二刀流①
胴体、両腕、二本一対の長短木刀……それらで水平の円を作ったような構えのまま、香坂は僕へと歩みを進めてくる。
170センチ半ばくらいの背丈だったはずのその奇抜な格好の男は、しかしその背丈をさらに二メートルほどにまで膨張させながら、その両足を滑らかに、ゆっくりと寄せてくる。
かと思えば、その足が急加速。
僕の立ち位置を一気に己の間合いに飲み込んだ途端、切っ尖同士を重ね合わせたままその二刀を上へ振り上げた。長木刀の上に短木刀を重ねて交差させた状態にし、
「——断!!」
気合とともに、十字状に斬りかかってきた。
「ぐっ!?」
どうにか僕はその十字斬りを木刀で受けたが、太刀筋の重厚さに両足が少し後ろへ滑る。
うかうかしてはいられない。香坂はすでにさらに前へ足を進め、右手に握った長木刀で突きかかってきた。
僕はそのひと突きに己の木刀を滑らせ、そこにさらに捻りを加え、刺突の軌道を柔らかく逸らした。
長木刀の刺突が僕の左腕を素通りしてあさっての方向へ流れるのを見ずに、今度は右方向へ我が木刀を移動させる。袈裟懸けの軌道をとって目前まで迫ってきていた短木刀も、円の太刀筋と螺旋の捻りを併せた柔和な受けで流し、歪め、右腕の隣の虚空に落とす。
僕の『綿中針』によって両の木刀を全て前へ流され、ガラ空きとなった胴体が僕の目の前にさらけ出された。
柔和な綿の中に鋭い針をひそませろ——防御しながら香坂へ向け続けていた剣尖を、摺り足とともに走らせようとした、その時。
「っ——」
まただ——香坂の姿が、巨大化した。
僕より頭ひとつ分ほどの高さを誇るその長身がさらに巨大さを増し、峻険な山のごとく眼前にそびえ立った。
その謎の威容に気を取られた一瞬の隙を突く形で、香坂の前蹴りが僕の胴体に叩き込まれた。
「ぐっ……!」
重鈍な痛みとともに、僕の小柄な体が押し流された。
無様に転がり、伏せった体勢で止まる。
「おいおい。『綿中針』だろ今の技? 「針」が無いじゃねぇか。ただの「綿」だぜ? 布団でも作りてぇのか?」
香坂は嘲る響きを持った声でそう揶揄しながら、その足を進めてくる。
痛みも相まって苛立ちを覚える僕だが、そんな私情を封じ込め、立ち上がることに意識を集中させた。迅速に腰を上げ、木刀を中段に構える。「正眼の構え」。
香坂もまた、両の木刀を構えた。さっきと同じく、肩の高さで水平の円を作ったような構え。目鼻の延長線上で触れ合った両の切っ尖が、僕をまっすぐ見つめていた。
(——まただ)
また、目の前に立つ傾奇者の図体が大きく見え、胸がひどくざわつく。
体が硬直し、筋肉と関節の動きが悪くなる。
——これは、あの男が放つ「気勢」のせいだと分かった。
普通の人間が、急に二メートルを越す巨体に成長するなどもちろんあり得ない。
この胸のざわつきと全身の緊張。
それらは全て、男の「気勢」を受けて、体が反応を示しているせいだ。
気勢とは、その人間が発する「存在の力」。
これとよく似た感じを持つ人を、僕は一人知っている。
——望月先生だ。
あの人は確かにガタイが良い。おそらく、百九十センチは達しているだろう。だけどそんな数字的な大きさを超える山のような存在感を、僕はひしひしと感じていた。
理屈ではない。感覚だ。
そう、感覚。それで感じ取った気勢。それが存在の力。
図体を肥大化させた香坂は、その二刀の構えのまま足をおもむろに寄せてくる。巨壁のごとき気勢がゆっくりと迫る。
——これは幻だ。呑まれるな。
心の中でそう念じつつ、僕は右耳の隣で木刀を垂直に立てた「陰の構え」を取る。そこから両足を揃え、両手を絞るという二つの動作を同時に、急激に行う。それらの動作から生まれた勢いが刀身に流れ、切っ尖を火花のごとく突発的に加速させた。——『石火』の型だ。速度と打撃力に優れたこの剣技で、構えられたあの二刀をまとめて弾いてやる。そうしてまたガラ空きになったところへ即座にもう一度『石火』だ。
胸算用をしながら放たれた電光石火の一太刀は、狙い通り「かぁん!」という快音とともに、香坂の木刀を弾いた。
ただし、小太刀のみ。
右手の長木刀は、右上段に担ぐように構えられていた。『石火』が発せられる寸前で引っ込められたのだ。——読まれていた。
「教科書通りで芸がねぇなオイ」
袈裟懸けに斬り下ろされた長木刀を、僕は愛刀を引き戻してどうにか防御。
そこから一度間合いを取って体勢を立て直そうと思った瞬間、それを許さないとばかりに香坂が身を急激に詰めてきた。その接近の過程で右肩に担ぐように構え直した長木刀の柄頭から先んじて、僕と衝突する。
「っぐ……!?」
いわゆる、柄当てである。
柄という小さな一点で全体重を左胸に叩き込まれ、僕は目の前が真っ白になりそうな激痛を覚えた。
たたらを踏みながら後退する僕。
そんな僕に男は再び身を寄せ、
「断!!」
一喝とともに、右肩に担いでいた長木刀を振り下ろしてきた。
ギリギリで木刀を両手で上に掲げて防御が間に合ったが、今度の一太刀が今までで一番重々しかったのと、重心が不安定だったのが重なって、僕の足元が崩れてしまった。
仰向けに倒れる僕。
再び上段に長木刀を構えた香坂。
マズイ。今の状態じゃ避けられない。
どうする。剣術では、倒れた時どういうやり方で持ち直すのか教わってない。
どうすれば、どうすれば——高速で思考していた時だった。
『——撃剣ってのは、実際の斬り合いを模した競技なわけよ。だから、剣術だけじゃなくてもいいの。大怪我させない程度の技なら、柔術とかの技を使っても違反にならないの。相手の足を払ったりしてもいいし、取り押えて動けなくしてもいい。あたしのオススメは足払いとかの重心崩す系の技かな。「転ばせる」っていうアクションを成功させるだけで、自分にいくつもの優位が発生する。寸止めをすることも、相手の次の攻撃を封じることもできるから』
エカっぺの声が、脳裏を電気的な速さでよぎった。
剣術授業の撃剣でクラス一位となった彼女に、勝利のコツを聞いた時の返答である。
曰く、重心を崩せれば、自分にいくつかの優位が発生する。
倒れて動けなくなったところを攻撃できるのはもちろんのこと、次に繰り出されるであろう相手の攻撃を封じることもできる。——人間は、足で移動する生き物だ。足が動かなければ、ほとんどの武術の技は使えなくなる。
僕は迷いを捨て、香坂の片足を、自分の両足で素早く挟み込んだ。
そのまま体をひねった。
「うぉっ……!?」
僕に片足を取られている香坂も、そのひねりに巻き込まれるのは必然だった。足ごと絡め取られ、横倒しとなった。……それによって、振り下ろされる木刀の一撃を不発に終わらせることができた。
香坂が倒れた隙に、僕は素早く起き上がる。
「わ!?」
だが、香坂は倒れたまま、右手の長木刀を振ってきた。僕は反射的に後退して逃れる。
香坂もまた、倒れた状態から瞬時に立ち上がった。……直前の木刀のスイングは、僕に追い討ちをかけさせないための威嚇だったのだと今確信した。こういう判断が素早くできるあたり、この男の場馴れぶりが分かった。
再び、遠間を開けて向かい合う僕ら。
街灯から離れた薄闇の中、香坂の顔がニヤリと笑みを作るのがぼんやり見えた。
「——今の足払いは良い判断だったぞ。剣振り回すしか能の無かったそこの切紙野郎には出来なかった機転だ。至剣流の分際でやるじゃねぇの」
煽るような口調の中に、素直な称賛の響きがある発言。
僕は警戒を緩めず、構えを維持したまま、ふと思ったことを問うた。
「……その口ぶりと、二刀流であることから察するに、やっぱりあなたは至剣流の剣士じゃないみたいですね」
「たりめぇだ。あんなカス流派と一緒にすんな」
香坂は唾を吐くようにそう言った。
「俺の剣は、二天一流だ」
「二天一流って……武蔵の?」
「やっぱ知ってるよなぁ。そう、俺の振るう剣は、宮本武蔵が創始したもんだ。この二刀勢法がその最大の特徴だ。昨今の二天一流は新陰流由来の一刀勢法とか、棒術なんてもんが混じってて、あの世にいる武蔵が見たら卒倒するような変貌ぶりを見せているが……俺のやつは混じりっけ無し、無添加。武蔵が創始した頃から全く姿を変えてねぇ二天一流だ。あるのは二刀勢法の『五方ノ形』だけだからな。武蔵らしい無駄を嫌った実利主義がよく現れてるぜ」
心なしか、ずっと剣呑だった香坂の気迫が薄れ、少し楽しげな響きが口調に混じっていた。
が、それもすぐに、戦意と憎悪の混じった表情が塗りつぶす。
「……けどな、この二天一流を受け継いでいるのは、もう俺一人だけなんだよ。俺の師匠は、俺が皆伝するのを見る前にポックリ逝きやがった。俺の他に、師匠の二天一流を受け継いだ人間はいねぇ。俺の受け継いだ二天一流の命脈は、俺の代で途絶えちまったんだよ。……こういう目にあってんのは俺だけじゃねぇぞ。他の流派もだいたい同じような状態だ。ただ一派————至剣流だけを除いてな」
香坂はその手に持った二刀を大きく左右へ広げ、演説するように発した。
「なぁ光一郎クン、お前は武芸界の現状に、疑問を感じたことは一度も無いか? 世間は至剣流至剣流とオウムみてぇにうるせぇが、至剣流以外にも剣術流派はいっぱいあるんだぜ? なぜ、誰もそれを学ぼうとしない? なぜ至剣流ばかりがもてはやされて、俺達その他の流派が顧みられない? ……答えは簡単。嘉戸家とかいう、武芸界を侵食している巨大な癌細胞のせいだ。こいつらは国とくっついて、至剣流を必修科目として国民に押し付けた。さらに陸軍の英雄である望月源悟郎を宣伝材料にして、道場への入門者を爆発的に増やしやがった。そんな華やかなりし至剣流の裏側で、その他の武芸流派は日に日に痩せ細っていく有様……嘆かわしいとは思わねぇか?」
僕は少し考えてから、諭すように言葉を返した。
「それは……仕方がないことなんじゃないでしょうか。明治維新後、人々から見向きもされなくなった武芸流派は、あらゆる方法で生き残ろうと必死だったと聞いています。至剣流のやり方がたまたま大当たりして、今の至剣流一強の状況が出来上がってしまったんじゃないでしょうか」
「本当にそれだけが理由だと思うか?」
「えっ……?」
「教えておいてやるよ。——嘉戸家はな、自らの至剣流に対してとんでもねぇ不義理を働いていやがるんだ。あの世にいるであろう嘉戸至剣斎が知ったら怒り狂って雷を落とすであろう、そんな不義理をな」
その言葉に、僕は驚きをあらわにした。
「それは……どういうことですか」
「どうせ俺みたいなゴロツキの口から説明したって信じやしねぇだろう。だからテメェで調べろや」
突き放すように言うと、香坂は再び二刀の構えを取った。
「いずれにせよ、俺は今の欺瞞に満ちた至剣流一強体制が気に入らねぇ。だから……そんな状況にクソを投げつけてやるのさ。至剣流の奴らを潰しまくって、至剣流の剣士が見た目と名前ばっかで実のねぇ腑抜け共だってことを知らしめてやるのさ」
「……そんなことをしても、あなた達の悪評が立つだけだと思います」
「そうだなぁ。でも、悪評だって味方を見限る種になる。……文化三年に起こった露寇事件で、レザノフ率いる露助の武装集団に幕軍は大敗した。その時あたりから日本人のロシア蔑視はそこはかとなく始まってるっぽいが、庶民どもはそんな露助を止められなかった幕軍にも不満を向けた。……分かるか? たとえ味方サイドが被害を受けたとしても、そのやられ具合によってはその味方の不甲斐なさに対する不満や不信感にも繋がるんだよ。大衆なんてそんなもんだ。俺はそれを目指してる」
「できると思ってるんですか」
「分からん。だからやるんだよ。宮本武蔵だって兵法達人になる道を保証されてたから武者修行に出たわけじゃねぇ。むしろそういうのが嫌だから、剣豪であった親父の新免無二斎にも、儒教にも道教にも仏教にも頼らず、己自身の兵法を磨いたんだよ。……保証された道しか歩けねぇ奴に世の中は変えられねぇ。俺は、今の欺瞞に満ちた至剣流一強をコケにしたい。そう決めたからなりふり構わず進むだけだ。——後のことなんか知らねぇよ」
ずおっ!! という風音が聞こえてきそうな気勢をまとい、香坂が音も無く足を進め始めた。
「——二天一流は「気攻め」の剣だ。構えから生じる気勢で相手を圧して剣で攻める。ちゃんと腹括って挑まねぇと、死ぬぜお前」