっくり斜め右へ後退する。
……ギーゼラさんは僕と正対している時、構えた竹刀の剣尖が「点」にしか見えない絶妙な角度に調整している。あれだと竹刀の遠近感が掴みにくい。なので横へズレることで、彼女の竹刀の全体像を視認する。
ギーゼラさんはすぐに僕との正対の関係に修正し、さらに近づく。
僕は退がりながら、もう一度右へズレる。
彼女はまたそれを追いかける。また剣尖と視線が噛み合う。
やがて両者の竹刀が近づき、剣尖同士がすれ違おうとした瞬間——互いの剣が閃く。
ギーゼラさんの剣は、僕の剣を上から押さえ込もうとして。
僕の剣は、ソレから逃れる形で、右こめかみまで持ち上げられたことで。……右上段で剣尖を前へ向けて平行にした「稲魂の構え」。
——そこから、剣戟は本格化した。
「稲魂の構え」から『電光』を放とうとして、すぐに思いとどまる。
……僕は男子にしては小柄だが、それでもギーゼラさんよりは高い。さらに単純な力も僕が上だ。それはギーゼラさんとて承知しているはず。
であれば、体力的に優れた僕の放つ『電光』の威力を警戒するだろう。
何より、至剣流の内容は世間に広く知られており、「稲魂の構え」から発する技が『電光』であることも定番として知られている——
僕は素早く斜め後方へ跳んだ。
それから半秒と経たぬうちに、ギーゼラさんが俊敏に前進。その途中に、僕の直前までの立ち位置を竹刀で一閃。残像が両断される。……僕の『電光』の剣速に匹敵する速さだった。
去年よりもさらに磨きがかかったその剣速に舌を巻く暇も無かった。ギーゼラさんは少しも速度を緩めることなく、まるでピンボールが跳ね返るような鋭角軌道を取る形でこちらへ戻ってきて、懐へ滑り入ってきた。
引き絞られた竹刀の剣尖が、ギーゼラさんの右脇腹の隣から突出している。体当たりという形で突く気だ。後方へ逃れても剣尖を伸ばされるから逃げられない。
なら横へ逃げればいい——僕は踊るように身を反時計回りに捻り、ギーゼラさんの左後方へ瞬時に移動。彼女の刺突から逃れると同時に、その背中へ向かって竹刀を振り放った。至剣流『颶風』。
「——きゃはっ!!」
が、彼女もそう来ることは想定内だったようだ。全身を時計回りさせて後退と振り向きを一瞬で済ませ、同時に竹刀を右へ薙いだ。……虚空を切り裂いた僕の太刀筋に、後ろから瞬時に追いつき、衝突。
「っ……」
僕の振りの力に、ギーゼラさんの一撃が加えられたことで、剣が強制的に加速させられた。このままだとこの望まぬ加速の勢いを止めようと、体が勝手に硬直してしまう。そうなったら隙になる。速攻にモノを言わせたギーゼラさんの剣を相手にそれは致命的だ。
だからこそ、この流れに身を任せた。身の捻りによって、反時計回りに流れる我が剣をさらに加速させ、再び己の太刀筋に戻した。
その太刀筋は、僕の全身を旋風のように包み込む。至剣流『旋風』。
死中に活を見出す形で成された攻防一体の太刀に、さすがのギーゼラさんも足を止める。
しかしそれは一瞬だった。
僕の剣が周回し、右袈裟として発せられた瞬間、彼女は稲妻のように深く踏み込んで、右から剣を放った。
彼女の竹刀の鍔近くの部分と、僕の竹刀の半ば部分が衝突。……受け止められた。
ギーゼラさんは止まらない。素早く踏み込みながらの刺突。
僕はそれを後退しながら竹刀でさばく。
だが次の瞬間、ギーゼラさんの姿が目の前から消えた。
僕は振り向きざまに剣を振る。
ギーゼラさんが僕の背後から放った一太刀と切り結ぶ。
「きゃはっ、よく反応したじゃない! コレが溝口派の得意技だって情報は知ってても、なかなか避けられる人っていないのよね! アタシ速いから!」
「人が消えるなんてあり得ないし、いるとしたら目の届かない後ろだと思ったから、ねっ!」
後退しながら小手に竹刀を滑らせようとしたが、ギーゼラさんがそれを察知してシュビッと竹刀ごと手を引っ込めて逃れ、そしてまた突っ込んできた。
そこから再び繰り広げられる、太刀の応酬。
虚空に幾度も刻まれるギーゼラさんの太刀筋は、閃くような疾さでありつつも、途切れが無く滑らかで、おまけに狙いが緻密だった。
それがあらゆる角度から、あらゆる軌道で飛んでくる。
その場しのぎな対応では、いずれその速攻の数々に物量で斬り刻まれるため、今の一手だけでなくもう一手先をも防ぐつもりで動かないといけない。
歩法もまた、その素早い剣技と同調するように速く、そして小刻みだった。時に僕の反撃を最小限の移動だけで回避し反撃したり、時に一瞬で僕の背後へ回り込んで剣を発してきたりする。
(これが、「鬼佐川」も体得してたっていう、溝口派一刀流か……)
——溝口派一刀流は、かつて会津藩士らの間で伝えられていた剣術だ。
剣術にしては珍しく、打太刀が仕太刀に勝つという型構成をしているらしい。
その構成が示唆している通り、攻めを重視した非常に攻撃的な剣法。
俊敏かつ変化に富んだ太刀筋。小刻みな歩法。
その得意技は、相手の後方へ素早く回り込んでの一太刀。
戊辰戦争で奮戦した会津の猛将、「鬼佐川」こと佐川官兵衛も体得していたという。
家禄三〇〇石の家の長男として生まれた佐川官兵衛は、昔から武芸が達者で、喧嘩も強く、同年代で右に出る者がいなかった。若い頃からすでに猛将としての頭角を現していた。
戊辰戦争においては朱雀隊を率いて勇猛果敢に戦い、松平容保公による降伏宣言がされてもなお「敵は姦賊なり」と叫び、鶴ヶ城城下におけるゲリラ戦を続けたという。
その後は斗南藩での移住生活を経て、西南戦争時に警視庁抜刀隊へ加わって戦い、阿蘇山で戦死。……最期まで勇敢な武人であり続けた。
恥ずかしながら、僕はそんな「鬼佐川」と肩を並べて戦った朱雀隊隊士の子孫でありながら、溝口派がどういうものか詳しく知らなかった。だから、今日ギーゼラさんが自分の流儀を名乗るまで、彼女の剣が溝口派だと分からなかった。
……やはり今日は、この剣戟も含めて、僕のルーツに深く関わる一日なのだ。
上段から中段へ振り下ろされた瞬間に軌道を直進へ急変させた彼女の竹刀を、僕は斜め右へ退歩して避ける。
彼女はまた近づいてきて、小手を打とうとしてくる。
僕は足腰を一気に反時計回りに捻った。全身運動で生み出した急激な振動が竹刀にも激しく波及し、それによってギーゼラさんの竹刀を左へ強く弾く。それと同時に彼女へ向けた剣尖を、ほぼ間を作らずに反撃の刺突として活用した。至剣流『鴫震』。
僕の刺突が彼女の鎖骨部分に当たる——寸前に、ギーゼラさんの立ち位置が僕から見てわずかに右へズレて、虚空を穿った。同時に己の剣もまた引き寄せ、その過程で僕の胴を打とうとしてきた。
僕は一歩退く。足腰ごと竹刀を引っ込めて垂直に構え、それをどうにか防いだ。
ギーゼラさんへ瞬時に向き直りながら剣を発する。その剣が、ギーゼラさんの放った一太刀と再び強くぶつかった。衝撃が互いの骨格を介して地中に染み渡る感覚。
彼女の剣が静まったのは、そのほんの一瞬のみ。再び跳ねるような速さで剣とともに動き出し、僕の顎部分へ飛来。一歩引いて避けるが、また虚空で跳ね返るように一太刀が停滞なく進路変更して迫る。
それも防ぐ。
次も。その次も。
「きゃははっ! 涼しい顔してよく持ち堪えるわね! 天覧比剣優勝は伊達じゃないってわけ!!」
心底愉快そうに言いながら、しかし太刀の連撃を少しも休めないギーゼラさん。
この小さな体のどこにそんな体力と爆発力があるのか、彼女は今なお息切れひとつせぬまま、縦横無尽な体捌きと剣をいっさい緩めない。
だが、それ以上に驚いていたのは——そんな彼女と、ほとんど苦もせず打ち合えている自分に対してだった。
わかる。
ギーゼラさんの次の動きが、だいたい予想出来る。
彼女の動きのほんのワンフレームを見ただけで、その次にどう動くのか、その予想が一瞬にして脳裏にいくつか浮かぶ。
複数の予想を把握した上で、それらの予想をすべて制するための「一動作」をすぐに思いつき、実行できるようになった。
「影響の連鎖」を読んだ時のように、正確無比な予測はできない。
しかし、去年に比べて、頭で考える労力が軽減されている。
——螢さんは、これを「読み」の能力の発達であると言った。
達人と呼べる域に近づけば近づくほど、五感から伝わる情報の取捨選択をする能力が向上するという。
取るに足らない小さな情報でも、それらを寄せ集め、要るモノと不要なモノを取捨選択し、統合させて、一つの予想図を組み上げる——これが剣士の「読み」の能力だ。優れた剣士ほど、この能力が優れている。
そして剣術とは、体をひたすら動かすものだ。実のある稽古を長く積み重ねていれば、人間の体がどういう体勢でどこまで動けるのかが解るようになっていく。剣の上達と並行して、人体への理解度が上がるのだ。
ゆえに、一番最初に育つ「読み」の情報収集能力は、視覚である。
『特にコウ君は、人体の動きを「目で見る能力」がずば抜けて優れている。だからこれほど早く「読み」が育った』というのは、螢さんの言葉だ。
……ゆえに、僕はギーゼラさんの速攻の数々にも、冷静に対応できている。
人間が戦いの時に冷静になれないのは、どうすればいいのか分からないからだ。
だからこそ、「読み」に優れて、ある程度の予測ができるようになると、冷静にもなれる。
だからこそ、稽古で培った剣を、極力歪めることなく繰り出せるようになる。
だからこそ、僕は「この技」を冷静に使うことができた。
湧泉——土踏まずの真ん中辺りにある経穴で大地を踏みしめる。
頭頂部まで垂直に跳ね返ってきた反力から、大地の存在を感じとり、そこに立つ己の骨格の形を認識する。
大地と剣尖。それら二点を両端と認識。
姿勢と持ち方を整え、その二点との間に「疎通」を作り出す。
結果、地を踏んで返ってきた反力が、余す事なく剣尖に集中する。
その剣尖が——斬りかかってきたギーゼラさんの竹刀を貫通した。
僕らの使っている竹刀は両方ともウチの物だが、この手合わせを行う前にギーゼラさんも入念に確かめた。他人の武器を借りて戦うのだから当然だ。
その上で、彼女は確かに確認した。竹刀の隙間はしっかり閉じられている、と。
にもかかわらず、僕の放った『浮船』は、竹刀の竹材の間に割り込み、貫いていた。……型通りに、竹刀を切っ尖で受け流しながら突くことには失敗したようだ。
「な——」
ギーゼラさんは驚くが、それでもなお動きは休めない。自分の竹刀に挟まった僕の竹刀を手前へ引こうとする。
だが——その前に僕が、右手足を先んじて彼女の懐へ深く入り込んだ。
左手で竹刀を握ったまま、彼女の肋骨の辺りに右腕を滑り込ませる。そのまま腰を時計回りに捻り、彼女の踵へ回り込ませた右足を支点にして彼女の上半身を傾けた。——ここ最近螢さんに教わり始めた『帝国制定柔術』の一手であった。
「く——!?」
バランスを大きく崩して仰向けに地面へ倒れるギーゼラさん。その拍子に、彼女の竹刀に挟まっていた僕の竹刀が、彼女の倒れる重みによってスルリと抜けた。
互いの剣が自由になる。
太刀を発したのは、同時だった。
僕の竹刀が彼女の足首を擦り、彼女の竹刀が僕の小手を擦ったのもまた、同時だった。
「——それまで!!」
陽司さんの声が、中庭に響いた。
僕ら二人とも、動くのをやめた。
そんな僕らに陽司さんが歩み寄り、僕らを交互に見て、告げた。
「お前達、この勝負、どっちが勝ったと思う?」
彼は、勝敗の宣言はせず、それを僕らに尋ねてきた。
僕とギーゼラさんは、同時に答えた。
「「——引き分けです」」
それからお互いに顔を見合わせ、吹き出した。
ちなみに「fencer」は、より正確にはフェンシングの剣士という意味らしいです。




