悪いニュース、そして悪いニュース
稽古はお昼に終わり、各々シャワーで汗を流して着替えてから、螢さんの手料理(ここ重要)をご相伴に預かる。望月家における恒例行事だ。
今日もその恒例に漏れず、螢さんの料理をいただくことになった。
昨日の残り物で申し訳ないけど、と言って出されたビーフシチューは、全然申し訳なくないほど美味しかった。……螢さんがお嫁さんになったらこんなご飯を毎日食べられるのかぁ、といういつもと変わらない感想を抱く僕。
食べ終わったお皿の片付けを行う螢さんを、僕も手伝う。
後片付けは全然苦ではなかった。
むしろ、螢さんと隣り合わせで皿洗いをしている状況に、新婚さん気分を仮想して楽しんでいた。
本物の新婚さんなら、軽い悪戯にほっぺたにチュッてやったり、あの長くて綺麗な髪の中に鼻先突っ込んだりするんだろうか。さすがにそこまでは出来ないけど、今は螢さんと肩が軽く当たるだけでも幸せだった。柔らかくも、内側に硬い芯が詰まったような感触。あと、ミルクっぽい螢さんの匂い。
……食後の皿洗いは、煩悩に満ちた幸せな時間だった。
片付けを終えた後は、食後のお茶出しだ。緑茶を人数分淹れ、盆に乗せて居間に戻る。
和室用のテーブルを四人で囲む。それぞれの碗を取って飲み、味と香りを感じながら心身を弛緩させる。着替えたばかりのシャツと短パンの乾いた感触が、清めた肌に今もなお心地良い。
気持ちが緩んだことで、今テレビで流れている音声がはっきりと耳に入ってくる。
『速報です。——本日朝九時半ごろ、世田谷区の銀行に男が押し入り、銀行員を銃で脅して現金を奪おうとする事件が発生。駆けつけた警官隊によって男は取り押さえられましたが、抵抗の際に犯人が発砲した銃弾が銀行員の女性の一人に当たり、軽傷を負った模様。犯人の男は、去年九月に豊島拘置所を脱獄した無期懲役囚の一人、原源次。調べに対し原容疑者は「海外へ逃げるための金が欲しかった」と供述しているとのことです』
その内容の物騒さに、せっかく緩んだ心身が少し緊張感で固まる。
「……最近、治安良くないわよね。帝都」
隣のエカっぺがボソッと呟いた言葉に、僕も「うん……」と同意し、
「やっぱり、去年の集団脱獄が原因なのかな……」
「ていうか、あれからまだ全員捕まってないって話よね、脱獄囚。今年の紀元節に、宮城に爆弾投げ込もうとしてた奴もいたし。確か反帝室主義の過激派? だったっけ」
——集団脱獄。
去年の九月、西巣鴨にあるという豊島拘置所から、囚人が多数脱走した事件を指す。
豊島拘置所は、重罪を犯した被告人や囚人ばかりが収監されている監獄施設だ。大量殺人犯や、過激な思想を持ったテロリストなど。いずれも死刑や無期懲役を言い渡された者ばかりだと聞く。その分、警備も厳重を極めているそう。
そのはずなのに、どういうわけか大勢の囚人がその刑務所から出てきてしまったらしい。凶悪犯罪者が多数野に放たれた。
警察も全員逮捕しようと頑張っているようだが、全員は未だ捕まっておらず、逃亡中とのことだ。
その脱獄事件を境に、帝都では犯罪が多発している。
無論、脱獄囚だけが原因ではないだろうが、それでも増えてはいる。
学校や街中にも、脱獄囚の顔写真の入った手配書がびっしりと貼られている。
——あの男も、また。
そこで、咳き込む太い声が聞こえた。
僕の向かい側右に座る望月先生だ。お茶でむせたみたい。
「お義父さん、大丈夫?」
僕の向かい側の螢さんが、すかさずそう尋ねる。……咳き込んだだけなのだろうが、その態度はやや大袈裟で、すがりつくような感じだった。
望月先生は何度か咳を繰り返し、落ち着いてから「あぁ、平気だ」とちょっと枯れた声で告げる。
「お願いだから気をつけて。急いで飲まないで。ゆっくり飲んで」
「あ、あぁ。分かっているよ」
「本当に?」
「勿論だとも。そんなに心配せずとも良い。すまなんだな」
螢さんはダメ押しに「気をつけて」と告げ、もう何も言わなかった。
……そんな二人の様子を見て、僕は去年の葦野女学院の『創設祭』を思い出した。
女中服を着たあの時の螢さんも、むせて咳き込んだ望月先生を気遣っていた。
しかし、今目の前の螢さんは、その時よりも少し大袈裟だった。
一方で、僕はその様子を「無理も無い」と思っていた。
「……そういえば、今日、二刀流って来るの?」
エカっぺがそんな風に話を振ってきた。「二刀流」とは、望月先生から二天一流を教わっている香坂さんを指す代名詞だろう。
螢さんもそれを理解したようで、ふるふるとかぶりを振って答えた。
「来ない。大学関連で忙しいらしい」
そう。
香坂さんは今年から、晴れて帝都大学に進学したのだ。
学部は念願の文学部史学科。
おまけに香坂さんは今年の一月、二天一流の免許をみごと皆伝した。
さらに……なんと恋人もできたという。
あの香坂さんに。あの
「それに……お義父さんの容体を気にしているみたい。だから最近は稽古の頻度を控えめにしているよう」
「わしは別に平気なのだがなぁ……」
「それはお義父さんがそう言ってるだけ。無理はしないで」
冷静な螢さんらしからぬ、ぴしゃりと一刀両断するかのような厳しく早口な言動に、望月先生は「うぅん……」と難しそうに唸る。
——望月先生の容体。
それこそが、先ほどの螢さんのやや過剰な気遣いの正体だ。
……今年の三月始めの話だ。
稽古中、望月先生が心臓を悪くされ、病院に緊急搬送されたのだ。
命に別状は無かったものの、先生の主治医から言い渡されたのは「出来れば今後、激しい運動は控えてください」。
もともと悪かった心臓が、さらに悪化したのである。
先ほどの稽古を思い出してみるといい。
僕は螢さんとばかり型稽古をしていた。
稽古の後半にエカっぺも型稽古をしたが、やはり相手は螢さんか僕だ。
……望月先生は、稽古時間中にほとんど剣を振っていない。
そういう事情ゆえに、僕らは望月先生の体調を、これまで以上におもんばかっていた。
特に螢さんが望月先生へ向ける目には、いっそう心配の色が強い。
無理もないことだ。十二年前の日ソ戦で肉親をまとめて失った螢さんにとって、先生はたった一人の家族なのだから。
人はいつか死ぬ。それはこの国の英雄である望月先生とて同じことだ。螢さんだってそのことは覚悟していたはずだ。まして親世代は子供より早く「その時」が訪れる。
しかし、いざ「その時」が近づくと、やはり心苦しいものだ。
僕としては、弱られた望月先生を見るのと同じくらい、そんな螢さんを見るのもしんどかった。
——僕がもっと剣で強くなれば、螢さんの家族になれるのに。
螢さんは見ての通り、たいそうお美しい。彼女の絶世の美貌に惹かれ、求愛や求婚を申し込む男も多い。僕もまたその一人だ。
しかし、螢さんは「自分を打ち負かした相手としか交際も婚約もせず」と公言し、天才的な剣の腕でその求愛全てを袖にしてきた。しつこいようだが、僕もまたその一人だ。
……しかしそれは、螢さんの好みの問題ではない。
先に述べた通り、螢さんは先の日ソ戦で家族を失った戦災孤児だ。
圧倒的な暴力によって瞬時に全てを奪い去られた経験が、トラウマとして心に残っている。
ゆえに、そうはならないほどの強い者を、自分の伴侶として隣に置きたがる。もう二度と、喪失の傷を負いたくないから。
一人じゃないよ、と彼女に言いたい。
だけど、それを口に出来るだけの資格が、まだ僕には足りない。
今の僕では「弟弟子」としてしか、その言葉が言えない。
彼女を本当に安心させるためには、やっぱり「家族」として、言いたい。
——だからこそ、僕のやることは変わらない。
これまで通り、剣を追いかけることだ。
「……何度も言うが、そこまで心配せんでも良い。まぁ確かに無茶はできんようにはなったが、逆に言えば、無茶をしなければまだまだ長生きができるのだ。少なくとも……エカテリーナさんの免許皆伝までは生きてみせるとも」
「なら相当長生きしますね、先生は」
望月先生の冗談混じりの気休めに、話を振られたエカっぺは苦笑しながら応じる。
……ちなみにエカっぺも、地道に稽古を続けた成果が出ている。
その証拠に、今年の一月下旬、彼女は望月先生から至剣流の切紙免状を授けられている。
僕も学校の撃剣授業で腕試しがてらエカっぺと竹刀試合をしているが、月日を重ねるにつれて、もともとの力任せな動きが削ぎ落とされ、太刀筋も研ぎ澄まされていた。彼女の剣は、確実に高次に向かっている。
一方でエカっぺは、前よりも「自分は剣が立つ」という自信に満ちた台詞を言わなくなっていた。それどころか「あんたや螢さんみたいなのを見たら……ね」と、自分を非才と感じているような心境が示唆される。それゆえに、自分が皆伝を得るのは、相当先のことだと彼女は思っているのだろう。
そんな会話で、場の雰囲気が多少和やかになる。
僕はお茶をすする。緑を連想させる味と香りに、心身が緩む。
『——次のニュースです。アメリカ、ペンシルベニア州フィラデルフィアにて、中国系アメリカ人の男性が射殺されるという事件が発生。逮捕されたのは三十三歳の白人男性で、地元警察の調べに対し「黄色い顔に腹が立って殺した。自分と同じ考えの奴はたくさんいる」と容疑を認めているとのことです』
だというのに、テレビというのはこちらの気持ちなどお構いなしに、デリカシー無く情報を放つ。
ほんとうに、嫌な情報ばかりが耳に入る。
「……ヤンキーって、日本人と中国人の区別ついてないんじゃないの」
エカっぺが、呆れが礼に来るといった口調で呟く。
帝都でも妙な事件が多発しているが、アメリカにおいても最近、こういう事件がぽつぽつと起こっているらしい。
——きっかけは、間違いなく去年の夏の天覧比剣にて起こった『神武閣事件』だろう。
鴨井村正の至剣『呪剣』によって、天覧比剣の観客が凶暴化させられたことによって起こった事件。
少数ながら死者も出たし、重軽傷者に関しては何をか言わんや。その中には、国賓として来日していたバークリー大統領目当ての海外報道機関の人なんかも含まれていたという。
大統領は帝とともに厳重な警護下に置かれていたため無傷だったが、このような事件に巻き込まれたことに対して、抑制された、しかし明確な非難の言葉を公式の場にて日本側に投げつけた。
全ては『呪剣』のせいで起こった事件だ。しかし、至剣は科学的な証明ができず、また鴨井村正も死亡しているため、根拠とすることはほぼ不可能だった。……なので大統領とアメリカ国民の目には、日本人が狂って大暴れして、大統領や海外報道機関を危険にさらしたように見えたのだろう。
それからだ。アメリカにて、東アジア人を狙った暴力事件、または殺人事件が時折起こるようになったのは。
しかしエカっぺが今言った通り、アメリカ人には日本人と中国人の見分けがつきにくい。僕ら日本人がイギリス人とフランス人の見分けが難しいのと一緒だ。だから日系だけでなく、中国系、さらには韓国系の人までも暴力の対象となっている。
無論、アメリカでそのような事件ばかり起こっているわけではない。しかしながら、東アジア人という特定の人種をターゲットにした事件の頻度が増えていることは確かだという。
『——次のニュースです。今月十二日に行われた日米首脳会談にて、バークリー大統領の提示した軍縮案に対し、蔵川首相は「腹を切れと言っているに等しい」と真っ向から否定。会談は両首脳とも平行線の様相を見せていたとのこと——』
テレビの画面が真っ黒になった。螢さんがリモコンで消したからだ。
「心臓に良くない」
螢さんはそう断じた。
望月先生は低く唸ってから、そこで何か思い出したように目をしばたたかせ、
「そうだ。コウ坊、エカテリーナさん。言い忘れていたのだが……来週の土曜日、つまり四月十九日は、稽古は休みにさせてもらえんか」
「何かご予定があるんですか?」
僕の問いに、望月先生は頷いてから、
「大事な客人が来るのでな」
「客人、ですか。……失礼ですが、どのような方かうかがっても?」
エカっぺの質問に、望月先生はもう一度唸ってから、何か観念したように言った。
「……内緒にしておきたいところだったが、それはそれで好奇心を煽ってしまうかな。それにお前さん方二人なら、軽々に他言する心配も無かろう」
そのもったいぶりように、僕とエカっぺは顔を見合わせ、また先生の方を向く。
先生は、重々しい口調で、客人の名を口にした。
「————レイモンド・N・ウィルキンソン。元アメリカ合衆国大統領だ」




